作成者別アーカイブ: 紙田 彰

棘の海――「dance obscura(仮)」へ

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棘の海――「dance obscura(仮)」の一章に用意された散文詩

 わたしがその兆候に気づいたのは、東南アジアの古い都市の旅から帰り着いてすぐのことだった。眠りから目覚めると、後頭部に何かしらの違和感を感じたのだ。簡単な打撲だと思ったのだけれど、嫌な気がしたのも確かだった。内部に向かった棘、触るとぐにゃりとしていて。
――わたしが肉体のゆらめきなのか、意識のゆらめきなのか。そのどちらでもいいし、そのどちらでもないのかもしれないわ。
 棘ということばから、わたしはとある大腸ガンの顕微鏡映像を思い描くのだが、頭部の細胞はなおもわたしを深く攻撃する。

 あなたからの国際電話の数日後にクリニックに行き、何軒かの病院を回り、大学病院の脳外科で腫瘍があることが判明した。
――たしかに細胞は、細胞膜という皮膜とその内側の物質で作られた肉体の基本単位なのかもしれない。けれどもその内部は物質ではなく幻想という内容物なのかもしれないのよ。
 わたしのこの女性的な感覚とは異なって、あなたは肉体を単に生命装置の発現だと考えているのね。生命の実現つまり細胞レベルでの分裂・増殖の正のベクトル、そして生命活動の抑制という負のベクトルを持つ調整装置だと。

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寄稿: 佐藤裕子「平行空間」

平行空間 佐藤裕子

定住しないように傷付けないように細かい鑢を掛けた深爪
 平日幻想を整え過ぎない為に黄身が二つの卵を茹で
科白の前は遠い海後には切り岸金属を含む高密度の夕焼け
 営巣すると傾斜は急だから時折り健忘症を頁に設け
絵を掛け替える庭のない地平裸婦は透き通り銀灰色の柔毛
 生命線を左右合わせ生じるたどたどしいオノマトペ
寝静まった塔の耐震装置を欺き歪める空から行方知れずへ
 粘土を掴む作業に没頭する扁形動物は月光の末梢で
連動する天へ猫舌を預け燃やす息節のない平たい軀を伏せ
 目を開く時は留守居の似姿わたしが振り返った浅瀬
接続面は今日と明日のように離れる領土であるのは今だけ
 餌付けした鳩が来る迄夢は無傷で身代わりを寝かせ
施錠後塔の住人は観葉植物に水を遣り折り込み広告を捨て
 今朝の珈琲は青いクレヨンの味だと不眠の朝の口癖
エントランスの鏡壁を横目に唇を擦り合わせる慣れた構え

(2017.3.25)

寄稿: 佐藤裕子「ムーンライトピクニック」

ムーンライトピクニック 佐藤裕子

無人駅へ行ってはいけない発電所の空地には犬捕りが潜む
 黒パンに挟んだチーズから塩気が抜けてスポンジ状
プラスチックの風が吹くと風邪薬は効きスローモーション
 村で一番高い煙突を飛んだ鳥は墜落知らず白黒反転
裏の裏は表握り締めて壊してしまう壊れて初めて伴う実感
 通学路は毎朝通行止め卒業はしないから遠足も病欠
海は不意を突く雨の日海の見えるところ命が寄せては返す
 薄切り胡瓜は蛇腹シチューが滾り尾を残し焦げ付く
水源地まで歩けないヒール営林署の金網を壊すことは無謀
 空に残る格子は半透明の子ども達が引き寄せた毛布
崩れ掛けた塔の下り階段を駆け上ったのはいつだったろう
 叢雲の月が突然自衛隊の演習場を翳したあれはいつ
向かい風に乗るエンジン音満面の笑みが篩う金銀スパイス
 麩菓子紛いのスフレで一つ大人になる誕生日を祝う
スグリジャム一壜は遭難の備えに人差し指で代わる代わる

(2017.3.25)

寄稿: 佐藤裕子「クーラーボックス」

クーラーボックス 佐藤裕子

家の前でサイレンが止まる水溜りを踏んだ泥だらけの長靴
 草臥れた軍手が指差確認無駄なく動きシートを敷く
双子の救急隊員が担架で発泡スチロールの箱を寝室へ運ぶ
 クレーム返品は応じかねます早口の二重奏で急発進
通販の覚えはなく御歳暮なら何所からにしても大き過ぎる
 受け取った物は何物は荷を解きソファーで茶を所望
温めのココアにしてちょうだいよく温めておいてね御茶碗
 苦しい胸思うより早く作動する警笛懐かしい過呼吸
撮むものはチョコレートアメリカ製じゃなくベルギーの方
 充満する甘ったるい匂い舞い戻る愛しの神経性胃炎
少し横になるわ帰りは揺れたから体がバラバラになりそう
 浮世離れも叶えた世間知らずも庇ったはずでしょう
夕のお食事は早めにしてね今日はあなたもお疲れでしょう
 留守番電話は定休日を告げる泉の仙女㏇堪えた苦笑
迂闊にも落としたのは良いお母さんですと言った気がする

(2017.3.25)

不眠の森――「dance obscura(仮)」へ

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不眠の森――「dance obscura(仮)」の一章に用意された散文詩

 その森に迷い込んだときに、ある種の体系に毒された執拗な夢が送られてきた。それは、攻撃といってもいいかもしれない。その夢は、たしかに脳髄と神経システムの根幹を支配するDNA生命体がつくりだしたものである。

 飛膜のある翼を広げた男は、すでに死んでいるという噂はあった。それが数千匹の中の一匹なのか、森に住む数千匹の動物が一匹なのかは定かではない。
 数カ月前には、蝙蝠は死んでいるという予感もしていたが、確証を得る方法がなかったので、あてにならない郵便物や電話などを繰り返し送っていたのだが、やはりさまざまの不通の証拠が示されたに過ぎなかった。
 ダリあるいはサディと呼ばれるそのオオコウモリは、突然夜中にやってきて、どのような事情なのか、死亡日時も明かさずに、画家の名にちなんだ非日常的な音のない声を鳴らしていたのだ。もちろん、ばらまいていたのはそればかりでない。夢を作り出す夢の細胞とか、夢の核心である夢のDNAといったものなどである。死と死にまつわる闘いの秘密にも触れながら。

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