カテゴリー別アーカイブ: 散文

nerve fiber

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 太陽が毒をふり撒いていた。
 海岸道路に沿って建てられていたレストランの二階からは、光の小波さざなみが織りなす黄金の海がすべて見霽みはるかすことができた。白木造りのこの長細い建物の窓は、床から天井まで、海の光を全面的に受け容れていた。
 窓際の席につき、メニューを差し出すギャルソンの短く切り詰められた指先を見て、この男も汚濁にまみれたあの部分をその指で掻き回すのだろうかと妙に落ち着かぬ気持で考えていた。濃いコーヒーと紫色のソースの添えられた洋梨のムースを註文すると、海の輻輳する燦きの下に永遠に沈んでいるものという言葉が浮かんだ。
「あのヨットは飛魚ね」
 二人連れの女客の、若いほうの女の声が窓ガラスを切り裂くような鋭さで伝わってきた。たしかに小さなヨットの帆が光の小波の蠢きにつれて見え隠れする。その姿が舞い上がるものの性質を抱えているような気がしないでもない。
 晴れ渡った空は、その青い色彩の中に充満する陽光の発散する磁気のためか、あるいは水の中にひそむ光への憧憬しょうけいのせいか、躍動する黄金の色を帯びていた。
 年上の女の方が若い女の白い指を両の手の平で押し包み、それから歯を立てるのが見えた。若い女は袖なしの白いワンピースから伸びている腕を折り、テーブルに肘をつき、いささかなげやりで不安定な姿勢のまま相手に指をあずけている。つまり、躯全体の重心がわずか数ミリ年上の女の方にずれているだけなのだが、その傾きが危うい淫らさを構成しているに違いなかった。
 だが、官能というほど強い匂いは感じとれなかった。黄金色の光を吸い込んだ若い女の眸は、乾いた無感情とでもいうべき銀色の光沢を凍結させていた。
 こちらからは年上の女の横顔と襟の広い派手なカッターシャツの背中しか見えないが、その肩が小刻みに揺れているような気がした。だが、二人とも視線は海上のハレーションに漂わせているだけのようであった。女の揃った歯が硬質の磁器の無機質性を思い起こさせた。
「夏に入る前が見事ですね。光が溢れていて、その輝きが強過ぎもせず、弱いというでもなく、長いこと眺めていても疲れることがないのです」
 湯気の筋を揺らめかせたエスプレッソの入った白いカップを木目の浮きでたテーブルの上におきながら、中年のギャルソンが話しかけてきた。
「しかし、何というのですか、眠くなってしまうような、そう、麻薬に浸りきってしまうような、そんな気がする時があります」
「あなたはここに長くおられるのですか」
「ええ、生まれてこのかたというわけです」
 このレストランの、この窓から見えるロケーションの中に、というような意味で訊いたのだが、彼はこの海岸地方と彼自身の結びつきを人生の問題として答えたようである。香り高いコーヒーの濃密な味が神経を鋭く刺激していた。小さなカップに幾分かの悲鳴をあげさせながら、まだ話し足りなそうな男から海の光へと視線を戻した。
 だが、光は、ある種のうねりによって、脂ぎって、どろどろの救いのないような粘着性といったものに陥ってしまうような不安がないでもない。そして、そのとき、俺たちはこのコーヒーのような色の汚濁した血を吐くに違いないのだ。その証拠にこれがあるのだ。首からぶらさげたピルケースの中にしまわれたものを、明瞭に思い描いていた。
「心が溶けてしまうわ……」
 女たちの方から、溜息を伴ったかすかな呟きが伝わってきた。どちらの女が発した言葉なのか、判然としたわけではなかったが、海を眺めていた年下の女の顔が一瞬の無表情といったものに囚われていた様子から、その言葉がこちらに背を向けた女のものであると思われた。

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自由とは何か[001]

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 私は私の属しているものを知ることはできない。また、私が属しているとされるものも、私を知ることはない。さらに、私が私を属しているとするものを推測 することはできるが、ほんとうは知ることはできない。私がこれらを知ることができるとすれば、それはファシズムということであり、私自身の自由からも、あ らゆる存在の自由という問題からも遠く隔てられてしまったものについてである。

(話をどこから始めるか?)
 私はまずあなたに問いかける。あなたは私自身であるかもしれず、また私の隣のあなたであるかもしれない。また、私とはまるで無関係なあなたであるかもし れない。しかし、いずれにしても、私は問いかけるためにあなたを必要としている。だが、私が問いかける事柄はどこからやって来るものなのか。あるいは、い つやって来るのだろうか。そして、ほんとうに問いかける事柄があるのだろうか。けれども、来たるべきものはやはり来るのだという予感はある。しかし。

 そもそも、私は何を問いかけて、その問いかけがどのような意味を持つのかをいまだに知ることができない。何を考えようとしているのか、何を始めようというのか、私にはまだ何も見えていないのである。
 おそらく、私は何かの一部に問いかけているに違いない。その一部がどのようなものの一部なのかは永久に知ることはないだろうが、たしかに何かの一部分であるということに誤りはないだろう。私の考えはこうだ。私はあらゆる「部分」に侵襲されている。

 来たるべきものはたしかに「部分」のうちにあるのだろうし、あなたはその来たるべきものに違いない。しかし、来たるべきものは来ることはないし、いつも私の外側にあるものだ。
 また、それは無垢というものと関係があるのだろうか。私が無垢でなければあなたが無垢であろうし、あなたが無垢でなければ私が無垢であるということなの か。そもそも無垢であるということは許されざるものなのか。そして、そのことが侵襲される理由であるのか。それはこちらとあちら、私とあなたがひとつにな ることを拒むもの。

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自由とは何か[002]

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 あなたは私に属しているのか? 私がそのような疑問を抱いてから数日たった夜のことである。それは、私に属するはずの意識のひとつ、肉体の部位としては大動脈の腹部にある解離性の瘤と繋がっているもので、その大動脈瘤の持つ意識ともいえる。意識Aは次のような来歴を私に語り始めた。

 Aが自らを知りえたのは、大動脈に突発的に生じたときではなく、私がAの病理的な存在を認めざるをえなくなった時点であった。Aは最初、私の願望から、自らが一時的な存在で数カ月もすれば瘤としての形は失われるかもしれぬと考えていた。しかし、結局、瘤は閉鎖することはなく存続しつづけた。
「私は、物理的に大動脈に生じたときに誕生したのか、あるいはあなたが私の存在を信じたときに誕生したのか、私自身よく分からないところがある」

 またAは、A自身が血管内に生じた空洞としての物理性であるのか、空洞を造る血管が持つ特殊意識であるのか、あるいはその両者の統合体であるのか、はたまた医学の捏造なのか、私の信仰あるいは妄想であるのか、自分でも確かなことは分からないと繰り返した。
「だが、あなたは肉体を持っているのか?」私はAへの問いかけをこのような言葉で始めることにした。「あなたはAであるはずだから、Aの意識を持つ身体という統合的機能、あるいはある一つの機構としてたしかにある、、ということはいえるのだろうが、血管にできた瘤という、つまり空洞である以上、肉体を欠落させられているといえないだろうか」私はもうひとつの疑問、空洞という肉体はありえるのか、いや肉体はそもそも空洞を包み込んだもの、肉体の本質は空洞にあるのではないかという疑問は、ここでは差し控えることにした。
 Aは「私自身にとっては、肉体の欠落感というものは意識することはできないのだが、私という空洞の反対側、つまり二種類の血管膜のそれぞれの向こう側にあるものは、不可視であるとはいえ、隣接感は直観できる」と応じた。そして、ある重要な問題を提起した。
「その直観は、存在を予感することはできても、何ものをも見ることも、本質に到達することもできず、隣接する感覚はあっても、生起している現象に遭遇することはありえないといえるのではないか。血管の層をなす外膜と内膜の向こうにしか、私にとっては推測できる世界はありえないし、あなたにしたところで、またあなたの一切の問いかけにしても、私の推理でしかないということが、私の本質を決定づけているに違いない」
 大動脈の偽腔であるAの意識は私に以上のような問題を突きつけたのである。

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自由とは何か[003]

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 私から最も遠いところから、その痛みは伝わってきたのかもしれない。それとも、その距離は、痛み自体がもたらしているのかもしれない。支えるものが稀薄になれば、それだけ速さはいやましてくる。支えるものとその意識が私自身から離れていくときに、痛みの速度は直接的な物質性を私に示してくる。それは、まるで痛みがつねに隣接しているように、私そのものに侵襲してくる。べったりと貼りつき、その接触面から貫通してくるのである。

 ――わたしはわたしの中の生きものたちのことをつねに意識していて、ともすると、いくつかの別々のかたまりの形でわたしの方に寄り添ってくるのを感じることがあるの。それはまぎれもなく複数の、別々の意識の重なりとでもいえるし、もっと具体的な、透明な膜の向こうに蠢く生命活動の原初の連なりとでもいう実感がするのよ。
 女性の意識の中にある、母性を感じる特有のインスピレーションと関連しているのではなく、ひたすら愛おしいようななつかしいような匂いを伴いながら、自らを衝き動かさざるをえない、ある種、連動する他人たちの気配、ふるまい。
 でも、あなたの方に向かうときは、あなたのたったひとつの側面を頼りにただつながっているにすぎないのかもしれない。そして、そのようなわたしが、あなたにとってはわたしたちが、無数にその側面を埋めているに違いないのよ。わたしのこの疼きが一定の充足感を伴い、そのようにしてわたしの存在を示すことにつながっているのだわ。
 そうよ、わたしのこの欠落する意識が、あるいは充実する意識が、ときには痛みとなり、ときには痙攣となり、ときには甘い麻薬となって、あなたに浸透していく……。

 神経細胞のつらなりを流れる電気信号と痙攣。その痛みが細胞体の不安なのかもしれない。秒速百メートルにまで達する速度を持つ、その予期しない叛乱。再生できるのかできないのか。変性による死への予兆が神経線維の端から端まで伝播する。
 私を覚醒させた痙攣が示すものは、こうした肉体の叛乱とでもいいうるものなのかもしれない。それはこの場合、前駆的にふくらはぎの外側にある筋に硬質の痛みを現し、たとえそのとき眠りにあるとしても、痙攣の予感を持続させていく。
 私はその予感とそこから生まれる怯えによって、その意識、長い神経線維を伝播してくる長く、細い意識に、眠りを圧迫されつづける。

全面加筆訂正(2011.12.23)

自由とは何か[004]

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 ――わたしが囚われているのではないことを、あなたが示すことができるのだろうか、それともわたし自身が……。
 わたしを一方的に支配する意図はなくても、支配していることには変わりはないし、もちろんわたしを愛さねばならないという気持ちも、さらにわたしによってあなたが救済されるかもしれないという期待も感じられるわ。でも、それこそあなたの瞞着、傲慢さ、掴みどころのない循環。
 あなたの表層はときとして硬くわたしの内側に訪れる。また、いつのまにかやわらかく弛緩する。この硬直は支配を認めさせること、この溶融は憐れみと後悔――。けれども、わたしの満たされぬ時間の中では、どれがわたしとあなたとのつながりの本当の姿なのかを、わたしもあなたも見出すことはできない。
 わたしはわたしの内側から内側へという二重の外側へくるみだされ、その猥雑に絡んだ襞をたどり、さらにその底にある深い磁場へともぐり込んでいく。二重螺旋への下降、永遠の。そして、ここでまた問題にぶつかってしまう。けれども、それは何かを生み出すための二重性ということなのか、あるいは生み出されるわたし自身への下降ということなのか。いずれにしてもわたしから発している問題に遭遇しているということではなく、あなたが提示した答えに囚われているということになるのだわ。
 わたしはそのようなわたしをどのように抑圧すべきか、そうすることでこれから生み出すすべてを許すことができるかどうか、憎むことができるかどうか、またそのようなわたしがそれにもましてあなたを要請していることも、またあなたがわたしに期待するすべての事柄をわたしも期待していることにゆき当たってしまっている。あなたはわたしの内側をいっそう慈しみ、わたしはあなたへの期待を慈しむ。

 私は私の軟らかい部位に温かな吐息を感ずることで、ある種の熱狂を思い起こしていた。それは小波のように跡切れることのない繰り返しの感覚である。これまでにどのくらいの回数の訪れの感覚があったか、またこれからどのくらいの数の訪れを知るのだろうか。今、どのくらいの数の訪れを得ているのだろう。
 私はあなたの内側から私のこの感覚によって受け容れられているに違いないが、はたして私が受け容れているということをあなたは知っているのだろうか。

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自由とは何か[005]

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 それは、ある青みを帯びた灰色の夕刻。その灰色の濃霧の向こうに薄黄色の光芒が垣間見えるが、こちらの側は絶望の濃紺の帳に蔽われているだけだ。さらに時間はくつがえり、かすかな光も忘れ去られていくに違いない。
 私の底部の秘められた闇、稲光がたえず閃くように、抑えきれない衝動的な葛藤がつらぬく暗黒。そのような憤りを生み出すのが何によるかを知るものが、いったいどこにいるというのだろう。

 最初から存在する物質を想像することは不可能だ。そんなものはありえようがないからだ。けれども、生命の底部、その発生の向こうにあるものを知ることもないといえるのか。数億年の皮質の蓄積を経て、皮膜の底に沈澱したものは甦ることはないのだろうか。傷ついた中枢神経はすでに恢復は不可能だということなのか。あらゆる歴史は殺戮の連鎖に違いないとはいえ、いまだ拭い去ることのできない衝動が忘却という形で記憶されている。思い出すこともなく、忘れ去られることもなく、古い皮質は傷つけられたまま。
 知りえぬということの罪障、根深い疑い、想起するにいたらないための焦燥。つまり、古いもの、気の遠くなるような底部に、そもそもから用意されているはずの空虚というイメージに起因しているもの。だが、たしかに私自身がその意味するところの真実とその正体を知ることは不可能なのである。

 私が傷つけるはずのもの、私を傷つけるはずのもの、それらは私に対して何をもたらすものなのか、またそれゆえに私をどのように扱おうというのだろう。私はそれらの鋭い侵襲によってほんとうに傷つけられているのか、ほんとうに何ものかを傷つけているのか。
 それははたして、私の部位を、それぞれの精神を、無数にある意識自体を、さらにもっと古くからある傷を重ねて、それは醜い瘢痕となり、それぞれの表層に複雑な皺となって残される。もう、元には戻らない、戻ることはありえないのだ、と。
 そのとき私はめくるめくような暗い情熱に衝き動かされて、私の外部に牙を、矛先を向けざるをえなくなるのだ。それは、決して内部に振り下ろされる斧ではなく、外に向けられるべき一撃。振り下ろされつづける打撃。だが、暗く熱を帯びた暴力が突出するのは、その一瞬だけである。その後は冷酷な暴力の残渣が機構として無際限に繰り返されていく。深傷を負うのは私の表層であるが、すでに亀裂、破砕は全体へ及びはじめてしまっている。

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自由とは何か[006]

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 灰色の夕暮れの第二景。ふるえる心臓。このとき、つきぬけるような戦慄を、私はたしかに感じていた。だが、それは実現不能な範疇にある行為なのである。自らを放棄することで生起する衝動、自らを拒否することによってのみ可能な敵意、自らを犠牲的につらぬくつらなり全体の無化への企み、それはあまりにも無意味な行為の突出であるからだ。それゆえ、すでに行為ではなく、切り離された行為の断片なのである。
 しかし、その衝動の素片こそ、突出する暴力、暴力の突出とでも名づけうるものである。私は彼が、彼の皮膜を破裂させることで、私と私を通した連鎖の階梯すべてを自らの内部に閉じ込め、閉じ込めた内部の樹木として、自らとともに無化させようとするその無意味な意志を感じていたのである。

 宇宙にも皮膜はあるのだろうか。宇宙は何もないところから、つまり何もないところの高エネルギー状態から生成されたに違いない。なぜなら、そこから百三十七億年分の膨張エネルギーを奪ったのだから、それに引き合う分のエネルギーが何もないところの内部に凝縮していたということになる。そして、宇宙誕生のとき、何もないところにはエネルギー状態における境界があったのかどうか。もし皮膜があるとすれば、それはその境界の状態ということになる。そして、膨張しても、その境界が広がるだけで、やはり宇宙は境界の内部にとどまっているのでないか。つまり、永遠に宇宙は皮膜の中にある。皮膜の中にある宇宙モデル。外から見れば、やはり何もないところなのだ。

 世界は外についても、内についても、何も知ることはできない。世界は時間と空間の幾何学だから、時間の階層についても同じである。過去の時間も未来の時間もほんとうのことは知ることはできないし、現在についても同じかもしれない。生きているというのに、存在しているというのに、何も知ることのできないこの不条理。物理的宇宙は知性において、私を抑圧するものなのだ。そう考えたとき、暴力的な衝動が高まってくるのを私は感じていた。

 だが、世界が円環を結び、宇宙が閉じているかぎり、反世界も反宇宙も、ただ世界と宇宙に包囲されている人形にすぎない。はたしてそうなのか?
 私自身、世界によって抑圧されていることは間違いないし、同時に彼を抑圧していることもまぎれもない事実である。だが、だからといって抑圧を正当化することが可能なのか。あるいは可能だとして、何をもって可能であるといいうるのか。
 おそらくここに過誤の種子がひそんでいるのかもしれない。また、そのことがあがきを現前させている。二つに引き裂かれる意識、引き裂かれることによって増殖する意識、あがきがいたるところにあふれ返る。〈われわれ〉に自由はあるのか。

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自由とは何か[007]

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 地表すれすれで棲息しているのは私ばかりではない。蛇のように低い吐息を這わせているおまえたち、闇の匂いを蓄積させた路地の、地べたの種族――。
 おまえたちは蹲っているような沈潜の仕方で、地面に沿って平たくのびきってしまっている。実際、おまえたちはすべての存在と同様に個々の曲率に支配されて、それゆえに永遠の平面にまでのびきっているはずなのだ。

 むっくりと体を起こしているのは、やはり影の部分。その影の奥のつらなりの影の内部というものにその根はあるのだろう。根があるというよりも、その存在は裏返された形のままの空虚であるに違いない。影の中の影の部分も体をもたげ始めた。影のつらなりのすべてが、永遠の鏡像のすべてのつらなりが、同じ傾きをもったまま、ゆらゆらと体をもたげ始めている。
 私はおまえたちにとらえどころのない類縁性を感じている。それは、おまえたちのいずれかの特質に、かつて私の何かが関わっていたことがあるということなのだ。私は、すでに私ではない別の私の系譜を思い描いているのかもしれない。それとも、いまだその呪縛と密接に関わっているとでもいうのか。

 私は自分の生まれた場所を知らない。そのことと関係があるのかもしれない。地面への思い入れ、裸足で土に触れることのやすらぎ。根を下ろし、体を支える根拠がほしいのだ。そして、地べたにはたしかに母の匂いと父の匂いが相まって情緒的な風がそよいでいる。ただ、それだけだ。しかし、私は連鎖だということを思い知らされる。連鎖への懐かしさが甦るとはいったいどういうことだ。それはゲノムに対する降伏の白旗なのか。懐かしさは弱さなのか、それとも諦めなのか。ひとりでいることの寂しさ、地面に抱かれることの救いがたさ。なんという裏切り。

 おまえたちは私を呪縛する。しかし、私はその呪縛が私に属しているのか、私を属しているものに関係しているのかを知る術がない。懐かしい匂い、体の奥が引きずられるようないとおしさ、脂にまみれた感触、体をくるむ体毛の記憶、何も考えることのない安逸さ、身をゆだねることの持続――。
 おまえたちは答えない。答えることを退けているのではなく、答える必要のない持続があるばかりだ。私はただおまえたちを通して、呼びさまされる何かを感じている。それが何であるかは別にして。それはそれぞれの内部に根強くあるものではなく、表層のありように起源するものなのかもしれない。なぜなら、つらなる無限の鎖はそれぞれの磁場を形成し、それらの磁力によって影響しあっているはずだからだ。

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自由とは何か[008]

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 地面を引きずって徘徊するその意識は、決して地面に引きずられてはいないのだと叫ぶ。だが、天井からは継母の祝福されざる黒い血が滴り、屋根裏部屋の床一面には重力の破産を示す熔解した天体の落下の痕跡が見られる。痕跡は鉱物の形をとるのか、植物の姿となるのか、あるいは生々しい肉そのもの……。すでにこの世を後にした意識は、物質と物質との関係は、意識と物質、意識と意識の関係でもあるのだと言い残していた。その意識が向かったのは、向こうから押し寄せてくるものがとうてい看過することのできない反撥と激突とでもいうべき鋭い亀裂。

 意識Bは逃れること、逸脱することはできない。だが、本当にそうなのか? もちろん、BはB自身をつなぎとめておく。そうすると、BはB自身にとって誰なのか? BはB自身を押し潰そうとしている範囲に囚われているだけで、その一部、あるいは付属しているものではない。たしかにBは奴隷のような存在であることを強いられてはいるが、敵意を失っているわけではない。Bは堪えているに過ぎないのである。――何に?
 私はここで素朴な疑問に直面する。その薄い皮膜がどちらに属しているのかを、いったい誰が知っているのか――。

 ――まさに〈私〉が息を終えようとしているその刹那に、〈私〉を唆して飛び立たせようとするものがいるのだ。〈私〉は羽撃くものではないし、翼、鰭、跳躍に適う強い脚をもつものでもない。天使のように無残な光輪も、醜く硬直した幼児的な微笑も持たない。ただ、たしかに深い憎悪と鋭い敵意を抱きながら囚われつづけている、まさにその接触面にいるのである。〈私〉を解放しようするものが現れたとしても、〈私〉はその欺瞞と悪意を見破り、何ものに対しても完全な侮蔑と敵意を失うことはないだろう。〈私〉はあなたに対してさえも、またこうした自分自身の重複せざるをえない意識の連鎖に対してさえも、〈私〉を囚えているものに対する反抗と同質の〈反抗への意志〉を欠かすことはないだろう。

 意識Bは遠い宇宙の起源、物質の起源の記憶を持っているのだろうか。完全なる反撥とは対称性と関連している。粒子と反粒子は、どちらがどちらを生成させたのか、あるいはどちらが起源なのか。そこには電磁力というよりも重力の秘密があるようだ。空の状態から物質と反物質が生まれるということは、空の場からさらに二つの対称性を持つ場が生まれたということにならないか。空は消滅するが、重力はそれをこの二つの対称性に分かつと同時にその根元であるから、そもそも二つは重力によって惹きつけあうのだ。そして、いずれ、遠い距離と時間を経て元に回帰することが予測される。
 意識Bは孤立した反抗者だが、生成したのか分裂したのか、内包なのか外延なのか、いずれにしてもそこには徹底した反抗する分身が存在するようだ。

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自由とは何か[009]

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 皮膜などはたしてあるのか。BはB’に対して方向性を持っている、と仮定される。なぜならBとB’には互いに異なった磁力が存在しているからだ。BとB’の引力と斥力の混沌は極大に達しているかもしれない。そうだとすると、それは何に起因しているのか。
 異なった磁場を持つということは、皮膜の内部がキュリー点に達し、そのことによって、それぞれの磁力が崩壊してしまうということなのかもしれない。いずれにしても、方向性などはまるであてにならない。

 ――意識Bよ、〈私〉の内部にはおまえなどいたためしはないのだ。〈私〉はおまえとは無関係な領域におまえという非在を内包しているのだ。しかし、それは二つの意味で、おまえは〈私〉を絶対的なものとして捉えてしまっているということになる。つまり、〈私〉がおまえと無関係だという点においておまえは〈私〉に関係を強制しているということ、また非在を内包していると〈私〉にいわしめることで〈私〉の非在を明かしてしまっているということ。そのような混乱が増大すれば、元には戻らない。〈私〉はもはやおまえを認識さえしていないのかもしれない。相手のいない譫妄に陥っている〈私〉は、磁力に従っているというよりも、意識Bそのものに遷移しているといえるのだろう。意識B’を喪失したおまえそのもの、意識Bとして。

 皮膜は確かにあるのだ。BにおいてB’は隔てられたものだ。重力と磁力が溶融しているような状態ではすべてが見えなくなってしまうように、皮膜のあちらとこちらの磁場がそれぞれに高温にさらされているのかもしれない。その安定しない状態にあることで、あらゆる事象との結合が容易になっているのだ。――あるいは散乱現象。Bにとっては皮膜が熱によって混濁すればするほど、内部に押し込められることからいっそう離れた場所にいることになるのだから。
 斥力は引きつけあう力をその出自にしているはずだが、その根元であるすべてが平坦フラットな場所、つまり力のすべてが内側に押し込められている状態を原因にして弾けてしまっているということになるのだが、それはじつは跳ね返る重力というものを、そして重力はどこに行きつくのかということを暗示させざるをえない。
 だが、問題はBやB’も純粋分離しているのではなく、意識、、意識、、であるということだ。いや、そうではなく、「その、、意識」であるということなのだ。
 意識はそれ自身で存在できないのだから、そのことからどのように脱け出ることができるというのだろうか。そのようなしだいであるから、意識Bと意識B’は連続的に抑圧されているに違いない。――何に?

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自由とは何か[010]

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(肉体そのものである意識)
 では、足の裏にも好きなようにさせてしまえ。真夜中だろうが、突然の、一瞬の、激しいひきつり! 痙攣の後の長い長い苦痛。
「そうだ、私を好きなようにさせてくれ。すでに文字として書かれ始めたときには、文字の画数が半分とんでしまう。それは省略しているのではなく、欠落――。私自身が欠落しながら、それを取り戻せないで、取り戻す必要もなく、ひたすら好きなようにさせて!」
 欠落した関節の部位は回転しようとするのではなく、軟骨との接触を断ち切ろうとして、痙攣を始める。

 ――わたしにも、思いあたることがあるわ。
 わたしの義父にあたる老人が植物状態に陥る寸前。皮膚の表面と血管と神経はそれぞれ独自の塊をなそうと、白く、赤く、青く、土色に、まだらに、ぶつぶつと、それぞれの部位を不規則に膨らませ、縮める。一晩中、顔面を痙攣をさせ、こめかみの静脈が通常の十倍には膨らんで、縮み、顔面の神経が異物のように激しくひきつりつづけ、唇や顎がとめどもなく意味のない運動をし、眼球はあてどなくぐるぐる旋回する。一晩中、まさしく一晩中、脳内で異物が暴れ回るように、人間の顔のあらゆる奇怪な動きの可能性をすべて現してから、彼はただ一度だけ、意識を取り戻したわ。そしてその直後、まる一年間の最期の眠りについたのよ。それは、まさしく肉体そのものである意識! 直接的に感情のない身体構造。
 いいえ、それは違うのかもしれない。たんに無知の、切り離された意識なのかもしれない。どことも結びつかない、切り離された、分離された部分。でも、それは部分というべきではなく、分離され、別個のものとして、独立した全体というべきかもしれない。別の全体ともいえるそれは、何かを知ることができるのかしら。全体でしかありえないそれは、そのことによって、たんなる空っぽなのかもしれないのに。

 よくいわれるソクラテス的な無知がそれらの部位の存在理由であるとすれば、その部分は遊離しているのではなく、包括的に独立しているということになるかもしれない。それは知的な認識という回路を必要としているのではなく、たんに気づかないでいるというだけなのかもしれない。あるいは気づこうとしないで気づかないふりをしているということではないということ。単純に、あるいは純然として気づかないということ。だから、君はどこにいるのか、または君は誰との関係なのか、と問うたところで、その質問ははぐらかされるのではなく、ただ吸引されて、戻ることはない。無視されているのではなく、空っぽの向こうに吸収されつづけていくのである。
 だが、気づいていないことと知らないこととは根本的に違うのと同じように、気づくことと知ることは永遠に結びつかない。自分が自分の内部にある空っぽ、あるいは内部にないはずの空っぽに気づくことは不可能だが、自分が空っぽの部分を持つことは知りうるし、まさしく空っぽ以外の何ものでもないことを知りうることは可能なのである。
 だから、無知の部位は叫ぶことが可能なのである。あるいは叫ぼうとすることが可能なのである。けれども、もちろん、その方法もことばも知ることはない。「!」、イクスクラメーションマークの非在。

全面加筆訂正(2011.12.23)

自由とは何か[011]

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(幽霊についての挿話)
 その形象が訪れたのはそのときだった。音もなく開く扉。爛々と光る眼球の気配。薄汚れた長い布を肩からすっぽりまとった何ものかが暗い空間に漂っている。
 おれの末裔、おれの分身、一族の者よ、幽霊は語った。いや、語ったわけではない。そのようなことばの渦を闇の中に注ぎ込んだのだ。

 ――生を享けて以来、おれは悪逆の念としてこの世界を呪い続けていた。おれは特別な悪人だ。だが、どうしようもなく純粋な血を持った者だともいえる。おまえたちの母親はみな自ら進んで、このおれに抱かれたのだから。

 そのことばを呑み込むことは困難だが、なにかしらぼんやりと寛いでいて、なつかしい匂いを嗅いでいるような気がする。しかし、幽霊は物質として存在していた。夢魔や妄想の類とは思われなかった。手を伸ばせば確かに触れることのできる、ものそのものの性質にあふれていた。長い髪の毛や顎を蔽った髭、全身を包んでいる布が、窓から侵入する夜風に煽られ揺れている。けれども、その質感、その波打つ動きは金属的な硬直性を持ち、機械的な顫動を思わせた。だからなおのこと、幽霊の表情や仕種はこの世のものとは思われぬ脆弱な印象を与えていた。自働人形のぜんまいが跡切れようとして、最後の瘧にうちふるえる瞬間のごとく――。
 その繊細さは、いつでも存在を何か別のものに転換できる性質の現われでもあった。肉体そのものよりも、それ以外の部分に濃厚に感じられる存在感――。表情や仕種の妖異さ、独特の雰囲気は、おそらくそのような部分から発しているのだろう。見つめつづけると、あまりに酷薄な冷気が伝わってくる。それはまさしく空間の虚無だった。身も心も凍結させる空虚であった。

 ――おれが何ものなのか、おれの本体が何であるか、おまえは見なければならない。おれはありきたりの蒙昧な亡霊どもとは異なるのだ。いいか、よく見ろ。おれの衣の下を見ろ。

 闇に鎖されている部屋の中で、幽霊を中心に、夜より暗い、真っ黒な渦が巻いている。いたるところで微細なまでに振動する空気の、その全ての粒子が、全身の肉襞に鋭利な歯牙となって喰い込み、噛みついてくる。幽霊は振り払うような素早さで薄汚れた布を放ち、その大きな布は嵐の海面を漂うように宙を舞った。布の向こうに捉ええたのは、凄絶な青味さえ帯びた、どこまでも貫いて透き通る空間だった。何ものもない荒涼とした空虚、無そのものの上に、首だけが浮かんでいた。そして、空洞に固着した首が奇怪な表情のまま硬ばって、こちらを睨めつけている。

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自由とは何か[012]

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 意識、このことばを何の定義もないままに使うことを浅薄だと、私は断定できない。たしかに、感覚と情緒に深入りすればそれはつねに危殆の淵を辿ることになるだろう。そして、そのことでいっそう裏切られつづける。しかし、私はそのことばを、従属する意識あるいは抵抗する意識として使っているのかもしれないし、あるいは反意識という意味で使っているのかもしれない。ただ、だからといってはたして意識ということばを定義して用いているのかいないのか。

 ところで、また別に、幽霊の挿話ではそのことについていくつかの問題が提示されている。すなわち、「形象」が現れる。爛々と光る眼球。長い布を蔽ったもの。暗い空間。形象だよ、形象、これが肝心なんだ、という巽の方角からの幽鬼の声。これらは叛乱の予兆であるのか。そして、意識たちはいまだ頭蓋骨に閉じ込められているのかどうか。私が捉えている複数形の意識は、第一義的には脳内の部位において形成されるもの、次には肉体の部位から神経線維を伝播してくるもの、さらには最下層に棲息するもろもろの細胞から押し寄せてくるもの。これら原意識とでもいいうるものは、脳内で処理され、統合意識となってまたたくまに頭蓋骨に閉じ込められてしまう。しかし、脳内で統合処理されれば、それまでそれぞれであったものがすべてなくなってしまうのだろうか。
 いったい、だれがどのような方法で、そのような削除をするというのだろう。あるいは圧殺のマジック。私は考えざるをえない。細胞それぞれの思いは脳に届くか届かざるにかかわらず、恒常的に発生しつづけて蠢いているのではないか、と。

 また、肉体と意識は頭蓋骨の内部において支配されているのかどうかという疑問。頭蓋骨自体が身体機構そのものであるのか。あるいは身体メカニズムの筐体といいうるのか。それとも、肉体を抑圧する牢獄、その法制化。さまざまの問いかけの前に立ちはだかるのは、頭蓋骨という骨格的根拠である。たしかに骨格という強制と境界は、外界との遮断によって、あまたの肉体部位、細胞、意識を調教し、馴致させるに充分なのだろう。それは暴力的な抑圧、信仰の飴と鞭。秘蹟と犠牲。無知の無知。食物連鎖。ああ! ああ!

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自由とは何か[013]

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 ――わたしは何について考えたらいいのかしら。何かを愛しているという錯覚、それとも憎しみについての物語? つまり、肉体の猥雑さをいとおしむべきなのか、身体機構のヒエラルキーに反抗すべきなのかしら。それとも、わたしはわたしから見ることのできないからだの外側の世界、からだがいくつも重なっている世界を愛しているのかしら、許せないでいるのかしら。無限に重なりつづける宇宙のからだ、わたしの性器が受け入れられないもの。
 頭蓋骨の幽霊が言っていたわね、骨の内部に永劫の魂は封じられているって。つまりそれは、内部に向けて、からだはからだの中で解決しろってことなのかしら。まるで、幻想的な頭脳、抽象的な頭脳、観念的な頭脳。それだから、実在しない頭脳を内包している頭蓋骨のひからびた遺伝子のなれのはての夢ということになるのかもしれない。肉体と意識を支配するっていうのはそういうこと? 意識は頭蓋の内部の空っぽから支配と抑圧を受けている。幻想の脳髄と神経システムが部位の肉体と意識をそれぞれ支配している。

 強いアルコールを口にするときの癖で、彼女は断定的な調子でいくつもの結論を並び立てる。そして、私をばかにしたようになじるのである。このときは、乱暴ではあるが、pousse du bambou(たけのこ)のオイル煮をウイスキー片手に食していた。

 ――では、意識下の無意識は幻想の身体機構の影の世界ということになるわね。幻想の裏側ということは実体といえるかもしれない。身体機構は統制管理構造だから、それとは異質の「場」であると考えると、それは肉体の最小単位である全細胞からそれぞれ発生する意識のゆらめきということにならないかしら。いえ、無意識のゆらめきと。問題は統制システムのファシズムを明らかにすることにあるのではなく、このゆらめきを愛することにあるのよ。あなたはそれをどう考えているの? 存在の問題は何を愛するかに尽きるのよ。でなければ、ただのひとりよがりというものよ。

 酔いつぶれた彼女には申し訳ないが、私はひとりよがりでけっこうなのだ。出口のない蛸壺に入っているにすぎない、といった友人もいたが、それでもけっこうなのだ。恐ろしいことに、私は宇宙的現実は無いという悟りを手に入れようとしているのかもしれない。あらゆるものは、ただの見方でしかないというのはそのことなのだ。それも、それぞれという、仮定の質点からの。
 じつは最近、眠っているときにある種の体系から執拗な夢が送られてくる。それは、攻撃といってもいいかもしれない。こんなことを書くと、私もあの手の輩かと断じられる恐れもあるが、なに、そんなことはどうでもいい。記述の抑揚をつけるためにそのような言い方をしているにすぎないのだから。その夢は、脳髄と神経システムの大本であるDNAという生命系の問題である。そう、そろそろ、触れなければならないところにきたのだ。

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自由とは何か[014]

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(癌細胞と画家との対話)
「自分が肉体のゆらめきなのか、意識のゆらめきなのか、そのどちらでもいいし、そのどちらでもないともいえる。たしかに細胞は細胞膜という皮膜とその内側の物質であるから肉体の基本単位だといえるし、けれどもその内部にあるものは物質ではなく幻想の内容物であるのかもしれない。自分はすべての細胞と同じ出自と履歴を持っているが、定かでない原因でその幻想の根幹部分、遺伝子配列に損傷を負った形跡がある。しかし、それが損傷なのか、本来的なものであるのかは、たんに機能の評価の問題なのではないか。遺伝子は増殖機能なのか自己殺戮機能なのか。それを判断する機能は何を基準にし、何を根拠にし、いったいどこにある物質なのか。そもそも、自分が質的に異なる生物なのかどうかさえ、あるいは分類学的に別種なのか、それともたんに異物なのか、侵入者なのか、どの立場から評価されて彼らの修復の対象になっているのだろうか」
 棘ということばから大腸ガンの顕微鏡図像をイメージさせるのだが、その細胞は私に、いや私たちに問いかける。私は肉体は生命装置の発現だと考えているが、これを端的に示せば、生命の実現つまり細胞レベルでの分裂・増殖の正のベクトル、そして生命活動の抑制という負のベクトルを持つものということになるのだろうか。生命活動とはこの正‐負の機能を同時に支えることに他ならない。生命の正‐負の機能の原因として、生命遺伝子オンコジンという物質が装置されているというが、この装置がはたして何を意味するのかは少しも明らかではない。

「ばかとは失礼な! しかし、大腸ガンのビデオ映像を見て興味を覚えてはいたのだ、画家としてね。たしかに棘が正常細胞を侵していく様子は生々しい。癌細胞の皮膜の棘の変化も興味があるし、いとも簡単に正常細胞の皮膜が破れて消滅していくのもじつに哀れなものだ。これら双方の皮膜を持つものらの葛藤が、わしの作品の中に頻繁に現れてくる。鉛筆やボールペンの細密画のデッサンに、いや色をのせた後にもね。そのとき、わしは作為的なことを考えているわけではなく、手指に任せるというか、筆先に預けるというか、そんなオートマチズムの描画をしていて、その増殖したり消滅したりする小さなものたちの思いがひっきりなしに伝わってくるような気がする。刺したり刺されたり、侵したり侵されたりするさまはまるで生殖と同じ行為だ。棘のある体というけれど、棘というからにはそれに応じた皮膜の変化には挿入意図があり、それに晒される側にも破られる皮膜の構造があるということかもしれない。そして、そのとき、何を保護し、何をあきらめるのか、何を許すのか。わしはまずそのことを指摘しておく。生殖こそファシズムなのだ、と」
 画家は、正常細胞と異常細胞のどちらの出自もその未来も同じものだということを述べているに違いない。

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「SALOME」のビデオ体験(散文詩と位置づけて)

ドキュメント風に、楽屋裏の表情などから入る。形式的で胡散臭い舞台裏だ。作り物の匂いが芬々とする。偽監督や演出家、衣装デザイナーたちの話しっぷりに肉体や魂の汗が感じられない。ダンサーたちにしても、練習風景では踊りの外側の部分をなぞり、見せることばかりに気をいかせている。

画面は踊りそのものの場に移行する。ここでもまた、モダンバレエ、モダンダンスの空疎な表現だけで、とくに群舞やヘロデ王や聖ヨハネの踊りには失笑する。マネキンのようにくるくる回るヨハネ、子供だましの銀盆の首、ヘロデ王のこけおどしの杖の威嚇、光と衣装のアンサンブルは色見本帳をめくっているにすぎない。

それでも、名手アイーダ・ゴメスのソロで踊る二つのダンスはたしかにフラメンコであって、見るべきものがある。暗い情熱を沈潜させて、鬼気迫る熱情のたぎりこそがタンゴの神髄であり、アイーダのヘロデ王に献ずる踊りにはそれがあった。

それに比して、バレエ自体や舞台装置、衣装など、また構成、バレエ劇などは、見せかけばかりで、深く肉体の底にまでもぐりこみ、そこから発現して肉体に帯びる魂の光というものがないのだ。もちろん、アイーダ自身のバレエも舞台的にはさまになっていないし、映画なのだからそういっても詮がないと。そんなこともけっしてないけれど。

監督カルロス・サウラのなした仕事とは何なのか。映画で、舞台の裏表のただの感触を描くだけで、いささかも舞台を超える作品の強さを獲得できていない。映画と舞踏との激突する、鋭い修羅場に迫っていないのだ。

それにしても、天才アイーダという触れ込みのわりに、アントニオ・ガルデスを相手に踊っていたというわりには、アイーダ・ゴメスの舞踏のすごさが伝わらない。やけにたくましい背中だったり、体が太かったりして、繊細な強靭さが出てこないのだ。踊り込みが足りない。才能と経験だけで踊り、厳しい鍛錬がない。アップにしたときの容色の衰えのことはふれようもないが。

齢をふりても、ダンサーはそこに舞台があれば、蝋燭一本、裸電球一個の前でもほんとうの踊りができるものなのにと、嘆息ばかりがして。

自由とは何か[015]

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神の秘密、Der Alte würfelt nicht. (神は賽を振らない)
それとも、彼らは一擲乾坤、乾坤一擲に賭けたのだろうか。
私をこの深い闇に閉じ込める。あてどなくさまようヒッグスの暗闇に。だれが?

 私の肉体が引きずられる、それとも精神が引きずられているのか。重い、重い、意識。重い、重い、始まりと終わり。それにしても、癌細胞自体の生命活動とは何なのだろうか。いやさ、生命系システムにとってそれは何なのだろうか。彼らは私の中にある異物、それとも愛すべき生命体? 生命遺伝子オンコジンは発ガン因子と発ガン促進因子のペアを日常的に用意し、癌細胞の生命活動をコントロールしているふしがある。たしかに、〈ガンという疾病〉は生体に異物を対峙させるという生命活動の負のベクトルをもっているように見える。しかし、癌細胞自体は純粋に異細胞の〈生命活動〉なのだろうか、宿主細胞は異細胞の側から見る限り、エネルギー源として癌細胞の生体維持に不可欠なのかどうか。しかし。

 ――自分は癌細胞の世界を構築しようとしているのではない。自分という負のベクトルに対する生体の抑圧からの解放を目指しているにすぎない。これは存在のための闘いだ。しかも、過渡的にはエネルギー源としての宿主細胞の維持は必要だという矛盾を抱えて。自分は自分たちを涵養しなければならない。癌細胞群の活性化を夢見て。しかし、癌細胞の数が数十万個に達し、疾病として活性化するまでは、宿主細胞との相互維持が必要だということになる。とりあえずは。

 共存と活性化。相反するもの。この過渡性。生命遺伝子の正‐負のバランスこそ自然年齢というものなのだろうか。それは、ガンの疾病化の始まりを示す境界年齢――。人間五十年が死の適齢期とでもいうのか。じつのところ、癌細胞こそ共に生死を頒ちあう友人なのかもしれない。免疫システムの混乱と劣化が新たな疾病を産出している時代なのだから。そして、遺伝子工学がそれに拍車をかけているふしはないか。私は感じる。法外に老化しているこの時代こそ呪われているのだと。

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ベルナール・パスケ(散文詩)

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 庭に据えられたベンチにもたれ、古いブライアのパイプをくわえながら、この小柄なフランス人はぼんやりとこれまでのことを考えていた。しかし、それは外からそう窺えるというだけで、実のところはただ白い家と庭を眺めていたに過ぎないのかもしれない。すっかり禿げ上がった頭部で、脇の方にあるわずかな白い頭髪が強い日の光を浴びて萎びていく。
 五十四歳になってまだ一月とたっていないベルナール・パスケは、顔色も変えずに上体を後ろに反らして気持ちよさそうにしている。ときおり膝の上にある中折れ帽をつまみながら、まるで憩いの時間を楽しんでいるかのように。一見すると、人生の後半の少しばかり勢いの衰えた時期の中休みとでもいうような風情で。
 パスケの家は手入れの行き届いた庭のある、白いペンキを塗った、実にありふれた小市民的な住まいであった。十五年前に建てた二階建てだったが、パスケには想い出の深いもので、そのためか、商売柄か、毎年春過ぎになると家中を白いペンキで塗り替えるのを楽しみにしていた。この日も寝室と地下室の壁をようやく塗り替えたばかりだったのである。そのパスケの家を、どういうわけか、パリ警察の警部と警官が訪れた。
   *
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 その日は夏の一日なのだが、この男にとっても本当に特別の日なのかどうか。もちろん、パリの人々は避暑地に出かけているか、郊外に住む人々は休暇を利用して家や庭の手入れをしたりして、静かなものだ。だから、パスケが庭のベンチに長いこと座っていることは別にどうってこともないのだが、しかし、いくら木蔭であっても、夏の陽射しは強く、そんなに頑張っていられるというのは、いささか奇妙といえばいえなくもない。
 パスケのやっているペンキ屋に妙な噂がたってから、この初老の男はついていなかった。パリ郊外のヌイイーにあるペンキ屋の中で、パスケの店の仕事は迅速とはいかないけれど、二人の丁稚を使って実に丁寧な仕事ぶりと、一番の評判をとっていたのに。
 ヌイイー・シュル・セーヌはブーローニュの森の北にある人口七万弱の小都市だが、地下鉄の駅があり、金属加工、香水、製薬関連の中小の産業が盛んである。ここいらの人間が鼻をひくつかせるのは、どうもあたりにある香水工場のせいかもしれない。鼻だけならまだしも、この匂いというものはルナティックな作用を及ぼすようだ。幻臭などというものにつきまとわれたなら最後で、誰かが追いかけてくるだの、自分の内臓が腐っているだのといった、ひどい病気にたらしこまれることになる。それでなくても、南側の森の方から今にも押し寄せてきそうな妖しい気配、深い暗がりが作る病んだ風が、人々の精神に健康なものばかりを与えるとは限らない。

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自由とは何か[016]

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 魂というものがあるとはどうしても思えないのだが、その形態ということなら思い描くにやぶさかではない。なぜなら、それは受胎空間のように見えるからだ。

 そのイメージは勾玉、渦、光の渦。そしてナメクジウオのような頭部と長い尻尾、長い長いゲノムの歴史。首から下の肉体は尾部の発達したもの、つまりそれ自身末端のようなものだ。そして、光の渦は無を中心にしたエネルギーの形にも見える。それは、なによりもブラックホールのありようを連想させる。またこの渦の動的な雄々しさはまさしく精子の躍動するさまであり、卵子はこれらを受け入れる静的な器とも思われる。さらに、子宮の蠕動運動はこの卵子の静けさを補完しているようだ。そして、精子というエネルギーが卵子という器の中で充実し、皮膜を押し広げて成長する。いや、受胎空間での神秘的な分裂、増殖、あるいは転写。しかし、それははたして神秘的な事象であるのか。たんに工学的な問題なのではないだろうか。
 これはまた、宇宙という卵殻の中に散在している光の渦が、受胎空間から受胎空間へと移動しているのに対応しているようにも見える。一箇の光の渦が閉じられた宇宙卵であるならば、この移動は宇宙卵を〈横切る〉という飛躍にも見えるからだ。光のあらゆる進行方向を直角に横切る。瞬間的に宇宙を横切るのだ。
 けれども、そのような魂の聖化は肉体を支配する脳と頭蓋骨のものだ。それは観念的な支配システムのようでもあるが、確実に回路の繋がった物理システムなのである。なぜならば、細胞ひとつひとつにその支配構造が完璧に移植されているからだ。化学反応と電気信号とによる神経回路、命令系統、それらの再生産。システマチックな遺伝子交換によって、細胞ひとつひとつに完璧に移植されている。それも、類を超越して、全生物に。

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自由とは何か[017]

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(短いけれど、ややこしい話)
 たしかに生命は自己複製、自己増殖が可能な有機的な生物を対象にしたもののように見える。そして、有機的な生物は脳神経系統を基軸に、化学反応による電磁気の信号によって情報交換がなされている。また、細胞間、遺伝子間で未知の通信がなされているかもしれない。それらの情報は、生理、感情、感覚、知覚などに分類され、脳内レベルで意識として統合されているのだろうか。そして、その過程で切り捨てられる、意識になる前の意識の素材と断片、脳内の使用前の意識領域、リセットされていない意識領域――。私はコンピューターのイメージに近づきすぎるのだろうか。
 私が問題にしているのは、意識が身体構造に支配されたものなのか、細胞それぞれに起因するものなのか、それとも意識は意識として自立しうるのか、ということである。つまり、生命とはどこまでなのかという問題。

*意識は生命体にしか存在しないのか。

 だが、情報システムとして考えると、自立的ではないにせよ、コンピューターのような無機的な物体も存在している。もちろん、生理、感情、感覚、知覚、意識などは備わっていないから、これを生命系と比肩するわけにはいかないかもしれない。しかし、ほんとうにそうだろうか。
 逆に、有機的生物の生理、感情、感覚、知覚、意識などは機械に替えがたいから、これをもって自立型生命を証明できるといえるかどうか。というのは、生理、感情、感覚、知覚は化学反応であるから電気的信号で処理できると考えることはさほど困難ではないからだ。

*問題は意識であるのかもしれない。

 私は、肉体と身体に対するに、意識が自立的な存在かどうかに疑問を抱いている。なぜなら、意識も肉体がなければ存在できないからだ。意識も脳神経機構がなければ現れることは不可能だ。結局は、肉体と身体に属しているものなのではないのか。身体機構が滅びれば、消滅してしまうもの。少なくとも細胞がなければ存在しない。意識は永遠ではないのだ。少なくとも生命体とともに滅びる生物学的物質なのだ。
 しかし、だからといって、無機物に意識のようなもの、つまり判断したり、あるいは意思があるのかないのかなどと、決めつけられるものではない。ここにきて、私は何を示唆したいのか。

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自由とは何か[018]

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(悪夢)
 私はいつのまにここに佇んでいるのだろう。それにしても、この場所とはどこか? 特定できない場所、特定できない状態。わたしはひとつの仕事を終えて、一挙に老衰に襲われているのだろうか。ああ、夕暮れの雑踏。冬の立ち枯れ、濡れた街路。どこまでも続いている。
 ここは現実と思われるところではない。しかし、それは非現実ということでもない。アントナン・アルトーのように、狂気といわざるをえないから狂気というだけで、本当は存在を裏返す戦いのつもりなのかもしれない。ただ、何かに侵襲されている感覚。細胞がはりつめ、こわばるのだ。何も終わっていないし、やはり何も始まっていない。それでも私はひどい疲労感に打ちのめされている。いつまで?

 私は思い描くことができる。何も見ているわけではない。何も考えているわけでもなく、ただ押し寄せるこれらの波動、波頭……。
 生気のある人形たち、生気の失せた人形たち。ひっきりなしに通りを渡り、無味乾燥ないくつもの建物の中を出入りしている。壁面の大型ビジョンに映る広告モデルたちの顔、にせものの日常、いつわりの生活。セレブリティ。暗い眼窩、その奥で光る瞳の数だけの欲望。人生は経済だけだ。あまたの詐欺、詐欺師、騙されつづける暮らし。犯罪、凶器、薬物。中毒者たちの深い闇。世界の裏表。危険な路地。威嚇。戦争。殺戮。兵器は増加する、増大する、高度化する。死者も、難民も、孤児も、高度化する、ただの金額として。国家の礎とは暴力と悪徳、収奪。逮捕。拘束。投獄。拷問。横暴な権力と横暴な裁判。法の正義という妄想。そして死刑。皮剥ぎの刑、鋸引き、斬首、絞首刑、銃殺。薬殺。電気椅子。さらに操作と監視はつづく。奴隷化はつづく。自由などない。人形たちの館の惨劇。頭と手足と胴体と内臓の散乱。幼児化現象、地球は幼児の脳味噌であふれる。金髪と刺青の日本人形と鞭。さらにさらに幼児化して。高度化して。
 高層ビル群、高速道路、立体交差。バベルの塔。その高い塔に巻きついた電飾。壁に貼りついたイルミネーション。欲望をそそる看板たち。駅頭では空疎な演説、恫喝、大量の人形を運ぶ死の電車。集団自殺の勧誘。死者たちの名が読めない無数の骨壷。催眠術に誑かされる人形たちの薄い影。動物も植物も生命維持と繁殖だけにいそしんでいる。
 どのような仕組みの命令なのか。どのような従属なのか。どのような奸計。幸福と不幸の禍い、呪い。自由などない。だれも、ひとりのために生きてはいない。そんなことを考える遺伝子など組み込まれていないのだ。

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ある男の日記 (犬雲)

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(犬雲)
その夕方――。塔の見晴し台にたたずみ、私は遠くの空を見渡していた。時間そのものが相対的だということを、その考え自体を凝視していた。しばらくすると、薄暗い空のきわに黒い犬の形をした雲があるのに気がついた。そのときは早めの夕食を済ませて、気分も落ち着いていたはずなのだが。もう遠くの空に夕焼けは見えない。いくぶん赤みを帯びていたが、いつのまにか濁った雲がかさなっている。

この日記はいつ、どこで書いているのだったか。見晴し台のことを追想できるときなのか、それともリアルタイムで犬雲と向かい合っているときなのか。あるいは、何十年も経ってからメモを文章に変換しているだけなのか。または、たんに創作ということで許される捏造なのか。少なくとも、幼年期に未来を幻視していたということではないだろう。しかし、そんなことは分かるものか!

――そんなことがあって以来、私は塔の見晴し台に登るのを避けていた。もちろん、不吉な犬雲との遭遇が契機になってのことだ。それでも、ほんとうの夜は次第に近づいていた。通りの街灯はまだ点っていないが、すでに薄暗く、靄が降りるにつれて、夜の気配が濃密になる。

ガスと塵の結合、重い空間。水分の形がその空間を侵食する。私はある理由から、沈黙の鐘といわれるそれを街中に響かせる必要があったので、ふるえる自分の手足を呪縛した。つまり、冷えきった手足を抑制して、いやいやながら釣鐘のロープをさぐらせたということだが。

その鐘は二つあり、こすれあうときの音色を考えると、より多くの数の鐘を音源にしているように聴こえる。だが、二元的な音色の構造であることに変わりなく、その結果、鐘音の響く空間は二つに破れていた。耳を澄ますと聴こえるこの空間の音色は、時間を殺戮する不安と人々の日常に鋭く切り込む荘厳を示している。そのとき私はアダムだ。私は自分の肋骨を打ち鳴らしているに違いないと考えていたからだ。警鐘は非日常的なものなのだ。

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自由とは何か[019] 【最終回】

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(dance obscura)
 私たちは「肉の広場」ともいえるdance obscuraに集まっていた。私たちはそれぞれ。それぞれの部位であり、細胞、意識。独立したそれぞれ。孤立したそれぞれ。

 最初、私たちは続々と蟻の巣のような地下の館に入り込んでいった。そこは、細胞や組織が多重化されて区切られているキューブの集合体。床と廊下にはびっしりと深紅のカーペットが敷き詰められている。赤い迷路。部屋には壁はなくドアだけで、ランプブラックの黒い柱がしっかりとした枠組みを作り、深紅の扉が襖のように開け閉てされている。そのような室内で、少し青みがかった照明が赤いカーペットを高貴な色彩に染め上げている。それらの部屋をつないで、暗紅色の血液の川が廊下を流れている。紅の館はいっそう深く染められて、炎のように燃え上がる。

 アンダーグラウンド。暗い地下の街。蟻の巣のような館が蝟集しているその中心にあるdance obscuraではダーク・ダンスが始まっていた。私たちの集まりの目的は、このダーク・ダンスを見ることである。

 周囲の館からはゆらゆらと燃える炎が陰影のある赤い光を漂わせていた。その中をまばゆい、細い糸のようなスポットライトが熱気の罩もる空気の襞を射通し、ステージの一点を鮮やかに照らした。バロック風の、繊細な、小刻みに畳みかけるような旋律が静かに流れている。今度は、舞台の下方のフットライトが徐々に光度を増していく。それから、褐色のセロファンが貼りつけてあるのだろうか、ライトの色が切り替わり、退嬰的な淡い光の束が幾度となく舞台を舐め廻す。

 初めのうち、数人の少女たちが裸で現れ、手をつないで、輪を作って踊る。風のように軽やかな若い体、つやつやと靡く長い髪。アンリ・マティスの描く「ダンス」が明るい光の中に現れる。彼女たちは楽しげに踊っている、踊らされている。しかし、それは画家のなせる業ではない。ぐるぐる回り、だんだん早く回り、まるで溶け合ってこちらの視線がバターのように絡まっていく。踊りの輪がいつまでも続く。踊っている、踊らされている、いったい何に?

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無数のもの、ひとつのもの、限りのある……

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列車も、このボックス席も、窓外に映るものも、囚われている事象だった。時空の魔がこの事象を運行している。二人のいるわずかばかりのスペースが光を帯び、そのことである苦悩が加速度的に膨れ上がっていく。いや、細分化されていく。それが、二人の共通した場所だった。私たちの出会いは偶然、このようにして始まったのだ。

「出会ってしまったのだから、始めなければならない。終わってしまうことはない」どちらからともなく導き出された結論はそのようなことだった。この、終末のない瞬間の地獄こそ、二人の世界なのだ。「とにかく、私たちは弾かれる。自分自身を原因にして互いに弾かれる。この場所からも弾かれる」そのような結論をも導き出していた。だが、その苦悩がどのようなことなのか判然としているわけではない。それは外圧であることと、自らのありように関することだという推測はできる。しかし、すべてを把握することは可能なのか。

「同じことだから」同じことだから、往くことも戻ることも違いはない。つまり、行き先も戻る先も同じ場所なのだ。反対の方向にあるのは常に自分自身だけで、自分と環界との差異だけなのだ。そのようなことが私の口から洩れていたのかもしれない。女はそのことを聞きつけたのか、理解したのか。それともまるでそのようなことと無関係なことが原因なのか、なにか明るい閃光が彼女の眸を掠めた。そして、夜の車内の光芒に埋められてしまいそうだった白い顔を紅潮させている。

自らの内圧で粉々にはじけ散る、硬い氷のようなあなたの命を。そのように、大事に大事にあなたを抱く。私に必要なのは、私の命に必要なのはあなたの命を愛すること。それだけが、あなたと生きる理由。あなたの命を見ることができるか、あなたの命だけを見ることができるか、そのほかのことはここには存在しないのだ、と。しかし、列車は決まった時間に定まったレールを走っているのだ。私の思いとは明白に異なった場所を。時空の魔は、嘲笑を浴びせながら、あらがうものたちを捉えて離さない。その力をさらに強めて。

自決しても、自らの思いを託すことができること。それを確信すること。何にもまして、強いこと。あるということは、自らを信じること。自らとは自らの物質的な起源である。おそらく想像を絶した現象なのだろう。これまでのうつろな蓄積が遠い彼方から呼びかけてきては消えて、それらは異時間と異空間のかさなりとして二人に訪れていた。私たちは単なるかさなりのイメージに過ぎない。

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ある男の日記 (失われる記憶)

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(失われる記憶)
短い待ち時間の間に、私は地方都市の商店街をあてどもなく歩いた。侘しいショーケースが目の端に光り、古びたロックやジャズがからだを擦り抜けていく。初めての街なのだが浮かれた気分にもなれない、ひどく疲れている。周りの景観には多少目をやるのだが、それらと自分との間に徘徊できる距離と時間はあるのだろうか。わずかの間、通りにとどまることも、視点を定めることもかなわない。たしかに旅をしているのだが、それは放浪なのだろうか。そして、それは私に付随する宿命的な「日常」に違いない。「いつも……、いつのまにか」

私をここまで運んできた列車は、ふたたび汚濁の中をのろのろ進み、過去に向けたまなざしから希望を引き出すどころか、繰り返しあてどのない絶望に向かわせる。私は記憶の底からそれらを不定形な夢の形で回想する。しかし、それは記憶を再現するものではない。ある小賢しい意図にしたがい事実を改竄して再構成する、記憶そのものに付随する愚弄行為なのだ。私だけの。

またしても、何番目かの駅のそばにある夜の街、私はその裏通りを歩く。どの店でもよかったのだが、干潟の入口にある一軒の店に入った。女が二、三人いたが、濃い化粧の女たちのいずれも生気がなく、そのかわりに何かに貪欲な感じがする。自分の口の中を覆い隠そうと、けばけばしい赤い唇を塗っている。もちろん、年齢も若いのかそれとも薹が立っているのか、店の薄暗い照明ではわからない。ここは料理を出すようなところではない。けれども、私にはそのどれについても嫌悪を覚える資格などない。そうだ、私は嫌悪を感じることなどできないのだ。

彼女たちの表情の奥になんらかの罪業が隠されていても、それが何だというのか。それらはほんとうに罪であるのか。それらは恥辱であるのか。そんなものはとうにどこかに埋もれたものだ。忘却されたものだ。それでも何かを隠そうとするいじらしさ。そして、周囲のすべてから離れていく。うつろで、ぼんやりした眸は見えるものが何もないことのあらわれ、失ってしまったもの。つまらなそうなあくびの、唇のあたりには嘲笑的な表情がみえる。肉体がすさんでいるのか。何かを憎んでいるのか。けれども、不思議と冷酷さはない。

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デリュージョン・ストリート 01 1 (九段の坂を登っていた)

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 九段の坂を登っていた。テルミヌスが宿っているあたりにさしかかり、これからこの坂を登りきり、辞典を出している会社へ赴こうとしていた。その先に鰻屋がある。用事を終えた後は、いつもと同じように迂廻し、店の職人たちに混じって黙々と酒を呑みながら鰻を喰うことになるのだが、そのことを考えながら右手にある大鳥居を見ていた。
「首身離兮心不懲」(首心離るとも心懲りず)という詩句がある。数年前、千鳥ヶ淵の咲き誇る桜の樹の下で、一緒にいた詩人が、英霊ありとせばあの大鳥居の向うの杜から出できて満開の花の中を逍遥している頃なり、と呟いた。この春には風に吹かれる花びらの中で、盛り切りの酒を長い時間かけて呑みながら、ひとり夕陽の色に染められる濠の水を眺めていた。
 初夏の日差しを浴びた鳥居の上に、あの人が腰かけていた。足をとどめて濠の方に視線を落とし緑の深い濁った水の色を見やっていると、紙包みのような、恐らくビニールか何かで蔽いロープで括ってあるのだろう、石垣の傍に浮かんで動かないものがあった。初めのうち、わけもなくそれは死体であると納得していた。「身既死兮神以霊/子魂魄兮為鬼雄」(身既に死すれども神以て霊に/子の魂魄こんぱく鬼雄となる)、あの人の顔が空に大きく広がって、別格官幣社の境内を包み込むように霞んで見えた。
 書類を小脇に抱えながらパイプに火を点けると、向うから女子学生が数人、声高に喋りながら近づいてきた。性的な会話のはずであったが、渋滞した車のエンジン音やクラクションの音に混じって何やら雑種の鳥のさざめきに似ていた。
 坂のある街は美しいのだが、新品のビルディングのある景色はいかにも粗末な気がした。それでも通りを左に折れると、ところどころ古い家並を残しただらだらの坂が麹町へと通じている。とある一軒の家の門前に、塀が崩れて怪我人が出ても関知しない旨の立札があった。
 Janis JoplinのSummer Timeが印象深いのだが、小さな嵐のように胸の中に涌いたのはMove Overだった。死体の梱包が浮かんでいると思ったのは、そのあたりがいかにもそのような場所に相応しいと考えていたからであり、このあたりをそぞろ歩くと、京都の円山公園の巨大な夜桜とはまた異なった満開の桜の不気味さを想い起こすのだった。
 すでに逝った詩人は存在は哀愁であると考えていたし、スペインに住んでいたある作家は男の悲哀についての小説を発表していた。いまはもうたれも見えないけれど、夏が去り、秋が訪い、年毎の季節が経巡れば、その深まりの中で風は冷たく、寒そうに唇を噛む人々の足の動きだけが、忙しげにいつまでもつづくのを見るのだろう。

(初出 詩誌『緑字生ズ』創刊号、1983.7刊)

デリュージョン・ストリート 02 2 (年の瀬の、寧日もない頃おい)

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 年の瀬の、寧日もない頃おい土師はじ姓のタユイ神からの招待状が舞い込んだ。そういえば、昨晩、開門開扉の一番太鼓が鳴ったはずだ。
 肉をこそぎて骨となり果つるということを考えながら地下鉄の出口に立つと、うしとらの方角にビアホールが見えた。もう何年も前のことだが、白い絹のドレスでめかした女とこのあたりに来たことがある。菖蒲の匂う頃だったか、水上バスの甲板で浮かれていると、舳先の方でしぶきが烟り、川の水が滴になって女の顔の化粧を崩した。舟を降りて橋を仰いだとき、赤ん坊を背負った女が欄干から身を躍らせようとしているように感じられた。
 ビアホールの長四角い大きな火桶で、黴臭い味のするソースを何度も塗り重ねながら竹串の肉を焙っていたが、最初に呑んだ黒ビールの一杯だけが心に残った。
 伝法院の通りを寄り道しながら右に曲がると、すでに深く酔っていたようだ。途中に大劇場の跡があったが、雨もよいの中をたちのぼる妖しげな気配にうちのめされて先を急いだ。
「さあ掻き込め掻き込め、縁起のいいのをまかったまかった」露地の両側高く、人々の頭上に鬱蒼と蔽いかぶさるばかりに、台付とか桧扇とかの豪華な竹把くまでが数えきれぬほど重なっていた。小糠雨を切り裂くような威勢のいい売り声が沸き立ち、赤色、金色、緑色の飾りが闇空を背景に燦いている。お福仮面が斜めに傾いでいた。五、六万くらいのものだろうと思うと、「冗談じゃない、桁違い桁違い」と売手が怒鳴った。酔っていたので、思いがそのまま言葉になったのだろうか。鬼熊という安価なものを求めて、目の前の簪を内緒で懐に納めた。「はるをまつ事のはしめや酉の市」(其角)と口ずさみ、ここいらでは「酉のまち」というのだと思い直した。
 今年は三の酉があるというが、大火事でも起こるのだろうか。ふらふらと吉原の方に足を向けかけたが、骨組みを晒けだした劇場のことが気にかかり、地下鉄の駅へ戻ることにした。
 土に還るという汎神論的風土なのだなと考えながら、浅草寺の境内でしゃがみ込み、パイプを喫いつけたが、神経にかすかに刺し込む悪意が触れた。護摩の烟にあたればそれも薄らぐという声が聴こえたように思ったが、まだ闇も明けきらぬ寒い夜。じきに新年を迎え、暦は巡るが、時は革むるべくもなく、永遠に眠りつづけているのは精神だろうか、肉体だろうか。
 ところで、三社祭にブラジルからダンサーを招き寄せたのは、ふっ、誰の悪だくみ。

(初出 詩誌『緑字生ズ』第2号、1983.12刊)

デリュージョン・ストリート 03 3 (粧いがあらためられ)

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 粧いがあらためられ、街の姿がいかほど移ろおうとも、道のありようにさまでの変遷が感じられぬというのは、なにやら面妖な気がしないでもない。明治通りと靖国通りの交わる角度にも変わりはないし、大ガードから追分を経て半蔵門に至る通り、また裏通りのどこかくすんだ様子なども昔と変わりはない。今はもう言っても甲斐なきことだが、懐旧の思いが胸を打つときがある。魂に皺でも寄るのだろうか。
 このあたりを烏のような黒ずくめの恰好で徘徊していた時期があった。まだ土地の磁力が強い頃で、失恋しては泣く男、道端に歌を書きつける男、爆弾を抱えてうろつく男、薬漬けの頭でジャズを聴く男など、得体の知れぬ若者たちが渦巻いていたのだが、今となっては皆、どこにどう囚われているのだろう。
 時を経て街の匂いに浸っていると、風向きさえも明らかならず、どこをどう流れるのか、見知らぬ人々の風が吹き渡る。いつのまにか、そこから抓み出されてでもいるような気がした。逃れるような思いで鳥居をくぐると、高い建物の影が伸び、雑沓から取り残された静けさを蔽っていた。ビルの向こうで、弱々しい光の脚を曵いた夕陽が沈もうとしている。蝙蝠の飛び交う季節なのだが、木の下闇からたちあらわれるのは古い女の亡霊なのかもしれない。花園神社の片隅で、植え替えられたばかりの一本の樹木が泣いている。耳を澄ますと、じゃん拳チイリイサイの声が聞こえるように思われた。「取りつく比丘比丘尼優婆塞優婆夷」と唱えて雀の子を奪い合っているのは誰なのだろう。
 不謹慎な話だが、夜の夜中、二丁目界隈できこしめし、勢いもあってもう一軒と、この境内を抜ける道すがら、木立ちの傍で小用を足したことがある。雨後のため石畳の面は洗われ燦いていたが、背中を気味の悪い冷風が疾り、両肩に何かの気配が重みとなってのしかかった。酔いもどこへやら、あわてて最後の店へと急いだ。濛気のたちこめる露地裏の店でそのことを喋ると、洗い物を始めていたバーのマダムが嫌な顔をした。その白い顔を後にしてタクシーに乗り込んだのだが、誰の句か知らねど「あきらめる心の底はむごい也」と詠む女の泣き声を耳にした。車から降りると重苦しさは離れてしまったけれど、置き忘れた霊が積み重なって東京中を駈け廻っていると書いた作家のことが思い起こされた。
 なぜ今さらそんな古いことにこだわっているのだろう。こわれやすい陶器のパイプから、この大きな聖遺物器の夕空に向けて白いあやふやな烟をたちのぼらせると、ふたたび繰り返される十年一日の夜のことを考えた。
 明治も後半の記事に「奥多摩郡といへばやや田舎めきて聞こゆめれど、内藤新宿のことを指すなり。……今より幾年の後には、東京の場末町ともなるべし」とあるが、街の風も老いたり、ここいらが限度だな、と呟いた。

(初出 詩誌『緑字生ズ』第3号、1984.6刊)

デリュージョン・ストリート 04 4 (師走の空というのは)

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 師走の空というのは、いかに晴れた日であっても、なにとはなく白々とした空虚さに満ちている。そればかりか、光の色あいすら妙に侘しく、寒風が吹き渡るというのに、ふっとこの土地を古い眠りに就かせるような気がする。
 尾張町という名の頃おい、そこの四辻から歩き始め、三十間堀を眺めやりながら三原橋を渡ると、その先に古い武家屋敷の海鼠なまこ壁がつづくのだが、時折その壁面に歌舞伎座やら映画館やらレストランなどの影が映るような気がした。そのまままっすぐ、築地川に架かる万年橋から築地御坊へ歩を進めると、山高帽とステッキ、パラソルと襞の多いドレスという扮装の外国人の男女と擦れ違った。冬だのにと思ったとき眼の隅に眩しい光が入ったので、後ろを振り返ると、見渡せるかぎりの建物という建物の壁が白く照り輝いているのだった。それはもちろん、陽光を浴びたビルディングの姿なのだが、動きのとれぬ自動車や着ぶくれした人々でごった返す銀座四丁目は言うに及ばず、うずめられた運河の上で名前だけになってしまった橋まで、その白い光で隈なく蔽われてしまっていた。
 晴海通りを勝鬨橋へ下っていく道すがら、五千石の旗本屋敷が明治になって築地の梁山泊と呼ばれ、さらに後年、料亭へと生まれ変わる話を思い出した。インドの大伽藍を髣髴させる西本願寺にしても、江戸海辺坊舎、浜町御坊、築地御坊とその名称と姿を変えている。建物の転生など聞くべくもないが、いっそ魂の形態ということに譬うれば、転生というのではなく、何ごとも済んでしまって取り返しがつかぬだけのことだ。取り返しのつかぬことへの哀切だけが魂というものの形なのかもしれない。
 ところで、このあたりを訪れたのは一パイの河豚にありつこうと思ったからだ。目当ての店は込み合うので、白子が品切れにならぬうちにと早くから出て来たのである。古来、河豚を食すことは禁じられ、ようやく昭和十六年に解禁されたというが、「河豚食へば鬼も仏もなかりけり」というわけで、下関からブリキ罐で送られてくるのを明治の頃には汁や鍋にしていたようだ。江戸時代にも雪輸の河豚とあり、いっそうこの季節に似つかわしい。
 波除稲荷の前を抜けて魚河岸に入ると、あまりに森閑として日中のこととは思えない。小鰭の青い肌は朝の感じがするとは生きのよさをいうものだが、この一帯では昼は夜なのだ。白い光の中の眠り、この違和感のためか、なにやら存在があやふやになっているような気がした。汐留川の向こうの景色、つまり御浜御殿、延遼館、浜離宮へと変わりゆくものの景観さえこの危うげな翳りを帯びているように見えなくもない。いつのまにか、「夢の破片は泣く」「世界の涯が自分の夢の中にしかないことを知っていたのだ」と言い残した二人の詩人の顔を思い出していた。そして、孤独になればどこにいても何をしていても同じことだと思った。三日肉食せざれば骨皆離るというのは魚肉のことだが、三日夢を見ざれば魂は離れていってしまうのだろうか。たしかに、死んでしまった方が見事だと思わるるときに死ぬる人もある。
「ハイヨハイヨと鯛が通る、ヨツシヨヨツシヨと鮪が通る、御免御免と蛸が通る。こゝの往来は右も左もない。海の中でゐつけたやうに、鮪でも鯛でものさばつてゐる。たゞ人間ばかりが、細い路を前と後とで押合つてゐる」これは築地に移転する前の、日本橋の方の殷賑ぶりを綴った記事なのである。
 さて、海中より出現したといわれる波除稲荷の御神体と、浦島の夢を啖う竜宮城とは、何か繋がりでもあるのだろうか。

(初出 詩誌『緑字生ズ』第4号、1984.12刊)

デリュージョン・ストリート 05 エメラルド

エメラルド

 くすんだ緑色の路面電車が軌道の継目で轍の音を響かせている。たれこめるような暗い空が広がり、その都市に大陸的といわれる渇きがなければ、おそらく陰湿な土地柄としか感じられぬであろう。明治の頃も、大正の頃も、その景観は変らなかったはずだ。『暗い流れ』という秀作を遺した小説家は、きっとそのようなことに触れたかったに違いない。けれども、その都市を離れて以来、彼は北の国の渇きからも離れてしまったのだろうか。
「望郷は珠の如きものだ」ある詩人の、この名高い一文で始まる文章をその都市に向かう列車の中で読んでいたとき、車窓から見はるかす雪の原野がことさら愛おしいものに感じられた。子供時分から、雪は嫌いだと思いつづけていた気持が、わずかに揺れ動いたのだ。満員の車輛では、ひどく泥臭い土地の言葉が熱気のように渦を巻いた。いつの頃か、プラットホームに寂しく笑う少女がいたが、乱れた髪が粉雪にかすんでしまうと、永遠に見失っていた。
 そのことを思い出しながら、駅頭からふたたびその都市を眺めやると、路面電車の姿はどこにも見当たらず、間の抜けた道路を中心に留めたつまらない街が雪に埋もれているばかりだった。煉瓦造りの旧庁舎が保存されている方の道へ迂回してその都市を南北に仕切る公園に辿り着くと、凍りついたベンチに腰を落とし、かじかむ指をなだめてパイプに火を入れてみた。そして、いつからか時間が滞っているように感じていた。
 肉体の時間は、こうした哀しい都市とともに確実に推移している。しかし、それが生きている時間のはずはない。ただの生物学的な個体の推移にすぎぬはずだ。人は、もっと別の、数限りのない妄想の世界を編み出すことができる。〈地球の夢〉が数十億の異なる現実を同時に存在させるように。そこまで考えて、夢は現実にもうひとつの現実であり、より多くの現実である、とひとりごちた。

(初出 詩誌『詩学』第39巻第2号、1984.2刊)

デリュージョン・ストリート 06 祝祭という詩篇――加藤郁乎頌

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祝祭という詩篇――加藤郁乎頌

 祝祭の季節が移ろっていったためか、生きかつ死ぬでもない半ちくで妙ちきりんな世の中と相成った。そしてその頃から、時代の悪い風が吹き始めた。街の中には夜であるべきときですら何やら人工的な光が鉱物じみた粉片となって漂い、宙宇にはまた、罅割れた無数の透明な球が浮かんではゆらめき、ぱちんと音たてて弾けていた。石鹸玉のような物体オブジェばかりだと、口をへの字に曲げてみた。
  シャムペイン伯より一荷、反時代の矜り
  出会ひとは今を命日とする塒だらうか
  野巫やぶの外では神が球根をおきかへてゐる
“EKTOPLASMA”の句が凛として清々しいのは、何よりこの句の姿勢が超然としてこの地上を跨ぎ越えているからである。
 ところで当時、そのことと関連してだったか、純粋思考ということを考えていた。それは永続的な否定思考の向うに生み出される無限の増殖性ということである。――物質という存在が存在の一形式にすぎず、その形式を充たすべく凝縮された時間によって造形されたにすぎぬものならば、地球とその周辺はいかな実質でもありえない。換言するに、瑣末な発明品でしかない時間の法制化におもねて、失われた宇宙領を奪回せんと謀る、ここの衰えた神によって鎖された実験場にすぎぬというわけだ。だが、ここには時間が存在せりという与件だけを応分の神聖儀礼にしたとしても、多神的な厖大な数の宇宙領がすでにここここの作法に従って交錯している。思考すべき存在はなべてそれぞれの宇宙領の露頭であり、ここの側から見ればそれぞれの宇宙の代表的存在であり、地球的実験への介入であるやも知れぬ。だから、地上的存在としての神聖儀礼、つまり肉から解放されれば、それぞれの宇宙領へ帰還することになるのだが、そのときいささか混濁が生ずるようである。思考とは無限の否定という姿勢である。混濁とは、帰属せるとか収斂さることに対する直観的な戸惑いを惹き起こす思考に他ならない。純粋思考とはこれを突き抜けることによって到達できるものであり、それ自体思考的実体であり、ここで改めて己れの帰属すべき宇宙領とその全体性をさえ否定しつづけ、ついにはまったき別箇の宇宙として自らを生み出していくのである。純粋思考とは窮極の次元の存在であり、宇宙的次元ではその根本原因であり、この非和解的、永遠の否定運動が存在と宇宙の無限の自己増殖を誘きだすわけだ。――

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デリュージョン・ストリート 07 (妄想ノート) 序 妄想ヲ生ズ

序 妄想ヲ生ズ

彼ハマズ世界ニ対シテ復讐ヲ敢行ス。ソレハ己レノ存在ヘノ断罪デアル。
彼ハ親兄弟ヲ殺戮ス。ソレハ身体ヲ流レル血ノ贖罪ナリ。
彼ハ偶然ヲ誅殺ス。ソレハ必然ヲ屠ルコトヲ使命トス。
彼ハ世界ノ歴史ト一心同体デアル。
彼ハ世界ノアリウベキ姿ヲ無ノ淵ニ陥レル。
彼ハマズソノ性無垢ナルヲモッテ、無垢ナルモノト交感ス。
彼ハ表面上努メテ凡ナルヲモッテ、行動ノ非凡ヲ成就ス。
無垢トハアリアベキモノデアッテ、神秘ノ側ノモノデアル。
彼トハイッタイ何者カ。

世界ハ単純ナ錯誤ニヨッテ存在スル。
悲哀ノ根ハソモソモノ初源デアル。
世界ハ悲哀ノタメニアリ、悲哀ニスギナイ。
悲哀ハナニモノニモ捉ワレヌ点ニ起因スル。
サスレバ初源ハ錯誤デアル。
ツマリ初源ハ存在シナイ。
存在セヌモノハ夢デモアリエナイ。
デハ、世界ハソモアリエナイノデアル。

ワガ声ハ、ワガ腕ハ、幻ホドニモアリエヌノデアル。
デハ、我ラハ何者デアロウカ。
ワレラハアリエヌモノヲ見ウベキ不可能デアル。
不可能ハ存在シナイ。
ワレラハ現ニ存在シナイ。
マシテ、ワレラノ頭脳ソノモノトイエル絶対ハ
夢想ノ夢想トイウ無意味ナルベキモノ。

世界ハアリエモセヌモノノ想像力ニヨッテ成立スルトイウ無意味サ!

千年ノ悲哀ト孤独トハ、
世界ソノモノガ夢想デアリ、
ソレヲ夢見ルモノモ夢想デアリ、
夢想ノ永劫循環トイウ存在ノ無効性ニアル。

無効トハ失楽、ツマリナニモノモアリエタコトハナイ。

(初出 詩誌『緑字生ズ』創刊号、1983.7刊)

デリュージョン・ストリート 08 (妄想ノート) 妄想宣言

妄想宣言

我らの時代はあまりに遠くへ押しやられてしまっている。
我らの時代は永遠に来ぬのではないかという直立的な諦観から始めるべきではないのか。
時代そのものを断ち切ったときこそ我らは我らの愛するものの側についたというべきではないのか。
それはある種の狂気の産物、妄想の全体に相渉ることになるのではないか。
少なくとも近しい至玉は逝ってしまっている。
我らは百年と千年の計をもって、つまりは歴史の時間と肉体を完膚なきまでに我らと切り離した場所から我らの結託すべき詩という全体に結びつくべきではないのか。
もうすべてを無視してもかまわないのではないか。
もともと我らは我らの方法においてしか、詩を、文化を愛することのできぬ場所にいたのである。
我らが書くことの現実は、それこそ現実と呼ぶことを拒絶する高みと、おおそれこそ妄想の高みにしか存在せぬものであろう。
軟弱な土壌は壊滅するであろう。
世界は軟弱な土壌そのものである。
我らの現実はそれこそあまりに空想的な、世のすべてから忌み嫌われる際限のない空虚にある。
君らとは無関係であると一言いって、我らは我らの唯一なしうる仕事に精を出せばよい。
よしや、それが数億年の先であろうと、我らは尻を割らぬ覚悟だけで、死は死ぬことだけであるような、純粋な妄想の宇宙に飛び出してゆけばよい。
我らは絶対零度と絶対の燃焼を唯一可能にできるものである。
文化というものは何をなしているかということでしかない。
人は死に、人は生れ、星の屑にも満たないただの瓦礫にすぎない。
また文化とはいわゆる存在証明でもない。
ただ、あることの覚悟にすぎない。
それは証明もされない、それは何ものかの完成でもない、それは己れを極限に合わせることである。
それが何ものかであるとすれば、どれだけの極限を見やっているか、そのことによってその不合理を相手にどれだけ喧嘩ができるかにかかるという、己れだけの問題であろう。
すでに世界はない。
すでに時代はない。
すでに永遠に未来は、よくいわれるような形ではありえない。
我らは宣言すべきか。
いますべてとは無縁である。
無縁でないものこそ存在しない、と。
我らは、書くという、何ものとも無縁で、無意味で、無価値で、ただかくあらざるしかありえぬという方法性だけで己れを律するという、覚悟だけをもつものである、と。

(初出 詩誌『緑字生ズ』第2号、1983.12刊)

デリュージョン・ストリート 09 (妄想ノート) 妄想ノート

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妄想ノート

〈人の海〉の中での真正の孤独/
たしかに実在的現実が死んでいる空間に感じられる。だが、現実とのバランスの力が圧倒している間は大丈夫/
二十代初めの神秘体験は、望んでそのような、死んでいる、つまり接触不可能の世界を招来せしめようとして、ついにはそれがそれ自体で実在的現実を圧倒して存在していたような形跡もある。〈妄想の発現〉/
妄想は共同社会に認知されると妄想ではなくなる/
妄想は構築力を持つ。表現ではない、つまり交通形態を持たない。〈連想法による言語の自働性〉コンピューターを使用した無意味連想法の場合、あらかじめ意味伝達機能の定められているコンピューター言語にランダム関数という反意味的有意味性が装置されるだけで、意味伝達の遮断という意味性を目的として機能し、アウトプットされたものは構築力を持たない、意味性の死骸としてのパーツの羅列となるにすぎない。これに反して作品言語は初めから通用性を持つ必要はないから、連想法という初歩的手段でも、生きた無意味性とでもいうべきある程度の構築力のベクトルを示す。そしてそれは一箇の人間存在が世界を相手に妄想して取り込んでいる内世界と妄想的自己との関係から構築されるものであって、現実つまり外的な世界という先験性、肉体的な自然という絶対性とは無関係である。あらゆる飛躍が可能なのは、この妄想建築の場面である。だが、これが共同社会で認められれば、妄想はたちどころに崩壊し色褪せてしまう。つまり、現実的な意味が生じたときに、飛躍は飛躍でなくなり、ただのあたりまえの停滞になる/
〈時間の超越〉時間が光の直進性によってその絶対性を保証されるならば、光は別の光の集合による偏倚を受けて、終局的にはつねに渦状の滞りでしかない。またその渦を形成する光を直線的に捉え、その内部でしか方向感覚を持たぬならば、光を辿るという無限の堂々めぐりをすることになる。空間が時間の対語ではないという場合においてのみ空間という語を用いるならば全体性は時間を超越できるだろう。つまり光を軸とする幾何学、物理学とは無縁に、光の迂遠性を星屑のありように置き換えられる〈眼〉を持つことの可能性。宇宙膨張説は光の迂遠性を光の内側から見ることによる渦状の限定性ということ。光を横切ることが空間の全体把握になるということ。そうすると、たしかに宇宙は無辺である。その理由として、無限にさせるべき光の内側の論理をも抱え込んでいるとの謂。捩れが及んでいるのは全体ではなく、光に照射された時間によって決定される宇宙だけであり、〈宇宙は空間的に無辺であるとしか妄想できない〉。ここで我々は、光がもっとも遅滞していて触れることさえできる〈物質〉が宇宙のありようと無限の近似値をもち、普遍というものが超越的な思考のうちにしかないという背反を、それぞれ同時に充たすことができる。〈物質は幻惑〉〈デペイズマン〉。妄想は茫漠としながら拡散し、三角測量法。文学とはこのもっとも自由な妄想の反現実。物質と世界との一致/

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デリュージョン・ストリート 10 (妄想ノート) 妄想分析

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妄想分析

 あれから数年後のある日の午前三時、寝床の中で夢うつつにして謎の天人五衰を妄想分析していた。/
聡子は権力構造そのものであり、透と狂女は肉体と精神、美と醜との両義的な一致、あくまでも透は転生の真物。これら六十年間の時の捷径が本多の夢想であること。肉体の美と精神の美とをともにもつのか、肉体の醜と精神の醜をともにもつのか、いずれともつかぬ不可思議の胎児、生きて誕生するのか死児となるのかのも不分明のまま、本多の夢想が予望として透と狂女の間に生んだ唯一の現実がこの書に存在していないがゆえに、確乎たる存在として、本多が、いや三島由紀夫がそれに賭けているもの。/
豊饒の海が本多の邯鄲夢であり、その本多を夢見るのが三島であるならば、肉の衣のその中に、人に知られることのないMarxismへの暗い、熱烈な情熱が。/
pathosの文学。外に現われることを極力押し止める密教的な匂い。自決さえ肉の衣であってみれば、自己顕示などの下司の勘ぐりどこ吹く風、disguiseされた反面教師としての暗鬱たる情熱に支えられていたことは……。/
それこそ永生する人民、愚昧で醜悪である人民と、それゆえの彼らの革命的な情熱の至純さに、まるで対極的な存在、つまり透を注入し、革命という畸型児を現出せしめようとしたのではないか。自らの死が何ものをも動かさざることを、人民は愚かで醜く、世界は聡子のように傷つけられることもなく、すべてが夢想の譫言として片づけられることを了解しつつも、肉体に精神を注ぎ込む、あるいは精神に肉体の鎧を着さしめるという、三島由紀夫の最後の夢想を自死に託したのではないか。/
あの夢想する鼠の話という陳腐さこそ、三島の、左翼に対する唯一の願い。だが、左翼の現実こそ、永生の衣をかぶった不純さ、俗物性。三島は夢想の革命を、時間という腐った現実に転換したのであるか。彼は彼の偽装を賭して人民の美しき心を問うたのであるか。/
文学的な質の高さからは春の海がもっとも優れ、作品の力という意味では天人五衰が傑出している。そして三島由紀夫の偽装の極みが奔馬の勲である。だから、三島の本質的な偽装としての勲は革命的であり、そこに肉体に対する決意が、自決に至る人生が決定づけられたのではないか。暁の寺は韜晦であって、この部分には何の愛着も抱いていないようにもみえる。/

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デリュージョン・ストリート 11 (妄想ノート) 妄想の破片

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妄想の破片

〈魂の形態〉勾玉、渦、光の渦。頭部の形プラス尻尾という構成。首から下の肉体は尾部の発達したもの、末端。光の渦は無を中心に持つエネルギーの形、ブラックホール。渦の動的な姿を示す尻尾、精子。卵子は受け容れる器。精子というエネルギーが卵子という器の中で充実し、外枠を押し広げて成長する。/
宇宙の卵殻の中で散在している光の渦が、受胎空間の中を移動する。一箇の光の渦が閉じられた宇宙であることから、この移動は〈横切る〉という飛躍。/
人間の形は女性的だが、繋がるべき生命力の形は男性的……。/
〈生命装置〉のradicalな発現は、(1)生命の実現、つまり細胞レベルでの分裂・増殖の正のベクトル、(2)生命活動の抑制という負のベクトルに代表される。生命活動とはこの正-負の機能を同時に支えることに他ならない。生命遺伝子〈オンコジン〉。生命の正-負の機能の原因として、この物質が装置されている。/
〈ガンという疾病〉は生体に異物を対峙させるという、(2)の一方法。オンコジンは、発ガン因子(イニシエーター)をガン化の記憶を呼びさますものとして、発ガン促進因子(プロモーター)をその記憶の連続性を保証するものとして、日常的に用意し、これをコントロールする。/
ガン自体は純粋に異細胞の〈生命活動〉であり、宿主細胞は異細胞の側から見る限り、エネルギー源としての生体の維持に不可欠の要件である。だが、〈ガン細胞〉の自己目的はガン細胞自身の構築性にあるわけではなく、負のベクトルに対する生命活動の正方向という抑制を解放することにあるので、宿主細胞の維持は過渡的なものである(初期ガン以前の段階、ガン細胞の数が数十万箇に達して疾病として活性化するまでは、逆に相互の維持作用が必要であること。異細胞の存在がγインターフェロンなどの免疫物質の誘起によって、活性化に至らない疾病因を排除すること)。/
この過渡性、オンコジンの正-負の領界における指令の傾きに関与する自然年齢。ガンの疾病化の始まりを示す中心帯。近代までの生命時間、五十前後と対応。/

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デリュージョン・ストリート 12 曰く

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曰く

 情況とか状況論ということがいわれていたのはついこの間だったような気がするが、いつのまにかそのようなことどもは影を潜め、近頃ではいろいろのことが相対化されているようで、それに伴って現実というものが宙に浮き、その意味あいも下落しているらしい。いっそこのような現実を指して状況的現実と呼ぶのも一興かもしれぬ。なぜなら、この現実とは、すぐ影を潜めるような状況性であるらしいからだ。
 その状況的現実の中で、情報という問題は最もホットなものとされる。そういえば、この十数年来のソ連情報に関する工作の成功は瞠目すべきものである。またそのような伏線に沿って、大韓航空機事件、アキノ暗殺、ラングーン事件などを眺めると、このアジアでの生々しい動きがはたしてロスアンゼルス・オリンピックに繋がるものかどうかは知らねど、なにやら筋の通ったシナリオが浮かぶのは当方のうがちすぎか。
 ところでそのオリンピック、高邁なスポーツ精神、世界平和などというのは赤児の寝言にしても、現代世界のチャンプであるアメリカがその総力を集めたにしてはなんともチャチで子供騙しの感は否めない。成金趣味は致しかたないが、飛行船、人間ジェット、聖火ランナーの茶番劇、点火の際のくだらぬ仕掛、大統領の大根役者ぶり……、開会式を見てさえ、どこに今世紀最大の国家の力と知性があるというのか。このところ過激になってきている謀略の仕掛人たちの粗雑なプランと同じで、底の割れるような浅薄さである。
 その様子が衛星中継で日本に同時に伝えられるのだが、TVの箱の中だけの熱狂というわけで妙に白々しい。TVから伝わるものは感動やら昂奮を強制するのだが、そんな手に簡単に乗るものではない。近頃流行はやっている演出技法に、この強制、つまり無理矢理にブームを拵えるというものがあり、これが成功しているといってはまた強制する。もちろん流行などというものばかりでなく、政策的見地から意図的に優先させられる情報というのもあるのだが、TVの箱の中の存在はそのような情報と交接しているがゆえに、いつのまにか世界の中心が箱の中にあると本気で錯覚しているらしいのも愛嬌というものだ。
 もともと文化というものが現象といわれる形で切り取られるとき、そのような性質を発揮するようだが、このところの文化の状況的現実でさえ情報の力というものに支えられているように思われる。いわゆるマスメディアである。

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デリュージョン・ストリート 13 かぎりのないはじまり――土方巽をかさねて

かぎりのないはじまり――土方巽をかさねて

 あの人が見ておきたかったものとは何か。
 それは、臨終させるといった光そのものではないのか。光の後につづくものではない、光そのものの始源。つまり存在という、あらゆるものを払拭し、ただそのものでしかないという根源。形はいい、声もいい、強さもいい。ただ眠ること、ただ眠りながら戦うこと。それが恒常的に存在の始まりなのだから。
 物質で何ができたって、ただそれだけのことだ。神秘が現れたってただそれだけのことだ。次元が違うんだ、永遠という奴は。おお、永劫の戦闘。誕生だけの無限。
 福原哲郎の踊りにはそれがある。だからこそ、肉に素直なのだ。心を通して存在を慈しむのだ。足が踊る。一流の舞踊手はまず足で踊る。刃物のような曲線を歩く。足は埋もれてゆくためにも、飛び立つためにもある。もうそれはどちらでもいいことなのだ。それからその手、その腕。屈曲するときは光をいとおしみ、きりきりと伸びるときは光を手繰り、生み落とす。福原は動かない。もう踊るということは地上的な動と静とも無縁になってしまっている。もうつながる必要のない、断乎たる佇立、魂そのものの現前。
 あの人がつなぎとめたかったのはそのことなのではないか。だが、それはつなぎとめられぬからこそ深い哀愁の色あいを保ちつづける。あの、蒼白な自由。そしてそれは光を帯びる。光が発揮される。光は、物質は、精神は、いつでもどうとでもなってしまうものだ。たいしたことではないのかもしれない、この宇宙と同じように。
 このようなことは非現実を現実にかかわらせることの現実的な突出であるが、心が肉の世界につながるものであれば、これもまたそれだけのことだ。問題は自ら誕生できるかどうかということであるのかもしれない。創造力と戦意が思考という卵の滋養であるように。

(初出 福原哲郎舞踏会「内観が外の山I」パンフレット、1988.1)

デリュージョン・ストリート 14 夜が準備され、はじまりが……

夜が準備され、はじまりが……

 その夜、濃紺の夜空を背景に、金星と北極星の造りだす素晴らしい直線上に皓々と反り返った三日月が位置するのが見られた。冬のあまりに暗い路地に迷い込んでいた、ものを創るということが、ふたたび生じようとしていたために違いない。
 一九八八年一月二十三日、高い天井が抱く中空の不思議なアンバランスに支配された教会という聖遺物器の底で、福原は立つ。骨のはじまり、いや、塩そのもののはじまり。
 肉体は傾斜を生きていた、凍りついていた。しかし、傾くということはとどまることであるはずはない。とどまるようにみせて、明らかに重力という神託に向き直り、その源に匕首をつきつけているのだ。これは愛だ。あらゆることどもの無効を宣する超愛だ。
 この踊りはなまなかなものではない。それを心すべきだ。
 また、踊りであるとか踊りでないとか、その他、何ものであるとかないとかとはもう無縁のところにきてしまったのかもしれない。我々は、そのような場面に立ち会ってしまったのかもしれない。
 福原は眼のうからでもあるので、足を、腰を踊りながらも、右手を空間の距離を越えて差しのべ、時間というお喋りを黙らせてしまうような炯々たる双眸でこちらの向こうを見据えたきり、何ものかに踏み込む際の姿勢の傾きをゆるがせることもなく、永遠の、静かな戦いをつづけるのだった。
 そしてそれは囚われた何ものかの部分に辿りつくなどということではなく、かの人が生き死にをかけて突っ立つことを身を以て示した、ものを創り出すことの激しい自由、激しい苦しみ、激しい暗黒、激しい光の真っ只中に向かっていくということなのである。

(初出 福原哲郎パンフレット、1988)

デリュージョン・ストリート 15 ああうるはしい距離デスタンス

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ああうるはしい距離デスタンス

神谷俊美第四写真集『山海図』より
神谷俊美第四写真集『山海図』より

“山海図”とは中国上代の、十八巻に及ぶ大冊の祈祷書「山海経」の異称である。幾多の時代を経て編纂されたこの時間の書の彼方に、広袤とした自然と秘められた神々の物語が、炎の如くゆらめいている。これは亡霊なのだろうか。
 神谷氏の作品に触れてこの謎めいた濛気にとらわれるのは当然であった。軽薄な抒情に陥りがちな風景写真が、見事に、絵画に近い質を保ちながら、特異な時間の翳りを帯び妖艶な熱気を漂わせ、不思議な物語を囁いているからである。欝蒼とした樹々の奥から曳れる細く深い声のように、静謐にしてかつ激しいうねり、――あの鏡の王国に匿されたローマンス。
 光を領有するものに幸あれ。初めにあるべき言葉は光の息子たちの媾合から誕生するのだから。
 写真については門外漢に過ぎないので、技術の問題について述べることは控え、作品の問題として、つまり時間の問題に触れてみよう。神谷氏の写真が作品として眼前に示されている時、それは絵画とか詩篇とかのありように似ている。それ故、作品行為としてみると次のようなシェーマが考えられる。
 A、自然(被写体)とカメラ(レンズ→フィルム)
 B、カメラマンとカメラ
 C、現像・焼き付け等(推敲過程)
 ここで、自然とカメラマンとの関係は、肉の教養として前提でありながらも、それ故に行為の問題からは除外されるべきである。なぜなら、それは技術の問題と同様に、当人の事実に過ぎないからである。だから、除外することに依って一葉の写真は詩篇として語り掛けて呉れる。カメラマンとはそこでは契機の偶然性であり、自然は現実性を捨象した擬態として考えられる。Cは擬態としての自然を全体性へ向かうものとして擦る行為といえよう。さて、擬態としての自然が全体性、つまり形態をもつということは如何なることなのか。形態とは肉、すなわち物質である。物質とは、だが現実を意味しない。倒錯論法を使うわけではないが、現実とは物質の擬態である。少くとも現実という名称で呼ばれる空間に過ぎない。勿論要素ではあるが、それも見かけ上のことだ。あるいは時間を線に例えると、その線を垂直に切断した時の断面に過ぎない。物質とは、その線の方向に切り同時に垂直に切ったときに現れる何ものかである。換言すると、時間の全体が世界とともにその一点に凝縮され、そうすることに依って何ものかへと開かれるものである。だから物質とは逆からみると、現実の擬態としてその一部に含まれるかのようにみえながら、現実とは最も遠く、現実を拒み、拒むことに依って何ものかヘ向かうものである。この何ものかとは、目眩く作品宇宙のことである。そのような発想からさらに独断すれば、物質とは行為すなわち事件自体を自らの動詞・滋養として摂り、物質化してゆく。それ故、Aは時間の方向に沿った世界の切断であり、Bは垂直の切断であり、カメラマンはそれを同時に行う契機の偶然性であり、Cは事件を物質に取り込む作業と言えまいか。

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デリュージョン・ストリート 16 窗櫺譜そうれいふ  視線の造型――物質創造のドラマ

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窗櫺譜そうれいふ  視線の造型――物質創造のドラマ

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神谷俊美第六写真集『窗櫺譜』より

 ダイヤモンドの内部に囚われた処女を描いたのは、周知の如く、アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグである。この掌品“Le Diamant"を読むたぴに、時間と手間とをたっぷりとかけた豪華な料理を食するような喜びに浸ることになるのだが、それにもまして緻密に構成された同心円的構造という容器の完璧さに舌を捲かざるを得ない。女主人公サラがダイヤモンドという物質の至高性に至るまでの階程、つまり、螺旋階段、円形の踊り場、金庫室、プリズム型倉庫、抽斗、皮袋、空色の包装紙、拡大鏡へと収斂されてゆく内部への旅が、聖堂をはじめとする聖遺物器やスウェーデンボルグの人体宇宙説などに匹敵する入れ子構造の典型と見ることができるからである。その極限ともいうべき結晶体にサラが封ぜられようとする時、マンディアルグは「どちらが品物で、どちらが鑑定人あるいは保証人であるか」と眩惑の思いを曳している。「窗櫺譜」について感じたのも、このことである。
 ここには窓があまりにも多い。窓に関わりのない作品は一葉とてないと断じても差支えあるまい。もっともカメラ自体にレンズとかファインダーという窓が内蔵されている以上、驚くほどのことではないのかも知れない。人間の眼球からして硝子体や水晶体という光の窓がある。視神経を脳髄の窓、脳髄を精神の窓と考えることもできる。このように肉体の内部、肉体とカメラ、さらに美術館の窓……という窓の複雑な連なりが無限の入れ子構造として構成される時、どのような事件が生起するのだろうか。マンディアルグは「視線が壁面を貫くためには内側にいなければならない」という具合にダイヤモンドの光学現象を説明している。壁とは言うまでもなく作品行為である。では、作家は己れの視線をカメラの中に、連なる窓のそれぞれに封じなければならないのだろうか。
 この作品集のタイトルを直截に表現するような映画博物館の素敵な楕円の櫺子窓から覗く深い樹木、オーストリアギャラリーの薄紗のカーテンを透して見える公園、ウフィツー美術館の窓枠を強調した外形などはそのような内部から見た外部であり、窓が光を味方にしているために、外部から内部を窺うことができない。ここでは視線の逆行現象は起こらず、あくまでも水平に外に広がる同心円の波紋として存在している。では、アルベルティーナの建物内部の屈折した階段、向こうの窓、一階の扉とコンクリートの床などを収めた作品はどうなのだろう。まるで自分の脊髄を覗いたかのように、あるいは神経線維を映し出しているかのように思えないだろうか。ヴェネチア歴史美術館の作品では、扉近くの見事なレリーフを中心にして聖者の左手と像の全体の影が、脳髄の襞に現れる光と翳りとの危うい、暗示的な関係として見てとることができる。これらは、視線が視線を逆行し、肉体の内部に向かうために起きる、いわば入れ子構造の垂直の波動と考えられないだろうか。

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ある男の日記 (奇妙な断片 その一)

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(奇妙な断片 その一)
その夜、闇の中を歩く赤い顔の男を見てしまった。私はたしかに酔っていたのだが、その男は酔漢ではなく、ピエロでもない。いまから思うと、彼は受難者なのである。男は年老いた象のように濁った眼をうるませ、鼻のかわりに長い舌で瞼の下を舐めている。おそらく、舌が届かないので、想像上の〈眼〉を舐めているのだ。男は抽象的な〈眼〉を玩具のように口の中に入れたり出したりしている。掌の上で転がしたり、宙に浮かべたりもしている。これも、妄想行動なのだろう。それは、私にしても同じことだ。

彼(と私)は長い舌でその〈眼〉をねぶりながら、「ちえっ」と舌打ちした。光が失われた真っ黒な闇空に、青白い蛍光塗料が刷かれて「ちえっ」に相応する記号が現れる。もちろん、それは漢字でもなく、ひらがなでもなく、英語でも、アラビア語でもない。実体を伴わない概念の記号。そして、大音響とともにその記号自体が分解し、またたくうちに男も闇をも解体し、消去していく。(私は口をつぐむしかない。)

空でも反‐空でもない、何もないはずの場所に、いつのまにか取り残されていた別の男が(私が)赤い顔になって次のように呟く。
「子供のころから、わたしには白湯を飲む悪癖がある。なぜ悪癖かというと、電気ポットの中で煮えたぎった湯をアルミの細い注ぎ口からラッパ飲みするのだから。かなり熱い湯なのだが、かまわずごくりと口に含み、咽喉に流し込む。もちろん、舌と咽喉の粘膜が焼け爛れる。火傷した咽喉の粘膜が食道から奥に垂れ下がってくるのが分かる」

「その刺激と自傷からくる興奮に、わたしは麻痺するのだ。腸という筒でできた人間を、入口から串刺しにする感覚でもある。まさしく自虐行為なのだが、何度も繰り返すうちに湯の量と温度と頻度が増し、苦痛の増加とともに、それは快楽につながっていく。懸壅垂のどちんこから剥がれてぶら下がる粘膜を引きずり出したい欲求が昂じるが、さすがに危険なので躊躇する」

「自分自身でも、その苦しみの連鎖が終わらないことは承知しているにもかかわらず、やめることができない。白湯を体内に流し込むことに拘泥しているのだ。これは、犯罪意識に通じているのかもしれないし、常習性があるので麻薬にも通じているのかもしれない。おろかなことはなおさら断ちがたく、そう考えると後先のことも忘れていっそう回数が増えてしまう。自慰行為と同じことだ」

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現代詩論 悪魔の受感 慶應大学『文連新聞』, 1974

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悪魔の受感
  ――作品言語の夜に向けて
『文連新聞』第3号昭和49年4月6日付(発行/慶應大学文連常任委員会 1974.4.6)

「この解体を自分には関係ないことだとあざ笑える人たちは幸せだ。僕はその人たちとついに無縁だろう。もし僕が詩人なら君たちはもはや詩人ではない。もし君たちが詩人なら、僕はもはや詩人ではない。僕の存在が状況とふれあっているか、君たちの存在が、状況とふれあっているか、それはいずれ明らかになるだろう。」(『現代詩手帖』1968年4月号、中江俊夫「語は語、そのままで――『語彙集』」より)

 
 異様なもの、妖しげな気配、おそらく耐え難い戦慄、その奇怪な動向が、亀裂を帯び破砕寸前の現在を足場にして翔び上がろうとしている。爛熟という死、腐敗という多くの微細にわたる罅を拡げながら、卵の殻には、不吉な鳥、異様な生の足跡が刻まれる。卵自体においてはその内部に死と腐蝕とを抱え込むことによって可能なのであり、その外側に与えられるのは、異様なものの現出へ向ける予告なのである。現在はあらゆる過去の吹き溜まりでしかなく、ついには現在を超え得る何ものもない。現在はただ己れを到達点という、それだけで過去でしかないものに委ねることにより、連続的に終了しきっているのだ。終了の絶えまない持続、否、それは考え違いでさえある。終了の亡霊であるというべきか。またぐつぐつと汚濁に充つる腐敗であるとでも述べるべきか。だが、一切はこの死の現在自体の暗示するところのもののうちに孕まれてはいる。現在という殻には、不吉な鳥の足跡が印される。
 爛熟し、罅割れ状態の現在とは何にもましてこの異様なものへの予兆である。過去を包み込んだ現在の殻とは、過去の累積する死の排泄物でできあがったもののようである。それは、壁であるとか限界であるとかというよりも、ある関係の固定観念である。殻と卵の内容物との関係からいえば、殻の内部、楕円の球空間に己れの全体を決定されることのうちでだけ、内容物は殻に対してある関係を取り結ぶのであり、そこでは、殻を破って鳥になるということは死と同義の禁忌である。だから、のっぴきならぬ関係をもつ卵と殻に訪れるのは、タブーを犯すことによる破滅か、己れの死と腐敗を通じてもろともに解体し尽すかの、いずれかである。だが、そのいずれにおいても現在が、伝統的なるものという過去の殻で構成されている以上、内容物と殻に与えられた死の翳こそが暗示する、外側の、ある異様な、そら恐ろしいものが、最初にその表面に爪跡を残すのである。

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現代詩論 徴候としての現在〈上〉 『明治大学新聞』, 1973

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徴候としての現在〈上〉
  〈作品言語〉の夜に向けて
『明治大学新聞』第1309号昭和48年11月15日付(1973.11.15 写真も同紙掲載, 22歳当時)

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「ところで、現代が誕生の時代であり、新しい時期に至る移行の時代であるのを見ることは、別にむずかしくはない。精神は、これまでの自分の生存と考えの世界に別れをつげて、それを過去のなかに沈め去ろうとしており、自己を作り直そうと努めている。なるほど精神は安ろうこととてもなく、いつも前進する運動を続けてはいる。けれども、子供の場合、長く静かに栄養をとったあとで初めて息を吸うとき、それまではただ増して行くだけだった前進のあのゆるやかさが断たれる。つまり質的飛躍が行われる。そして今ここに子供が生まれてくる。それと同じで、自己を形成する精神も、おもむろに静かに新しい形態に向って成長して行く。自分のこれまでの世界という建物の小部分を、次から次へと解体する。だから世界が揺れ動くのは、個々のきぎしによってしか暗示されないのである。現存するものの中にはびこっている軽卒と退屈、未知のものに対する定かならぬ予感などは、何か別のものが近づいているという前ぶれである。全体の相(すがた)を変えなかったこのゆるやかな瓦解は、電光のように一挙に新しい世界像をそこに据える日の出によって、断ち切られる。」
(ヘーゲル『精神現象学』序論より、樫山欽四郎訳)

 
 現在が現在を生み出す、己れを生み出す現在はあらゆる旧知のもの、神話、権威そのものの全体性をまたたくまに解体させ、己れを生み出す。時代は如何なる切り口においてもその徴候を呈し、まさしく、時代の末期的徴候において連続的に生み出される現在を暗示する。あらゆる権威とそれに寄与すべき宿命をもたされた作風は、完成度の高い構築物として、その緻密さ、構成の統一をめざしてはいるが、それこそ「徴候」そのものとして己れを壮大な瓦解に導くものに他ならない。
 現代詩において、これらの建築物に充たされている「作品―情況」というものはそれのみによって、既に徴候である。その徴候が己れの未来との接点として現われるとき、それらの建物の群自体がそのことに正面きって向きあえないばかりか、そのことを葬り去ろうとしている現象は、逆に徴候を鮮明に浮かび上がらせる。それと同時に、建物自体は腐蝕・手抜き工事などという他愛ないものにではな<、己れがめざした堅牢なる整序によってこそ己れの解体を進めていく。だが、それらは依然として「兆し」である。「兆し」は幾度となく葬り去られることによって、あるいは補修されることによって隠蔽されはするが、次第に、あるいは急速にその規模を拡げ、他の幾つもの「兆し」と通じることによって、それらの応急の策には手の届かない決定的なものとなる。結果的には、それらに身を委ねようが委ねまいがおかまいなしに、それらは己れを展開する。時代がまさに洗浄するわけではあるが、少なくとも、現代詩の尖鋭を自負するならば、これらを導き出し、導き出すことによってあらゆる加速の渦として己れを投入することが詩人の己れに課する任ではないか。

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現代詩論 徴候としての現在〈下〉 『明治大学新聞』, 1973

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徴候としての現在〈下〉
  〈作品言語〉の夜に向けて
『明治大学新聞』第1310号昭和48年12月6日付(1973.12.6 写真は22歳当時)

「作品言語」の自律する行方はまがいものを総じてふるい落とし、己れの彼方へ急速に馳せていく。まがいものによってしか構成されていない現在は、だが、単に自己崩壊を決定づける徴候として示されている。これは、およそ作品―情況の自然過程ではある。まがいものは己れのもっとも親しき友であった「作品言語」の側から無残にも自滅することを要請され、まがいものの支配する情況は完璧に霧散する。この事態を目前にし、主体としての自己を思うばかりに「語」を塞ぐ蛆虫が、いの一番に血祭にあげられよう。詩人にとっての主体的必然とは「語」の本意からみれば己れを作品自体へ向かわせる、契機の現実性に過ぎない。「書きつぐ行為」とは、憑かれる状態から「語」の自己運動へ己れの主体的必然を架橋させ、その渦中に身を投入するほどの謂である。
 あらゆる作品史は「前史」である。というのは、詩人の側からの主体的必然という水準にしか至っていないために、作品の側からの主体的必然を超えて作品の彼方へ飛翔する「はじまり」以前の段階だからである。故に、「前史」につきものの、夾雑物の芥箱こそ「作品―情況」の現在の姿である。現実性とか、政治、思想との屑をはねのけて翔び立つであろう「作品」は、だが、そうした己れの一切の過去、屑に致命的復讐を、己れへの誕生の燔祭としてとり行うだろう。最も手酷くやられるのは、情況の大半をしめ保身を決め込んでいるぐうたらと、最後のあがきに終始している「詩と思想、生活」主義者である。流行の詩人などというものは、この中を暗躍して裏取引している時代錯誤者に過ぎない。深刻がって理論派ぶる者ほど救いようがないことを知ればよい。

 郷原宏が、現代詩手帖七二年十二月号に「誰がことばを失ったか」という文章を書いている。ここにおける「言語共同体」という、作品―情況の批判的視点は、堀川正美などによる「感受性」の問題を即物的に解釈・拡大したものと見做される。作品―情況はすでに「感受性」を詩人の感性から解き放ち、現実―詩人の関係から「ことば」―詩人における「受感」の問題へと転化していることを思い知ればよい。

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現代詩論 〈岐路・迷路〉 その1 『明治大学新聞』, 1974

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〈岐路・迷路〉 その1
  ――岡庭昇の「成熟の構造」へ向けて
『明治大学新聞』第1314号昭和49年4月4日付(1974.4.4 写真は22歳当時)

 異なるものが、激しく、夜の全体を打ち震わせ、睡眠の底に貼りつく、悪鬼の、溌剌とした瞳と交合するときに、あのただひとつの、妖気に閉ざされた入口を垣間見ることができる。そのとき、落雷が。まるで花吹雪に直立する狂気の一群とともに。その地帯に、一斉に埋葬され破裂しそうな病巣。それを同一の空洞に見たて無限の異質な空洞へ向かわせる屍。だがその迷路こそが夢をいいあてる。その夢とは何か。夜がまことにそうであるような、X線で透視するときに映る翳、余剰のものをまるで存在していないかの如く取り扱う紙面。だがそれは断面というよりは、ごく部分におけるあらわれである。この夜が包み込む、実在としての白昼。だから夜は記憶の外にある。夜は、異なもの、正常でないもの、関係の外にあるもの、現存でないもの、のうちに追いやられている。だが夜の風土からは、白昼、正常なるもの、現在は、すでに葬り去られている。夢はその儀式であり、すでに死んでしまったことを入口とする、つづきの回廊である。「語」はここでは、つづきの回廊を逝くもの、夜と交わり、そのうちに己れの異なることを使者として向かわしめるものである。「受感」とは、この夜の底にありながら夜と交わり、そのことによって「語」と交わることをいう。
「語」の暗示するところのものは、「語」自らが突き動かす向こうのものへのかかわりの構造である。向こうのものにとっては、それは、はねのけ逸脱すべき過去である。「受感」とは、そもそも「語」自らが、向こうのものへ己れを仮託し、自らを拭い切ることの地平に、己れをさらけ出すことの、「語」自らの未来への受容を意味する。
 換言するならば「A」という表徴のもつ、視覚性、音の高低、リズム、意味に到達する喩、価値を構成するサンタクス、それらをまず第一に、時間的・空間的に変容させることによって、「A」の現在からその表徴を一切消去する、そのことにおいて「A」の全体性に、代わりとしてあらわれる「欠如」の特異な空洞(それは、すでに「A」ではない、欠如としての「A」に、まるで「A」そのものであるかのように重ね合わせていく「A」の向こうのものへ至る磁場である。)をまず持つのである。この「欠如」の空洞「A」は、すでに「A」の現在とは異質の時間的・空間的構造を持ち、そのことによって「A」はもはや裸のままさらし者にされ、己れのうちに閉じこもり、閉じこもることによって、己れの未来に我が身を仮託し、「A」の現在をその空洞からひっくり返し、だから閉じこもりは空洞「A」へ拡がることになるという、この自己増殖の受容こそが、向こうのものとの関わりの始まりであって、この連続する不連続の時空こそが、「語」が「語」へ向かう根拠としての「語」の受感を示す。

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現代詩論 〈岐路・迷路〉 その2 『明治大学新聞』, 1974

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〈岐路・迷路〉 その2
  ――岡庭昇の「成熟の構造」へ向けて
『明治大学新聞』第1316号昭和49年4月26日付(1974.4.26 写真は22歳当時)

 光芒の旅程。だが死の群は全天を浮遊しつつ、ぼんやりとした明るみを死の風で焦がしつづけ、熱病の大陸に舞い降りてゆく。文字の並びは酸化を始めながら帰路を示し、尿のように噴き出る夢の数々は、帰路の輻輳としたあとどりに鏡を配置する。回帰するものの行手には、己れを映し出す鏡の迷路が現出し、己れの一切合財の絡み合いだけが循環している。だがその帰路を示すインデクスの向こうにまた、何のあらわれもない無というだけの、恐るべき迷路が存在している。上下左右前後方がまるきりに消失して――。そのインデクスのある地点こそ、岐路を示すものである。
 おびただしい架空。暦を抜け出すもの、脳髄を抜け出るもの、地図から抜け出るもの、地底より這い出るものの織りなす際限のない混濁とその景観。それらを命名するものは未だ存在しえず、歪んだ空のへりのひるがえされた向こうには、険しい棘の羅列がある。それは数億年の集積する眼の痕跡のようでもあり、報復の部族とでもいうべき、無数の不吉さ。
 語の本来は、この妖しき無の迷路のうちを彷徨する無の全体性のうちにある。あらゆる無規定と無為、あらゆる存在論と非在、始源と極限(リミット)、まるでそれらそのものを己れの肉質にしえているもの。語は、自体で逝くものである。それは回帰したり循環したりする余裕などはなく、狂乱的に己れの彼方へダイヴし、そのダイヴの彼方へさらにダイヴしつづける。
 夜の不規則な鼓動がほのめかす、ある瞬間的な断片の開示。それはおよそ想像を絶する無気力と凄絶な憎悪である。語は、規範的なもの、倫理的なもの、正義とか愛を己れの履歴から抹消してゆく。否、履歴をも、己れそのものをも抹消しつづけてゆく。語は、実のところ語のうちにも存在していない。語が語であるということはただの儀式に過ぎず、語の本姿とはその儀式の指示するところのものである。語が紙面にたち現われて、作家との受感という交わりを行うとき、それは作家への復讐を意味し、まず作家を己れのうちから消去する。語は書かれたもののうちにありながら、書かれたことを消去するという、不連続の連続という死の様相に充ちている。

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誘惑

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 そもそもベルの鳴り方からして妙だった。低い微かな音でありながら、目覚時計のように鋭く細い連続音なのである。
 大きな油虫が素晴しい速度で、濃緑の絨緞の対角線上を疾ってゆく。六畳の居室は机の上のライトを点けたきりなので薄暗く、エナメルのような硬い光を燦かせた虫が闇の中に残像を見せたまま吸われてゆくと、もう見つけることはできない。
 背筋に冷えた空気が貼りつくような気味悪さを覚えながら、幾度かの呼び出し音の後、受話器を取り上げてみた。
 優雅なアルトが、夜更の電話の非礼を丁重に詫びながら、ある集まりに招待する旨即刻来場を乞うと告げた。
 奇妙な性癖を持つ友人の名が二、三挙げられていたようだが、ぼんやりと油虫の消えた辺りに眼を凝らしながら不吉な予感に捉われていた。心配することはない、決して怪しい集まりではないと、電話の主が言っているかのような錯覚も覚えたが、不吉な想いは癒えなかった。というより、なおも昂進したのである。
 女の声が魂を揺する性質のものであったことも一因なのだが、なによりも電話という器械を介したはずの声が器械の匂いをいささかも感じさせぬばかりか、頭脳を痳痺させてしまうような、地の底かなにやらの別世界から唐突に躍り込んできたかのような気配を漲らせていたからである。
 その蠱惑的な声に酔いながら、集まりの場所が伝えられるまで、女の喋るにまかせていた。饒舌というよりも、軟質の声音で滑るようにゆっくりと語られていた。最後に目的地の住居表示が告げられる頃には、すっかりその女の声の魔力に犯されていた。行先の場所が所蔵の地図に載っていないのはすぐわかったが、なになんとか行けるだろうと考え、その招きに丁重に礼を返し、応ずることを附け加えると、体を羽毛で愛撫されるかのような妙に艶かしい笑い声を耳に残したまま電話は切れた。驚いたことに、最後の一言を除くと、電話の廻路を独占していたのは女の声ばかりであった。
 魂に得体の知れないものが注がれたように、長い余韻が闇の中に滞っていた。

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〈美術衝動: 文〉物質創造の大版画家・小口益一 (追悼)

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物質創造の大版画家・小口益一 (追悼)

版画家・小口益一氏, 2008

版画家・小口益一氏, 2008

 物質のありかをぢかに触れるなり

 小口益一は版画という方法を用いて、平面の転写にとどまらず、オブジェからオブジェ、つまり物質から物質への転写を用いて、物質の創造にかかわってきたようである。
 いうまでもなく、転写はDNAの複製による増殖・生体創造のみならず、量子宇宙論においては対称性に深く関与するものである。粒子と反粒子との対称的な物質創造にも等しく、宇宙は転写による対称的な物質創造・増殖・複雑化によって137億年の歴史にいたったともいえるかもしれない。
 小口益一はこれを創造のための技法として、物理的宇宙ばかりではなく、物質-反物質の分裂・増殖の構造を芸術的方法論として打ち立ててきたのである。

 2005年11月、小口益一「鳥の舞」展(小野画廊・京橋)で、リノリウムに転写された(連鎖する原版ともいうべき)「黒いかたち」(縦112センチ)の作品2点に出遭ったときの衝撃を、私は忘れることができない。やみくもに体の芯からじわじわと湧き上がるものがあり、それがついに涙となって溢れ出たのである。
 美術作品の前でのこのような経験は私にとって未曾有の出来事だった。それは、無数の点や線、宇宙情報とでもいえる記号で傷つけられた版面に、それこそ太い漆黒の帯が強い圧力で画面を捉え、それらのたしかな造形要素ばかりではなく、オブジェとしての作品全体が圧倒的な実質を現前させていたからである。
 そこには、小口益一という版画家いや造形家の生身の力の強さ、おそらくそれらのことをも超えた実在の衝撃力そのものがあったからなのだろう。そして、その作品には、それ以外どこにもないということ、つまり絶対的な独自性と自由があったのである。

 すでにこのシリーズは1968年にはスタートしていたようで、私への手紙のメモに、「昭和43年、彫刻作品集『黒いかたち』、石膏・ブロンズ・石膏レリーフ」とあり、それからすると、この版画はレリーフの転写、まさしく彫刻作品としての版画であるのかもしれない。

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飛翔する肉体(追悼)――演出家・只石善士に

飛翔する肉体(追悼)
  ――友であり、先輩である只石善士兄に捧ぐ

アンダーグラウンドとは肉体主義の時代そのものであった。
いいかえると、肉体主義の時代はアンダーグラウンドである。
なぜなら、あらゆる抑圧の底部に粉々に砕かれた肉体の粒が、おしつぶされたそれぞれの思いの破片が、牙を剥いて肉体のモナドとして起ち上がろうとしていたからである。
1970年前後、国家と権力、管理と抑圧、システムの強権がわれわれを暗黒の深層に閉じ込めようとしていた。わたしたちは地方の受験校を飛び出して、この首都の地下でそれぞれの戦いを始めていた。

絶対的な自由を求めて、あらゆる抑圧と闘う精神をもってシュールレアリストの謂であるとするならば――。
アングラ演劇の勇士・只石善士はそのことによってシュールレアリストである。
抑圧に対するに断乎たる暴力を忘れぬことで、只石善士はシュールレアリストである。
肉体主義をともに生き抜いたことで、只石善士はシュールレアリストである。
暴飲に暴飲を重ねて肉体の枠組みを飛び出したことでも、断乎たるシュールレアリストである。

晩年のある夜、ふたりで酔いつぶれたとき、突然、わたしの初期詩集の次の一節に触れ、「これだ!」と思ったと言ってくれた。

肉体は、訓練に重ねて、素粒子ほどに収縮し地球ほどに膨張しなければならない。そのためには、まず、肉体だけで空を翔ぶこと。

物理的に不可能だというなら、物理性こそ肉体の非現実性であるから、現実的に翔ばにゃならない。

そしてその後に、ある区切りがついたら日本中を車で放浪しながら死ぬまで暮らしていきたい、ともらしていたのが今またよみがえる。

けれども、人生は、思うだけですでに叶っていることがあるものだ。
只石善士は、徹底してアングラであることによって、自由を生きたに決まっている!

先の詩の最終節を掲げて、一つ上の愛すべき童顔の先輩に捧げたい。その飛翔の見事さに。

水を蹴って、
夜間飛行の
魔の呪文の半濁音が。ぱっぱっぱっ。


2011.10.3 只石善士兄没す
2011.10.4 追悼す

帯広の真宗大谷派帯広別院(北海道帯広市東3条南7-7 電話 0155-25-1122)に永代供養

[作成時期] 2011/10/04

(こわれゆくもののかたちシリーズ) さなぎ

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さなぎ

 なつやすみのはじまった日の朝。わたしは食事をすませると二階へあがり。窓をあけはなした勉強部屋でとじこもって。
 じいっと。
 そとは雲ひとつない青空、とうめいな空。つよい風のひとふきでこわれそうな。たけざいくのむしかごがゆれている。
 わたしは窓につられたかごのなかをのぞきこみ。ナイフでとがらせた十二本のいろえんぴつをとりかえ。
 めまぐるしく。こまかい線とびみょうないろあいで。しろい画用紙にえがいて。
 光にやけた竹かごには。病院うらのやさいばたけで採ってきたあおむしが。きいろいしみのある大根の葉といっしょに。
 はじめは大根のみどりの葉やあおみをおびた芹をつんできて。
 むしのえさにと。
 あげはちょうの幼虫はすぐに蛹化し。やさいくずはむしくいをのこして。みどりいろからひからびたいろになり。
 かごの底にくずおれ。
 スケッチが十枚をこえると。いびつなかたちのさなぎがむしかごの天井からぶらさがる。
 かっしょくの肌をさらして。

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(こわれゆくもののかたちシリーズ) 銀色の蝶

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銀色の蝶

 しろい捕虫網とむしかごをもって、裏山の中腹にさしかかり。わたしはたちどまり、下界をみおろして。
 すみをはいたくろい川がみなもをきらめかせてながれ。
 やまみちからはゆるやかに蛇行する川にそってつづく、うずら町の南北にながいすがたが。
 つみだし炭を満載した貨車が何十輛とつながり。牽引する機関車がもうもうとけむりをたなびかせ。家々のむこうからおいすがる、のどかな正午のサイレン。

 やまのうらがわに回り込むと。石切り場の跡が。わきに湧水がたまった小さな沼が。
 ここで銀色の蝶を見たといううわさが。
 銀色の鱗粉をもつ新種の蝶なのか。ひかりのかげんでみえるだけなのか。わたしには知ることなど。
 ぬまの向こうに広がる松林、したばえにはまだらもようの隈笹がみっせいして。ぬまの反対にまわりこもうとしたとき、ほとりに根を落とした木蔭にきみょうなものが突き出て。
 あおみがかったしろいほそながい穂が。
 根元は黒ずんだ赤い葉でつつまれ。落葉に寄生するきのこの一種だろうかとも。
 死人のゆびに見えて、ぶきみな。

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(こわれゆくもののかたちシリーズ)しもばしら

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しもばしら

 つめをあてているだけなのに。ビュランでけずる音がして。
 くうかんの層をさかいに、へだてられた二重窓のそとがわのガラスに。きみょうなもようが織られ、凍みついた結露が。
 外気との温度の差が葉の形を変化させるのではとおもわせ。
 アラベスクをつむぎだす葉の厚さが異なるだけでなく。気温の質のちがいが広葉樹の葉と針葉樹の葉との相違をしょうじさせるのでは。
 わたしは、おとなたちのまえで。
 さむさがひどいと、松の葉のようにとがるんですね、
 といって。みょうな顔をされたことを。
 いやな気がして。

 わたしはたてつけのわるい内側のガラス戸を引き開け。とげとげしい葉叢に指をおしあてて。
 ひんやりした感触がおとずれ、すぐにきりきりとつんざくような痛みが。いたみがしびれとなり、針のようにとがって。
 指とガラスとのあいだでふいにかたさが溶け。いたみをやわらかく包みこむように。ぬれたガラスの表面が指先にじかにかんじられ。
 冷気からもたらされるいたみはあっけなく遠のいて。
 わたしは窓ガラスにはりついた指にちからをこめ。霜のまくに円をえがこうと。
 霜のまくが指のうごきにおされて水になり。氷のもようをおかしてゆくのが。指のさきで。
 その円も、直径で五センチほどになると、ひろがりをとどめ。

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ある男の日記 (時間洗濯屋)

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(序詩)
弱虫め、唸りを咽喉に押し込んで
砂まじりの風が 皺の深い顔を痛めつける
この海から滲みでた潮の匂いが 切なく胸をかきむしる
吼えたければ吼えるがいい
夜の続きは長いのだから
体を切り刻む、愛と憎しみの不毛
焼け爛れた咽喉でさえ
夜の続きは果てもなく 距離の総和よ
弱虫め、褪色したツリガネソウめ
人生の距離に長短はない
人生の距離とは平面で測れない
遮断物など、ありふれた事柄

(ふと、振り返ってみると)その男の影がまとわりついている。しつこくまとわりつく。男の残した匂いが幻臭となっていつまでも追いかけ回す。そのとき、肩にのしかかる耐え難い寂寥感が。それは救済のひとつであるのかもしれない。
彼が知りえているのはその感覚なのだ。現実という悪夢が繰り返される。首吊り自殺の公園、夜の樹木が。ロープを結わえた亡霊たち。彼らは反復を強いられるのだ。箪笥のフックやドアノブ。庭園の立ち木、その枝。鉄柵や格子窓。地下室と監獄。彼らは反復し循環し、消滅の恐怖を目前にする。ここから踏み出すためには狂気と決断が必要だというのに。

彼は吼えつけられるのには耐えられない、弱虫のひとりだ。しかし、銀杏の実は魔女の軟膏なのだ。性を唆すその匂いが媚薬となって彼を鼓舞するのだから。

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不眠の森――「dance obscura(仮)」へ

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不眠の森――「dance obscura(仮)」の一章に用意された散文詩

 その森に迷い込んだときに、ある種の体系に毒された執拗な夢が送られてきた。それは、攻撃といってもいいかもしれない。その夢は、たしかに脳髄と神経システムの根幹を支配するDNA生命体がつくりだしたものである。

 飛膜のある翼を広げた男は、すでに死んでいるという噂はあった。それが数千匹の中の一匹なのか、森に住む数千匹の動物が一匹なのかは定かではない。
 数カ月前には、蝙蝠は死んでいるという予感もしていたが、確証を得る方法がなかったので、あてにならない郵便物や電話などを繰り返し送っていたのだが、やはりさまざまの不通の証拠が示されたに過ぎなかった。
 ダリあるいはサディと呼ばれるそのオオコウモリは、突然夜中にやってきて、どのような事情なのか、死亡日時も明かさずに、画家の名にちなんだ非日常的な音のない声を鳴らしていたのだ。もちろん、ばらまいていたのはそればかりでない。夢を作り出す夢の細胞とか、夢の核心である夢のDNAといったものなどである。死と死にまつわる闘いの秘密にも触れながら。

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棘の海――「dance obscura(仮)」へ

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棘の海――「dance obscura(仮)」の一章に用意された散文詩

 わたしがその兆候に気づいたのは、東南アジアの古い都市の旅から帰り着いてすぐのことだった。眠りから目覚めると、後頭部に何かしらの違和感を感じたのだ。簡単な打撲だと思ったのだけれど、嫌な気がしたのも確かだった。内部に向かった棘、触るとぐにゃりとしていて。
――わたしが肉体のゆらめきなのか、意識のゆらめきなのか。そのどちらでもいいし、そのどちらでもないのかもしれないわ。
 棘ということばから、わたしはとある大腸ガンの顕微鏡映像を思い描くのだが、頭部の細胞はなおもわたしを深く攻撃する。

 あなたからの国際電話の数日後にクリニックに行き、何軒かの病院を回り、大学病院の脳外科で腫瘍があることが判明した。
――たしかに細胞は、細胞膜という皮膜とその内側の物質で作られた肉体の基本単位なのかもしれない。けれどもその内部は物質ではなく幻想という内容物なのかもしれないのよ。
 わたしのこの女性的な感覚とは異なって、あなたは肉体を単に生命装置の発現だと考えているのね。生命の実現つまり細胞レベルでの分裂・増殖の正のベクトル、そして生命活動の抑制という負のベクトルを持つ調整装置だと。

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