作成者別アーカイブ: 緑字斎

未刊行詩集『空中の書』27: 水の眠り

水の眠り

なでしこの散るホタル
器と器の重なり
骨のつながり
かすれた色の花びらが
さわさわと
砂となりてこぼれ落つ

数ヘクタールの皺、父祖の脈搏
雪を割って
光の帯となり
過去をいままた過去として
とどこおる川、小川よ

水を洗うべし
たたえられたものは味方ではない
むしろヒユ
それもテランセラ
はだらの中に血のにじむ

水を透くべし
こねて叩くべし
いさぎよく匂いを消し
そして静かに死なしめる
だが

だが
半肉体と半精神の
輪郭のなさは危険だ
室内は眼の袋
祈りの手が窓櫺そうれいを破る

息をころしたパイプオルガン
神の形を遺すしおれた布
白磁の中に眠る水
革命以前に建てられた教会は
いまは傾いで立入禁止

[作成時期] 1984/02
[初出] 『詩学』第39巻第2号、1984.2

未刊行詩集『空中の書』26: 鏡子

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鏡子

鏡子が白樺林から出てきたときには、山の端に黄昏陽がかかっていた 隈笹がびっしりおいしげる道を過ぎたあたりで、虹色にきらめくひかりものに気づいたので、足早に近づいていくと、笹のするどい葉でさっとふくらはぎを切った 白い脚に赤い血が涙のようにしたたるエロティーク ふっと叫んで指先でぬぐってみると銀粉がついていたので、きっと笹の花粉は銀色なのだわと考えながら、少女は北国の中で小人のようにうずくまった
 
 
翌日、同じ道を、こんどは笹の葉に気をつけながら歩いてゆくと、ひどくむずかしい数式が書かれた紫色の紙片をみつけた 鏡子は屈折率という単語とπという記号しかわからないのであるが、昨日切った傷口に残っていた銀色の粉は光のかけらなんだわと思った とたんに気が軽くなって、いつものように若草のもだえという唄を口ずさんで向こうに行ってしまった あとから聞くと、その唄はこんな文句だった
 ?萌ゆる萌ゆる 草の実さん
  いつからおまえはひとりもの
  お嫁にいってあげようか
  夜はあたしも恐いのだから
 
 
あるとき、肘掛椅子に坐っていると、窓の向こうにひかりものをみつけたので、サンダルをはいて外へ出てみた 霧のせいで、そのあたりには虹がふたつかかっていた なんだか寂しい気配がするので、鏡子のお友だち! と叫ぶと、向こうから、お友だちの鏡子! という声がかえってきたので、あわてて肘掛椅子にもどってふるえていた あとでよく考えてみると木霊のいたずらだと気づいた
 
 
裏側に水銀の塗布された、直径五センチメートルのガラスが空を映していた そのうちに地球の芯のあたりから黒雲がわきだして、雨が降りはじめた 鏡子はいそいで雨除けをとなえてのぞきこむと、鏡の中の空はすっかり晴れていたのだが、水銀が酸化してどろどろ流れだしていた そっとぬぐってみると、赤い血糊が指先についた けれども、その鏡には時間がつまっていたので、痛がって声を出す必要もなかった

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未刊行詩集『空中の書』25: 誘惑

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誘惑

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そもそもベルの鳴り方からして妙だった。低い微かな音でありながら、目覚時計のように鋭く細い連続音なのである。
大きな油虫が素晴しい速度で、濃緑の絨緞の対角線上を疾ってゆく。六畳の居室は机の上のライトを点けたきりなので薄暗く、エナメルのような硬い光を燦かせた虫が闇の中に残像を見せたまま吸われてゆくと、もう見つけることはできない。
背筋に冷えた空気が貼りつくような気味悪さを覚えながら、幾度かの呼び出し音の後、受話器を取り上げてみた。
優雅なアルトが、夜更の電話の非礼を丁重に詫びながら、ある集まりに招待する旨即刻来場を乞うと告げた。
奇妙な性癖を持つ友人の名が二、三挙げられていたようだが、ぼんやりと油虫の消えた辺りに眼を凝らしながら不吉な予感に捉われていた。心配することはない、決して怪しい集まりではないと、電話の主が言っているかのような錯覚も覚えたが、不吉な想いは癒えなかった。というより、なおも昂進したのである。
女の声が魂を揺する性質のものであったことも一因なのだが、なによりも電話という器械を介したはずの声が器械の匂いをいささかも感じさせぬばかりか、頭脳を痳痺させてしまうような、地の底かなにやらの別世界から唐突に躍り込んできたかのような気配を漲らせていたからである。
その蠱惑的な声に酔いながら、集まりの場所が伝えられるまで、女の喋るにまかせていた。饒舌というよりも、軟質の声音で滑るようにゆっくりと語られていた。最後に目的地の住居表示が告げられる頃には、すっかりその女の声の魔力に犯されていた。行先の場所が所蔵の地図に載っていないのはすぐわかったが、なになんとか行けるだろうと考え、その招きに丁重に礼を返し、応ずることを附け加えると、体を羽毛で愛撫されるかのような妙に艶かしい笑い声を耳に残したまま電話は切れた。驚いたことに、最後の一言を除くと、電話の廻路を独占していたのは女の声ばかりであった。
魂に得体の知れないものが注がれたように、長い余韻が闇の中に滞っていた。

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未刊行詩集『空中の書』24: 岸辺

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岸辺

忘却のアシは
切岸から突き出ている
聖なる声音をまねて
亡霊の名を呼ぶ
十数億年の生涯を
一箇の砂粒に封じ
齢老いた光
遺されたルーン文字

フネが辷る
月光と影のささやき
青い裸身よ
風にふれる乳房
するどい腰
尻の蠱惑的な曲線カーヴ
ふかい溪間よ

母なる物質の彼方
ふたたび想い出せぬ
その名

処女の血のこわれる
ふるいふるい戦い
娘らの命で織り上げた布が
若者の蒼い髪を束ねていた
黄金の死の顔に
すでに名前はない

(……へその緒)
亡霊のかたちは
泡の自在な殻に呑まれ
十億の浜辺
百億の水底

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未刊行詩集『空中の書』23: 人形たち

人形たち

人形が数体
稽古用のバス・ドラムの腹に
沙の涸いた喉笛に
詩人の義眼の中に
玉葱の海に浮かんで
火傷のために
鋭い声をあげている

土の底に月ごとの滴を注ぐため
遥かな青空に噤まれた言葉を与えるため
時という虫に啖わせるために

折れ曲がった手足
むしられて逆立つ金髪
抉られた眸の奥のぜんまい
ぬりたくられた狂えるもの

彼女たちはよみがえる
きまって深更
一瞬の夜宴サバト
ありとある家々で
あふれる空気の中で
世界を腐敗させる
峻烈な意志

海に浮かぶ館の
とある部屋の片隅に
かくのごときを記す書物がある
つまり
海の歴史しか持たぬ
あらゆる家々の