覚醒

夢。
その夜、病室のカーテンに幼児の姿をした天使が数体浮かび上がっていた。
翌日の真夜中、寝ながら左の腎臓に手を当てていると、いきなりそのあたりが熱を持ち、しばらく熱い固まりになっていた。これは病が昂じたのか回復したものかと、考えが迷った。
そのうち隣のベッドからか自分のいる空間からなのか、ラジオから漏れるような音楽が、荘厳な交響楽が、横たわる自分の体を静かに包み始めた。
これはまるで、病死したワイフがその前日に言い残したことと同じ話ではないか。
私は自分が生と死の境を目前にしていると感じたが、そのいずれなのか判断できなかった。私は神を信じてはいないと、くり返し誓った。

添い寝する妻

 私は先日、「私と妻の長い闘病の暮らしが思い出されることにいたたまれなかったのだ。」と記した。
 しかし、よく考えてみると、その暮らしこそ愛の暮らしそのもので、思い出の中には彼女がいつも生きている。思い出には生きているふたりの愛が満ちているのだ。
 つまり、苦しむべき思い出などではなく、いつでも私を迎え入れてくれる、幸せの微笑みで抱いてくれる場所なのだ。闘病のときを振り返ることで、生きているふたりの決して消すことのできない愛が実在していたという歓びに触れることができるのだ。
 死んでからの思い出は心を鎮めるために、ふたりのことを検証していくのであるが、そのことはふたりのつながりを別の世界との距離へと導いていくものである。
 わたしは、そのことを眠りに陥る刹那に、添い寝する妻の温もりの記憶とともに知ったような気がした。

mediastinal
   ――散文詩による小説「dance obscura」から

 最初の電話は、早朝だった。明らかにパニック状態の若い女の声だ。何の電話だ、危険な状態なのか。当直医と話してください、とにかく来てください。危篤の召集なのか、はっきりしろ! 女の声は、ドクターに聞いてくださいで終始する。病院はリスク回避のために即答を避けているのだ。ドクターが電話に出ることもなかった。
 車を飛ばして、私がベッドに駆け寄るなり、宿直医の部屋に呼び出される。私はあなたからひとときも離れたくなかったのに。医師は、気管支に詰まる組織片のため生ずる、胸の痛みと窒息の恐怖から、あなたの想像を絶する苦しみを取り除くため、沈静剤の使用を強要した。私はあなたが、最後の最後まで生きる闘いをする勇敢な女性だと主張した。癌が判明してから、私たちはそのことを何度も確かめあった。一緒に生きたすべての時間に確かめあった深い愛のように。
 私はベッドに戻り、背中をさすったり、叩いたりして、破片を吐き出そうとしているあなたの必死の努力に加勢する。あなたは生きようとしていた。闘っているのだ。

 最初の危篤からは奇跡的に回復した。たまたま何かの拍子で気管支を塞いでいた縦隔の癌の組織片が外れたのだ。いや、まだ生きようという強い思いが力を与えたのだ。しかし、それはこの世との袂別のための僅かな時間をもたらしたにすぎない。
 あなたはその後の数日間を窒息の恐怖とともに過ごしていた。眠るのが怖いと、怯えた眸を震わせて。それなのに、医師たちはあまりに危険な沈静剤を管から与えたのだ。脳神経を眠らせて、痛みと恐怖から解放するからと。それは医師たちの策略だった。気管支を塞いだ血痰は誰も取り除けないから、自分で吐き出すことしかできないから、危険な眠りにつかせようとしたのだ。その眠りのうちに死なせようと。死の眠りを、神でもないのに! 安楽死を公言できないから。
 失せろ! なにもできない藪医者ども!
 あなたは、まだ生きるんだな、頑張れるんだな。私の無慈悲な声に、最後の瞳を大きく見開き、首を縦に振って、うん、うんと応えてくれた。溺れゆくもののように必死でもがきながら。

 そして、いま、地震や一陣の嵐によってはかなくもすべてが召し上げられる。気がつくと、物理的な自然だけが世界に甦っていた。

妻・紙田眞弓を恋うて
  2017年の眠りつづける人に

闘病の話はやめよう
最後の苦しさと悲しさはかぎりがないから
ぼくには 君との47年間の
愛の激しい暮らしがあったのだ

新宿ピットインのイレブンで出会い
ヒッピーだったふたりは
1971年に 京都をめざして
深夜列車に飛び乗った
もちろん、ラリっていたさ
だからMack the Knifeだったのだ
朝まで歌いつづけてね

ぼくらは自由を求めてスタートしていた
それからの愛の物語には触れない
鏡子と聡という宝物に恵まれたのだから

ぼくの心の中には
ぎっしりと 君との47年間の人生が詰まっている
君はきっと あの空から
ぼくの心の中に入り込み
その一つ一つの人生の時間を解きほぐし
ぼくを慰め、励まし、叱咤するだろう

ああ、眞弓 最愛の妻よ
ふたりだけのあまりに豊かな秘密を
ぼくは心の中に語りつづける
だれも ふたりの愛のことなどわからない
ぼくと君とだけの 愛しい宝物について

 弔辞として捧ぐ
   2017年8月25日9:31没

草稿●multiverse

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 世界が個人的に分割されていくとはどういうことなのか。現実、宇宙、あるいは次元とは、〈見ること〉が経験することであるなら、その事象を〈見ること〉自体が判断したり、選択することで多宇宙が生み出されていく。粒子が自己という鏡を見ることで反粒子として分割させるように、多宇宙をすべからく経験していくのだ。そして、複数宇宙マルチバースから見ると、分割宇宙は同時に並列して存在し、粒子そのものから見たときには宇宙は分割されずに単一宇宙である。つまり、単一宇宙の経験を終えることで、別のの宇宙に切り替わり、次々に別の世界体験を経ていくのである。見る主体は全宇宙の存在の全可能性を知るのだ。
 その意味では、現実は体験上単一であり、複数現実ではない。だが、見る主体は、単一世界を終えることで次の世界からさらに歩を進めて、全宇宙を自分のものとすることができるのだ。人生の成功も失敗も、幸福も不幸も、すべての分岐世界を体験するために。

 どんなに抑圧されても、悲惨な目にあっても恐れることはない。この世がすべてだからと、自分を諦めることもない。現実がすべてではないのだから、抑圧に対する抵抗者となって、思うことを存分に果たすことが可能なのだ。
 抵抗する者はつながりとなり、系譜となっての世界の分割を進めていくこともできるし、多宇宙に飛び出していくこともできるのである。
 成功者とか抑圧する者、支配者の世界は単一現実における短命の貧しい体験者であり、これに対して苦しみ闘う者は豊富で質の高い体験を、全宇宙を通じて果たせるのだ。

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