カテゴリー別アーカイブ: 自由とは何か

自由とは何か[001]

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 私は私の属しているものを知ることはできない。また、私が属しているとされるものも、私を知ることはない。さらに、私が私を属しているとするものを推測 することはできるが、ほんとうは知ることはできない。私がこれらを知ることができるとすれば、それはファシズムということであり、私自身の自由からも、あ らゆる存在の自由という問題からも遠く隔てられてしまったものについてである。

(話をどこから始めるか?)
 私はまずあなたに問いかける。あなたは私自身であるかもしれず、また私の隣のあなたであるかもしれない。また、私とはまるで無関係なあなたであるかもし れない。しかし、いずれにしても、私は問いかけるためにあなたを必要としている。だが、私が問いかける事柄はどこからやって来るものなのか。あるいは、い つやって来るのだろうか。そして、ほんとうに問いかける事柄があるのだろうか。けれども、来たるべきものはやはり来るのだという予感はある。しかし。

 そもそも、私は何を問いかけて、その問いかけがどのような意味を持つのかをいまだに知ることができない。何を考えようとしているのか、何を始めようというのか、私にはまだ何も見えていないのである。
 おそらく、私は何かの一部に問いかけているに違いない。その一部がどのようなものの一部なのかは永久に知ることはないだろうが、たしかに何かの一部分であるということに誤りはないだろう。私の考えはこうだ。私はあらゆる「部分」に侵襲されている。

 来たるべきものはたしかに「部分」のうちにあるのだろうし、あなたはその来たるべきものに違いない。しかし、来たるべきものは来ることはないし、いつも私の外側にあるものだ。
 また、それは無垢というものと関係があるのだろうか。私が無垢でなければあなたが無垢であろうし、あなたが無垢でなければ私が無垢であるということなの か。そもそも無垢であるということは許されざるものなのか。そして、そのことが侵襲される理由であるのか。それはこちらとあちら、私とあなたがひとつにな ることを拒むもの。

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自由とは何か[002]

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 あなたは私に属しているのか? 私がそのような疑問を抱いてから数日たった夜のことである。それは、私に属するはずの意識のひとつ、肉体の部位としては大動脈の腹部にある解離性の瘤と繋がっているもので、その大動脈瘤の持つ意識ともいえる。意識Aは次のような来歴を私に語り始めた。

 Aが自らを知りえたのは、大動脈に突発的に生じたときではなく、私がAの病理的な存在を認めざるをえなくなった時点であった。Aは最初、私の願望から、自らが一時的な存在で数カ月もすれば瘤としての形は失われるかもしれぬと考えていた。しかし、結局、瘤は閉鎖することはなく存続しつづけた。
「私は、物理的に大動脈に生じたときに誕生したのか、あるいはあなたが私の存在を信じたときに誕生したのか、私自身よく分からないところがある」

 またAは、A自身が血管内に生じた空洞としての物理性であるのか、空洞を造る血管が持つ特殊意識であるのか、あるいはその両者の統合体であるのか、はたまた医学の捏造なのか、私の信仰あるいは妄想であるのか、自分でも確かなことは分からないと繰り返した。
「だが、あなたは肉体を持っているのか?」私はAへの問いかけをこのような言葉で始めることにした。「あなたはAであるはずだから、Aの意識を持つ身体という統合的機能、あるいはある一つの機構としてたしかにある、、ということはいえるのだろうが、血管にできた瘤という、つまり空洞である以上、肉体を欠落させられているといえないだろうか」私はもうひとつの疑問、空洞という肉体はありえるのか、いや肉体はそもそも空洞を包み込んだもの、肉体の本質は空洞にあるのではないかという疑問は、ここでは差し控えることにした。
 Aは「私自身にとっては、肉体の欠落感というものは意識することはできないのだが、私という空洞の反対側、つまり二種類の血管膜のそれぞれの向こう側にあるものは、不可視であるとはいえ、隣接感は直観できる」と応じた。そして、ある重要な問題を提起した。
「その直観は、存在を予感することはできても、何ものをも見ることも、本質に到達することもできず、隣接する感覚はあっても、生起している現象に遭遇することはありえないといえるのではないか。血管の層をなす外膜と内膜の向こうにしか、私にとっては推測できる世界はありえないし、あなたにしたところで、またあなたの一切の問いかけにしても、私の推理でしかないということが、私の本質を決定づけているに違いない」
 大動脈の偽腔であるAの意識は私に以上のような問題を突きつけたのである。

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自由とは何か[003]

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 私から最も遠いところから、その痛みは伝わってきたのかもしれない。それとも、その距離は、痛み自体がもたらしているのかもしれない。支えるものが稀薄になれば、それだけ速さはいやましてくる。支えるものとその意識が私自身から離れていくときに、痛みの速度は直接的な物質性を私に示してくる。それは、まるで痛みがつねに隣接しているように、私そのものに侵襲してくる。べったりと貼りつき、その接触面から貫通してくるのである。

 ――わたしはわたしの中の生きものたちのことをつねに意識していて、ともすると、いくつかの別々のかたまりの形でわたしの方に寄り添ってくるのを感じることがあるの。それはまぎれもなく複数の、別々の意識の重なりとでもいえるし、もっと具体的な、透明な膜の向こうに蠢く生命活動の原初の連なりとでもいう実感がするのよ。
 女性の意識の中にある、母性を感じる特有のインスピレーションと関連しているのではなく、ひたすら愛おしいようななつかしいような匂いを伴いながら、自らを衝き動かさざるをえない、ある種、連動する他人たちの気配、ふるまい。
 でも、あなたの方に向かうときは、あなたのたったひとつの側面を頼りにただつながっているにすぎないのかもしれない。そして、そのようなわたしが、あなたにとってはわたしたちが、無数にその側面を埋めているに違いないのよ。わたしのこの疼きが一定の充足感を伴い、そのようにしてわたしの存在を示すことにつながっているのだわ。
 そうよ、わたしのこの欠落する意識が、あるいは充実する意識が、ときには痛みとなり、ときには痙攣となり、ときには甘い麻薬となって、あなたに浸透していく……。

 神経細胞のつらなりを流れる電気信号と痙攣。その痛みが細胞体の不安なのかもしれない。秒速百メートルにまで達する速度を持つ、その予期しない叛乱。再生できるのかできないのか。変性による死への予兆が神経線維の端から端まで伝播する。
 私を覚醒させた痙攣が示すものは、こうした肉体の叛乱とでもいいうるものなのかもしれない。それはこの場合、前駆的にふくらはぎの外側にある筋に硬質の痛みを現し、たとえそのとき眠りにあるとしても、痙攣の予感を持続させていく。
 私はその予感とそこから生まれる怯えによって、その意識、長い神経線維を伝播してくる長く、細い意識に、眠りを圧迫されつづける。

全面加筆訂正(2011.12.23)

自由とは何か[004]

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 ――わたしが囚われているのではないことを、あなたが示すことができるのだろうか、それともわたし自身が……。
 わたしを一方的に支配する意図はなくても、支配していることには変わりはないし、もちろんわたしを愛さねばならないという気持ちも、さらにわたしによってあなたが救済されるかもしれないという期待も感じられるわ。でも、それこそあなたの瞞着、傲慢さ、掴みどころのない循環。
 あなたの表層はときとして硬くわたしの内側に訪れる。また、いつのまにかやわらかく弛緩する。この硬直は支配を認めさせること、この溶融は憐れみと後悔――。けれども、わたしの満たされぬ時間の中では、どれがわたしとあなたとのつながりの本当の姿なのかを、わたしもあなたも見出すことはできない。
 わたしはわたしの内側から内側へという二重の外側へくるみだされ、その猥雑に絡んだ襞をたどり、さらにその底にある深い磁場へともぐり込んでいく。二重螺旋への下降、永遠の。そして、ここでまた問題にぶつかってしまう。けれども、それは何かを生み出すための二重性ということなのか、あるいは生み出されるわたし自身への下降ということなのか。いずれにしてもわたしから発している問題に遭遇しているということではなく、あなたが提示した答えに囚われているということになるのだわ。
 わたしはそのようなわたしをどのように抑圧すべきか、そうすることでこれから生み出すすべてを許すことができるかどうか、憎むことができるかどうか、またそのようなわたしがそれにもましてあなたを要請していることも、またあなたがわたしに期待するすべての事柄をわたしも期待していることにゆき当たってしまっている。あなたはわたしの内側をいっそう慈しみ、わたしはあなたへの期待を慈しむ。

 私は私の軟らかい部位に温かな吐息を感ずることで、ある種の熱狂を思い起こしていた。それは小波のように跡切れることのない繰り返しの感覚である。これまでにどのくらいの回数の訪れの感覚があったか、またこれからどのくらいの数の訪れを知るのだろうか。今、どのくらいの数の訪れを得ているのだろう。
 私はあなたの内側から私のこの感覚によって受け容れられているに違いないが、はたして私が受け容れているということをあなたは知っているのだろうか。

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自由とは何か[005]

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 それは、ある青みを帯びた灰色の夕刻。その灰色の濃霧の向こうに薄黄色の光芒が垣間見えるが、こちらの側は絶望の濃紺の帳に蔽われているだけだ。さらに時間はくつがえり、かすかな光も忘れ去られていくに違いない。
 私の底部の秘められた闇、稲光がたえず閃くように、抑えきれない衝動的な葛藤がつらぬく暗黒。そのような憤りを生み出すのが何によるかを知るものが、いったいどこにいるというのだろう。

 最初から存在する物質を想像することは不可能だ。そんなものはありえようがないからだ。けれども、生命の底部、その発生の向こうにあるものを知ることもないといえるのか。数億年の皮質の蓄積を経て、皮膜の底に沈澱したものは甦ることはないのだろうか。傷ついた中枢神経はすでに恢復は不可能だということなのか。あらゆる歴史は殺戮の連鎖に違いないとはいえ、いまだ拭い去ることのできない衝動が忘却という形で記憶されている。思い出すこともなく、忘れ去られることもなく、古い皮質は傷つけられたまま。
 知りえぬということの罪障、根深い疑い、想起するにいたらないための焦燥。つまり、古いもの、気の遠くなるような底部に、そもそもから用意されているはずの空虚というイメージに起因しているもの。だが、たしかに私自身がその意味するところの真実とその正体を知ることは不可能なのである。

 私が傷つけるはずのもの、私を傷つけるはずのもの、それらは私に対して何をもたらすものなのか、またそれゆえに私をどのように扱おうというのだろう。私はそれらの鋭い侵襲によってほんとうに傷つけられているのか、ほんとうに何ものかを傷つけているのか。
 それははたして、私の部位を、それぞれの精神を、無数にある意識自体を、さらにもっと古くからある傷を重ねて、それは醜い瘢痕となり、それぞれの表層に複雑な皺となって残される。もう、元には戻らない、戻ることはありえないのだ、と。
 そのとき私はめくるめくような暗い情熱に衝き動かされて、私の外部に牙を、矛先を向けざるをえなくなるのだ。それは、決して内部に振り下ろされる斧ではなく、外に向けられるべき一撃。振り下ろされつづける打撃。だが、暗く熱を帯びた暴力が突出するのは、その一瞬だけである。その後は冷酷な暴力の残渣が機構として無際限に繰り返されていく。深傷を負うのは私の表層であるが、すでに亀裂、破砕は全体へ及びはじめてしまっている。

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自由とは何か[006]

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 灰色の夕暮れの第二景。ふるえる心臓。このとき、つきぬけるような戦慄を、私はたしかに感じていた。だが、それは実現不能な範疇にある行為なのである。自らを放棄することで生起する衝動、自らを拒否することによってのみ可能な敵意、自らを犠牲的につらぬくつらなり全体の無化への企み、それはあまりにも無意味な行為の突出であるからだ。それゆえ、すでに行為ではなく、切り離された行為の断片なのである。
 しかし、その衝動の素片こそ、突出する暴力、暴力の突出とでも名づけうるものである。私は彼が、彼の皮膜を破裂させることで、私と私を通した連鎖の階梯すべてを自らの内部に閉じ込め、閉じ込めた内部の樹木として、自らとともに無化させようとするその無意味な意志を感じていたのである。

 宇宙にも皮膜はあるのだろうか。宇宙は何もないところから、つまり何もないところの高エネルギー状態から生成されたに違いない。なぜなら、そこから百三十七億年分の膨張エネルギーを奪ったのだから、それに引き合う分のエネルギーが何もないところの内部に凝縮していたということになる。そして、宇宙誕生のとき、何もないところにはエネルギー状態における境界があったのかどうか。もし皮膜があるとすれば、それはその境界の状態ということになる。そして、膨張しても、その境界が広がるだけで、やはり宇宙は境界の内部にとどまっているのでないか。つまり、永遠に宇宙は皮膜の中にある。皮膜の中にある宇宙モデル。外から見れば、やはり何もないところなのだ。

 世界は外についても、内についても、何も知ることはできない。世界は時間と空間の幾何学だから、時間の階層についても同じである。過去の時間も未来の時間もほんとうのことは知ることはできないし、現在についても同じかもしれない。生きているというのに、存在しているというのに、何も知ることのできないこの不条理。物理的宇宙は知性において、私を抑圧するものなのだ。そう考えたとき、暴力的な衝動が高まってくるのを私は感じていた。

 だが、世界が円環を結び、宇宙が閉じているかぎり、反世界も反宇宙も、ただ世界と宇宙に包囲されている人形にすぎない。はたしてそうなのか?
 私自身、世界によって抑圧されていることは間違いないし、同時に彼を抑圧していることもまぎれもない事実である。だが、だからといって抑圧を正当化することが可能なのか。あるいは可能だとして、何をもって可能であるといいうるのか。
 おそらくここに過誤の種子がひそんでいるのかもしれない。また、そのことがあがきを現前させている。二つに引き裂かれる意識、引き裂かれることによって増殖する意識、あがきがいたるところにあふれ返る。〈われわれ〉に自由はあるのか。

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自由とは何か[007]

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 地表すれすれで棲息しているのは私ばかりではない。蛇のように低い吐息を這わせているおまえたち、闇の匂いを蓄積させた路地の、地べたの種族――。
 おまえたちは蹲っているような沈潜の仕方で、地面に沿って平たくのびきってしまっている。実際、おまえたちはすべての存在と同様に個々の曲率に支配されて、それゆえに永遠の平面にまでのびきっているはずなのだ。

 むっくりと体を起こしているのは、やはり影の部分。その影の奥のつらなりの影の内部というものにその根はあるのだろう。根があるというよりも、その存在は裏返された形のままの空虚であるに違いない。影の中の影の部分も体をもたげ始めた。影のつらなりのすべてが、永遠の鏡像のすべてのつらなりが、同じ傾きをもったまま、ゆらゆらと体をもたげ始めている。
 私はおまえたちにとらえどころのない類縁性を感じている。それは、おまえたちのいずれかの特質に、かつて私の何かが関わっていたことがあるということなのだ。私は、すでに私ではない別の私の系譜を思い描いているのかもしれない。それとも、いまだその呪縛と密接に関わっているとでもいうのか。

 私は自分の生まれた場所を知らない。そのことと関係があるのかもしれない。地面への思い入れ、裸足で土に触れることのやすらぎ。根を下ろし、体を支える根拠がほしいのだ。そして、地べたにはたしかに母の匂いと父の匂いが相まって情緒的な風がそよいでいる。ただ、それだけだ。しかし、私は連鎖だということを思い知らされる。連鎖への懐かしさが甦るとはいったいどういうことだ。それはゲノムに対する降伏の白旗なのか。懐かしさは弱さなのか、それとも諦めなのか。ひとりでいることの寂しさ、地面に抱かれることの救いがたさ。なんという裏切り。

 おまえたちは私を呪縛する。しかし、私はその呪縛が私に属しているのか、私を属しているものに関係しているのかを知る術がない。懐かしい匂い、体の奥が引きずられるようないとおしさ、脂にまみれた感触、体をくるむ体毛の記憶、何も考えることのない安逸さ、身をゆだねることの持続――。
 おまえたちは答えない。答えることを退けているのではなく、答える必要のない持続があるばかりだ。私はただおまえたちを通して、呼びさまされる何かを感じている。それが何であるかは別にして。それはそれぞれの内部に根強くあるものではなく、表層のありように起源するものなのかもしれない。なぜなら、つらなる無限の鎖はそれぞれの磁場を形成し、それらの磁力によって影響しあっているはずだからだ。

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自由とは何か[008]

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 地面を引きずって徘徊するその意識は、決して地面に引きずられてはいないのだと叫ぶ。だが、天井からは継母の祝福されざる黒い血が滴り、屋根裏部屋の床一面には重力の破産を示す熔解した天体の落下の痕跡が見られる。痕跡は鉱物の形をとるのか、植物の姿となるのか、あるいは生々しい肉そのもの……。すでにこの世を後にした意識は、物質と物質との関係は、意識と物質、意識と意識の関係でもあるのだと言い残していた。その意識が向かったのは、向こうから押し寄せてくるものがとうてい看過することのできない反撥と激突とでもいうべき鋭い亀裂。

 意識Bは逃れること、逸脱することはできない。だが、本当にそうなのか? もちろん、BはB自身をつなぎとめておく。そうすると、BはB自身にとって誰なのか? BはB自身を押し潰そうとしている範囲に囚われているだけで、その一部、あるいは付属しているものではない。たしかにBは奴隷のような存在であることを強いられてはいるが、敵意を失っているわけではない。Bは堪えているに過ぎないのである。――何に?
 私はここで素朴な疑問に直面する。その薄い皮膜がどちらに属しているのかを、いったい誰が知っているのか――。

 ――まさに〈私〉が息を終えようとしているその刹那に、〈私〉を唆して飛び立たせようとするものがいるのだ。〈私〉は羽撃くものではないし、翼、鰭、跳躍に適う強い脚をもつものでもない。天使のように無残な光輪も、醜く硬直した幼児的な微笑も持たない。ただ、たしかに深い憎悪と鋭い敵意を抱きながら囚われつづけている、まさにその接触面にいるのである。〈私〉を解放しようするものが現れたとしても、〈私〉はその欺瞞と悪意を見破り、何ものに対しても完全な侮蔑と敵意を失うことはないだろう。〈私〉はあなたに対してさえも、またこうした自分自身の重複せざるをえない意識の連鎖に対してさえも、〈私〉を囚えているものに対する反抗と同質の〈反抗への意志〉を欠かすことはないだろう。

 意識Bは遠い宇宙の起源、物質の起源の記憶を持っているのだろうか。完全なる反撥とは対称性と関連している。粒子と反粒子は、どちらがどちらを生成させたのか、あるいはどちらが起源なのか。そこには電磁力というよりも重力の秘密があるようだ。空の状態から物質と反物質が生まれるということは、空の場からさらに二つの対称性を持つ場が生まれたということにならないか。空は消滅するが、重力はそれをこの二つの対称性に分かつと同時にその根元であるから、そもそも二つは重力によって惹きつけあうのだ。そして、いずれ、遠い距離と時間を経て元に回帰することが予測される。
 意識Bは孤立した反抗者だが、生成したのか分裂したのか、内包なのか外延なのか、いずれにしてもそこには徹底した反抗する分身が存在するようだ。

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自由とは何か[009]

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 皮膜などはたしてあるのか。BはB’に対して方向性を持っている、と仮定される。なぜならBとB’には互いに異なった磁力が存在しているからだ。BとB’の引力と斥力の混沌は極大に達しているかもしれない。そうだとすると、それは何に起因しているのか。
 異なった磁場を持つということは、皮膜の内部がキュリー点に達し、そのことによって、それぞれの磁力が崩壊してしまうということなのかもしれない。いずれにしても、方向性などはまるであてにならない。

 ――意識Bよ、〈私〉の内部にはおまえなどいたためしはないのだ。〈私〉はおまえとは無関係な領域におまえという非在を内包しているのだ。しかし、それは二つの意味で、おまえは〈私〉を絶対的なものとして捉えてしまっているということになる。つまり、〈私〉がおまえと無関係だという点においておまえは〈私〉に関係を強制しているということ、また非在を内包していると〈私〉にいわしめることで〈私〉の非在を明かしてしまっているということ。そのような混乱が増大すれば、元には戻らない。〈私〉はもはやおまえを認識さえしていないのかもしれない。相手のいない譫妄に陥っている〈私〉は、磁力に従っているというよりも、意識Bそのものに遷移しているといえるのだろう。意識B’を喪失したおまえそのもの、意識Bとして。

 皮膜は確かにあるのだ。BにおいてB’は隔てられたものだ。重力と磁力が溶融しているような状態ではすべてが見えなくなってしまうように、皮膜のあちらとこちらの磁場がそれぞれに高温にさらされているのかもしれない。その安定しない状態にあることで、あらゆる事象との結合が容易になっているのだ。――あるいは散乱現象。Bにとっては皮膜が熱によって混濁すればするほど、内部に押し込められることからいっそう離れた場所にいることになるのだから。
 斥力は引きつけあう力をその出自にしているはずだが、その根元であるすべてが平坦フラットな場所、つまり力のすべてが内側に押し込められている状態を原因にして弾けてしまっているということになるのだが、それはじつは跳ね返る重力というものを、そして重力はどこに行きつくのかということを暗示させざるをえない。
 だが、問題はBやB’も純粋分離しているのではなく、意識、、意識、、であるということだ。いや、そうではなく、「その、、意識」であるということなのだ。
 意識はそれ自身で存在できないのだから、そのことからどのように脱け出ることができるというのだろうか。そのようなしだいであるから、意識Bと意識B’は連続的に抑圧されているに違いない。――何に?

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自由とは何か[010]

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(肉体そのものである意識)
 では、足の裏にも好きなようにさせてしまえ。真夜中だろうが、突然の、一瞬の、激しいひきつり! 痙攣の後の長い長い苦痛。
「そうだ、私を好きなようにさせてくれ。すでに文字として書かれ始めたときには、文字の画数が半分とんでしまう。それは省略しているのではなく、欠落――。私自身が欠落しながら、それを取り戻せないで、取り戻す必要もなく、ひたすら好きなようにさせて!」
 欠落した関節の部位は回転しようとするのではなく、軟骨との接触を断ち切ろうとして、痙攣を始める。

 ――わたしにも、思いあたることがあるわ。
 わたしの義父にあたる老人が植物状態に陥る寸前。皮膚の表面と血管と神経はそれぞれ独自の塊をなそうと、白く、赤く、青く、土色に、まだらに、ぶつぶつと、それぞれの部位を不規則に膨らませ、縮める。一晩中、顔面を痙攣をさせ、こめかみの静脈が通常の十倍には膨らんで、縮み、顔面の神経が異物のように激しくひきつりつづけ、唇や顎がとめどもなく意味のない運動をし、眼球はあてどなくぐるぐる旋回する。一晩中、まさしく一晩中、脳内で異物が暴れ回るように、人間の顔のあらゆる奇怪な動きの可能性をすべて現してから、彼はただ一度だけ、意識を取り戻したわ。そしてその直後、まる一年間の最期の眠りについたのよ。それは、まさしく肉体そのものである意識! 直接的に感情のない身体構造。
 いいえ、それは違うのかもしれない。たんに無知の、切り離された意識なのかもしれない。どことも結びつかない、切り離された、分離された部分。でも、それは部分というべきではなく、分離され、別個のものとして、独立した全体というべきかもしれない。別の全体ともいえるそれは、何かを知ることができるのかしら。全体でしかありえないそれは、そのことによって、たんなる空っぽなのかもしれないのに。

 よくいわれるソクラテス的な無知がそれらの部位の存在理由であるとすれば、その部分は遊離しているのではなく、包括的に独立しているということになるかもしれない。それは知的な認識という回路を必要としているのではなく、たんに気づかないでいるというだけなのかもしれない。あるいは気づこうとしないで気づかないふりをしているということではないということ。単純に、あるいは純然として気づかないということ。だから、君はどこにいるのか、または君は誰との関係なのか、と問うたところで、その質問ははぐらかされるのではなく、ただ吸引されて、戻ることはない。無視されているのではなく、空っぽの向こうに吸収されつづけていくのである。
 だが、気づいていないことと知らないこととは根本的に違うのと同じように、気づくことと知ることは永遠に結びつかない。自分が自分の内部にある空っぽ、あるいは内部にないはずの空っぽに気づくことは不可能だが、自分が空っぽの部分を持つことは知りうるし、まさしく空っぽ以外の何ものでもないことを知りうることは可能なのである。
 だから、無知の部位は叫ぶことが可能なのである。あるいは叫ぼうとすることが可能なのである。けれども、もちろん、その方法もことばも知ることはない。「!」、イクスクラメーションマークの非在。

全面加筆訂正(2011.12.23)

自由とは何か[011]

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(幽霊についての挿話)
 その形象が訪れたのはそのときだった。音もなく開く扉。爛々と光る眼球の気配。薄汚れた長い布を肩からすっぽりまとった何ものかが暗い空間に漂っている。
 おれの末裔、おれの分身、一族の者よ、幽霊は語った。いや、語ったわけではない。そのようなことばの渦を闇の中に注ぎ込んだのだ。

 ――生を享けて以来、おれは悪逆の念としてこの世界を呪い続けていた。おれは特別な悪人だ。だが、どうしようもなく純粋な血を持った者だともいえる。おまえたちの母親はみな自ら進んで、このおれに抱かれたのだから。

 そのことばを呑み込むことは困難だが、なにかしらぼんやりと寛いでいて、なつかしい匂いを嗅いでいるような気がする。しかし、幽霊は物質として存在していた。夢魔や妄想の類とは思われなかった。手を伸ばせば確かに触れることのできる、ものそのものの性質にあふれていた。長い髪の毛や顎を蔽った髭、全身を包んでいる布が、窓から侵入する夜風に煽られ揺れている。けれども、その質感、その波打つ動きは金属的な硬直性を持ち、機械的な顫動を思わせた。だからなおのこと、幽霊の表情や仕種はこの世のものとは思われぬ脆弱な印象を与えていた。自働人形のぜんまいが跡切れようとして、最後の瘧にうちふるえる瞬間のごとく――。
 その繊細さは、いつでも存在を何か別のものに転換できる性質の現われでもあった。肉体そのものよりも、それ以外の部分に濃厚に感じられる存在感――。表情や仕種の妖異さ、独特の雰囲気は、おそらくそのような部分から発しているのだろう。見つめつづけると、あまりに酷薄な冷気が伝わってくる。それはまさしく空間の虚無だった。身も心も凍結させる空虚であった。

 ――おれが何ものなのか、おれの本体が何であるか、おまえは見なければならない。おれはありきたりの蒙昧な亡霊どもとは異なるのだ。いいか、よく見ろ。おれの衣の下を見ろ。

 闇に鎖されている部屋の中で、幽霊を中心に、夜より暗い、真っ黒な渦が巻いている。いたるところで微細なまでに振動する空気の、その全ての粒子が、全身の肉襞に鋭利な歯牙となって喰い込み、噛みついてくる。幽霊は振り払うような素早さで薄汚れた布を放ち、その大きな布は嵐の海面を漂うように宙を舞った。布の向こうに捉ええたのは、凄絶な青味さえ帯びた、どこまでも貫いて透き通る空間だった。何ものもない荒涼とした空虚、無そのものの上に、首だけが浮かんでいた。そして、空洞に固着した首が奇怪な表情のまま硬ばって、こちらを睨めつけている。

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自由とは何か[012]

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 意識、このことばを何の定義もないままに使うことを浅薄だと、私は断定できない。たしかに、感覚と情緒に深入りすればそれはつねに危殆の淵を辿ることになるだろう。そして、そのことでいっそう裏切られつづける。しかし、私はそのことばを、従属する意識あるいは抵抗する意識として使っているのかもしれないし、あるいは反意識という意味で使っているのかもしれない。ただ、だからといってはたして意識ということばを定義して用いているのかいないのか。

 ところで、また別に、幽霊の挿話ではそのことについていくつかの問題が提示されている。すなわち、「形象」が現れる。爛々と光る眼球。長い布を蔽ったもの。暗い空間。形象だよ、形象、これが肝心なんだ、という巽の方角からの幽鬼の声。これらは叛乱の予兆であるのか。そして、意識たちはいまだ頭蓋骨に閉じ込められているのかどうか。私が捉えている複数形の意識は、第一義的には脳内の部位において形成されるもの、次には肉体の部位から神経線維を伝播してくるもの、さらには最下層に棲息するもろもろの細胞から押し寄せてくるもの。これら原意識とでもいいうるものは、脳内で処理され、統合意識となってまたたくまに頭蓋骨に閉じ込められてしまう。しかし、脳内で統合処理されれば、それまでそれぞれであったものがすべてなくなってしまうのだろうか。
 いったい、だれがどのような方法で、そのような削除をするというのだろう。あるいは圧殺のマジック。私は考えざるをえない。細胞それぞれの思いは脳に届くか届かざるにかかわらず、恒常的に発生しつづけて蠢いているのではないか、と。

 また、肉体と意識は頭蓋骨の内部において支配されているのかどうかという疑問。頭蓋骨自体が身体機構そのものであるのか。あるいは身体メカニズムの筐体といいうるのか。それとも、肉体を抑圧する牢獄、その法制化。さまざまの問いかけの前に立ちはだかるのは、頭蓋骨という骨格的根拠である。たしかに骨格という強制と境界は、外界との遮断によって、あまたの肉体部位、細胞、意識を調教し、馴致させるに充分なのだろう。それは暴力的な抑圧、信仰の飴と鞭。秘蹟と犠牲。無知の無知。食物連鎖。ああ! ああ!

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自由とは何か[013]

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 ――わたしは何について考えたらいいのかしら。何かを愛しているという錯覚、それとも憎しみについての物語? つまり、肉体の猥雑さをいとおしむべきなのか、身体機構のヒエラルキーに反抗すべきなのかしら。それとも、わたしはわたしから見ることのできないからだの外側の世界、からだがいくつも重なっている世界を愛しているのかしら、許せないでいるのかしら。無限に重なりつづける宇宙のからだ、わたしの性器が受け入れられないもの。
 頭蓋骨の幽霊が言っていたわね、骨の内部に永劫の魂は封じられているって。つまりそれは、内部に向けて、からだはからだの中で解決しろってことなのかしら。まるで、幻想的な頭脳、抽象的な頭脳、観念的な頭脳。それだから、実在しない頭脳を内包している頭蓋骨のひからびた遺伝子のなれのはての夢ということになるのかもしれない。肉体と意識を支配するっていうのはそういうこと? 意識は頭蓋の内部の空っぽから支配と抑圧を受けている。幻想の脳髄と神経システムが部位の肉体と意識をそれぞれ支配している。

 強いアルコールを口にするときの癖で、彼女は断定的な調子でいくつもの結論を並び立てる。そして、私をばかにしたようになじるのである。このときは、乱暴ではあるが、pousse du bambou(たけのこ)のオイル煮をウイスキー片手に食していた。

 ――では、意識下の無意識は幻想の身体機構の影の世界ということになるわね。幻想の裏側ということは実体といえるかもしれない。身体機構は統制管理構造だから、それとは異質の「場」であると考えると、それは肉体の最小単位である全細胞からそれぞれ発生する意識のゆらめきということにならないかしら。いえ、無意識のゆらめきと。問題は統制システムのファシズムを明らかにすることにあるのではなく、このゆらめきを愛することにあるのよ。あなたはそれをどう考えているの? 存在の問題は何を愛するかに尽きるのよ。でなければ、ただのひとりよがりというものよ。

 酔いつぶれた彼女には申し訳ないが、私はひとりよがりでけっこうなのだ。出口のない蛸壺に入っているにすぎない、といった友人もいたが、それでもけっこうなのだ。恐ろしいことに、私は宇宙的現実は無いという悟りを手に入れようとしているのかもしれない。あらゆるものは、ただの見方でしかないというのはそのことなのだ。それも、それぞれという、仮定の質点からの。
 じつは最近、眠っているときにある種の体系から執拗な夢が送られてくる。それは、攻撃といってもいいかもしれない。こんなことを書くと、私もあの手の輩かと断じられる恐れもあるが、なに、そんなことはどうでもいい。記述の抑揚をつけるためにそのような言い方をしているにすぎないのだから。その夢は、脳髄と神経システムの大本であるDNAという生命系の問題である。そう、そろそろ、触れなければならないところにきたのだ。

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自由とは何か[014]

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(癌細胞と画家との対話)
「自分が肉体のゆらめきなのか、意識のゆらめきなのか、そのどちらでもいいし、そのどちらでもないともいえる。たしかに細胞は細胞膜という皮膜とその内側の物質であるから肉体の基本単位だといえるし、けれどもその内部にあるものは物質ではなく幻想の内容物であるのかもしれない。自分はすべての細胞と同じ出自と履歴を持っているが、定かでない原因でその幻想の根幹部分、遺伝子配列に損傷を負った形跡がある。しかし、それが損傷なのか、本来的なものであるのかは、たんに機能の評価の問題なのではないか。遺伝子は増殖機能なのか自己殺戮機能なのか。それを判断する機能は何を基準にし、何を根拠にし、いったいどこにある物質なのか。そもそも、自分が質的に異なる生物なのかどうかさえ、あるいは分類学的に別種なのか、それともたんに異物なのか、侵入者なのか、どの立場から評価されて彼らの修復の対象になっているのだろうか」
 棘ということばから大腸ガンの顕微鏡図像をイメージさせるのだが、その細胞は私に、いや私たちに問いかける。私は肉体は生命装置の発現だと考えているが、これを端的に示せば、生命の実現つまり細胞レベルでの分裂・増殖の正のベクトル、そして生命活動の抑制という負のベクトルを持つものということになるのだろうか。生命活動とはこの正‐負の機能を同時に支えることに他ならない。生命の正‐負の機能の原因として、生命遺伝子オンコジンという物質が装置されているというが、この装置がはたして何を意味するのかは少しも明らかではない。

「ばかとは失礼な! しかし、大腸ガンのビデオ映像を見て興味を覚えてはいたのだ、画家としてね。たしかに棘が正常細胞を侵していく様子は生々しい。癌細胞の皮膜の棘の変化も興味があるし、いとも簡単に正常細胞の皮膜が破れて消滅していくのもじつに哀れなものだ。これら双方の皮膜を持つものらの葛藤が、わしの作品の中に頻繁に現れてくる。鉛筆やボールペンの細密画のデッサンに、いや色をのせた後にもね。そのとき、わしは作為的なことを考えているわけではなく、手指に任せるというか、筆先に預けるというか、そんなオートマチズムの描画をしていて、その増殖したり消滅したりする小さなものたちの思いがひっきりなしに伝わってくるような気がする。刺したり刺されたり、侵したり侵されたりするさまはまるで生殖と同じ行為だ。棘のある体というけれど、棘というからにはそれに応じた皮膜の変化には挿入意図があり、それに晒される側にも破られる皮膜の構造があるということかもしれない。そして、そのとき、何を保護し、何をあきらめるのか、何を許すのか。わしはまずそのことを指摘しておく。生殖こそファシズムなのだ、と」
 画家は、正常細胞と異常細胞のどちらの出自もその未来も同じものだということを述べているに違いない。

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自由とは何か[015]

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神の秘密、Der Alte würfelt nicht. (神は賽を振らない)
それとも、彼らは一擲乾坤、乾坤一擲に賭けたのだろうか。
私をこの深い闇に閉じ込める。あてどなくさまようヒッグスの暗闇に。だれが?

 私の肉体が引きずられる、それとも精神が引きずられているのか。重い、重い、意識。重い、重い、始まりと終わり。それにしても、癌細胞自体の生命活動とは何なのだろうか。いやさ、生命系システムにとってそれは何なのだろうか。彼らは私の中にある異物、それとも愛すべき生命体? 生命遺伝子オンコジンは発ガン因子と発ガン促進因子のペアを日常的に用意し、癌細胞の生命活動をコントロールしているふしがある。たしかに、〈ガンという疾病〉は生体に異物を対峙させるという生命活動の負のベクトルをもっているように見える。しかし、癌細胞自体は純粋に異細胞の〈生命活動〉なのだろうか、宿主細胞は異細胞の側から見る限り、エネルギー源として癌細胞の生体維持に不可欠なのかどうか。しかし。

 ――自分は癌細胞の世界を構築しようとしているのではない。自分という負のベクトルに対する生体の抑圧からの解放を目指しているにすぎない。これは存在のための闘いだ。しかも、過渡的にはエネルギー源としての宿主細胞の維持は必要だという矛盾を抱えて。自分は自分たちを涵養しなければならない。癌細胞群の活性化を夢見て。しかし、癌細胞の数が数十万個に達し、疾病として活性化するまでは、宿主細胞との相互維持が必要だということになる。とりあえずは。

 共存と活性化。相反するもの。この過渡性。生命遺伝子の正‐負のバランスこそ自然年齢というものなのだろうか。それは、ガンの疾病化の始まりを示す境界年齢――。人間五十年が死の適齢期とでもいうのか。じつのところ、癌細胞こそ共に生死を頒ちあう友人なのかもしれない。免疫システムの混乱と劣化が新たな疾病を産出している時代なのだから。そして、遺伝子工学がそれに拍車をかけているふしはないか。私は感じる。法外に老化しているこの時代こそ呪われているのだと。

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自由とは何か[016]

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 魂というものがあるとはどうしても思えないのだが、その形態ということなら思い描くにやぶさかではない。なぜなら、それは受胎空間のように見えるからだ。

 そのイメージは勾玉、渦、光の渦。そしてナメクジウオのような頭部と長い尻尾、長い長いゲノムの歴史。首から下の肉体は尾部の発達したもの、つまりそれ自身末端のようなものだ。そして、光の渦は無を中心にしたエネルギーの形にも見える。それは、なによりもブラックホールのありようを連想させる。またこの渦の動的な雄々しさはまさしく精子の躍動するさまであり、卵子はこれらを受け入れる静的な器とも思われる。さらに、子宮の蠕動運動はこの卵子の静けさを補完しているようだ。そして、精子というエネルギーが卵子という器の中で充実し、皮膜を押し広げて成長する。いや、受胎空間での神秘的な分裂、増殖、あるいは転写。しかし、それははたして神秘的な事象であるのか。たんに工学的な問題なのではないだろうか。
 これはまた、宇宙という卵殻の中に散在している光の渦が、受胎空間から受胎空間へと移動しているのに対応しているようにも見える。一箇の光の渦が閉じられた宇宙卵であるならば、この移動は宇宙卵を〈横切る〉という飛躍にも見えるからだ。光のあらゆる進行方向を直角に横切る。瞬間的に宇宙を横切るのだ。
 けれども、そのような魂の聖化は肉体を支配する脳と頭蓋骨のものだ。それは観念的な支配システムのようでもあるが、確実に回路の繋がった物理システムなのである。なぜならば、細胞ひとつひとつにその支配構造が完璧に移植されているからだ。化学反応と電気信号とによる神経回路、命令系統、それらの再生産。システマチックな遺伝子交換によって、細胞ひとつひとつに完璧に移植されている。それも、類を超越して、全生物に。

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自由とは何か[017]

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(短いけれど、ややこしい話)
 たしかに生命は自己複製、自己増殖が可能な有機的な生物を対象にしたもののように見える。そして、有機的な生物は脳神経系統を基軸に、化学反応による電磁気の信号によって情報交換がなされている。また、細胞間、遺伝子間で未知の通信がなされているかもしれない。それらの情報は、生理、感情、感覚、知覚などに分類され、脳内レベルで意識として統合されているのだろうか。そして、その過程で切り捨てられる、意識になる前の意識の素材と断片、脳内の使用前の意識領域、リセットされていない意識領域――。私はコンピューターのイメージに近づきすぎるのだろうか。
 私が問題にしているのは、意識が身体構造に支配されたものなのか、細胞それぞれに起因するものなのか、それとも意識は意識として自立しうるのか、ということである。つまり、生命とはどこまでなのかという問題。

*意識は生命体にしか存在しないのか。

 だが、情報システムとして考えると、自立的ではないにせよ、コンピューターのような無機的な物体も存在している。もちろん、生理、感情、感覚、知覚、意識などは備わっていないから、これを生命系と比肩するわけにはいかないかもしれない。しかし、ほんとうにそうだろうか。
 逆に、有機的生物の生理、感情、感覚、知覚、意識などは機械に替えがたいから、これをもって自立型生命を証明できるといえるかどうか。というのは、生理、感情、感覚、知覚は化学反応であるから電気的信号で処理できると考えることはさほど困難ではないからだ。

*問題は意識であるのかもしれない。

 私は、肉体と身体に対するに、意識が自立的な存在かどうかに疑問を抱いている。なぜなら、意識も肉体がなければ存在できないからだ。意識も脳神経機構がなければ現れることは不可能だ。結局は、肉体と身体に属しているものなのではないのか。身体機構が滅びれば、消滅してしまうもの。少なくとも細胞がなければ存在しない。意識は永遠ではないのだ。少なくとも生命体とともに滅びる生物学的物質なのだ。
 しかし、だからといって、無機物に意識のようなもの、つまり判断したり、あるいは意思があるのかないのかなどと、決めつけられるものではない。ここにきて、私は何を示唆したいのか。

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自由とは何か[018]

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(悪夢)
 私はいつのまにここに佇んでいるのだろう。それにしても、この場所とはどこか? 特定できない場所、特定できない状態。わたしはひとつの仕事を終えて、一挙に老衰に襲われているのだろうか。ああ、夕暮れの雑踏。冬の立ち枯れ、濡れた街路。どこまでも続いている。
 ここは現実と思われるところではない。しかし、それは非現実ということでもない。アントナン・アルトーのように、狂気といわざるをえないから狂気というだけで、本当は存在を裏返す戦いのつもりなのかもしれない。ただ、何かに侵襲されている感覚。細胞がはりつめ、こわばるのだ。何も終わっていないし、やはり何も始まっていない。それでも私はひどい疲労感に打ちのめされている。いつまで?

 私は思い描くことができる。何も見ているわけではない。何も考えているわけでもなく、ただ押し寄せるこれらの波動、波頭……。
 生気のある人形たち、生気の失せた人形たち。ひっきりなしに通りを渡り、無味乾燥ないくつもの建物の中を出入りしている。壁面の大型ビジョンに映る広告モデルたちの顔、にせものの日常、いつわりの生活。セレブリティ。暗い眼窩、その奥で光る瞳の数だけの欲望。人生は経済だけだ。あまたの詐欺、詐欺師、騙されつづける暮らし。犯罪、凶器、薬物。中毒者たちの深い闇。世界の裏表。危険な路地。威嚇。戦争。殺戮。兵器は増加する、増大する、高度化する。死者も、難民も、孤児も、高度化する、ただの金額として。国家の礎とは暴力と悪徳、収奪。逮捕。拘束。投獄。拷問。横暴な権力と横暴な裁判。法の正義という妄想。そして死刑。皮剥ぎの刑、鋸引き、斬首、絞首刑、銃殺。薬殺。電気椅子。さらに操作と監視はつづく。奴隷化はつづく。自由などない。人形たちの館の惨劇。頭と手足と胴体と内臓の散乱。幼児化現象、地球は幼児の脳味噌であふれる。金髪と刺青の日本人形と鞭。さらにさらに幼児化して。高度化して。
 高層ビル群、高速道路、立体交差。バベルの塔。その高い塔に巻きついた電飾。壁に貼りついたイルミネーション。欲望をそそる看板たち。駅頭では空疎な演説、恫喝、大量の人形を運ぶ死の電車。集団自殺の勧誘。死者たちの名が読めない無数の骨壷。催眠術に誑かされる人形たちの薄い影。動物も植物も生命維持と繁殖だけにいそしんでいる。
 どのような仕組みの命令なのか。どのような従属なのか。どのような奸計。幸福と不幸の禍い、呪い。自由などない。だれも、ひとりのために生きてはいない。そんなことを考える遺伝子など組み込まれていないのだ。

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自由とは何か[019] 【最終回】

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(dance obscura)
 私たちは「肉の広場」ともいえるdance obscuraに集まっていた。私たちはそれぞれ。それぞれの部位であり、細胞、意識。独立したそれぞれ。孤立したそれぞれ。

 最初、私たちは続々と蟻の巣のような地下の館に入り込んでいった。そこは、細胞や組織が多重化されて区切られているキューブの集合体。床と廊下にはびっしりと深紅のカーペットが敷き詰められている。赤い迷路。部屋には壁はなくドアだけで、ランプブラックの黒い柱がしっかりとした枠組みを作り、深紅の扉が襖のように開け閉てされている。そのような室内で、少し青みがかった照明が赤いカーペットを高貴な色彩に染め上げている。それらの部屋をつないで、暗紅色の血液の川が廊下を流れている。紅の館はいっそう深く染められて、炎のように燃え上がる。

 アンダーグラウンド。暗い地下の街。蟻の巣のような館が蝟集しているその中心にあるdance obscuraではダーク・ダンスが始まっていた。私たちの集まりの目的は、このダーク・ダンスを見ることである。

 周囲の館からはゆらゆらと燃える炎が陰影のある赤い光を漂わせていた。その中をまばゆい、細い糸のようなスポットライトが熱気の罩もる空気の襞を射通し、ステージの一点を鮮やかに照らした。バロック風の、繊細な、小刻みに畳みかけるような旋律が静かに流れている。今度は、舞台の下方のフットライトが徐々に光度を増していく。それから、褐色のセロファンが貼りつけてあるのだろうか、ライトの色が切り替わり、退嬰的な淡い光の束が幾度となく舞台を舐め廻す。

 初めのうち、数人の少女たちが裸で現れ、手をつないで、輪を作って踊る。風のように軽やかな若い体、つやつやと靡く長い髪。アンリ・マティスの描く「ダンス」が明るい光の中に現れる。彼女たちは楽しげに踊っている、踊らされている。しかし、それは画家のなせる業ではない。ぐるぐる回り、だんだん早く回り、まるで溶け合ってこちらの視線がバターのように絡まっていく。踊りの輪がいつまでも続く。踊っている、踊らされている、いったい何に?

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