カテゴリー別アーカイブ: 散文

nerve fiber

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 太陽が毒をふり撒いていた。
 海岸道路に沿って建てられていたレストランの二階からは、光の小波さざなみが織りなす黄金の海がすべて見霽みはるかすことができた。白木造りのこの長細い建物の窓は、床から天井まで、海の光を全面的に受け容れていた。
 窓際の席につき、メニューを差し出すギャルソンの短く切り詰められた指先を見て、この男も汚濁にまみれたあの部分をその指で掻き回すのだろうかと妙に落ち着かぬ気持で考えていた。濃いコーヒーと紫色のソースの添えられた洋梨のムースを註文すると、海の輻輳する燦きの下に永遠に沈んでいるものという言葉が浮かんだ。
「あのヨットは飛魚ね」
 二人連れの女客の、若いほうの女の声が窓ガラスを切り裂くような鋭さで伝わってきた。たしかに小さなヨットの帆が光の小波の蠢きにつれて見え隠れする。その姿が舞い上がるものの性質を抱えているような気がしないでもない。
 晴れ渡った空は、その青い色彩の中に充満する陽光の発散する磁気のためか、あるいは水の中にひそむ光への憧憬しょうけいのせいか、躍動する黄金の色を帯びていた。
 年上の女の方が若い女の白い指を両の手の平で押し包み、それから歯を立てるのが見えた。若い女は袖なしの白いワンピースから伸びている腕を折り、テーブルに肘をつき、いささかなげやりで不安定な姿勢のまま相手に指をあずけている。つまり、躯全体の重心がわずか数ミリ年上の女の方にずれているだけなのだが、その傾きが危うい淫らさを構成しているに違いなかった。
 だが、官能というほど強い匂いは感じとれなかった。黄金色の光を吸い込んだ若い女の眸は、乾いた無感情とでもいうべき銀色の光沢を凍結させていた。
 こちらからは年上の女の横顔と襟の広い派手なカッターシャツの背中しか見えないが、その肩が小刻みに揺れているような気がした。だが、二人とも視線は海上のハレーションに漂わせているだけのようであった。女の揃った歯が硬質の磁器の無機質性を思い起こさせた。
「夏に入る前が見事ですね。光が溢れていて、その輝きが強過ぎもせず、弱いというでもなく、長いこと眺めていても疲れることがないのです」
 湯気の筋を揺らめかせたエスプレッソの入った白いカップを木目の浮きでたテーブルの上におきながら、中年のギャルソンが話しかけてきた。
「しかし、何というのですか、眠くなってしまうような、そう、麻薬に浸りきってしまうような、そんな気がする時があります」
「あなたはここに長くおられるのですか」
「ええ、生まれてこのかたというわけです」
 このレストランの、この窓から見えるロケーションの中に、というような意味で訊いたのだが、彼はこの海岸地方と彼自身の結びつきを人生の問題として答えたようである。香り高いコーヒーの濃密な味が神経を鋭く刺激していた。小さなカップに幾分かの悲鳴をあげさせながら、まだ話し足りなそうな男から海の光へと視線を戻した。
 だが、光は、ある種のうねりによって、脂ぎって、どろどろの救いのないような粘着性といったものに陥ってしまうような不安がないでもない。そして、そのとき、俺たちはこのコーヒーのような色の汚濁した血を吐くに違いないのだ。その証拠にこれがあるのだ。首からぶらさげたピルケースの中にしまわれたものを、明瞭に思い描いていた。
「心が溶けてしまうわ……」
 女たちの方から、溜息を伴ったかすかな呟きが伝わってきた。どちらの女が発した言葉なのか、判然としたわけではなかったが、海を眺めていた年下の女の顔が一瞬の無表情といったものに囚われていた様子から、その言葉がこちらに背を向けた女のものであると思われた。

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自由とは何か[001]

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 私は私の属しているものを知ることはできない。また、私が属しているとされるものも、私を知ることはない。さらに、私が私を属しているとするものを推測 することはできるが、ほんとうは知ることはできない。私がこれらを知ることができるとすれば、それはファシズムということであり、私自身の自由からも、あ らゆる存在の自由という問題からも遠く隔てられてしまったものについてである。

(話をどこから始めるか?)
 私はまずあなたに問いかける。あなたは私自身であるかもしれず、また私の隣のあなたであるかもしれない。また、私とはまるで無関係なあなたであるかもし れない。しかし、いずれにしても、私は問いかけるためにあなたを必要としている。だが、私が問いかける事柄はどこからやって来るものなのか。あるいは、い つやって来るのだろうか。そして、ほんとうに問いかける事柄があるのだろうか。けれども、来たるべきものはやはり来るのだという予感はある。しかし。

 そもそも、私は何を問いかけて、その問いかけがどのような意味を持つのかをいまだに知ることができない。何を考えようとしているのか、何を始めようというのか、私にはまだ何も見えていないのである。
 おそらく、私は何かの一部に問いかけているに違いない。その一部がどのようなものの一部なのかは永久に知ることはないだろうが、たしかに何かの一部分であるということに誤りはないだろう。私の考えはこうだ。私はあらゆる「部分」に侵襲されている。

 来たるべきものはたしかに「部分」のうちにあるのだろうし、あなたはその来たるべきものに違いない。しかし、来たるべきものは来ることはないし、いつも私の外側にあるものだ。
 また、それは無垢というものと関係があるのだろうか。私が無垢でなければあなたが無垢であろうし、あなたが無垢でなければ私が無垢であるということなの か。そもそも無垢であるということは許されざるものなのか。そして、そのことが侵襲される理由であるのか。それはこちらとあちら、私とあなたがひとつにな ることを拒むもの。

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自由とは何か[002]

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 あなたは私に属しているのか? 私がそのような疑問を抱いてから数日たった夜のことである。それは、私に属するはずの意識のひとつ、肉体の部位としては大動脈の腹部にある解離性の瘤と繋がっているもので、その大動脈瘤の持つ意識ともいえる。意識Aは次のような来歴を私に語り始めた。

 Aが自らを知りえたのは、大動脈に突発的に生じたときではなく、私がAの病理的な存在を認めざるをえなくなった時点であった。Aは最初、私の願望から、自らが一時的な存在で数カ月もすれば瘤としての形は失われるかもしれぬと考えていた。しかし、結局、瘤は閉鎖することはなく存続しつづけた。
「私は、物理的に大動脈に生じたときに誕生したのか、あるいはあなたが私の存在を信じたときに誕生したのか、私自身よく分からないところがある」

 またAは、A自身が血管内に生じた空洞としての物理性であるのか、空洞を造る血管が持つ特殊意識であるのか、あるいはその両者の統合体であるのか、はたまた医学の捏造なのか、私の信仰あるいは妄想であるのか、自分でも確かなことは分からないと繰り返した。
「だが、あなたは肉体を持っているのか?」私はAへの問いかけをこのような言葉で始めることにした。「あなたはAであるはずだから、Aの意識を持つ身体という統合的機能、あるいはある一つの機構としてたしかにある、、ということはいえるのだろうが、血管にできた瘤という、つまり空洞である以上、肉体を欠落させられているといえないだろうか」私はもうひとつの疑問、空洞という肉体はありえるのか、いや肉体はそもそも空洞を包み込んだもの、肉体の本質は空洞にあるのではないかという疑問は、ここでは差し控えることにした。
 Aは「私自身にとっては、肉体の欠落感というものは意識することはできないのだが、私という空洞の反対側、つまり二種類の血管膜のそれぞれの向こう側にあるものは、不可視であるとはいえ、隣接感は直観できる」と応じた。そして、ある重要な問題を提起した。
「その直観は、存在を予感することはできても、何ものをも見ることも、本質に到達することもできず、隣接する感覚はあっても、生起している現象に遭遇することはありえないといえるのではないか。血管の層をなす外膜と内膜の向こうにしか、私にとっては推測できる世界はありえないし、あなたにしたところで、またあなたの一切の問いかけにしても、私の推理でしかないということが、私の本質を決定づけているに違いない」
 大動脈の偽腔であるAの意識は私に以上のような問題を突きつけたのである。

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自由とは何か[003]

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 私から最も遠いところから、その痛みは伝わってきたのかもしれない。それとも、その距離は、痛み自体がもたらしているのかもしれない。支えるものが稀薄になれば、それだけ速さはいやましてくる。支えるものとその意識が私自身から離れていくときに、痛みの速度は直接的な物質性を私に示してくる。それは、まるで痛みがつねに隣接しているように、私そのものに侵襲してくる。べったりと貼りつき、その接触面から貫通してくるのである。

 ――わたしはわたしの中の生きものたちのことをつねに意識していて、ともすると、いくつかの別々のかたまりの形でわたしの方に寄り添ってくるのを感じることがあるの。それはまぎれもなく複数の、別々の意識の重なりとでもいえるし、もっと具体的な、透明な膜の向こうに蠢く生命活動の原初の連なりとでもいう実感がするのよ。
 女性の意識の中にある、母性を感じる特有のインスピレーションと関連しているのではなく、ひたすら愛おしいようななつかしいような匂いを伴いながら、自らを衝き動かさざるをえない、ある種、連動する他人たちの気配、ふるまい。
 でも、あなたの方に向かうときは、あなたのたったひとつの側面を頼りにただつながっているにすぎないのかもしれない。そして、そのようなわたしが、あなたにとってはわたしたちが、無数にその側面を埋めているに違いないのよ。わたしのこの疼きが一定の充足感を伴い、そのようにしてわたしの存在を示すことにつながっているのだわ。
 そうよ、わたしのこの欠落する意識が、あるいは充実する意識が、ときには痛みとなり、ときには痙攣となり、ときには甘い麻薬となって、あなたに浸透していく……。

 神経細胞のつらなりを流れる電気信号と痙攣。その痛みが細胞体の不安なのかもしれない。秒速百メートルにまで達する速度を持つ、その予期しない叛乱。再生できるのかできないのか。変性による死への予兆が神経線維の端から端まで伝播する。
 私を覚醒させた痙攣が示すものは、こうした肉体の叛乱とでもいいうるものなのかもしれない。それはこの場合、前駆的にふくらはぎの外側にある筋に硬質の痛みを現し、たとえそのとき眠りにあるとしても、痙攣の予感を持続させていく。
 私はその予感とそこから生まれる怯えによって、その意識、長い神経線維を伝播してくる長く、細い意識に、眠りを圧迫されつづける。

全面加筆訂正(2011.12.23)

自由とは何か[004]

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 ――わたしが囚われているのではないことを、あなたが示すことができるのだろうか、それともわたし自身が……。
 わたしを一方的に支配する意図はなくても、支配していることには変わりはないし、もちろんわたしを愛さねばならないという気持ちも、さらにわたしによってあなたが救済されるかもしれないという期待も感じられるわ。でも、それこそあなたの瞞着、傲慢さ、掴みどころのない循環。
 あなたの表層はときとして硬くわたしの内側に訪れる。また、いつのまにかやわらかく弛緩する。この硬直は支配を認めさせること、この溶融は憐れみと後悔――。けれども、わたしの満たされぬ時間の中では、どれがわたしとあなたとのつながりの本当の姿なのかを、わたしもあなたも見出すことはできない。
 わたしはわたしの内側から内側へという二重の外側へくるみだされ、その猥雑に絡んだ襞をたどり、さらにその底にある深い磁場へともぐり込んでいく。二重螺旋への下降、永遠の。そして、ここでまた問題にぶつかってしまう。けれども、それは何かを生み出すための二重性ということなのか、あるいは生み出されるわたし自身への下降ということなのか。いずれにしてもわたしから発している問題に遭遇しているということではなく、あなたが提示した答えに囚われているということになるのだわ。
 わたしはそのようなわたしをどのように抑圧すべきか、そうすることでこれから生み出すすべてを許すことができるかどうか、憎むことができるかどうか、またそのようなわたしがそれにもましてあなたを要請していることも、またあなたがわたしに期待するすべての事柄をわたしも期待していることにゆき当たってしまっている。あなたはわたしの内側をいっそう慈しみ、わたしはあなたへの期待を慈しむ。

 私は私の軟らかい部位に温かな吐息を感ずることで、ある種の熱狂を思い起こしていた。それは小波のように跡切れることのない繰り返しの感覚である。これまでにどのくらいの回数の訪れの感覚があったか、またこれからどのくらいの数の訪れを知るのだろうか。今、どのくらいの数の訪れを得ているのだろう。
 私はあなたの内側から私のこの感覚によって受け容れられているに違いないが、はたして私が受け容れているということをあなたは知っているのだろうか。

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自由とは何か[005]

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 それは、ある青みを帯びた灰色の夕刻。その灰色の濃霧の向こうに薄黄色の光芒が垣間見えるが、こちらの側は絶望の濃紺の帳に蔽われているだけだ。さらに時間はくつがえり、かすかな光も忘れ去られていくに違いない。
 私の底部の秘められた闇、稲光がたえず閃くように、抑えきれない衝動的な葛藤がつらぬく暗黒。そのような憤りを生み出すのが何によるかを知るものが、いったいどこにいるというのだろう。

 最初から存在する物質を想像することは不可能だ。そんなものはありえようがないからだ。けれども、生命の底部、その発生の向こうにあるものを知ることもないといえるのか。数億年の皮質の蓄積を経て、皮膜の底に沈澱したものは甦ることはないのだろうか。傷ついた中枢神経はすでに恢復は不可能だということなのか。あらゆる歴史は殺戮の連鎖に違いないとはいえ、いまだ拭い去ることのできない衝動が忘却という形で記憶されている。思い出すこともなく、忘れ去られることもなく、古い皮質は傷つけられたまま。
 知りえぬということの罪障、根深い疑い、想起するにいたらないための焦燥。つまり、古いもの、気の遠くなるような底部に、そもそもから用意されているはずの空虚というイメージに起因しているもの。だが、たしかに私自身がその意味するところの真実とその正体を知ることは不可能なのである。

 私が傷つけるはずのもの、私を傷つけるはずのもの、それらは私に対して何をもたらすものなのか、またそれゆえに私をどのように扱おうというのだろう。私はそれらの鋭い侵襲によってほんとうに傷つけられているのか、ほんとうに何ものかを傷つけているのか。
 それははたして、私の部位を、それぞれの精神を、無数にある意識自体を、さらにもっと古くからある傷を重ねて、それは醜い瘢痕となり、それぞれの表層に複雑な皺となって残される。もう、元には戻らない、戻ることはありえないのだ、と。
 そのとき私はめくるめくような暗い情熱に衝き動かされて、私の外部に牙を、矛先を向けざるをえなくなるのだ。それは、決して内部に振り下ろされる斧ではなく、外に向けられるべき一撃。振り下ろされつづける打撃。だが、暗く熱を帯びた暴力が突出するのは、その一瞬だけである。その後は冷酷な暴力の残渣が機構として無際限に繰り返されていく。深傷を負うのは私の表層であるが、すでに亀裂、破砕は全体へ及びはじめてしまっている。

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自由とは何か[006]

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 灰色の夕暮れの第二景。ふるえる心臓。このとき、つきぬけるような戦慄を、私はたしかに感じていた。だが、それは実現不能な範疇にある行為なのである。自らを放棄することで生起する衝動、自らを拒否することによってのみ可能な敵意、自らを犠牲的につらぬくつらなり全体の無化への企み、それはあまりにも無意味な行為の突出であるからだ。それゆえ、すでに行為ではなく、切り離された行為の断片なのである。
 しかし、その衝動の素片こそ、突出する暴力、暴力の突出とでも名づけうるものである。私は彼が、彼の皮膜を破裂させることで、私と私を通した連鎖の階梯すべてを自らの内部に閉じ込め、閉じ込めた内部の樹木として、自らとともに無化させようとするその無意味な意志を感じていたのである。

 宇宙にも皮膜はあるのだろうか。宇宙は何もないところから、つまり何もないところの高エネルギー状態から生成されたに違いない。なぜなら、そこから百三十七億年分の膨張エネルギーを奪ったのだから、それに引き合う分のエネルギーが何もないところの内部に凝縮していたということになる。そして、宇宙誕生のとき、何もないところにはエネルギー状態における境界があったのかどうか。もし皮膜があるとすれば、それはその境界の状態ということになる。そして、膨張しても、その境界が広がるだけで、やはり宇宙は境界の内部にとどまっているのでないか。つまり、永遠に宇宙は皮膜の中にある。皮膜の中にある宇宙モデル。外から見れば、やはり何もないところなのだ。

 世界は外についても、内についても、何も知ることはできない。世界は時間と空間の幾何学だから、時間の階層についても同じである。過去の時間も未来の時間もほんとうのことは知ることはできないし、現在についても同じかもしれない。生きているというのに、存在しているというのに、何も知ることのできないこの不条理。物理的宇宙は知性において、私を抑圧するものなのだ。そう考えたとき、暴力的な衝動が高まってくるのを私は感じていた。

 だが、世界が円環を結び、宇宙が閉じているかぎり、反世界も反宇宙も、ただ世界と宇宙に包囲されている人形にすぎない。はたしてそうなのか?
 私自身、世界によって抑圧されていることは間違いないし、同時に彼を抑圧していることもまぎれもない事実である。だが、だからといって抑圧を正当化することが可能なのか。あるいは可能だとして、何をもって可能であるといいうるのか。
 おそらくここに過誤の種子がひそんでいるのかもしれない。また、そのことがあがきを現前させている。二つに引き裂かれる意識、引き裂かれることによって増殖する意識、あがきがいたるところにあふれ返る。〈われわれ〉に自由はあるのか。

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自由とは何か[007]

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 地表すれすれで棲息しているのは私ばかりではない。蛇のように低い吐息を這わせているおまえたち、闇の匂いを蓄積させた路地の、地べたの種族――。
 おまえたちは蹲っているような沈潜の仕方で、地面に沿って平たくのびきってしまっている。実際、おまえたちはすべての存在と同様に個々の曲率に支配されて、それゆえに永遠の平面にまでのびきっているはずなのだ。

 むっくりと体を起こしているのは、やはり影の部分。その影の奥のつらなりの影の内部というものにその根はあるのだろう。根があるというよりも、その存在は裏返された形のままの空虚であるに違いない。影の中の影の部分も体をもたげ始めた。影のつらなりのすべてが、永遠の鏡像のすべてのつらなりが、同じ傾きをもったまま、ゆらゆらと体をもたげ始めている。
 私はおまえたちにとらえどころのない類縁性を感じている。それは、おまえたちのいずれかの特質に、かつて私の何かが関わっていたことがあるということなのだ。私は、すでに私ではない別の私の系譜を思い描いているのかもしれない。それとも、いまだその呪縛と密接に関わっているとでもいうのか。

 私は自分の生まれた場所を知らない。そのことと関係があるのかもしれない。地面への思い入れ、裸足で土に触れることのやすらぎ。根を下ろし、体を支える根拠がほしいのだ。そして、地べたにはたしかに母の匂いと父の匂いが相まって情緒的な風がそよいでいる。ただ、それだけだ。しかし、私は連鎖だということを思い知らされる。連鎖への懐かしさが甦るとはいったいどういうことだ。それはゲノムに対する降伏の白旗なのか。懐かしさは弱さなのか、それとも諦めなのか。ひとりでいることの寂しさ、地面に抱かれることの救いがたさ。なんという裏切り。

 おまえたちは私を呪縛する。しかし、私はその呪縛が私に属しているのか、私を属しているものに関係しているのかを知る術がない。懐かしい匂い、体の奥が引きずられるようないとおしさ、脂にまみれた感触、体をくるむ体毛の記憶、何も考えることのない安逸さ、身をゆだねることの持続――。
 おまえたちは答えない。答えることを退けているのではなく、答える必要のない持続があるばかりだ。私はただおまえたちを通して、呼びさまされる何かを感じている。それが何であるかは別にして。それはそれぞれの内部に根強くあるものではなく、表層のありように起源するものなのかもしれない。なぜなら、つらなる無限の鎖はそれぞれの磁場を形成し、それらの磁力によって影響しあっているはずだからだ。

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自由とは何か[008]

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 地面を引きずって徘徊するその意識は、決して地面に引きずられてはいないのだと叫ぶ。だが、天井からは継母の祝福されざる黒い血が滴り、屋根裏部屋の床一面には重力の破産を示す熔解した天体の落下の痕跡が見られる。痕跡は鉱物の形をとるのか、植物の姿となるのか、あるいは生々しい肉そのもの……。すでにこの世を後にした意識は、物質と物質との関係は、意識と物質、意識と意識の関係でもあるのだと言い残していた。その意識が向かったのは、向こうから押し寄せてくるものがとうてい看過することのできない反撥と激突とでもいうべき鋭い亀裂。

 意識Bは逃れること、逸脱することはできない。だが、本当にそうなのか? もちろん、BはB自身をつなぎとめておく。そうすると、BはB自身にとって誰なのか? BはB自身を押し潰そうとしている範囲に囚われているだけで、その一部、あるいは付属しているものではない。たしかにBは奴隷のような存在であることを強いられてはいるが、敵意を失っているわけではない。Bは堪えているに過ぎないのである。――何に?
 私はここで素朴な疑問に直面する。その薄い皮膜がどちらに属しているのかを、いったい誰が知っているのか――。

 ――まさに〈私〉が息を終えようとしているその刹那に、〈私〉を唆して飛び立たせようとするものがいるのだ。〈私〉は羽撃くものではないし、翼、鰭、跳躍に適う強い脚をもつものでもない。天使のように無残な光輪も、醜く硬直した幼児的な微笑も持たない。ただ、たしかに深い憎悪と鋭い敵意を抱きながら囚われつづけている、まさにその接触面にいるのである。〈私〉を解放しようするものが現れたとしても、〈私〉はその欺瞞と悪意を見破り、何ものに対しても完全な侮蔑と敵意を失うことはないだろう。〈私〉はあなたに対してさえも、またこうした自分自身の重複せざるをえない意識の連鎖に対してさえも、〈私〉を囚えているものに対する反抗と同質の〈反抗への意志〉を欠かすことはないだろう。

 意識Bは遠い宇宙の起源、物質の起源の記憶を持っているのだろうか。完全なる反撥とは対称性と関連している。粒子と反粒子は、どちらがどちらを生成させたのか、あるいはどちらが起源なのか。そこには電磁力というよりも重力の秘密があるようだ。空の状態から物質と反物質が生まれるということは、空の場からさらに二つの対称性を持つ場が生まれたということにならないか。空は消滅するが、重力はそれをこの二つの対称性に分かつと同時にその根元であるから、そもそも二つは重力によって惹きつけあうのだ。そして、いずれ、遠い距離と時間を経て元に回帰することが予測される。
 意識Bは孤立した反抗者だが、生成したのか分裂したのか、内包なのか外延なのか、いずれにしてもそこには徹底した反抗する分身が存在するようだ。

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自由とは何か[009]

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 皮膜などはたしてあるのか。BはB’に対して方向性を持っている、と仮定される。なぜならBとB’には互いに異なった磁力が存在しているからだ。BとB’の引力と斥力の混沌は極大に達しているかもしれない。そうだとすると、それは何に起因しているのか。
 異なった磁場を持つということは、皮膜の内部がキュリー点に達し、そのことによって、それぞれの磁力が崩壊してしまうということなのかもしれない。いずれにしても、方向性などはまるであてにならない。

 ――意識Bよ、〈私〉の内部にはおまえなどいたためしはないのだ。〈私〉はおまえとは無関係な領域におまえという非在を内包しているのだ。しかし、それは二つの意味で、おまえは〈私〉を絶対的なものとして捉えてしまっているということになる。つまり、〈私〉がおまえと無関係だという点においておまえは〈私〉に関係を強制しているということ、また非在を内包していると〈私〉にいわしめることで〈私〉の非在を明かしてしまっているということ。そのような混乱が増大すれば、元には戻らない。〈私〉はもはやおまえを認識さえしていないのかもしれない。相手のいない譫妄に陥っている〈私〉は、磁力に従っているというよりも、意識Bそのものに遷移しているといえるのだろう。意識B’を喪失したおまえそのもの、意識Bとして。

 皮膜は確かにあるのだ。BにおいてB’は隔てられたものだ。重力と磁力が溶融しているような状態ではすべてが見えなくなってしまうように、皮膜のあちらとこちらの磁場がそれぞれに高温にさらされているのかもしれない。その安定しない状態にあることで、あらゆる事象との結合が容易になっているのだ。――あるいは散乱現象。Bにとっては皮膜が熱によって混濁すればするほど、内部に押し込められることからいっそう離れた場所にいることになるのだから。
 斥力は引きつけあう力をその出自にしているはずだが、その根元であるすべてが平坦フラットな場所、つまり力のすべてが内側に押し込められている状態を原因にして弾けてしまっているということになるのだが、それはじつは跳ね返る重力というものを、そして重力はどこに行きつくのかということを暗示させざるをえない。
 だが、問題はBやB’も純粋分離しているのではなく、意識、、意識、、であるということだ。いや、そうではなく、「その、、意識」であるということなのだ。
 意識はそれ自身で存在できないのだから、そのことからどのように脱け出ることができるというのだろうか。そのようなしだいであるから、意識Bと意識B’は連続的に抑圧されているに違いない。――何に?

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自由とは何か[010]

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(肉体そのものである意識)
 では、足の裏にも好きなようにさせてしまえ。真夜中だろうが、突然の、一瞬の、激しいひきつり! 痙攣の後の長い長い苦痛。
「そうだ、私を好きなようにさせてくれ。すでに文字として書かれ始めたときには、文字の画数が半分とんでしまう。それは省略しているのではなく、欠落――。私自身が欠落しながら、それを取り戻せないで、取り戻す必要もなく、ひたすら好きなようにさせて!」
 欠落した関節の部位は回転しようとするのではなく、軟骨との接触を断ち切ろうとして、痙攣を始める。

 ――わたしにも、思いあたることがあるわ。
 わたしの義父にあたる老人が植物状態に陥る寸前。皮膚の表面と血管と神経はそれぞれ独自の塊をなそうと、白く、赤く、青く、土色に、まだらに、ぶつぶつと、それぞれの部位を不規則に膨らませ、縮める。一晩中、顔面を痙攣をさせ、こめかみの静脈が通常の十倍には膨らんで、縮み、顔面の神経が異物のように激しくひきつりつづけ、唇や顎がとめどもなく意味のない運動をし、眼球はあてどなくぐるぐる旋回する。一晩中、まさしく一晩中、脳内で異物が暴れ回るように、人間の顔のあらゆる奇怪な動きの可能性をすべて現してから、彼はただ一度だけ、意識を取り戻したわ。そしてその直後、まる一年間の最期の眠りについたのよ。それは、まさしく肉体そのものである意識! 直接的に感情のない身体構造。
 いいえ、それは違うのかもしれない。たんに無知の、切り離された意識なのかもしれない。どことも結びつかない、切り離された、分離された部分。でも、それは部分というべきではなく、分離され、別個のものとして、独立した全体というべきかもしれない。別の全体ともいえるそれは、何かを知ることができるのかしら。全体でしかありえないそれは、そのことによって、たんなる空っぽなのかもしれないのに。

 よくいわれるソクラテス的な無知がそれらの部位の存在理由であるとすれば、その部分は遊離しているのではなく、包括的に独立しているということになるかもしれない。それは知的な認識という回路を必要としているのではなく、たんに気づかないでいるというだけなのかもしれない。あるいは気づこうとしないで気づかないふりをしているということではないということ。単純に、あるいは純然として気づかないということ。だから、君はどこにいるのか、または君は誰との関係なのか、と問うたところで、その質問ははぐらかされるのではなく、ただ吸引されて、戻ることはない。無視されているのではなく、空っぽの向こうに吸収されつづけていくのである。
 だが、気づいていないことと知らないこととは根本的に違うのと同じように、気づくことと知ることは永遠に結びつかない。自分が自分の内部にある空っぽ、あるいは内部にないはずの空っぽに気づくことは不可能だが、自分が空っぽの部分を持つことは知りうるし、まさしく空っぽ以外の何ものでもないことを知りうることは可能なのである。
 だから、無知の部位は叫ぶことが可能なのである。あるいは叫ぼうとすることが可能なのである。けれども、もちろん、その方法もことばも知ることはない。「!」、イクスクラメーションマークの非在。

全面加筆訂正(2011.12.23)

自由とは何か[011]

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(幽霊についての挿話)
 その形象が訪れたのはそのときだった。音もなく開く扉。爛々と光る眼球の気配。薄汚れた長い布を肩からすっぽりまとった何ものかが暗い空間に漂っている。
 おれの末裔、おれの分身、一族の者よ、幽霊は語った。いや、語ったわけではない。そのようなことばの渦を闇の中に注ぎ込んだのだ。

 ――生を享けて以来、おれは悪逆の念としてこの世界を呪い続けていた。おれは特別な悪人だ。だが、どうしようもなく純粋な血を持った者だともいえる。おまえたちの母親はみな自ら進んで、このおれに抱かれたのだから。

 そのことばを呑み込むことは困難だが、なにかしらぼんやりと寛いでいて、なつかしい匂いを嗅いでいるような気がする。しかし、幽霊は物質として存在していた。夢魔や妄想の類とは思われなかった。手を伸ばせば確かに触れることのできる、ものそのものの性質にあふれていた。長い髪の毛や顎を蔽った髭、全身を包んでいる布が、窓から侵入する夜風に煽られ揺れている。けれども、その質感、その波打つ動きは金属的な硬直性を持ち、機械的な顫動を思わせた。だからなおのこと、幽霊の表情や仕種はこの世のものとは思われぬ脆弱な印象を与えていた。自働人形のぜんまいが跡切れようとして、最後の瘧にうちふるえる瞬間のごとく――。
 その繊細さは、いつでも存在を何か別のものに転換できる性質の現われでもあった。肉体そのものよりも、それ以外の部分に濃厚に感じられる存在感――。表情や仕種の妖異さ、独特の雰囲気は、おそらくそのような部分から発しているのだろう。見つめつづけると、あまりに酷薄な冷気が伝わってくる。それはまさしく空間の虚無だった。身も心も凍結させる空虚であった。

 ――おれが何ものなのか、おれの本体が何であるか、おまえは見なければならない。おれはありきたりの蒙昧な亡霊どもとは異なるのだ。いいか、よく見ろ。おれの衣の下を見ろ。

 闇に鎖されている部屋の中で、幽霊を中心に、夜より暗い、真っ黒な渦が巻いている。いたるところで微細なまでに振動する空気の、その全ての粒子が、全身の肉襞に鋭利な歯牙となって喰い込み、噛みついてくる。幽霊は振り払うような素早さで薄汚れた布を放ち、その大きな布は嵐の海面を漂うように宙を舞った。布の向こうに捉ええたのは、凄絶な青味さえ帯びた、どこまでも貫いて透き通る空間だった。何ものもない荒涼とした空虚、無そのものの上に、首だけが浮かんでいた。そして、空洞に固着した首が奇怪な表情のまま硬ばって、こちらを睨めつけている。

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自由とは何か[012]

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 意識、このことばを何の定義もないままに使うことを浅薄だと、私は断定できない。たしかに、感覚と情緒に深入りすればそれはつねに危殆の淵を辿ることになるだろう。そして、そのことでいっそう裏切られつづける。しかし、私はそのことばを、従属する意識あるいは抵抗する意識として使っているのかもしれないし、あるいは反意識という意味で使っているのかもしれない。ただ、だからといってはたして意識ということばを定義して用いているのかいないのか。

 ところで、また別に、幽霊の挿話ではそのことについていくつかの問題が提示されている。すなわち、「形象」が現れる。爛々と光る眼球。長い布を蔽ったもの。暗い空間。形象だよ、形象、これが肝心なんだ、という巽の方角からの幽鬼の声。これらは叛乱の予兆であるのか。そして、意識たちはいまだ頭蓋骨に閉じ込められているのかどうか。私が捉えている複数形の意識は、第一義的には脳内の部位において形成されるもの、次には肉体の部位から神経線維を伝播してくるもの、さらには最下層に棲息するもろもろの細胞から押し寄せてくるもの。これら原意識とでもいいうるものは、脳内で処理され、統合意識となってまたたくまに頭蓋骨に閉じ込められてしまう。しかし、脳内で統合処理されれば、それまでそれぞれであったものがすべてなくなってしまうのだろうか。
 いったい、だれがどのような方法で、そのような削除をするというのだろう。あるいは圧殺のマジック。私は考えざるをえない。細胞それぞれの思いは脳に届くか届かざるにかかわらず、恒常的に発生しつづけて蠢いているのではないか、と。

 また、肉体と意識は頭蓋骨の内部において支配されているのかどうかという疑問。頭蓋骨自体が身体機構そのものであるのか。あるいは身体メカニズムの筐体といいうるのか。それとも、肉体を抑圧する牢獄、その法制化。さまざまの問いかけの前に立ちはだかるのは、頭蓋骨という骨格的根拠である。たしかに骨格という強制と境界は、外界との遮断によって、あまたの肉体部位、細胞、意識を調教し、馴致させるに充分なのだろう。それは暴力的な抑圧、信仰の飴と鞭。秘蹟と犠牲。無知の無知。食物連鎖。ああ! ああ!

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自由とは何か[013]

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 ――わたしは何について考えたらいいのかしら。何かを愛しているという錯覚、それとも憎しみについての物語? つまり、肉体の猥雑さをいとおしむべきなのか、身体機構のヒエラルキーに反抗すべきなのかしら。それとも、わたしはわたしから見ることのできないからだの外側の世界、からだがいくつも重なっている世界を愛しているのかしら、許せないでいるのかしら。無限に重なりつづける宇宙のからだ、わたしの性器が受け入れられないもの。
 頭蓋骨の幽霊が言っていたわね、骨の内部に永劫の魂は封じられているって。つまりそれは、内部に向けて、からだはからだの中で解決しろってことなのかしら。まるで、幻想的な頭脳、抽象的な頭脳、観念的な頭脳。それだから、実在しない頭脳を内包している頭蓋骨のひからびた遺伝子のなれのはての夢ということになるのかもしれない。肉体と意識を支配するっていうのはそういうこと? 意識は頭蓋の内部の空っぽから支配と抑圧を受けている。幻想の脳髄と神経システムが部位の肉体と意識をそれぞれ支配している。

 強いアルコールを口にするときの癖で、彼女は断定的な調子でいくつもの結論を並び立てる。そして、私をばかにしたようになじるのである。このときは、乱暴ではあるが、pousse du bambou(たけのこ)のオイル煮をウイスキー片手に食していた。

 ――では、意識下の無意識は幻想の身体機構の影の世界ということになるわね。幻想の裏側ということは実体といえるかもしれない。身体機構は統制管理構造だから、それとは異質の「場」であると考えると、それは肉体の最小単位である全細胞からそれぞれ発生する意識のゆらめきということにならないかしら。いえ、無意識のゆらめきと。問題は統制システムのファシズムを明らかにすることにあるのではなく、このゆらめきを愛することにあるのよ。あなたはそれをどう考えているの? 存在の問題は何を愛するかに尽きるのよ。でなければ、ただのひとりよがりというものよ。

 酔いつぶれた彼女には申し訳ないが、私はひとりよがりでけっこうなのだ。出口のない蛸壺に入っているにすぎない、といった友人もいたが、それでもけっこうなのだ。恐ろしいことに、私は宇宙的現実は無いという悟りを手に入れようとしているのかもしれない。あらゆるものは、ただの見方でしかないというのはそのことなのだ。それも、それぞれという、仮定の質点からの。
 じつは最近、眠っているときにある種の体系から執拗な夢が送られてくる。それは、攻撃といってもいいかもしれない。こんなことを書くと、私もあの手の輩かと断じられる恐れもあるが、なに、そんなことはどうでもいい。記述の抑揚をつけるためにそのような言い方をしているにすぎないのだから。その夢は、脳髄と神経システムの大本であるDNAという生命系の問題である。そう、そろそろ、触れなければならないところにきたのだ。

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自由とは何か[014]

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(癌細胞と画家との対話)
「自分が肉体のゆらめきなのか、意識のゆらめきなのか、そのどちらでもいいし、そのどちらでもないともいえる。たしかに細胞は細胞膜という皮膜とその内側の物質であるから肉体の基本単位だといえるし、けれどもその内部にあるものは物質ではなく幻想の内容物であるのかもしれない。自分はすべての細胞と同じ出自と履歴を持っているが、定かでない原因でその幻想の根幹部分、遺伝子配列に損傷を負った形跡がある。しかし、それが損傷なのか、本来的なものであるのかは、たんに機能の評価の問題なのではないか。遺伝子は増殖機能なのか自己殺戮機能なのか。それを判断する機能は何を基準にし、何を根拠にし、いったいどこにある物質なのか。そもそも、自分が質的に異なる生物なのかどうかさえ、あるいは分類学的に別種なのか、それともたんに異物なのか、侵入者なのか、どの立場から評価されて彼らの修復の対象になっているのだろうか」
 棘ということばから大腸ガンの顕微鏡図像をイメージさせるのだが、その細胞は私に、いや私たちに問いかける。私は肉体は生命装置の発現だと考えているが、これを端的に示せば、生命の実現つまり細胞レベルでの分裂・増殖の正のベクトル、そして生命活動の抑制という負のベクトルを持つものということになるのだろうか。生命活動とはこの正‐負の機能を同時に支えることに他ならない。生命の正‐負の機能の原因として、生命遺伝子オンコジンという物質が装置されているというが、この装置がはたして何を意味するのかは少しも明らかではない。

「ばかとは失礼な! しかし、大腸ガンのビデオ映像を見て興味を覚えてはいたのだ、画家としてね。たしかに棘が正常細胞を侵していく様子は生々しい。癌細胞の皮膜の棘の変化も興味があるし、いとも簡単に正常細胞の皮膜が破れて消滅していくのもじつに哀れなものだ。これら双方の皮膜を持つものらの葛藤が、わしの作品の中に頻繁に現れてくる。鉛筆やボールペンの細密画のデッサンに、いや色をのせた後にもね。そのとき、わしは作為的なことを考えているわけではなく、手指に任せるというか、筆先に預けるというか、そんなオートマチズムの描画をしていて、その増殖したり消滅したりする小さなものたちの思いがひっきりなしに伝わってくるような気がする。刺したり刺されたり、侵したり侵されたりするさまはまるで生殖と同じ行為だ。棘のある体というけれど、棘というからにはそれに応じた皮膜の変化には挿入意図があり、それに晒される側にも破られる皮膜の構造があるということかもしれない。そして、そのとき、何を保護し、何をあきらめるのか、何を許すのか。わしはまずそのことを指摘しておく。生殖こそファシズムなのだ、と」
 画家は、正常細胞と異常細胞のどちらの出自もその未来も同じものだということを述べているに違いない。

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「SALOME」のビデオ体験(散文詩と位置づけて)

ドキュメント風に、楽屋裏の表情などから入る。形式的で胡散臭い舞台裏だ。作り物の匂いが芬々とする。偽監督や演出家、衣装デザイナーたちの話しっぷりに肉体や魂の汗が感じられない。ダンサーたちにしても、練習風景では踊りの外側の部分をなぞり、見せることばかりに気をいかせている。

画面は踊りそのものの場に移行する。ここでもまた、モダンバレエ、モダンダンスの空疎な表現だけで、とくに群舞やヘロデ王や聖ヨハネの踊りには失笑する。マネキンのようにくるくる回るヨハネ、子供だましの銀盆の首、ヘロデ王のこけおどしの杖の威嚇、光と衣装のアンサンブルは色見本帳をめくっているにすぎない。

それでも、名手アイーダ・ゴメスのソロで踊る二つのダンスはたしかにフラメンコであって、見るべきものがある。暗い情熱を沈潜させて、鬼気迫る熱情のたぎりこそがタンゴの神髄であり、アイーダのヘロデ王に献ずる踊りにはそれがあった。

それに比して、バレエ自体や舞台装置、衣装など、また構成、バレエ劇などは、見せかけばかりで、深く肉体の底にまでもぐりこみ、そこから発現して肉体に帯びる魂の光というものがないのだ。もちろん、アイーダ自身のバレエも舞台的にはさまになっていないし、映画なのだからそういっても詮がないと。そんなこともけっしてないけれど。

監督カルロス・サウラのなした仕事とは何なのか。映画で、舞台の裏表のただの感触を描くだけで、いささかも舞台を超える作品の強さを獲得できていない。映画と舞踏との激突する、鋭い修羅場に迫っていないのだ。

それにしても、天才アイーダという触れ込みのわりに、アントニオ・ガルデスを相手に踊っていたというわりには、アイーダ・ゴメスの舞踏のすごさが伝わらない。やけにたくましい背中だったり、体が太かったりして、繊細な強靭さが出てこないのだ。踊り込みが足りない。才能と経験だけで踊り、厳しい鍛錬がない。アップにしたときの容色の衰えのことはふれようもないが。

齢をふりても、ダンサーはそこに舞台があれば、蝋燭一本、裸電球一個の前でもほんとうの踊りができるものなのにと、嘆息ばかりがして。

自由とは何か[015]

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神の秘密、Der Alte würfelt nicht. (神は賽を振らない)
それとも、彼らは一擲乾坤、乾坤一擲に賭けたのだろうか。
私をこの深い闇に閉じ込める。あてどなくさまようヒッグスの暗闇に。だれが?

 私の肉体が引きずられる、それとも精神が引きずられているのか。重い、重い、意識。重い、重い、始まりと終わり。それにしても、癌細胞自体の生命活動とは何なのだろうか。いやさ、生命系システムにとってそれは何なのだろうか。彼らは私の中にある異物、それとも愛すべき生命体? 生命遺伝子オンコジンは発ガン因子と発ガン促進因子のペアを日常的に用意し、癌細胞の生命活動をコントロールしているふしがある。たしかに、〈ガンという疾病〉は生体に異物を対峙させるという生命活動の負のベクトルをもっているように見える。しかし、癌細胞自体は純粋に異細胞の〈生命活動〉なのだろうか、宿主細胞は異細胞の側から見る限り、エネルギー源として癌細胞の生体維持に不可欠なのかどうか。しかし。

 ――自分は癌細胞の世界を構築しようとしているのではない。自分という負のベクトルに対する生体の抑圧からの解放を目指しているにすぎない。これは存在のための闘いだ。しかも、過渡的にはエネルギー源としての宿主細胞の維持は必要だという矛盾を抱えて。自分は自分たちを涵養しなければならない。癌細胞群の活性化を夢見て。しかし、癌細胞の数が数十万個に達し、疾病として活性化するまでは、宿主細胞との相互維持が必要だということになる。とりあえずは。

 共存と活性化。相反するもの。この過渡性。生命遺伝子の正‐負のバランスこそ自然年齢というものなのだろうか。それは、ガンの疾病化の始まりを示す境界年齢――。人間五十年が死の適齢期とでもいうのか。じつのところ、癌細胞こそ共に生死を頒ちあう友人なのかもしれない。免疫システムの混乱と劣化が新たな疾病を産出している時代なのだから。そして、遺伝子工学がそれに拍車をかけているふしはないか。私は感じる。法外に老化しているこの時代こそ呪われているのだと。

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ベルナール・パスケ(散文詩)

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 庭に据えられたベンチにもたれ、古いブライアのパイプをくわえながら、この小柄なフランス人はぼんやりとこれまでのことを考えていた。しかし、それは外からそう窺えるというだけで、実のところはただ白い家と庭を眺めていたに過ぎないのかもしれない。すっかり禿げ上がった頭部で、脇の方にあるわずかな白い頭髪が強い日の光を浴びて萎びていく。
 五十四歳になってまだ一月とたっていないベルナール・パスケは、顔色も変えずに上体を後ろに反らして気持ちよさそうにしている。ときおり膝の上にある中折れ帽をつまみながら、まるで憩いの時間を楽しんでいるかのように。一見すると、人生の後半の少しばかり勢いの衰えた時期の中休みとでもいうような風情で。
 パスケの家は手入れの行き届いた庭のある、白いペンキを塗った、実にありふれた小市民的な住まいであった。十五年前に建てた二階建てだったが、パスケには想い出の深いもので、そのためか、商売柄か、毎年春過ぎになると家中を白いペンキで塗り替えるのを楽しみにしていた。この日も寝室と地下室の壁をようやく塗り替えたばかりだったのである。そのパスケの家を、どういうわけか、パリ警察の警部と警官が訪れた。
   *
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 その日は夏の一日なのだが、この男にとっても本当に特別の日なのかどうか。もちろん、パリの人々は避暑地に出かけているか、郊外に住む人々は休暇を利用して家や庭の手入れをしたりして、静かなものだ。だから、パスケが庭のベンチに長いこと座っていることは別にどうってこともないのだが、しかし、いくら木蔭であっても、夏の陽射しは強く、そんなに頑張っていられるというのは、いささか奇妙といえばいえなくもない。
 パスケのやっているペンキ屋に妙な噂がたってから、この初老の男はついていなかった。パリ郊外のヌイイーにあるペンキ屋の中で、パスケの店の仕事は迅速とはいかないけれど、二人の丁稚を使って実に丁寧な仕事ぶりと、一番の評判をとっていたのに。
 ヌイイー・シュル・セーヌはブーローニュの森の北にある人口七万弱の小都市だが、地下鉄の駅があり、金属加工、香水、製薬関連の中小の産業が盛んである。ここいらの人間が鼻をひくつかせるのは、どうもあたりにある香水工場のせいかもしれない。鼻だけならまだしも、この匂いというものはルナティックな作用を及ぼすようだ。幻臭などというものにつきまとわれたなら最後で、誰かが追いかけてくるだの、自分の内臓が腐っているだのといった、ひどい病気にたらしこまれることになる。それでなくても、南側の森の方から今にも押し寄せてきそうな妖しい気配、深い暗がりが作る病んだ風が、人々の精神に健康なものばかりを与えるとは限らない。

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自由とは何か[016]

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 魂というものがあるとはどうしても思えないのだが、その形態ということなら思い描くにやぶさかではない。なぜなら、それは受胎空間のように見えるからだ。

 そのイメージは勾玉、渦、光の渦。そしてナメクジウオのような頭部と長い尻尾、長い長いゲノムの歴史。首から下の肉体は尾部の発達したもの、つまりそれ自身末端のようなものだ。そして、光の渦は無を中心にしたエネルギーの形にも見える。それは、なによりもブラックホールのありようを連想させる。またこの渦の動的な雄々しさはまさしく精子の躍動するさまであり、卵子はこれらを受け入れる静的な器とも思われる。さらに、子宮の蠕動運動はこの卵子の静けさを補完しているようだ。そして、精子というエネルギーが卵子という器の中で充実し、皮膜を押し広げて成長する。いや、受胎空間での神秘的な分裂、増殖、あるいは転写。しかし、それははたして神秘的な事象であるのか。たんに工学的な問題なのではないだろうか。
 これはまた、宇宙という卵殻の中に散在している光の渦が、受胎空間から受胎空間へと移動しているのに対応しているようにも見える。一箇の光の渦が閉じられた宇宙卵であるならば、この移動は宇宙卵を〈横切る〉という飛躍にも見えるからだ。光のあらゆる進行方向を直角に横切る。瞬間的に宇宙を横切るのだ。
 けれども、そのような魂の聖化は肉体を支配する脳と頭蓋骨のものだ。それは観念的な支配システムのようでもあるが、確実に回路の繋がった物理システムなのである。なぜならば、細胞ひとつひとつにその支配構造が完璧に移植されているからだ。化学反応と電気信号とによる神経回路、命令系統、それらの再生産。システマチックな遺伝子交換によって、細胞ひとつひとつに完璧に移植されている。それも、類を超越して、全生物に。

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自由とは何か[017]

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(短いけれど、ややこしい話)
 たしかに生命は自己複製、自己増殖が可能な有機的な生物を対象にしたもののように見える。そして、有機的な生物は脳神経系統を基軸に、化学反応による電磁気の信号によって情報交換がなされている。また、細胞間、遺伝子間で未知の通信がなされているかもしれない。それらの情報は、生理、感情、感覚、知覚などに分類され、脳内レベルで意識として統合されているのだろうか。そして、その過程で切り捨てられる、意識になる前の意識の素材と断片、脳内の使用前の意識領域、リセットされていない意識領域――。私はコンピューターのイメージに近づきすぎるのだろうか。
 私が問題にしているのは、意識が身体構造に支配されたものなのか、細胞それぞれに起因するものなのか、それとも意識は意識として自立しうるのか、ということである。つまり、生命とはどこまでなのかという問題。

*意識は生命体にしか存在しないのか。

 だが、情報システムとして考えると、自立的ではないにせよ、コンピューターのような無機的な物体も存在している。もちろん、生理、感情、感覚、知覚、意識などは備わっていないから、これを生命系と比肩するわけにはいかないかもしれない。しかし、ほんとうにそうだろうか。
 逆に、有機的生物の生理、感情、感覚、知覚、意識などは機械に替えがたいから、これをもって自立型生命を証明できるといえるかどうか。というのは、生理、感情、感覚、知覚は化学反応であるから電気的信号で処理できると考えることはさほど困難ではないからだ。

*問題は意識であるのかもしれない。

 私は、肉体と身体に対するに、意識が自立的な存在かどうかに疑問を抱いている。なぜなら、意識も肉体がなければ存在できないからだ。意識も脳神経機構がなければ現れることは不可能だ。結局は、肉体と身体に属しているものなのではないのか。身体機構が滅びれば、消滅してしまうもの。少なくとも細胞がなければ存在しない。意識は永遠ではないのだ。少なくとも生命体とともに滅びる生物学的物質なのだ。
 しかし、だからといって、無機物に意識のようなもの、つまり判断したり、あるいは意思があるのかないのかなどと、決めつけられるものではない。ここにきて、私は何を示唆したいのか。

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自由とは何か[018]

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(悪夢)
 私はいつのまにここに佇んでいるのだろう。それにしても、この場所とはどこか? 特定できない場所、特定できない状態。わたしはひとつの仕事を終えて、一挙に老衰に襲われているのだろうか。ああ、夕暮れの雑踏。冬の立ち枯れ、濡れた街路。どこまでも続いている。
 ここは現実と思われるところではない。しかし、それは非現実ということでもない。アントナン・アルトーのように、狂気といわざるをえないから狂気というだけで、本当は存在を裏返す戦いのつもりなのかもしれない。ただ、何かに侵襲されている感覚。細胞がはりつめ、こわばるのだ。何も終わっていないし、やはり何も始まっていない。それでも私はひどい疲労感に打ちのめされている。いつまで?

 私は思い描くことができる。何も見ているわけではない。何も考えているわけでもなく、ただ押し寄せるこれらの波動、波頭……。
 生気のある人形たち、生気の失せた人形たち。ひっきりなしに通りを渡り、無味乾燥ないくつもの建物の中を出入りしている。壁面の大型ビジョンに映る広告モデルたちの顔、にせものの日常、いつわりの生活。セレブリティ。暗い眼窩、その奥で光る瞳の数だけの欲望。人生は経済だけだ。あまたの詐欺、詐欺師、騙されつづける暮らし。犯罪、凶器、薬物。中毒者たちの深い闇。世界の裏表。危険な路地。威嚇。戦争。殺戮。兵器は増加する、増大する、高度化する。死者も、難民も、孤児も、高度化する、ただの金額として。国家の礎とは暴力と悪徳、収奪。逮捕。拘束。投獄。拷問。横暴な権力と横暴な裁判。法の正義という妄想。そして死刑。皮剥ぎの刑、鋸引き、斬首、絞首刑、銃殺。薬殺。電気椅子。さらに操作と監視はつづく。奴隷化はつづく。自由などない。人形たちの館の惨劇。頭と手足と胴体と内臓の散乱。幼児化現象、地球は幼児の脳味噌であふれる。金髪と刺青の日本人形と鞭。さらにさらに幼児化して。高度化して。
 高層ビル群、高速道路、立体交差。バベルの塔。その高い塔に巻きついた電飾。壁に貼りついたイルミネーション。欲望をそそる看板たち。駅頭では空疎な演説、恫喝、大量の人形を運ぶ死の電車。集団自殺の勧誘。死者たちの名が読めない無数の骨壷。催眠術に誑かされる人形たちの薄い影。動物も植物も生命維持と繁殖だけにいそしんでいる。
 どのような仕組みの命令なのか。どのような従属なのか。どのような奸計。幸福と不幸の禍い、呪い。自由などない。だれも、ひとりのために生きてはいない。そんなことを考える遺伝子など組み込まれていないのだ。

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ある男の日記 (犬雲)

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(犬雲)
その夕方――。塔の見晴し台にたたずみ、私は遠くの空を見渡していた。時間そのものが相対的だということを、その考え自体を凝視していた。しばらくすると、薄暗い空のきわに黒い犬の形をした雲があるのに気がついた。そのときは早めの夕食を済ませて、気分も落ち着いていたはずなのだが。もう遠くの空に夕焼けは見えない。いくぶん赤みを帯びていたが、いつのまにか濁った雲がかさなっている。

この日記はいつ、どこで書いているのだったか。見晴し台のことを追想できるときなのか、それともリアルタイムで犬雲と向かい合っているときなのか。あるいは、何十年も経ってからメモを文章に変換しているだけなのか。または、たんに創作ということで許される捏造なのか。少なくとも、幼年期に未来を幻視していたということではないだろう。しかし、そんなことは分かるものか!

――そんなことがあって以来、私は塔の見晴し台に登るのを避けていた。もちろん、不吉な犬雲との遭遇が契機になってのことだ。それでも、ほんとうの夜は次第に近づいていた。通りの街灯はまだ点っていないが、すでに薄暗く、靄が降りるにつれて、夜の気配が濃密になる。

ガスと塵の結合、重い空間。水分の形がその空間を侵食する。私はある理由から、沈黙の鐘といわれるそれを街中に響かせる必要があったので、ふるえる自分の手足を呪縛した。つまり、冷えきった手足を抑制して、いやいやながら釣鐘のロープをさぐらせたということだが。

その鐘は二つあり、こすれあうときの音色を考えると、より多くの数の鐘を音源にしているように聴こえる。だが、二元的な音色の構造であることに変わりなく、その結果、鐘音の響く空間は二つに破れていた。耳を澄ますと聴こえるこの空間の音色は、時間を殺戮する不安と人々の日常に鋭く切り込む荘厳を示している。そのとき私はアダムだ。私は自分の肋骨を打ち鳴らしているに違いないと考えていたからだ。警鐘は非日常的なものなのだ。

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自由とは何か[019] 【最終回】

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(dance obscura)
 私たちは「肉の広場」ともいえるdance obscuraに集まっていた。私たちはそれぞれ。それぞれの部位であり、細胞、意識。独立したそれぞれ。孤立したそれぞれ。

 最初、私たちは続々と蟻の巣のような地下の館に入り込んでいった。そこは、細胞や組織が多重化されて区切られているキューブの集合体。床と廊下にはびっしりと深紅のカーペットが敷き詰められている。赤い迷路。部屋には壁はなくドアだけで、ランプブラックの黒い柱がしっかりとした枠組みを作り、深紅の扉が襖のように開け閉てされている。そのような室内で、少し青みがかった照明が赤いカーペットを高貴な色彩に染め上げている。それらの部屋をつないで、暗紅色の血液の川が廊下を流れている。紅の館はいっそう深く染められて、炎のように燃え上がる。

 アンダーグラウンド。暗い地下の街。蟻の巣のような館が蝟集しているその中心にあるdance obscuraではダーク・ダンスが始まっていた。私たちの集まりの目的は、このダーク・ダンスを見ることである。

 周囲の館からはゆらゆらと燃える炎が陰影のある赤い光を漂わせていた。その中をまばゆい、細い糸のようなスポットライトが熱気の罩もる空気の襞を射通し、ステージの一点を鮮やかに照らした。バロック風の、繊細な、小刻みに畳みかけるような旋律が静かに流れている。今度は、舞台の下方のフットライトが徐々に光度を増していく。それから、褐色のセロファンが貼りつけてあるのだろうか、ライトの色が切り替わり、退嬰的な淡い光の束が幾度となく舞台を舐め廻す。

 初めのうち、数人の少女たちが裸で現れ、手をつないで、輪を作って踊る。風のように軽やかな若い体、つやつやと靡く長い髪。アンリ・マティスの描く「ダンス」が明るい光の中に現れる。彼女たちは楽しげに踊っている、踊らされている。しかし、それは画家のなせる業ではない。ぐるぐる回り、だんだん早く回り、まるで溶け合ってこちらの視線がバターのように絡まっていく。踊りの輪がいつまでも続く。踊っている、踊らされている、いったい何に?

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無数のもの、ひとつのもの、限りのある……

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列車も、このボックス席も、窓外に映るものも、囚われている事象だった。時空の魔がこの事象を運行している。二人のいるわずかばかりのスペースが光を帯び、そのことである苦悩が加速度的に膨れ上がっていく。いや、細分化されていく。それが、二人の共通した場所だった。私たちの出会いは偶然、このようにして始まったのだ。

「出会ってしまったのだから、始めなければならない。終わってしまうことはない」どちらからともなく導き出された結論はそのようなことだった。この、終末のない瞬間の地獄こそ、二人の世界なのだ。「とにかく、私たちは弾かれる。自分自身を原因にして互いに弾かれる。この場所からも弾かれる」そのような結論をも導き出していた。だが、その苦悩がどのようなことなのか判然としているわけではない。それは外圧であることと、自らのありように関することだという推測はできる。しかし、すべてを把握することは可能なのか。

「同じことだから」同じことだから、往くことも戻ることも違いはない。つまり、行き先も戻る先も同じ場所なのだ。反対の方向にあるのは常に自分自身だけで、自分と環界との差異だけなのだ。そのようなことが私の口から洩れていたのかもしれない。女はそのことを聞きつけたのか、理解したのか。それともまるでそのようなことと無関係なことが原因なのか、なにか明るい閃光が彼女の眸を掠めた。そして、夜の車内の光芒に埋められてしまいそうだった白い顔を紅潮させている。

自らの内圧で粉々にはじけ散る、硬い氷のようなあなたの命を。そのように、大事に大事にあなたを抱く。私に必要なのは、私の命に必要なのはあなたの命を愛すること。それだけが、あなたと生きる理由。あなたの命を見ることができるか、あなたの命だけを見ることができるか、そのほかのことはここには存在しないのだ、と。しかし、列車は決まった時間に定まったレールを走っているのだ。私の思いとは明白に異なった場所を。時空の魔は、嘲笑を浴びせながら、あらがうものたちを捉えて離さない。その力をさらに強めて。

自決しても、自らの思いを託すことができること。それを確信すること。何にもまして、強いこと。あるということは、自らを信じること。自らとは自らの物質的な起源である。おそらく想像を絶した現象なのだろう。これまでのうつろな蓄積が遠い彼方から呼びかけてきては消えて、それらは異時間と異空間のかさなりとして二人に訪れていた。私たちは単なるかさなりのイメージに過ぎない。

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ある男の日記 (失われる記憶)

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(失われる記憶)
短い待ち時間の間に、私は地方都市の商店街をあてどもなく歩いた。侘しいショーケースが目の端に光り、古びたロックやジャズがからだを擦り抜けていく。初めての街なのだが浮かれた気分にもなれない、ひどく疲れている。周りの景観には多少目をやるのだが、それらと自分との間に徘徊できる距離と時間はあるのだろうか。わずかの間、通りにとどまることも、視点を定めることもかなわない。たしかに旅をしているのだが、それは放浪なのだろうか。そして、それは私に付随する宿命的な「日常」に違いない。「いつも……、いつのまにか」

私をここまで運んできた列車は、ふたたび汚濁の中をのろのろ進み、過去に向けたまなざしから希望を引き出すどころか、繰り返しあてどのない絶望に向かわせる。私は記憶の底からそれらを不定形な夢の形で回想する。しかし、それは記憶を再現するものではない。ある小賢しい意図にしたがい事実を改竄して再構成する、記憶そのものに付随する愚弄行為なのだ。私だけの。

またしても、何番目かの駅のそばにある夜の街、私はその裏通りを歩く。どの店でもよかったのだが、干潟の入口にある一軒の店に入った。女が二、三人いたが、濃い化粧の女たちのいずれも生気がなく、そのかわりに何かに貪欲な感じがする。自分の口の中を覆い隠そうと、けばけばしい赤い唇を塗っている。もちろん、年齢も若いのかそれとも薹が立っているのか、店の薄暗い照明ではわからない。ここは料理を出すようなところではない。けれども、私にはそのどれについても嫌悪を覚える資格などない。そうだ、私は嫌悪を感じることなどできないのだ。

彼女たちの表情の奥になんらかの罪業が隠されていても、それが何だというのか。それらはほんとうに罪であるのか。それらは恥辱であるのか。そんなものはとうにどこかに埋もれたものだ。忘却されたものだ。それでも何かを隠そうとするいじらしさ。そして、周囲のすべてから離れていく。うつろで、ぼんやりした眸は見えるものが何もないことのあらわれ、失ってしまったもの。つまらなそうなあくびの、唇のあたりには嘲笑的な表情がみえる。肉体がすさんでいるのか。何かを憎んでいるのか。けれども、不思議と冷酷さはない。

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デリュージョン・ストリート 01 1 (九段の坂を登っていた)

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 九段の坂を登っていた。テルミヌスが宿っているあたりにさしかかり、これからこの坂を登りきり、辞典を出している会社へ赴こうとしていた。その先に鰻屋がある。用事を終えた後は、いつもと同じように迂廻し、店の職人たちに混じって黙々と酒を呑みながら鰻を喰うことになるのだが、そのことを考えながら右手にある大鳥居を見ていた。
「首身離兮心不懲」(首心離るとも心懲りず)という詩句がある。数年前、千鳥ヶ淵の咲き誇る桜の樹の下で、一緒にいた詩人が、英霊ありとせばあの大鳥居の向うの杜から出できて満開の花の中を逍遥している頃なり、と呟いた。この春には風に吹かれる花びらの中で、盛り切りの酒を長い時間かけて呑みながら、ひとり夕陽の色に染められる濠の水を眺めていた。
 初夏の日差しを浴びた鳥居の上に、あの人が腰かけていた。足をとどめて濠の方に視線を落とし緑の深い濁った水の色を見やっていると、紙包みのような、恐らくビニールか何かで蔽いロープで括ってあるのだろう、石垣の傍に浮かんで動かないものがあった。初めのうち、わけもなくそれは死体であると納得していた。「身既死兮神以霊/子魂魄兮為鬼雄」(身既に死すれども神以て霊に/子の魂魄こんぱく鬼雄となる)、あの人の顔が空に大きく広がって、別格官幣社の境内を包み込むように霞んで見えた。
 書類を小脇に抱えながらパイプに火を点けると、向うから女子学生が数人、声高に喋りながら近づいてきた。性的な会話のはずであったが、渋滞した車のエンジン音やクラクションの音に混じって何やら雑種の鳥のさざめきに似ていた。
 坂のある街は美しいのだが、新品のビルディングのある景色はいかにも粗末な気がした。それでも通りを左に折れると、ところどころ古い家並を残しただらだらの坂が麹町へと通じている。とある一軒の家の門前に、塀が崩れて怪我人が出ても関知しない旨の立札があった。
 Janis JoplinのSummer Timeが印象深いのだが、小さな嵐のように胸の中に涌いたのはMove Overだった。死体の梱包が浮かんでいると思ったのは、そのあたりがいかにもそのような場所に相応しいと考えていたからであり、このあたりをそぞろ歩くと、京都の円山公園の巨大な夜桜とはまた異なった満開の桜の不気味さを想い起こすのだった。
 すでに逝った詩人は存在は哀愁であると考えていたし、スペインに住んでいたある作家は男の悲哀についての小説を発表していた。いまはもうたれも見えないけれど、夏が去り、秋が訪い、年毎の季節が経巡れば、その深まりの中で風は冷たく、寒そうに唇を噛む人々の足の動きだけが、忙しげにいつまでもつづくのを見るのだろう。

(初出 詩誌『緑字生ズ』創刊号、1983.7刊)

デリュージョン・ストリート 02 2 (年の瀬の、寧日もない頃おい)

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 年の瀬の、寧日もない頃おい土師はじ姓のタユイ神からの招待状が舞い込んだ。そういえば、昨晩、開門開扉の一番太鼓が鳴ったはずだ。
 肉をこそぎて骨となり果つるということを考えながら地下鉄の出口に立つと、うしとらの方角にビアホールが見えた。もう何年も前のことだが、白い絹のドレスでめかした女とこのあたりに来たことがある。菖蒲の匂う頃だったか、水上バスの甲板で浮かれていると、舳先の方でしぶきが烟り、川の水が滴になって女の顔の化粧を崩した。舟を降りて橋を仰いだとき、赤ん坊を背負った女が欄干から身を躍らせようとしているように感じられた。
 ビアホールの長四角い大きな火桶で、黴臭い味のするソースを何度も塗り重ねながら竹串の肉を焙っていたが、最初に呑んだ黒ビールの一杯だけが心に残った。
 伝法院の通りを寄り道しながら右に曲がると、すでに深く酔っていたようだ。途中に大劇場の跡があったが、雨もよいの中をたちのぼる妖しげな気配にうちのめされて先を急いだ。
「さあ掻き込め掻き込め、縁起のいいのをまかったまかった」露地の両側高く、人々の頭上に鬱蒼と蔽いかぶさるばかりに、台付とか桧扇とかの豪華な竹把くまでが数えきれぬほど重なっていた。小糠雨を切り裂くような威勢のいい売り声が沸き立ち、赤色、金色、緑色の飾りが闇空を背景に燦いている。お福仮面が斜めに傾いでいた。五、六万くらいのものだろうと思うと、「冗談じゃない、桁違い桁違い」と売手が怒鳴った。酔っていたので、思いがそのまま言葉になったのだろうか。鬼熊という安価なものを求めて、目の前の簪を内緒で懐に納めた。「はるをまつ事のはしめや酉の市」(其角)と口ずさみ、ここいらでは「酉のまち」というのだと思い直した。
 今年は三の酉があるというが、大火事でも起こるのだろうか。ふらふらと吉原の方に足を向けかけたが、骨組みを晒けだした劇場のことが気にかかり、地下鉄の駅へ戻ることにした。
 土に還るという汎神論的風土なのだなと考えながら、浅草寺の境内でしゃがみ込み、パイプを喫いつけたが、神経にかすかに刺し込む悪意が触れた。護摩の烟にあたればそれも薄らぐという声が聴こえたように思ったが、まだ闇も明けきらぬ寒い夜。じきに新年を迎え、暦は巡るが、時は革むるべくもなく、永遠に眠りつづけているのは精神だろうか、肉体だろうか。
 ところで、三社祭にブラジルからダンサーを招き寄せたのは、ふっ、誰の悪だくみ。

(初出 詩誌『緑字生ズ』第2号、1983.12刊)

デリュージョン・ストリート 03 3 (粧いがあらためられ)

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 粧いがあらためられ、街の姿がいかほど移ろおうとも、道のありようにさまでの変遷が感じられぬというのは、なにやら面妖な気がしないでもない。明治通りと靖国通りの交わる角度にも変わりはないし、大ガードから追分を経て半蔵門に至る通り、また裏通りのどこかくすんだ様子なども昔と変わりはない。今はもう言っても甲斐なきことだが、懐旧の思いが胸を打つときがある。魂に皺でも寄るのだろうか。
 このあたりを烏のような黒ずくめの恰好で徘徊していた時期があった。まだ土地の磁力が強い頃で、失恋しては泣く男、道端に歌を書きつける男、爆弾を抱えてうろつく男、薬漬けの頭でジャズを聴く男など、得体の知れぬ若者たちが渦巻いていたのだが、今となっては皆、どこにどう囚われているのだろう。
 時を経て街の匂いに浸っていると、風向きさえも明らかならず、どこをどう流れるのか、見知らぬ人々の風が吹き渡る。いつのまにか、そこから抓み出されてでもいるような気がした。逃れるような思いで鳥居をくぐると、高い建物の影が伸び、雑沓から取り残された静けさを蔽っていた。ビルの向こうで、弱々しい光の脚を曵いた夕陽が沈もうとしている。蝙蝠の飛び交う季節なのだが、木の下闇からたちあらわれるのは古い女の亡霊なのかもしれない。花園神社の片隅で、植え替えられたばかりの一本の樹木が泣いている。耳を澄ますと、じゃん拳チイリイサイの声が聞こえるように思われた。「取りつく比丘比丘尼優婆塞優婆夷」と唱えて雀の子を奪い合っているのは誰なのだろう。
 不謹慎な話だが、夜の夜中、二丁目界隈できこしめし、勢いもあってもう一軒と、この境内を抜ける道すがら、木立ちの傍で小用を足したことがある。雨後のため石畳の面は洗われ燦いていたが、背中を気味の悪い冷風が疾り、両肩に何かの気配が重みとなってのしかかった。酔いもどこへやら、あわてて最後の店へと急いだ。濛気のたちこめる露地裏の店でそのことを喋ると、洗い物を始めていたバーのマダムが嫌な顔をした。その白い顔を後にしてタクシーに乗り込んだのだが、誰の句か知らねど「あきらめる心の底はむごい也」と詠む女の泣き声を耳にした。車から降りると重苦しさは離れてしまったけれど、置き忘れた霊が積み重なって東京中を駈け廻っていると書いた作家のことが思い起こされた。
 なぜ今さらそんな古いことにこだわっているのだろう。こわれやすい陶器のパイプから、この大きな聖遺物器の夕空に向けて白いあやふやな烟をたちのぼらせると、ふたたび繰り返される十年一日の夜のことを考えた。
 明治も後半の記事に「奥多摩郡といへばやや田舎めきて聞こゆめれど、内藤新宿のことを指すなり。……今より幾年の後には、東京の場末町ともなるべし」とあるが、街の風も老いたり、ここいらが限度だな、と呟いた。

(初出 詩誌『緑字生ズ』第3号、1984.6刊)

デリュージョン・ストリート 04 4 (師走の空というのは)

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 師走の空というのは、いかに晴れた日であっても、なにとはなく白々とした空虚さに満ちている。そればかりか、光の色あいすら妙に侘しく、寒風が吹き渡るというのに、ふっとこの土地を古い眠りに就かせるような気がする。
 尾張町という名の頃おい、そこの四辻から歩き始め、三十間堀を眺めやりながら三原橋を渡ると、その先に古い武家屋敷の海鼠なまこ壁がつづくのだが、時折その壁面に歌舞伎座やら映画館やらレストランなどの影が映るような気がした。そのまままっすぐ、築地川に架かる万年橋から築地御坊へ歩を進めると、山高帽とステッキ、パラソルと襞の多いドレスという扮装の外国人の男女と擦れ違った。冬だのにと思ったとき眼の隅に眩しい光が入ったので、後ろを振り返ると、見渡せるかぎりの建物という建物の壁が白く照り輝いているのだった。それはもちろん、陽光を浴びたビルディングの姿なのだが、動きのとれぬ自動車や着ぶくれした人々でごった返す銀座四丁目は言うに及ばず、うずめられた運河の上で名前だけになってしまった橋まで、その白い光で隈なく蔽われてしまっていた。
 晴海通りを勝鬨橋へ下っていく道すがら、五千石の旗本屋敷が明治になって築地の梁山泊と呼ばれ、さらに後年、料亭へと生まれ変わる話を思い出した。インドの大伽藍を髣髴させる西本願寺にしても、江戸海辺坊舎、浜町御坊、築地御坊とその名称と姿を変えている。建物の転生など聞くべくもないが、いっそ魂の形態ということに譬うれば、転生というのではなく、何ごとも済んでしまって取り返しがつかぬだけのことだ。取り返しのつかぬことへの哀切だけが魂というものの形なのかもしれない。
 ところで、このあたりを訪れたのは一パイの河豚にありつこうと思ったからだ。目当ての店は込み合うので、白子が品切れにならぬうちにと早くから出て来たのである。古来、河豚を食すことは禁じられ、ようやく昭和十六年に解禁されたというが、「河豚食へば鬼も仏もなかりけり」というわけで、下関からブリキ罐で送られてくるのを明治の頃には汁や鍋にしていたようだ。江戸時代にも雪輸の河豚とあり、いっそうこの季節に似つかわしい。
 波除稲荷の前を抜けて魚河岸に入ると、あまりに森閑として日中のこととは思えない。小鰭の青い肌は朝の感じがするとは生きのよさをいうものだが、この一帯では昼は夜なのだ。白い光の中の眠り、この違和感のためか、なにやら存在があやふやになっているような気がした。汐留川の向こうの景色、つまり御浜御殿、延遼館、浜離宮へと変わりゆくものの景観さえこの危うげな翳りを帯びているように見えなくもない。いつのまにか、「夢の破片は泣く」「世界の涯が自分の夢の中にしかないことを知っていたのだ」と言い残した二人の詩人の顔を思い出していた。そして、孤独になればどこにいても何をしていても同じことだと思った。三日肉食せざれば骨皆離るというのは魚肉のことだが、三日夢を見ざれば魂は離れていってしまうのだろうか。たしかに、死んでしまった方が見事だと思わるるときに死ぬる人もある。
「ハイヨハイヨと鯛が通る、ヨツシヨヨツシヨと鮪が通る、御免御免と蛸が通る。こゝの往来は右も左もない。海の中でゐつけたやうに、鮪でも鯛でものさばつてゐる。たゞ人間ばかりが、細い路を前と後とで押合つてゐる」これは築地に移転する前の、日本橋の方の殷賑ぶりを綴った記事なのである。
 さて、海中より出現したといわれる波除稲荷の御神体と、浦島の夢を啖う竜宮城とは、何か繋がりでもあるのだろうか。

(初出 詩誌『緑字生ズ』第4号、1984.12刊)

デリュージョン・ストリート 05 エメラルド

エメラルド

 くすんだ緑色の路面電車が軌道の継目で轍の音を響かせている。たれこめるような暗い空が広がり、その都市に大陸的といわれる渇きがなければ、おそらく陰湿な土地柄としか感じられぬであろう。明治の頃も、大正の頃も、その景観は変らなかったはずだ。『暗い流れ』という秀作を遺した小説家は、きっとそのようなことに触れたかったに違いない。けれども、その都市を離れて以来、彼は北の国の渇きからも離れてしまったのだろうか。
「望郷は珠の如きものだ」ある詩人の、この名高い一文で始まる文章をその都市に向かう列車の中で読んでいたとき、車窓から見はるかす雪の原野がことさら愛おしいものに感じられた。子供時分から、雪は嫌いだと思いつづけていた気持が、わずかに揺れ動いたのだ。満員の車輛では、ひどく泥臭い土地の言葉が熱気のように渦を巻いた。いつの頃か、プラットホームに寂しく笑う少女がいたが、乱れた髪が粉雪にかすんでしまうと、永遠に見失っていた。
 そのことを思い出しながら、駅頭からふたたびその都市を眺めやると、路面電車の姿はどこにも見当たらず、間の抜けた道路を中心に留めたつまらない街が雪に埋もれているばかりだった。煉瓦造りの旧庁舎が保存されている方の道へ迂回してその都市を南北に仕切る公園に辿り着くと、凍りついたベンチに腰を落とし、かじかむ指をなだめてパイプに火を入れてみた。そして、いつからか時間が滞っているように感じていた。
 肉体の時間は、こうした哀しい都市とともに確実に推移している。しかし、それが生きている時間のはずはない。ただの生物学的な個体の推移にすぎぬはずだ。人は、もっと別の、数限りのない妄想の世界を編み出すことができる。〈地球の夢〉が数十億の異なる現実を同時に存在させるように。そこまで考えて、夢は現実にもうひとつの現実であり、より多くの現実である、とひとりごちた。

(初出 詩誌『詩学』第39巻第2号、1984.2刊)

デリュージョン・ストリート 06 祝祭という詩篇――加藤郁乎頌

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祝祭という詩篇――加藤郁乎頌

 祝祭の季節が移ろっていったためか、生きかつ死ぬでもない半ちくで妙ちきりんな世の中と相成った。そしてその頃から、時代の悪い風が吹き始めた。街の中には夜であるべきときですら何やら人工的な光が鉱物じみた粉片となって漂い、宙宇にはまた、罅割れた無数の透明な球が浮かんではゆらめき、ぱちんと音たてて弾けていた。石鹸玉のような物体オブジェばかりだと、口をへの字に曲げてみた。
  シャムペイン伯より一荷、反時代の矜り
  出会ひとは今を命日とする塒だらうか
  野巫やぶの外では神が球根をおきかへてゐる
“EKTOPLASMA”の句が凛として清々しいのは、何よりこの句の姿勢が超然としてこの地上を跨ぎ越えているからである。
 ところで当時、そのことと関連してだったか、純粋思考ということを考えていた。それは永続的な否定思考の向うに生み出される無限の増殖性ということである。――物質という存在が存在の一形式にすぎず、その形式を充たすべく凝縮された時間によって造形されたにすぎぬものならば、地球とその周辺はいかな実質でもありえない。換言するに、瑣末な発明品でしかない時間の法制化におもねて、失われた宇宙領を奪回せんと謀る、ここの衰えた神によって鎖された実験場にすぎぬというわけだ。だが、ここには時間が存在せりという与件だけを応分の神聖儀礼にしたとしても、多神的な厖大な数の宇宙領がすでにここここの作法に従って交錯している。思考すべき存在はなべてそれぞれの宇宙領の露頭であり、ここの側から見ればそれぞれの宇宙の代表的存在であり、地球的実験への介入であるやも知れぬ。だから、地上的存在としての神聖儀礼、つまり肉から解放されれば、それぞれの宇宙領へ帰還することになるのだが、そのときいささか混濁が生ずるようである。思考とは無限の否定という姿勢である。混濁とは、帰属せるとか収斂さることに対する直観的な戸惑いを惹き起こす思考に他ならない。純粋思考とはこれを突き抜けることによって到達できるものであり、それ自体思考的実体であり、ここで改めて己れの帰属すべき宇宙領とその全体性をさえ否定しつづけ、ついにはまったき別箇の宇宙として自らを生み出していくのである。純粋思考とは窮極の次元の存在であり、宇宙的次元ではその根本原因であり、この非和解的、永遠の否定運動が存在と宇宙の無限の自己増殖を誘きだすわけだ。――

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デリュージョン・ストリート 07 (妄想ノート) 序 妄想ヲ生ズ

序 妄想ヲ生ズ

彼ハマズ世界ニ対シテ復讐ヲ敢行ス。ソレハ己レノ存在ヘノ断罪デアル。
彼ハ親兄弟ヲ殺戮ス。ソレハ身体ヲ流レル血ノ贖罪ナリ。
彼ハ偶然ヲ誅殺ス。ソレハ必然ヲ屠ルコトヲ使命トス。
彼ハ世界ノ歴史ト一心同体デアル。
彼ハ世界ノアリウベキ姿ヲ無ノ淵ニ陥レル。
彼ハマズソノ性無垢ナルヲモッテ、無垢ナルモノト交感ス。
彼ハ表面上努メテ凡ナルヲモッテ、行動ノ非凡ヲ成就ス。
無垢トハアリアベキモノデアッテ、神秘ノ側ノモノデアル。
彼トハイッタイ何者カ。

世界ハ単純ナ錯誤ニヨッテ存在スル。
悲哀ノ根ハソモソモノ初源デアル。
世界ハ悲哀ノタメニアリ、悲哀ニスギナイ。
悲哀ハナニモノニモ捉ワレヌ点ニ起因スル。
サスレバ初源ハ錯誤デアル。
ツマリ初源ハ存在シナイ。
存在セヌモノハ夢デモアリエナイ。
デハ、世界ハソモアリエナイノデアル。

ワガ声ハ、ワガ腕ハ、幻ホドニモアリエヌノデアル。
デハ、我ラハ何者デアロウカ。
ワレラハアリエヌモノヲ見ウベキ不可能デアル。
不可能ハ存在シナイ。
ワレラハ現ニ存在シナイ。
マシテ、ワレラノ頭脳ソノモノトイエル絶対ハ
夢想ノ夢想トイウ無意味ナルベキモノ。

世界ハアリエモセヌモノノ想像力ニヨッテ成立スルトイウ無意味サ!

千年ノ悲哀ト孤独トハ、
世界ソノモノガ夢想デアリ、
ソレヲ夢見ルモノモ夢想デアリ、
夢想ノ永劫循環トイウ存在ノ無効性ニアル。

無効トハ失楽、ツマリナニモノモアリエタコトハナイ。

(初出 詩誌『緑字生ズ』創刊号、1983.7刊)

デリュージョン・ストリート 08 (妄想ノート) 妄想宣言

妄想宣言

我らの時代はあまりに遠くへ押しやられてしまっている。
我らの時代は永遠に来ぬのではないかという直立的な諦観から始めるべきではないのか。
時代そのものを断ち切ったときこそ我らは我らの愛するものの側についたというべきではないのか。
それはある種の狂気の産物、妄想の全体に相渉ることになるのではないか。
少なくとも近しい至玉は逝ってしまっている。
我らは百年と千年の計をもって、つまりは歴史の時間と肉体を完膚なきまでに我らと切り離した場所から我らの結託すべき詩という全体に結びつくべきではないのか。
もうすべてを無視してもかまわないのではないか。
もともと我らは我らの方法においてしか、詩を、文化を愛することのできぬ場所にいたのである。
我らが書くことの現実は、それこそ現実と呼ぶことを拒絶する高みと、おおそれこそ妄想の高みにしか存在せぬものであろう。
軟弱な土壌は壊滅するであろう。
世界は軟弱な土壌そのものである。
我らの現実はそれこそあまりに空想的な、世のすべてから忌み嫌われる際限のない空虚にある。
君らとは無関係であると一言いって、我らは我らの唯一なしうる仕事に精を出せばよい。
よしや、それが数億年の先であろうと、我らは尻を割らぬ覚悟だけで、死は死ぬことだけであるような、純粋な妄想の宇宙に飛び出してゆけばよい。
我らは絶対零度と絶対の燃焼を唯一可能にできるものである。
文化というものは何をなしているかということでしかない。
人は死に、人は生れ、星の屑にも満たないただの瓦礫にすぎない。
また文化とはいわゆる存在証明でもない。
ただ、あることの覚悟にすぎない。
それは証明もされない、それは何ものかの完成でもない、それは己れを極限に合わせることである。
それが何ものかであるとすれば、どれだけの極限を見やっているか、そのことによってその不合理を相手にどれだけ喧嘩ができるかにかかるという、己れだけの問題であろう。
すでに世界はない。
すでに時代はない。
すでに永遠に未来は、よくいわれるような形ではありえない。
我らは宣言すべきか。
いますべてとは無縁である。
無縁でないものこそ存在しない、と。
我らは、書くという、何ものとも無縁で、無意味で、無価値で、ただかくあらざるしかありえぬという方法性だけで己れを律するという、覚悟だけをもつものである、と。

(初出 詩誌『緑字生ズ』第2号、1983.12刊)

デリュージョン・ストリート 09 (妄想ノート) 妄想ノート

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妄想ノート

〈人の海〉の中での真正の孤独/
たしかに実在的現実が死んでいる空間に感じられる。だが、現実とのバランスの力が圧倒している間は大丈夫/
二十代初めの神秘体験は、望んでそのような、死んでいる、つまり接触不可能の世界を招来せしめようとして、ついにはそれがそれ自体で実在的現実を圧倒して存在していたような形跡もある。〈妄想の発現〉/
妄想は共同社会に認知されると妄想ではなくなる/
妄想は構築力を持つ。表現ではない、つまり交通形態を持たない。〈連想法による言語の自働性〉コンピューターを使用した無意味連想法の場合、あらかじめ意味伝達機能の定められているコンピューター言語にランダム関数という反意味的有意味性が装置されるだけで、意味伝達の遮断という意味性を目的として機能し、アウトプットされたものは構築力を持たない、意味性の死骸としてのパーツの羅列となるにすぎない。これに反して作品言語は初めから通用性を持つ必要はないから、連想法という初歩的手段でも、生きた無意味性とでもいうべきある程度の構築力のベクトルを示す。そしてそれは一箇の人間存在が世界を相手に妄想して取り込んでいる内世界と妄想的自己との関係から構築されるものであって、現実つまり外的な世界という先験性、肉体的な自然という絶対性とは無関係である。あらゆる飛躍が可能なのは、この妄想建築の場面である。だが、これが共同社会で認められれば、妄想はたちどころに崩壊し色褪せてしまう。つまり、現実的な意味が生じたときに、飛躍は飛躍でなくなり、ただのあたりまえの停滞になる/
〈時間の超越〉時間が光の直進性によってその絶対性を保証されるならば、光は別の光の集合による偏倚を受けて、終局的にはつねに渦状の滞りでしかない。またその渦を形成する光を直線的に捉え、その内部でしか方向感覚を持たぬならば、光を辿るという無限の堂々めぐりをすることになる。空間が時間の対語ではないという場合においてのみ空間という語を用いるならば全体性は時間を超越できるだろう。つまり光を軸とする幾何学、物理学とは無縁に、光の迂遠性を星屑のありように置き換えられる〈眼〉を持つことの可能性。宇宙膨張説は光の迂遠性を光の内側から見ることによる渦状の限定性ということ。光を横切ることが空間の全体把握になるということ。そうすると、たしかに宇宙は無辺である。その理由として、無限にさせるべき光の内側の論理をも抱え込んでいるとの謂。捩れが及んでいるのは全体ではなく、光に照射された時間によって決定される宇宙だけであり、〈宇宙は空間的に無辺であるとしか妄想できない〉。ここで我々は、光がもっとも遅滞していて触れることさえできる〈物質〉が宇宙のありようと無限の近似値をもち、普遍というものが超越的な思考のうちにしかないという背反を、それぞれ同時に充たすことができる。〈物質は幻惑〉〈デペイズマン〉。妄想は茫漠としながら拡散し、三角測量法。文学とはこのもっとも自由な妄想の反現実。物質と世界との一致/

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デリュージョン・ストリート 10 (妄想ノート) 妄想分析

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妄想分析

 あれから数年後のある日の午前三時、寝床の中で夢うつつにして謎の天人五衰を妄想分析していた。/
聡子は権力構造そのものであり、透と狂女は肉体と精神、美と醜との両義的な一致、あくまでも透は転生の真物。これら六十年間の時の捷径が本多の夢想であること。肉体の美と精神の美とをともにもつのか、肉体の醜と精神の醜をともにもつのか、いずれともつかぬ不可思議の胎児、生きて誕生するのか死児となるのかのも不分明のまま、本多の夢想が予望として透と狂女の間に生んだ唯一の現実がこの書に存在していないがゆえに、確乎たる存在として、本多が、いや三島由紀夫がそれに賭けているもの。/
豊饒の海が本多の邯鄲夢であり、その本多を夢見るのが三島であるならば、肉の衣のその中に、人に知られることのないMarxismへの暗い、熱烈な情熱が。/
pathosの文学。外に現われることを極力押し止める密教的な匂い。自決さえ肉の衣であってみれば、自己顕示などの下司の勘ぐりどこ吹く風、disguiseされた反面教師としての暗鬱たる情熱に支えられていたことは……。/
それこそ永生する人民、愚昧で醜悪である人民と、それゆえの彼らの革命的な情熱の至純さに、まるで対極的な存在、つまり透を注入し、革命という畸型児を現出せしめようとしたのではないか。自らの死が何ものをも動かさざることを、人民は愚かで醜く、世界は聡子のように傷つけられることもなく、すべてが夢想の譫言として片づけられることを了解しつつも、肉体に精神を注ぎ込む、あるいは精神に肉体の鎧を着さしめるという、三島由紀夫の最後の夢想を自死に託したのではないか。/
あの夢想する鼠の話という陳腐さこそ、三島の、左翼に対する唯一の願い。だが、左翼の現実こそ、永生の衣をかぶった不純さ、俗物性。三島は夢想の革命を、時間という腐った現実に転換したのであるか。彼は彼の偽装を賭して人民の美しき心を問うたのであるか。/
文学的な質の高さからは春の海がもっとも優れ、作品の力という意味では天人五衰が傑出している。そして三島由紀夫の偽装の極みが奔馬の勲である。だから、三島の本質的な偽装としての勲は革命的であり、そこに肉体に対する決意が、自決に至る人生が決定づけられたのではないか。暁の寺は韜晦であって、この部分には何の愛着も抱いていないようにもみえる。/

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デリュージョン・ストリート 11 (妄想ノート) 妄想の破片

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妄想の破片

〈魂の形態〉勾玉、渦、光の渦。頭部の形プラス尻尾という構成。首から下の肉体は尾部の発達したもの、末端。光の渦は無を中心に持つエネルギーの形、ブラックホール。渦の動的な姿を示す尻尾、精子。卵子は受け容れる器。精子というエネルギーが卵子という器の中で充実し、外枠を押し広げて成長する。/
宇宙の卵殻の中で散在している光の渦が、受胎空間の中を移動する。一箇の光の渦が閉じられた宇宙であることから、この移動は〈横切る〉という飛躍。/
人間の形は女性的だが、繋がるべき生命力の形は男性的……。/
〈生命装置〉のradicalな発現は、(1)生命の実現、つまり細胞レベルでの分裂・増殖の正のベクトル、(2)生命活動の抑制という負のベクトルに代表される。生命活動とはこの正?負の機能を同時に支えることに他ならない。生命遺伝子〈オンコジン〉。生命の正?負の機能の原因として、この物質が装置されている。/
〈ガンという疾病〉は生体に異物を対峙させるという、(2)の一方法。オンコジンは、発ガン因子(イニシエーター)をガン化の記憶を呼びさますものとして、発ガン促進因子(プロモーター)をその記憶の連続性を保証するものとして、日常的に用意し、これをコントロールする。/
ガン自体は純粋に異細胞の〈生命活動〉であり、宿主細胞は異細胞の側から見る限り、エネルギー源としての生体の維持に不可欠の要件である。だが、〈ガン細胞〉の自己目的はガン細胞自身の構築性にあるわけではなく、負のベクトルに対する生命活動の正方向という抑制を解放することにあるので、宿主細胞の維持は過渡的なものである(初期ガン以前の段階、ガン細胞の数が数十万箇に達して疾病として活性化するまでは、逆に相互の維持作用が必要であること。異細胞の存在がγインターフェロンなどの免疫物質の誘起によって、活性化に至らない疾病因を排除すること)。/
この過渡性、オンコジンの正?負の領界における指令の傾きに関与する自然年齢。ガンの疾病化の始まりを示す中心帯。近代までの生命時間、五十前後と対応。/

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デリュージョン・ストリート 12 曰く

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曰く

 情況とか状況論ということがいわれていたのはついこの間だったような気がするが、いつのまにかそのようなことどもは影を潜め、近頃ではいろいろのことが相対化されているようで、それに伴って現実というものが宙に浮き、その意味あいも下落しているらしい。いっそこのような現実を指して状況的現実と呼ぶのも一興かもしれぬ。なぜなら、この現実とは、すぐ影を潜めるような状況性であるらしいからだ。
 その状況的現実の中で、情報という問題は最もホットなものとされる。そういえば、この十数年来のソ連情報に関する工作の成功は瞠目すべきものである。またそのような伏線に沿って、大韓航空機事件、アキノ暗殺、ラングーン事件などを眺めると、このアジアでの生々しい動きがはたしてロスアンゼルス・オリンピックに繋がるものかどうかは知らねど、なにやら筋の通ったシナリオが浮かぶのは当方のうがちすぎか。
 ところでそのオリンピック、高邁なスポーツ精神、世界平和などというのは赤児の寝言にしても、現代世界のチャンプであるアメリカがその総力を集めたにしてはなんともチャチで子供騙しの感は否めない。成金趣味は致しかたないが、飛行船、人間ジェット、聖火ランナーの茶番劇、点火の際のくだらぬ仕掛、大統領の大根役者ぶり……、開会式を見てさえ、どこに今世紀最大の国家の力と知性があるというのか。このところ過激になってきている謀略の仕掛人たちの粗雑なプランと同じで、底の割れるような浅薄さである。
 その様子が衛星中継で日本に同時に伝えられるのだが、TVの箱の中だけの熱狂というわけで妙に白々しい。TVから伝わるものは感動やら昂奮を強制するのだが、そんな手に簡単に乗るものではない。近頃流行はやっている演出技法に、この強制、つまり無理矢理にブームを拵えるというものがあり、これが成功しているといってはまた強制する。もちろん流行などというものばかりでなく、政策的見地から意図的に優先させられる情報というのもあるのだが、TVの箱の中の存在はそのような情報と交接しているがゆえに、いつのまにか世界の中心が箱の中にあると本気で錯覚しているらしいのも愛嬌というものだ。
 もともと文化というものが現象といわれる形で切り取られるとき、そのような性質を発揮するようだが、このところの文化の状況的現実でさえ情報の力というものに支えられているように思われる。いわゆるマスメディアである。

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デリュージョン・ストリート 13 かぎりのないはじまり――土方巽をかさねて

かぎりのないはじまり――土方巽をかさねて

 あの人が見ておきたかったものとは何か。
 それは、臨終させるといった光そのものではないのか。光の後につづくものではない、光そのものの始源。つまり存在という、あらゆるものを払拭し、ただそのものでしかないという根源。形はいい、声もいい、強さもいい。ただ眠ること、ただ眠りながら戦うこと。それが恒常的に存在の始まりなのだから。
 物質で何ができたって、ただそれだけのことだ。神秘が現れたってただそれだけのことだ。次元が違うんだ、永遠という奴は。おお、永劫の戦闘。誕生だけの無限。
 福原哲郎の踊りにはそれがある。だからこそ、肉に素直なのだ。心を通して存在を慈しむのだ。足が踊る。一流の舞踊手はまず足で踊る。刃物のような曲線を歩く。足は埋もれてゆくためにも、飛び立つためにもある。もうそれはどちらでもいいことなのだ。それからその手、その腕。屈曲するときは光をいとおしみ、きりきりと伸びるときは光を手繰り、生み落とす。福原は動かない。もう踊るということは地上的な動と静とも無縁になってしまっている。もうつながる必要のない、断乎たる佇立、魂そのものの現前。
 あの人がつなぎとめたかったのはそのことなのではないか。だが、それはつなぎとめられぬからこそ深い哀愁の色あいを保ちつづける。あの、蒼白な自由。そしてそれは光を帯びる。光が発揮される。光は、物質は、精神は、いつでもどうとでもなってしまうものだ。たいしたことではないのかもしれない、この宇宙と同じように。
 このようなことは非現実を現実にかかわらせることの現実的な突出であるが、心が肉の世界につながるものであれば、これもまたそれだけのことだ。問題は自ら誕生できるかどうかということであるのかもしれない。創造力と戦意が思考という卵の滋養であるように。

(初出 福原哲郎舞踏会「内観が外の山I」パンフレット、1988.1)

デリュージョン・ストリート 14 夜が準備され、はじまりが……

夜が準備され、はじまりが……

 その夜、濃紺の夜空を背景に、金星と北極星の造りだす素晴らしい直線上に皓々と反り返った三日月が位置するのが見られた。冬のあまりに暗い路地に迷い込んでいた、ものを創るということが、ふたたび生じようとしていたために違いない。
 一九八八年一月二十三日、高い天井が抱く中空の不思議なアンバランスに支配された教会という聖遺物器の底で、福原は立つ。骨のはじまり、いや、塩そのもののはじまり。
 肉体は傾斜を生きていた、凍りついていた。しかし、傾くということはとどまることであるはずはない。とどまるようにみせて、明らかに重力という神託に向き直り、その源に匕首をつきつけているのだ。これは愛だ。あらゆることどもの無効を宣する超愛だ。
 この踊りはなまなかなものではない。それを心すべきだ。
 また、踊りであるとか踊りでないとか、その他、何ものであるとかないとかとはもう無縁のところにきてしまったのかもしれない。我々は、そのような場面に立ち会ってしまったのかもしれない。
 福原は眼のうからでもあるので、足を、腰を踊りながらも、右手を空間の距離を越えて差しのべ、時間というお喋りを黙らせてしまうような炯々たる双眸でこちらの向こうを見据えたきり、何ものかに踏み込む際の姿勢の傾きをゆるがせることもなく、永遠の、静かな戦いをつづけるのだった。
 そしてそれは囚われた何ものかの部分に辿りつくなどということではなく、かの人が生き死にをかけて突っ立つことを身を以て示した、ものを創り出すことの激しい自由、激しい苦しみ、激しい暗黒、激しい光の真っ只中に向かっていくということなのである。

(初出 福原哲郎パンフレット、1988)

デリュージョン・ストリート 15 ああうるはしい距離デスタンス

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ああうるはしい距離デスタンス

神谷俊美第四写真集『山海図』より
神谷俊美第四写真集『山海図』より

“山海図”とは中国上代の、十八巻に及ぶ大冊の祈祷書「山海経」の異称である。幾多の時代を経て編纂されたこの時間の書の彼方に、広袤とした自然と秘められた神々の物語が、炎の如くゆらめいている。これは亡霊なのだろうか。
 神谷氏の作品に触れてこの謎めいた濛気にとらわれるのは当然であった。軽薄な抒情に陥りがちな風景写真が、見事に、絵画に近い質を保ちながら、特異な時間の翳りを帯び妖艶な熱気を漂わせ、不思議な物語を囁いているからである。欝蒼とした樹々の奥から曳れる細く深い声のように、静謐にしてかつ激しいうねり、――あの鏡の王国に匿されたローマンス。
 光を領有するものに幸あれ。初めにあるべき言葉は光の息子たちの媾合から誕生するのだから。
 写真については門外漢に過ぎないので、技術の問題について述べることは控え、作品の問題として、つまり時間の問題に触れてみよう。神谷氏の写真が作品として眼前に示されている時、それは絵画とか詩篇とかのありように似ている。それ故、作品行為としてみると次のようなシェーマが考えられる。
 A、自然(被写体)とカメラ(レンズ→フィルム)
 B、カメラマンとカメラ
 C、現像・焼き付け等(推敲過程)
 ここで、自然とカメラマンとの関係は、肉の教養として前提でありながらも、それ故に行為の問題からは除外されるべきである。なぜなら、それは技術の問題と同様に、当人の事実に過ぎないからである。だから、除外することに依って一葉の写真は詩篇として語り掛けて呉れる。カメラマンとはそこでは契機の偶然性であり、自然は現実性を捨象した擬態として考えられる。Cは擬態としての自然を全体性へ向かうものとして擦る行為といえよう。さて、擬態としての自然が全体性、つまり形態をもつということは如何なることなのか。形態とは肉、すなわち物質である。物質とは、だが現実を意味しない。倒錯論法を使うわけではないが、現実とは物質の擬態である。少くとも現実という名称で呼ばれる空間に過ぎない。勿論要素ではあるが、それも見かけ上のことだ。あるいは時間を線に例えると、その線を垂直に切断した時の断面に過ぎない。物質とは、その線の方向に切り同時に垂直に切ったときに現れる何ものかである。換言すると、時間の全体が世界とともにその一点に凝縮され、そうすることに依って何ものかへと開かれるものである。だから物質とは逆からみると、現実の擬態としてその一部に含まれるかのようにみえながら、現実とは最も遠く、現実を拒み、拒むことに依って何ものかヘ向かうものである。この何ものかとは、目眩く作品宇宙のことである。そのような発想からさらに独断すれば、物質とは行為すなわち事件自体を自らの動詞・滋養として摂り、物質化してゆく。それ故、Aは時間の方向に沿った世界の切断であり、Bは垂直の切断であり、カメラマンはそれを同時に行う契機の偶然性であり、Cは事件を物質に取り込む作業と言えまいか。

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デリュージョン・ストリート 16 窗櫺譜そうれいふ  視線の造型――物質創造のドラマ

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窗櫺譜そうれいふ  視線の造型――物質創造のドラマ

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?谷俊美第六写真集『窗櫺譜』より

 ダイヤモンドの内部に囚われた処女を描いたのは、周知の如く、アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグである。この掌品“Le Diamant"を読むたぴに、時間と手間とをたっぷりとかけた豪華な料理を食するような喜びに浸ることになるのだが、それにもまして緻密に構成された同心円的構造という容器の完璧さに舌を捲かざるを得ない。女主人公サラがダイヤモンドという物質の至高性に至るまでの階程、つまり、螺旋階段、円形の踊り場、金庫室、プリズム型倉庫、抽斗、皮袋、空色の包装紙、拡大鏡へと収斂されてゆく内部への旅が、聖堂をはじめとする聖遺物器やスウェーデンボルグの人体宇宙説などに匹敵する入れ子構造の典型と見ることができるからである。その極限ともいうべき結晶体にサラが封ぜられようとする時、マンディアルグは「どちらが品物で、どちらが鑑定人あるいは保証人であるか」と眩惑の思いを曳している。「窗櫺譜」について感じたのも、このことである。
 ここには窓があまりにも多い。窓に関わりのない作品は一葉とてないと断じても差支えあるまい。もっともカメラ自体にレンズとかファインダーという窓が内蔵されている以上、驚くほどのことではないのかも知れない。人間の眼球からして硝子体や水晶体という光の窓がある。視神経を脳髄の窓、脳髄を精神の窓と考えることもできる。このように肉体の内部、肉体とカメラ、さらに美術館の窓……という窓の複雑な連なりが無限の入れ子構造として構成される時、どのような事件が生起するのだろうか。マンディアルグは「視線が壁面を貫くためには内側にいなければならない」という具合にダイヤモンドの光学現象を説明している。壁とは言うまでもなく作品行為である。では、作家は己れの視線をカメラの中に、連なる窓のそれぞれに封じなければならないのだろうか。
 この作品集のタイトルを直截に表現するような映画博物館の素敵な楕円の櫺子窓から覗く深い樹木、オーストリアギャラリーの薄紗のカーテンを透して見える公園、ウフィツー美術館の窓枠を強調した外形などはそのような内部から見た外部であり、窓が光を味方にしているために、外部から内部を窺うことができない。ここでは視線の逆行現象は起こらず、あくまでも水平に外に広がる同心円の波紋として存在している。では、アルベルティーナの建物内部の屈折した階段、向こうの窓、一階の扉とコンクリートの床などを収めた作品はどうなのだろう。まるで自分の脊髄を覗いたかのように、あるいは神経線維を映し出しているかのように思えないだろうか。ヴェネチア歴史美術館の作品では、扉近くの見事なレリーフを中心にして聖者の左手と像の全体の影が、脳髄の襞に現れる光と翳りとの危うい、暗示的な関係として見てとることができる。これらは、視線が視線を逆行し、肉体の内部に向かうために起きる、いわば入れ子構造の垂直の波動と考えられないだろうか。

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ある男の日記 (奇妙な断片 その一)

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(奇妙な断片 その一)
その夜、闇の中を歩く赤い顔の男を見てしまった。私はたしかに酔っていたのだが、その男は酔漢ではなく、ピエロでもない。いまから思うと、彼は受難者なのである。男は年老いた象のように濁った眼をうるませ、鼻のかわりに長い舌で瞼の下を舐めている。おそらく、舌が届かないので、想像上の〈眼〉を舐めているのだ。男は抽象的な〈眼〉を玩具のように口の中に入れたり出したりしている。掌の上で転がしたり、宙に浮かべたりもしている。これも、妄想行動なのだろう。それは、私にしても同じことだ。

彼(と私)は長い舌でその〈眼〉をねぶりながら、「ちえっ」と舌打ちした。光が失われた真っ黒な闇空に、青白い蛍光塗料が刷かれて「ちえっ」に相応する記号が現れる。もちろん、それは漢字でもなく、ひらがなでもなく、英語でも、アラビア語でもない。実体を伴わない概念の記号。そして、大音響とともにその記号自体が分解し、またたくうちに男も闇をも解体し、消去していく。(私は口をつぐむしかない。)

空でも反‐空でもない、何もないはずの場所に、いつのまにか取り残されていた別の男が(私が)赤い顔になって次のように呟く。
「子供のころから、わたしには白湯を飲む悪癖がある。なぜ悪癖かというと、電気ポットの中で煮えたぎった湯をアルミの細い注ぎ口からラッパ飲みするのだから。かなり熱い湯なのだが、かまわずごくりと口に含み、咽喉に流し込む。もちろん、舌と咽喉の粘膜が焼け爛れる。火傷した咽喉の粘膜が食道から奥に垂れ下がってくるのが分かる」

「その刺激と自傷からくる興奮に、わたしは麻痺するのだ。腸という筒でできた人間を、入口から串刺しにする感覚でもある。まさしく自虐行為なのだが、何度も繰り返すうちに湯の量と温度と頻度が増し、苦痛の増加とともに、それは快楽につながっていく。懸壅垂のどちんこから剥がれてぶら下がる粘膜を引きずり出したい欲求が昂じるが、さすがに危険なので躊躇する」

「自分自身でも、その苦しみの連鎖が終わらないことは承知しているにもかかわらず、やめることができない。白湯を体内に流し込むことに拘泥しているのだ。これは、犯罪意識に通じているのかもしれないし、常習性があるので麻薬にも通じているのかもしれない。おろかなことはなおさら断ちがたく、そう考えると後先のことも忘れていっそう回数が増えてしまう。自慰行為と同じことだ」

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現代詩論 悪魔の受感 慶應大学『文連新聞』, 1974

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悪魔の受感
  ――作品言語の夜に向けて
『文連新聞』第3号昭和49年4月6日付(発行/慶應大学文連常任委員会 1974.4.6)

「この解体を自分には関係ないことだとあざ笑える人たちは幸せだ。僕はその人たちとついに無縁だろう。もし僕が詩人なら君たちはもはや詩人ではない。もし君たちが詩人なら、僕はもはや詩人ではない。僕の存在が状況とふれあっているか、君たちの存在が、状況とふれあっているか、それはいずれ明らかになるだろう。」(『現代詩手帖』1968年4月号、中江俊夫「語は語、そのままで――『語彙集』」より)

 
 異様なもの、妖しげな気配、おそらく耐え難い戦慄、その奇怪な動向が、亀裂を帯び破砕寸前の現在を足場にして翔び上がろうとしている。爛熟という死、腐敗という多くの微細にわたる罅を拡げながら、卵の殻には、不吉な鳥、異様な生の足跡が刻まれる。卵自体においてはその内部に死と腐蝕とを抱え込むことによって可能なのであり、その外側に与えられるのは、異様なものの現出へ向ける予告なのである。現在はあらゆる過去の吹き溜まりでしかなく、ついには現在を超え得る何ものもない。現在はただ己れを到達点という、それだけで過去でしかないものに委ねることにより、連続的に終了しきっているのだ。終了の絶えまない持続、否、それは考え違いでさえある。終了の亡霊であるというべきか。またぐつぐつと汚濁に充つる腐敗であるとでも述べるべきか。だが、一切はこの死の現在自体の暗示するところのもののうちに孕まれてはいる。現在という殻には、不吉な鳥の足跡が印される。
 爛熟し、罅割れ状態の現在とは何にもましてこの異様なものへの予兆である。過去を包み込んだ現在の殻とは、過去の累積する死の排泄物でできあがったもののようである。それは、壁であるとか限界であるとかというよりも、ある関係の固定観念である。殻と卵の内容物との関係からいえば、殻の内部、楕円の球空間に己れの全体を決定されることのうちでだけ、内容物は殻に対してある関係を取り結ぶのであり、そこでは、殻を破って鳥になるということは死と同義の禁忌である。だから、のっぴきならぬ関係をもつ卵と殻に訪れるのは、タブーを犯すことによる破滅か、己れの死と腐敗を通じてもろともに解体し尽すかの、いずれかである。だが、そのいずれにおいても現在が、伝統的なるものという過去の殻で構成されている以上、内容物と殻に与えられた死の翳こそが暗示する、外側の、ある異様な、そら恐ろしいものが、最初にその表面に爪跡を残すのである。

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現代詩論 徴候としての現在〈上〉 『明治大学新聞』, 1973

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徴候としての現在〈上〉
  〈作品言語〉の夜に向けて
『明治大学新聞』第1309号昭和48年11月15日付(1973.11.15 写真も同紙掲載, 22歳当時)

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「ところで、現代が誕生の時代であり、新しい時期に至る移行の時代であるのを見ることは、別にむずかしくはない。精神は、これまでの自分の生存と考えの世界に別れをつげて、それを過去のなかに沈め去ろうとしており、自己を作り直そうと努めている。なるほど精神は安ろうこととてもなく、いつも前進する運動を続けてはいる。けれども、子供の場合、長く静かに栄養をとったあとで初めて息を吸うとき、それまではただ増して行くだけだった前進のあのゆるやかさが断たれる。つまり質的飛躍が行われる。そして今ここに子供が生まれてくる。それと同じで、自己を形成する精神も、おもむろに静かに新しい形態に向って成長して行く。自分のこれまでの世界という建物の小部分を、次から次へと解体する。だから世界が揺れ動くのは、個々のきぎしによってしか暗示されないのである。現存するものの中にはびこっている軽卒と退屈、未知のものに対する定かならぬ予感などは、何か別のものが近づいているという前ぶれである。全体の相(すがた)を変えなかったこのゆるやかな瓦解は、電光のように一挙に新しい世界像をそこに据える日の出によって、断ち切られる。」
(ヘーゲル『精神現象学』序論より、樫山欽四郎訳)

 
 現在が現在を生み出す、己れを生み出す現在はあらゆる旧知のもの、神話、権威そのものの全体性をまたたくまに解体させ、己れを生み出す。時代は如何なる切り口においてもその徴候を呈し、まさしく、時代の末期的徴候において連続的に生み出される現在を暗示する。あらゆる権威とそれに寄与すべき宿命をもたされた作風は、完成度の高い構築物として、その緻密さ、構成の統一をめざしてはいるが、それこそ「徴候」そのものとして己れを壮大な瓦解に導くものに他ならない。
 現代詩において、これらの建築物に充たされている「作品―情況」というものはそれのみによって、既に徴候である。その徴候が己れの未来との接点として現われるとき、それらの建物の群自体がそのことに正面きって向きあえないばかりか、そのことを葬り去ろうとしている現象は、逆に徴候を鮮明に浮かび上がらせる。それと同時に、建物自体は腐蝕・手抜き工事などという他愛ないものにではな<、己れがめざした堅牢なる整序によってこそ己れの解体を進めていく。だが、それらは依然として「兆し」である。「兆し」は幾度となく葬り去られることによって、あるいは補修されることによって隠蔽されはするが、次第に、あるいは急速にその規模を拡げ、他の幾つもの「兆し」と通じることによって、それらの応急の策には手の届かない決定的なものとなる。結果的には、それらに身を委ねようが委ねまいがおかまいなしに、それらは己れを展開する。時代がまさに洗浄するわけではあるが、少なくとも、現代詩の尖鋭を自負するならば、これらを導き出し、導き出すことによってあらゆる加速の渦として己れを投入することが詩人の己れに課する任ではないか。

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現代詩論 徴候としての現在〈下〉 『明治大学新聞』, 1973

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徴候としての現在〈下〉
  〈作品言語〉の夜に向けて
『明治大学新聞』第1310号昭和48年12月6日付(1973.12.6 写真は22歳当時)

「作品言語」の自律する行方はまがいものを総じてふるい落とし、己れの彼方へ急速に馳せていく。まがいものによってしか構成されていない現在は、だが、単に自己崩壊を決定づける徴候として示されている。これは、およそ作品―情況の自然過程ではある。まがいものは己れのもっとも親しき友であった「作品言語」の側から無残にも自滅することを要請され、まがいものの支配する情況は完璧に霧散する。この事態を目前にし、主体としての自己を思うばかりに「語」を塞ぐ蛆虫が、いの一番に血祭にあげられよう。詩人にとっての主体的必然とは「語」の本意からみれば己れを作品自体へ向かわせる、契機の現実性に過ぎない。「書きつぐ行為」とは、憑かれる状態から「語」の自己運動へ己れの主体的必然を架橋させ、その渦中に身を投入するほどの謂である。
 あらゆる作品史は「前史」である。というのは、詩人の側からの主体的必然という水準にしか至っていないために、作品の側からの主体的必然を超えて作品の彼方へ飛翔する「はじまり」以前の段階だからである。故に、「前史」につきものの、夾雑物の芥箱こそ「作品―情況」の現在の姿である。現実性とか、政治、思想との屑をはねのけて翔び立つであろう「作品」は、だが、そうした己れの一切の過去、屑に致命的復讐を、己れへの誕生の燔祭としてとり行うだろう。最も手酷くやられるのは、情況の大半をしめ保身を決め込んでいるぐうたらと、最後のあがきに終始している「詩と思想、生活」主義者である。流行の詩人などというものは、この中を暗躍して裏取引している時代錯誤者に過ぎない。深刻がって理論派ぶる者ほど救いようがないことを知ればよい。

 郷原宏が、現代詩手帖七二年十二月号に「誰がことばを失ったか」という文章を書いている。ここにおける「言語共同体」という、作品―情況の批判的視点は、堀川正美などによる「感受性」の問題を即物的に解釈・拡大したものと見做される。作品―情況はすでに「感受性」を詩人の感性から解き放ち、現実―詩人の関係から「ことば」―詩人における「受感」の問題へと転化していることを思い知ればよい。

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現代詩論 〈岐路・迷路〉 その1 『明治大学新聞』, 1974

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〈岐路・迷路〉 その1
  ――岡庭昇の「成熟の構造」へ向けて
『明治大学新聞』第1314号昭和49年4月4日付(1974.4.4 写真は22歳当時)

 異なるものが、激しく、夜の全体を打ち震わせ、睡眠の底に貼りつく、悪鬼の、溌剌とした瞳と交合するときに、あのただひとつの、妖気に閉ざされた入口を垣間見ることができる。そのとき、落雷が。まるで花吹雪に直立する狂気の一群とともに。その地帯に、一斉に埋葬され破裂しそうな病巣。それを同一の空洞に見たて無限の異質な空洞へ向かわせる屍。だがその迷路こそが夢をいいあてる。その夢とは何か。夜がまことにそうであるような、X線で透視するときに映る翳、余剰のものをまるで存在していないかの如く取り扱う紙面。だがそれは断面というよりは、ごく部分におけるあらわれである。この夜が包み込む、実在としての白昼。だから夜は記憶の外にある。夜は、異なもの、正常でないもの、関係の外にあるもの、現存でないもの、のうちに追いやられている。だが夜の風土からは、白昼、正常なるもの、現在は、すでに葬り去られている。夢はその儀式であり、すでに死んでしまったことを入口とする、つづきの回廊である。「語」はここでは、つづきの回廊を逝くもの、夜と交わり、そのうちに己れの異なることを使者として向かわしめるものである。「受感」とは、この夜の底にありながら夜と交わり、そのことによって「語」と交わることをいう。
「語」の暗示するところのものは、「語」自らが突き動かす向こうのものへのかかわりの構造である。向こうのものにとっては、それは、はねのけ逸脱すべき過去である。「受感」とは、そもそも「語」自らが、向こうのものへ己れを仮託し、自らを拭い切ることの地平に、己れをさらけ出すことの、「語」自らの未来への受容を意味する。
 換言するならば「A」という表徴のもつ、視覚性、音の高低、リズム、意味に到達する喩、価値を構成するサンタクス、それらをまず第一に、時間的・空間的に変容させることによって、「A」の現在からその表徴を一切消去する、そのことにおいて「A」の全体性に、代わりとしてあらわれる「欠如」の特異な空洞(それは、すでに「A」ではない、欠如としての「A」に、まるで「A」そのものであるかのように重ね合わせていく「A」の向こうのものへ至る磁場である。)をまず持つのである。この「欠如」の空洞「A」は、すでに「A」の現在とは異質の時間的・空間的構造を持ち、そのことによって「A」はもはや裸のままさらし者にされ、己れのうちに閉じこもり、閉じこもることによって、己れの未来に我が身を仮託し、「A」の現在をその空洞からひっくり返し、だから閉じこもりは空洞「A」へ拡がることになるという、この自己増殖の受容こそが、向こうのものとの関わりの始まりであって、この連続する不連続の時空こそが、「語」が「語」へ向かう根拠としての「語」の受感を示す。

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現代詩論 〈岐路・迷路〉 その2 『明治大学新聞』, 1974

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〈岐路・迷路〉 その2
  ――岡庭昇の「成熟の構造」へ向けて
『明治大学新聞』第1316号昭和49年4月26日付(1974.4.26 写真は22歳当時)

 光芒の旅程。だが死の群は全天を浮遊しつつ、ぼんやりとした明るみを死の風で焦がしつづけ、熱病の大陸に舞い降りてゆく。文字の並びは酸化を始めながら帰路を示し、尿のように噴き出る夢の数々は、帰路の輻輳としたあとどりに鏡を配置する。回帰するものの行手には、己れを映し出す鏡の迷路が現出し、己れの一切合財の絡み合いだけが循環している。だがその帰路を示すインデクスの向こうにまた、何のあらわれもない無というだけの、恐るべき迷路が存在している。上下左右前後方がまるきりに消失して――。そのインデクスのある地点こそ、岐路を示すものである。
 おびただしい架空。暦を抜け出すもの、脳髄を抜け出るもの、地図から抜け出るもの、地底より這い出るものの織りなす際限のない混濁とその景観。それらを命名するものは未だ存在しえず、歪んだ空のへりのひるがえされた向こうには、険しい棘の羅列がある。それは数億年の集積する眼の痕跡のようでもあり、報復の部族とでもいうべき、無数の不吉さ。
 語の本来は、この妖しき無の迷路のうちを彷徨する無の全体性のうちにある。あらゆる無規定と無為、あらゆる存在論と非在、始源と極限(リミット)、まるでそれらそのものを己れの肉質にしえているもの。語は、自体で逝くものである。それは回帰したり循環したりする余裕などはなく、狂乱的に己れの彼方へダイヴし、そのダイヴの彼方へさらにダイヴしつづける。
 夜の不規則な鼓動がほのめかす、ある瞬間的な断片の開示。それはおよそ想像を絶する無気力と凄絶な憎悪である。語は、規範的なもの、倫理的なもの、正義とか愛を己れの履歴から抹消してゆく。否、履歴をも、己れそのものをも抹消しつづけてゆく。語は、実のところ語のうちにも存在していない。語が語であるということはただの儀式に過ぎず、語の本姿とはその儀式の指示するところのものである。語が紙面にたち現われて、作家との受感という交わりを行うとき、それは作家への復讐を意味し、まず作家を己れのうちから消去する。語は書かれたもののうちにありながら、書かれたことを消去するという、不連続の連続という死の様相に充ちている。

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誘惑

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 そもそもベルの鳴り方からして妙だった。低い微かな音でありながら、目覚時計のように鋭く細い連続音なのである。
 大きな油虫が素晴しい速度で、濃緑の絨緞の対角線上を疾ってゆく。六畳の居室は机の上のライトを点けたきりなので薄暗く、エナメルのような硬い光を燦かせた虫が闇の中に残像を見せたまま吸われてゆくと、もう見つけることはできない。
 背筋に冷えた空気が貼りつくような気味悪さを覚えながら、幾度かの呼び出し音の後、受話器を取り上げてみた。
 優雅なアルトが、夜更の電話の非礼を丁重に詫びながら、ある集まりに招待する旨即刻来場を乞うと告げた。
 奇妙な性癖を持つ友人の名が二、三挙げられていたようだが、ぼんやりと油虫の消えた辺りに眼を凝らしながら不吉な予感に捉われていた。心配することはない、決して怪しい集まりではないと、電話の主が言っているかのような錯覚も覚えたが、不吉な想いは癒えなかった。というより、なおも昂進したのである。
 女の声が魂を揺する性質のものであったことも一因なのだが、なによりも電話という器械を介したはずの声が器械の匂いをいささかも感じさせぬばかりか、頭脳を痳痺させてしまうような、地の底かなにやらの別世界から唐突に躍り込んできたかのような気配を漲らせていたからである。
 その蠱惑的な声に酔いながら、集まりの場所が伝えられるまで、女の喋るにまかせていた。饒舌というよりも、軟質の声音で滑るようにゆっくりと語られていた。最後に目的地の住居表示が告げられる頃には、すっかりその女の声の魔力に犯されていた。行先の場所が所蔵の地図に載っていないのはすぐわかったが、なになんとか行けるだろうと考え、その招きに丁重に礼を返し、応ずることを附け加えると、体を羽毛で愛撫されるかのような妙に艶かしい笑い声を耳に残したまま電話は切れた。驚いたことに、最後の一言を除くと、電話の廻路を独占していたのは女の声ばかりであった。
 魂に得体の知れないものが注がれたように、長い余韻が闇の中に滞っていた。

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〈美術衝動: 文〉物質創造の大版画家・小口益一 (追悼)

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物質創造の大版画家・小口益一 (追悼)

版画家・小口益一氏, 2008

版画家・小口益一氏, 2008

 物質のありかをぢかに触れるなり

 小口益一は版画という方法を用いて、平面の転写にとどまらず、オブジェからオブジェ、つまり物質から物質への転写を用いて、物質の創造にかかわってきたようである。
 いうまでもなく、転写はDNAの複製による増殖・生体創造のみならず、量子宇宙論においては対称性に深く関与するものである。粒子と反粒子との対称的な物質創造にも等しく、宇宙は転写による対称的な物質創造・増殖・複雑化によって137億年の歴史にいたったともいえるかもしれない。
 小口益一はこれを創造のための技法として、物理的宇宙ばかりではなく、物質-反物質の分裂・増殖の構造を芸術的方法論として打ち立ててきたのである。

 2005年11月、小口益一「鳥の舞」展(小野画廊・京橋)で、リノリウムに転写された(連鎖する原版ともいうべき)「黒いかたち」(縦112センチ)の作品2点に出遭ったときの衝撃を、私は忘れることができない。やみくもに体の芯からじわじわと湧き上がるものがあり、それがついに涙となって溢れ出たのである。
 美術作品の前でのこのような経験は私にとって未曾有の出来事だった。それは、無数の点や線、宇宙情報とでもいえる記号で傷つけられた版面に、それこそ太い漆黒の帯が強い圧力で画面を捉え、それらのたしかな造形要素ばかりではなく、オブジェとしての作品全体が圧倒的な実質を現前させていたからである。
 そこには、小口益一という版画家いや造形家の生身の力の強さ、おそらくそれらのことをも超えた実在の衝撃力そのものがあったからなのだろう。そして、その作品には、それ以外どこにもないということ、つまり絶対的な独自性と自由があったのである。

 すでにこのシリーズは1968年にはスタートしていたようで、私への手紙のメモに、「昭和43年、彫刻作品集『黒いかたち』、石膏・ブロンズ・石膏レリーフ」とあり、それからすると、この版画はレリーフの転写、まさしく彫刻作品としての版画であるのかもしれない。

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飛翔する肉体(追悼)――演出家・只石善士に

飛翔する肉体(追悼)
  ――友であり、先輩である只石善士兄に捧ぐ

アンダーグラウンドとは肉体主義の時代そのものであった。
いいかえると、肉体主義の時代はアンダーグラウンドである。
なぜなら、あらゆる抑圧の底部に粉々に砕かれた肉体の粒が、おしつぶされたそれぞれの思いの破片が、牙を剥いて肉体のモナドとして起ち上がろうとしていたからである。
1970年前後、国家と権力、管理と抑圧、システムの強権がわれわれを暗黒の深層に閉じ込めようとしていた。わたしたちは地方の受験校を飛び出して、この首都の地下でそれぞれの戦いを始めていた。

絶対的な自由を求めて、あらゆる抑圧と闘う精神をもってシュールレアリストの謂であるとするならば――。
アングラ演劇の勇士・只石善士はそのことによってシュールレアリストである。
抑圧に対するに断乎たる暴力を忘れぬことで、只石善士はシュールレアリストである。
肉体主義をともに生き抜いたことで、只石善士はシュールレアリストである。
暴飲に暴飲を重ねて肉体の枠組みを飛び出したことでも、断乎たるシュールレアリストである。

晩年のある夜、ふたりで酔いつぶれたとき、突然、わたしの初期詩集の次の一節に触れ、「これだ!」と思ったと言ってくれた。

肉体は、訓練に重ねて、素粒子ほどに収縮し地球ほどに膨張しなければならない。そのためには、まず、肉体だけで空を翔ぶこと。

物理的に不可能だというなら、物理性こそ肉体の非現実性であるから、現実的に翔ばにゃならない。

そしてその後に、ある区切りがついたら日本中を車で放浪しながら死ぬまで暮らしていきたい、ともらしていたのが今またよみがえる。

けれども、人生は、思うだけですでに叶っていることがあるものだ。
只石善士は、徹底してアングラであることによって、自由を生きたに決まっている!

先の詩の最終節を掲げて、一つ上の愛すべき童顔の先輩に捧げたい。その飛翔の見事さに。

水を蹴って、
夜間飛行の
魔の呪文の半濁音が。ぱっぱっぱっ。


2011.10.3 只石善士兄没す
2011.10.4 追悼す

帯広の真宗大谷派帯広別院(北海道帯広市東3条南7-7 電話 0155-25-1122)に永代供養

紙田、故只石氏、S女史、娘, 2002.6.9

[作成時期] 2011/10/04

(こわれゆくもののかたちシリーズ) さなぎ

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さなぎ

 なつやすみのはじまった日の朝。わたしは食事をすませると二階へあがり。窓をあけはなした勉強部屋でとじこもって。
 じいっと。
 そとは雲ひとつない青空、とうめいな空。つよい風のひとふきでこわれそうな。たけざいくのむしかごがゆれている。
 わたしは窓につられたかごのなかをのぞきこみ。ナイフでとがらせた十二本のいろえんぴつをとりかえ。
 めまぐるしく。こまかい線とびみょうないろあいで。しろい画用紙にえがいて。
 光にやけた竹かごには。病院うらのやさいばたけで採ってきたあおむしが。きいろいしみのある大根の葉といっしょに。
 はじめは大根のみどりの葉やあおみをおびた芹をつんできて。
 むしのえさにと。
 あげはちょうの幼虫はすぐに蛹化し。やさいくずはむしくいをのこして。みどりいろからひからびたいろになり。
 かごの底にくずおれ。
 スケッチが十枚をこえると。いびつなかたちのさなぎがむしかごの天井からぶらさがる。
 かっしょくの肌をさらして。

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(こわれゆくもののかたちシリーズ) 銀色の蝶

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銀色の蝶

 しろい捕虫網とむしかごをもって、裏山の中腹にさしかかり。わたしはたちどまり、下界をみおろして。
 すみをはいたくろい川がみなもをきらめかせてながれ。
 やまみちからはゆるやかに蛇行する川にそってつづく、うずら町の南北にながいすがたが。
 つみだし炭を満載した貨車が何十輛とつながり。牽引する機関車がもうもうとけむりをたなびかせ。家々のむこうからおいすがる、のどかな正午のサイレン。

 やまのうらがわに回り込むと。石切り場の跡が。わきに湧水がたまった小さな沼が。
 ここで銀色の蝶を見たといううわさが。
 銀色の鱗粉をもつ新種の蝶なのか。ひかりのかげんでみえるだけなのか。わたしには知ることなど。
 ぬまの向こうに広がる松林、したばえにはまだらもようの隈笹がみっせいして。ぬまの反対にまわりこもうとしたとき、ほとりに根を落とした木蔭にきみょうなものが突き出て。
 あおみがかったしろいほそながい穂が。
 根元は黒ずんだ赤い葉でつつまれ。落葉に寄生するきのこの一種だろうかとも。
 死人のゆびに見えて、ぶきみな。

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(こわれゆくもののかたちシリーズ)しもばしら

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しもばしら

 つめをあてているだけなのに。ビュランでけずる音がして。
 くうかんの層をさかいに、へだてられた二重窓のそとがわのガラスに。きみょうなもようが織られ、凍みついた結露が。
 外気との温度の差が葉の形を変化させるのではとおもわせ。
 アラベスクをつむぎだす葉の厚さが異なるだけでなく。気温の質のちがいが広葉樹の葉と針葉樹の葉との相違をしょうじさせるのでは。
 わたしは、おとなたちのまえで。
 さむさがひどいと、松の葉のようにとがるんですね、
 といって。みょうな顔をされたことを。
 いやな気がして。

 わたしはたてつけのわるい内側のガラス戸を引き開け。とげとげしい葉叢に指をおしあてて。
 ひんやりした感触がおとずれ、すぐにきりきりとつんざくような痛みが。いたみがしびれとなり、針のようにとがって。
 指とガラスとのあいだでふいにかたさが溶け。いたみをやわらかく包みこむように。ぬれたガラスの表面が指先にじかにかんじられ。
 冷気からもたらされるいたみはあっけなく遠のいて。
 わたしは窓ガラスにはりついた指にちからをこめ。霜のまくに円をえがこうと。
 霜のまくが指のうごきにおされて水になり。氷のもようをおかしてゆくのが。指のさきで。
 その円も、直径で五センチほどになると、ひろがりをとどめ。

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ある男の日記 (時間洗濯屋)

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(序詩)
弱虫め、唸りを咽喉に押し込んで
砂まじりの風が 皺の深い顔を痛めつける
この海から滲みでた潮の匂いが 切なく胸をかきむしる
吼えたければ吼えるがいい
夜の続きは長いのだから
体を切り刻む、愛と憎しみの不毛
焼け爛れた咽喉でさえ
夜の続きは果てもなく 距離の総和よ
弱虫め、褪色したツリガネソウめ
人生の距離に長短はない
人生の距離とは平面で測れない
遮断物など、ありふれた事柄

(ふと、振り返ってみると)その男の影がまとわりついている。しつこくまとわりつく。男の残した匂いが幻臭となっていつまでも追いかけ回す。そのとき、肩にのしかかる耐え難い寂寥感が。それは救済のひとつであるのかもしれない。
彼が知りえているのはその感覚なのだ。現実という悪夢が繰り返される。首吊り自殺の公園、夜の樹木が。ロープを結わえた亡霊たち。彼らは反復を強いられるのだ。箪笥のフックやドアノブ。庭園の立ち木、その枝。鉄柵や格子窓。地下室と監獄。彼らは反復し循環し、消滅の恐怖を目前にする。ここから踏み出すためには狂気と決断が必要だというのに。

彼は吼えつけられるのには耐えられない、弱虫のひとりだ。しかし、銀杏の実は魔女の軟膏なのだ。性を唆すその匂いが媚薬となって彼を鼓舞するのだから。

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不眠の森――「dance obscura(仮)」へ

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不眠の森――「dance obscura(仮)」の一章に用意された散文詩

 その森に迷い込んだときに、ある種の体系に毒された執拗な夢が送られてきた。それは、攻撃といってもいいかもしれない。その夢は、たしかに脳髄と神経システムの根幹を支配するDNA生命体がつくりだしたものである。

 飛膜のある翼を広げた男は、すでに死んでいるという噂はあった。それが数千匹の中の一匹なのか、森に住む数千匹の動物が一匹なのかは定かではない。
 数カ月前には、蝙蝠は死んでいるという予感もしていたが、確証を得る方法がなかったので、あてにならない郵便物や電話などを繰り返し送っていたのだが、やはりさまざまの不通の証拠が示されたに過ぎなかった。
 ダリあるいはサディと呼ばれるそのオオコウモリは、突然夜中にやってきて、どのような事情なのか、死亡日時も明かさずに、画家の名にちなんだ非日常的な音のない声を鳴らしていたのだ。もちろん、ばらまいていたのはそればかりでない。夢を作り出す夢の細胞とか、夢の核心である夢のDNAといったものなどである。死と死にまつわる闘いの秘密にも触れながら。

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棘の海――「dance obscura(仮)」へ

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棘の海――「dance obscura(仮)」の一章に用意された散文詩

 わたしがその兆候に気づいたのは、東南アジアの古い都市の旅から帰り着いてすぐのことだった。眠りから目覚めると、後頭部に何かしらの違和感を感じたのだ。簡単な打撲だと思ったのだけれど、嫌な気がしたのも確かだった。内部に向かった棘、触るとぐにゃりとしていて。
――わたしが肉体のゆらめきなのか、意識のゆらめきなのか。そのどちらでもいいし、そのどちらでもないのかもしれないわ。
 棘ということばから、わたしはとある大腸ガンの顕微鏡映像を思い描くのだが、頭部の細胞はなおもわたしを深く攻撃する。

 あなたからの国際電話の数日後にクリニックに行き、何軒かの病院を回り、大学病院の脳外科で腫瘍があることが判明した。
――たしかに細胞は、細胞膜という皮膜とその内側の物質で作られた肉体の基本単位なのかもしれない。けれどもその内部は物質ではなく幻想という内容物なのかもしれないのよ。
 わたしのこの女性的な感覚とは異なって、あなたは肉体を単に生命装置の発現だと考えているのね。生命の実現つまり細胞レベルでの分裂・増殖の正のベクトル、そして生命活動の抑制という負のベクトルを持つ調整装置だと。

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草稿●遠いところ

 たしかに生命は自己複製、自己増殖が可能な有機的生物を対象にしたもののように見える。そして、有機的な生物は脳神経系統を基軸に、化学反応による電磁気の信号によって情報交換がなされている。また、細胞間、遺伝子間で未知の通信がなされているかもしれない。それらの情報は、生理、感情、感覚、知覚などに分類され、脳内レベルで意識として統合されているのだろうか。さらに、その過程で切り捨てられる、意識になる前の意識の素材と断片、脳内の使用前の意識領域、リセットされていない意識領域――。
 私はコンピューターの物理的なイメージに近づきすぎているのか。

 私が問題にしているのは、意識が身体構造に支配されたものなのか、細胞それぞれに起因するものなのか、それとも意識は意識として自立しうるのか、ということである。つまり、生命とはどこまでの範囲を指すのかという問題。生命は時間と空間に関与しているのか、宇宙と直接的にも間接的にも関係があるのかという物理問題。
 さらに、次のような疑問にも突き当たる。

――意識は生命体にしか存在しないのか。
 情報システムとして考えると、自立的ではないにせよ、コンピューターのような無機的な物体も存在している。もちろん、生理、感情、感覚、知覚、意識などは備わっていないから、これをもって生命系と比肩するわけにはいかない。
 しかし、ほんとうにそうだろうか。有機的生物の生理、感情、感覚、知覚、意識などは機械に替えがたいから、これをもって自立型生命を証明できるといえるのかどうか。なぜなら、生理、感情、感覚、知覚は化学反応であるから、電気的信号で処理できると考えることはさほど困難ではないからだ。

――問題は意識であるのかもしれない。
 私は、肉体と身体に対して、意識が自立的な存在かどうかに疑問を抱いている。なぜなら、意識も肉体がなければ存在できないからだ。意識も脳神経機構がなければ現れることは不可能だ。だとすれば、結局は肉体と身体に属しているものなのではないか。身体機構が滅びれば、消滅してしまうもの。少なくとも細胞がなければ存在しない。意識は永遠ではないのだ。少なくとも生命体とともに滅びる生物学的物質らしきもの。
 しかし、だからといって、無機物に意識のようなもの、つまり判断したり、あるいは意思があるのかないのかなどと、決めつけられるものではない。ここにきて、私は何を示唆したいのか。

 意識は存在の本源には関与していない。私は、意識は生命体の機能であって、この意識を作り上げる生命とは無関係な核のようなもののことを考えているのだ。脳細胞は、生命体は、そのような物質を利用して意識を発生させているのではないか、と。
 私はさらに考えを進める。生命体は意思を持ってはいない。意思は生命とは別のもので、個々の存在は生命とは別の次元のものに根拠を持っているのではないかと。そこではじめて、私たちは物理的自然、物理的宇宙と結びつくことができるのではないだろうか。

 ところで、意識は身体機構に隷属させられているものかどうか。それとも肉体に密接なものなのか。あるいは私の考えているものは無意識ということなのか。これは精神と言い換えても同じなのだろう。
 問題は、それらが解放されるべきものなのか、独自の存在なのかということにある。
 自立した肉体。自立した意識。強制によらずに自決できる存在として。

草稿●夢のつづき

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 もうひとつの夢から逃れようというのか、だれのしわざか、肩先から吐息がふっとこぼれ落ちてくる。直観が破片のように舞い降りて、あるいは霜柱のように湧いてくる。
 それからしばらくすると、細胞間通信ということばが浮かぶ。生命システムが私を唆しているのだろうか。少なくとも生命システムが支配する範囲では、神経線維(ニューロン)がその回路を通じて、生命機能としての意識を生成、組織化しているに違いない。私はそのときまで、意識は機能の抽象化ではなく、生命体の断片のつらなりであると考えていた。しかも、それは物理断片ではないものを。
 たしかにニューロンはどこまでいっても細胞組織だから、それは連続する細胞間通信の生命体組織だ。個別の細胞間通信自体は単一情報の断片だが、ニューロンは〈流れ〉を構築する流体構造物なのだ。

 意識がその断片、あるいはそれらの流体構造そのものであるとはいいえないが、意識が身体に依存していないとも断定できない。身体という概念が生物構造体を示すならば、神経システムがその支持構造のひとつであり、神経細胞が基底の単位組織であり、意識の流れ(連続性、非連続性)がそれらと密接に関係していることは疑いようがない。しかしそれでも、意識の生成自体がこのシステムに起因しているのかどうかは疑わしい。
 そして意識の基底単位についても、それがシステムの下位構造であるのかどうかをさらに問うべきではないのか。少なくとも何か属性的な機能、あるいは神経細胞の活動の結果という抽象的な代謝物ではないのか。それは細胞サイズの器官における事象ではあるが、ナノレベル以下の物質過程に関係しているのかもしれない。細胞間通信機能の中で醸成される抽象的反応のかたまりは、たしかに細胞活動の付属成分だが、この属性の代謝を主導的に牽引するのは、物質の物理現象が普遍的に発生し、絡み合い、確率的な世界が濃密に現れるからではないのか。

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草稿●チューブリン

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 素粒子が磁気嵐の中で散乱していく。存在はスライスされていく。反粒子と反存在が散乱しながら充満する。エントロピーとはこれら双方向性についてのそれぞれの見方ともいえる。見方自体が宇宙の内容物を満たしているのだ。
 ところで、私たちは何を見ているのか? 対象物を確定するというよりも、〈見方〉を見るのである。そして、見方自体は増殖する発見であり、私たちはどこにいても幼児の眼球なのだ。つねに終末の際で断崖に身を投げ出そうとしている瞬間そのもの。あわい。あるかないかが混合している過程自体。氷の膜に、あるいは炎の緞帳に閉ざされ、その向こうへ通り抜けることなどできぬもの。
 私たちという眼球の意識が個別の生命体の範疇にしかない単なる代謝物にすぎぬものなら、その発火物というべき思考もまた、やはり時−空、宇宙の外部へと通り抜けることは不可能なのだろうか。
 しかし、思考が波動関数の及ぶ領域にある物質過程だとすると、トンネル効果によって宇宙ではない向こうに現れることはできないか。つまり、量子的ふるまいによって。

 全生命がじつは一個の単一生命体であるとする場合も、生命体の意志というものは、意識の統合的な抽象幻想といえるのではないか。ここでは死というものも、生命が一個でしかないのだから、生命体の消滅ということでしかない。
 生命に、生存と生殖、遺伝などという概念は無効なのである。生命樹のすべての歴史も一個の生命体のひと息にすぎない。
 だが、思考は選択意志を持つ、量子的、物理的存在。自立的だが、何かの構成物となりえても。

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草稿●相反する類似

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――層状宇宙。
 宇宙面を球体の表面になぞらえたとき、この球面が重層しているとすれば、重なるような形で膜状宇宙が複数、波のようにゆらめいて存在しているというイメージが浮かぶ。物質の発生が、真空のゆらぎから物質・反物質の量子過程を経るとするなら、この高エネルギー状態の真空がその前提にあると考えることは無理なことではない。
 この真空が無から量子論的に発生していると見なせるなら、重力の総体は無と真空との間にわたるのではないか。これは、真空を球体にイメージすると、この球体の芯から物質・反物質の球面が生成され、重力は分裂して球面エネルギーと関与するに違いないからだ。
 これらの物質が、確率的なゆらぎによるインフレーションで現在の宇宙面を形成していく過程であるとすると、この宇宙の因となる真空の内部にある全重力に対称的な反重力エネルギーが生み出されて、新たな原因物質が生成され、これがさらに副次的な宇宙面を現在の宇宙面の球内に生みだしていく。これらが重層的な宇宙面となり、膜宇宙をなしていく。
 インフレーションの規模は不確定であり、空間速度はこの宇宙面をしのぐ可能性がある。もしくは超えることはないのかもしれないが。

 翻って、真空というエネルギー体は無から量子論的過程を受けるのであるから、これもまたある統計的な確率で登場するはずである。
 パラレル宇宙は、物質‐反物質過程、宇宙の対称性、真空を根源にした層状発生、無から断続的に生成するパルス真空体などの形でつくり出されるというアイディアを誘き出す。

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草稿●没入

 ドーパミン系とセロトニン系の機能調節が不順なのだろうか。順調にいっていれば、統合能力が低下するはずはない。だが、私の世界観はますます傾斜していく。薬物からの離脱など、許されるはずもない。私はますます依存を深めるのだろう。私はとどまる者。狭い部屋でうずくまり、動くことを自らに禁じた精神。分裂することを禁じた人格。私は環境に捕縛されている、人間の皮に押し込められている。細胞膜に閉じ込められている。人間というもの、その外側の世界という妄想を構築してしまった静止した精神なのだ。

 あの夜、病院に閉じ込められたと電話してきた男は、ここから助け出してくれと哀願した。何者かに襲撃されて刃物で渡り合っていると、警官隊に囲まれて逮捕された。あげくに精神病院に放り込まれたというのだ。数日後、向精神薬を服用させられた男は、警察が、一人で暴れていたので拘束して、措置入院させたと言うが、自分は確かに襲われたのだと電話口で繰り返した。その男は、その後数年間、入退院を繰り返したが、そのときの事件を事実だと信じたまま、薬物に没入するように死んでいった。
 私がその男の死を感知し、ネットワークを使って調査していると、彼の死について情報を持っているという人物に行き当たった。だが、その人物は、本人が病からは回復したと言っていたとし、死の状況については詳細が分かりしだい知らせるということだったが、何も音沙汰はない。その人物のことまで、私の妄想構築だったのかもしれないが。人形の中に人形が入る、重なりつづけて入り込むひとがた。精神のひとがた。

草稿●hallucination

 病棟にいたときに、あたしは、未来とも過去とも、あるいは別の次元、別のあたしの人生を見ていたことがある。
 急に目の前がぼんやりして視点が定まらなくなったときのことだ。椅子から立ち上がり、気分を落ち着かせるためにラム酒(のつもりで黒い酢)を啜った。空間が歪むように、脳作用の内部に何か空洞でもできたのだろうか。指先の神経まで緩やかに麻痺が達した。精神と肉体が不思議なほどばらばらに離れていた。泥酔していたのかもしれない。自分自身がどこか別の次元を移動しているかのように。しかし、骨格は鈍い軋り音をあげるばかりで、声を出すことも、身ぶりで何かを示すこともできない。その空間では、あたしが見ていたあたしは、確かに男だった。
 あたしであるはずの男はキャンバスを100号の木枠に張り付け、油絵を描く準備をしていた。そして、あたしの方を振り返り、だれかが覗いている、と呟いた。それであたしは彼の頭の中が見えたのだ。またあの女(あたしのこと)が切れ端でものを考えている。時間だって切れ端だってことを知りもしないで。さらに頭の中では脳味噌がいくつかの塊に分かれ、それぞれ別のことを考えている。つまり、あたしは別々の人格が見えていたことになる。それらの人格はその頭脳を通して、さまざまの人間に見えるあたし自身を見ていた。
 あたしはふっと、それら見ることのできるすべてのあちらの人々に乗り移るような気がして、こちらの場所から動くことができないでいた。あたしは粉々に分かれていく。分解されていく。嫌な感じだ、やはりとても嫌な気がする。あたしは、いったい何を見ていたのだろう。何を体験しているのだろう。どのあたしがあたしなのだろう。どの人生も、あたしは忘れてはいない。いつだって、思い出しているのよ。いつだって生きているのよ。

草稿●multiverse

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 世界が個人的に分割されていくとはどういうことなのか。現実、宇宙、あるいは次元とは、〈見ること〉が経験することであるなら、その事象を〈見ること〉自体が判断したり、選択することで多宇宙が生み出されていく。粒子が自己という鏡を見ることで反粒子として分割させるように、多宇宙をすべからく経験していくのだ。そして、複数宇宙マルチバースから見ると、分割宇宙は同時に並列して存在し、粒子そのものから見たときには宇宙は分割されずに単一宇宙である。つまり、単一宇宙の経験を終えることで、別のの宇宙に切り替わり、次々に別の世界体験を経ていくのである。見る主体は全宇宙の存在の全可能性を知るのだ。
 その意味では、現実は体験上単一であり、複数現実ではない。だが、見る主体は、単一世界を終えることで次の世界からさらに歩を進めて、全宇宙を自分のものとすることができるのだ。人生の成功も失敗も、幸福も不幸も、すべての分岐世界を体験するために。

 どんなに抑圧されても、悲惨な目にあっても恐れることはない。この世がすべてだからと、自分を諦めることもない。現実がすべてではないのだから、抑圧に対する抵抗者となって、思うことを存分に果たすことが可能なのだ。
 抵抗する者はつながりとなり、系譜となっての世界の分割を進めていくこともできるし、多宇宙に飛び出していくこともできるのである。
 成功者とか抑圧する者、支配者の世界は単一現実における短命の貧しい体験者であり、これに対して苦しみ闘う者は豊富で質の高い体験を、全宇宙を通じて果たせるのだ。

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mediastinal
   ――散文詩による小説「dance obscura」から

 最初の電話は、早朝だった。明らかにパニック状態の若い女の声だ。何の電話だ、危険な状態なのか。当直医と話してください、とにかく来てください。危篤の召集なのか、はっきりしろ! 女の声は、ドクターに聞いてくださいで終始する。病院はリスク回避のために即答を避けているのだ。ドクターが電話に出ることもなかった。
 車を飛ばして、私がベッドに駆け寄るなり、宿直医の部屋に呼び出される。私はあなたからひとときも離れたくなかったのに。医師は、気管支に詰まる組織片のため生ずる、胸の痛みと窒息の恐怖から、あなたの想像を絶する苦しみを取り除くため、沈静剤の使用を強要した。私はあなたが、最後の最後まで生きる闘いをする勇敢な女性だと主張した。癌が判明してから、私たちはそのことを何度も確かめあった。一緒に生きたすべての時間に確かめあった深い愛のように。
 私はベッドに戻り、背中をさすったり、叩いたりして、破片を吐き出そうとしているあなたの必死の努力に加勢する。あなたは生きようとしていた。闘っているのだ。

 最初の危篤からは奇跡的に回復した。たまたま何かの拍子で気管支を塞いでいた縦隔の癌の組織片が外れたのだ。いや、まだ生きようという強い思いが力を与えたのだ。しかし、それはこの世との袂別のための僅かな時間をもたらしたにすぎない。
 あなたはその後の数日間を窒息の恐怖とともに過ごしていた。眠るのが怖いと、怯えた眸を震わせて。それなのに、医師たちはあまりに危険な沈静剤を管から与えたのだ。脳神経を眠らせて、痛みと恐怖から解放するからと。それは医師たちの策略だった。気管支を塞いだ血痰は誰も取り除けないから、自分で吐き出すことしかできないから、危険な眠りにつかせようとしたのだ。その眠りのうちに死なせようと。死の眠りを、神でもないのに! 安楽死を公言できないから。
 失せろ! なにもできない藪医者ども!
 あなたは、まだ生きるんだな、頑張れるんだな。私の無慈悲な声に、最後の瞳を大きく見開き、首を縦に振って、うん、うんと応えてくれた。溺れゆくもののように必死でもがきながら。

 そして、いま、地震や一陣の嵐によってはかなくもすべてが召し上げられる。気がつくと、物理的な自然だけが世界に甦っていた。

添い寝する妻

 私は先日、「私と妻の長い闘病の暮らしが思い出されることにいたたまれなかったのだ。」と記した。
 しかし、よく考えてみると、その暮らしこそ愛の暮らしそのもので、思い出の中には彼女がいつも生きている。思い出には生きているふたりの愛が満ちているのだ。
 つまり、苦しむべき思い出などではなく、いつでも私を迎え入れてくれる、幸せの微笑みで抱いてくれる場所なのだ。闘病のときを振り返ることで、生きているふたりの決して消すことのできない愛が実在していたという歓びに触れることができるのだ。
 死んでからの思い出は心を鎮めるために、ふたりのことを検証していくのであるが、そのことはふたりのつながりを別の世界との距離へと導いていくものである。
 わたしは、そのことを眠りに陥る刹那に、添い寝する妻の温もりの記憶とともに知ったような気がした。

覚醒

夢。
その夜、病室のカーテンに幼児の姿をした天使が数体浮かび上がっていた。
翌日の真夜中、寝ながら左の腎臓に手を当てていると、いきなりそのあたりが熱を持ち、しばらく熱い固まりになっていた。これは病が昂じたのか回復したものかと、考えが迷った。
そのうち隣のベッドからか自分のいる空間からなのか、ラジオから漏れるような音楽が、荘厳な交響楽が、横たわる自分の体を静かに包み始めた。
これはまるで、病死したワイフがその前日に言い残したことと同じ話ではないか。
私は自分が生と死の境を目前にしていると感じたが、そのいずれなのか判断できなかった。私は神を信じてはいないと、くり返し誓った。

連載【第001回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: Invisible 1

 Invisible 1
 私は私の属しているものを知ることはできない。また、私が属しているとされるものも、私を知ることはない。さらに、私が私を属しているとするものを推測することはできるが、ほんとうは知ることはできない。私がこれらを知ることができるとすれば、それはファシズムとは何かということに尽きるのであり、私自身の自由からも、あらゆる存在の自由という問題からも遠く隔てられてしまったものについてなのである。

 私はまずあなたに問いかける。あなたは私自身であるのかもしれず、また私の隣のあなたであるのかもしれない。また、私とはまるで無関係なあなたであるのかもしれない。しかし、いずれにしても、私は問いかけるためにあなたを必要としている。
 それにしても、私が問いかける事柄はどこからやって来るものなのか。あるいは、いつやって来るのだろうか。そして、ほんとうに問いかける事柄があるのだろうか。けれども、来たるべきものはやはり来るのだという予感はある。しかし。
 そもそも、私は何を問いかけて、その問いかけがどのような意味を持つのかをいまだに知ることができない。何を考えようとしているのか、何を始めようというのか、私にはまだ何も見えていないのである。
 おそらく、私は何かの一部に問いかけているに違いない。その一部がどのようなものの一部なのかを永久に知ることはないだろうが、たしかに何かの一部分であるということに誤りはないだろう。私の考えはこうだ。私はあらゆる「部分」に侵襲されている。(つづく)

連載【第002回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: Invisible 2

 Invisible: 2
 来たるべきものはたしかに「部分」のうちにあるのだろうし、あなたはその来たるべきものに違いない。しかし、来たるべきものは来ることはないし、いつも私の外側にあるものだ。
 また、それは無垢というものと関係があるのだろうか。私が無垢でなければあなたが無垢であろうし、あなたが無垢でなければ私が無垢であるということなのか。そもそも無垢であるということは許されざるものなのか。そして、そのことが侵襲される理由であるのか。それはこちらとあちら、私とあなたがひとつになることを拒むもの。

 私が考えているのは、あなたがこの議論の内部にあるのではなく、表層を部分に持つ、見えないもののその表層の部分なのではないかということだ。だから、私が問いかけるあなたとは、私の影であるというべきではなく、独立した表層の部分というべきである。

 あなたはどのような場合でも、あなた自身である。そうだ。私が問いかけようとしたのは、そのことなのだ。「私はあなたであるか?」「あなたは私であるか?」あなたはすべての場合において、あなた自身の何ものでもないのだから、私はあなたではないし、あなたは私ではない。(つづく)

連載【第003回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: Invisible 3

 Invisible 3
 このことは次のような問いかけでも同じである。「私にはあなたが見えるのか?」「あなたには私が見えるのか?」私はあらゆる場合においてあなたを見ることはできないし、あなたは私を見ることはできない。
 では、私はあなたに問いかけることは可能なのだろうか。また、私はあなたに問いかけずに私としてありつづけることが可能なのだろうか。もっとはっきり述べるなら、私が私に問いかけるということはありえないし、それは不能な事象なのだから、あなたに問いかけることが不可能なら私は絶対の沈黙を余儀なくされる、私のあらゆる問いかけが存在しなくなる。

 あなたは私にこう答える。「そのように考えることが、すでにあなたが『あなた』と呼ぶ私の一方の考えであり、その私の一方の考えが、あなたの考える一部でもあるはずだ」
「けれども」と、あなたは付け加える。「あなたの私への問いかけは、私になされたものなのか、あるいはあなたが発しえたものなのかは定かでなくなってしまっている。そもそも、そのような問いかけが行われたのかどうかさえ明確ではなくなってしまっている」

 たしかに、もうすでに私の中では、そのような問いかけは跡形もなく消失していた。そして、「あなた」という言葉の証拠すら残されず、私は私の表層を見つめていた。(見えざるもの)

連載【第004回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: microtubule 1

 microtubule 1
 あなたは私に属しているのか? 私がそのような疑問を抱いてから数日たった夜のことである。
 それは、私に属する意識のひとつ、(肉体の部位としては)大動脈の腹部にある解離性の瘤と繋がっているもの、その大動脈瘤の持つ意識についてのことである。
 意識Aは次のような来歴を私に語り始めた。

 Aが自らを知りえたのは、大動脈に突発的に生じたときではなく、私がAの病理的な存在を自ら認めざるをえなくなった時点であった。Aは最初、私の願望から、自分が一時的な存在で数カ月もすれば瘤としての形は失われるかもしれぬと考えていた。しかし、結局、瘤は閉鎖することはなく存続しつづけた。
「私は、物理的に大動脈に生じたときに誕生したのか、あるいはあなたが私の存在を信じたときに誕生したのか、私自身よく分からないところがある」
 またAは、A自身が血管内に生じた空洞としての物理性であるのか、空洞を造る血管が持つ特殊意識であるのか、あるいはその両者の統合体であるのか、はたまた医学の捏造なのか、私の信仰あるいは妄想であるのか、自分でも確かなことは分からないと繰り返した。

「それでも、あなたは肉体を持っているのか?」私はAへの問いかけをこのような言葉で始めることにした。「あなたはAであるはずだから、Aの意識を持つ身体という統合的機能、あるいはある一つの機構としてたしかにあるということはいえるのだろうが、血管にできた瘤という、つまり空洞である以上、肉体を欠落させられているといえないだろうか」私はもうひとつの疑問、空洞という肉体はありえるのか、いや肉体はそもそも空洞を包み込んだもの、肉体の本質は空洞にあるのではないかという疑問は、ここでは差し控えることにした。(つづく)

連載【第005回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: microtubule 2

 microtubule 2
 Aは「私自身にとっては、肉体の欠落感というものは意識することはできないのだが、私という空洞の反対側、つまり二種類の血管膜のそれぞれの向こう側にあるものは、不可視であるとはいえ、隣接感は直観できる」と応じた。そして、ある重要な問題を提起した。

「その直観は、存在を予感することはできても、何ものをも見ることも、本質に到達することもできず、隣接する感覚はあっても、生起している現象に遭遇することはありえないといえるのではないか。血管の層をなす外膜と内膜の向こうにしか、私にとっては推測できる世界はありえないし、あなたにしたところで、またあなたの一切の問いかけにしても、私の推理でしかないということが、私の本質を決定づけているに違いない」
 大動脈の偽腔であるAの意識は私に以上のような問題を突きつけたのである。

 偽腔Aは向こうにあるものだが、つねに向こうであることを余儀なくされる。外膜、中膜、内膜と、私は外側から推測する。偽腔Aは三段階の膜層そのものであるが、その本質は充たされたものではない。彼はすでに自分がたんなる肉体の概念であるということを認めざるをえない。そして、そればかりではない。偽腔Aはみずから提起する問題について何もないところから始めなければならないのだ。それだからこそ。

 肉体の部位は実質で充たされるということは不可能なのだ。部位のいたるところは空洞で、部位を構成する細胞も嚢状の構成物である。肉体の思想は空虚から始められている。それだからこそ。

 肉体は肉体に語らせよ。このときの肉体とは部位としての肉体である。身体は機構であるが、肉体はぶつ切りの個体であり、想像力を根拠にする個体。そして、生命活動を続ける以上、それぞれの空洞に生か死を選択する意志があるはずなのだ。いや、意識といったほうが明確になるかもしれない。肉体の部位が独立して何かを感じ、思惟し、肉体が肉体の意識をゆらぎ立たせて蠢きはじめる。脚や腕の関節はもとより、内臓や性器、体毛、爪、さらに細胞の一つ一つが自らの意志を、それと気づくこともなく、意志を立ちのぼらせる。
 私は何のことについて述べているのだろうか。おそらくそれは、神秘主義や機械主義的な外圧やガバナンスに支配されないで、すっくと立ち上がる部位の、いわゆる肉体のゆらめく舞踏ということをイメージしているに違いない。
 肉体にまかせよ、ということは可能である。しかし、身体にその本性を任せよということは不可能なのだ。肉体は肉体の意識を律動させるが、身体は肉体を統御しているにすぎないからだ。(微小管)

連載【第006回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: pain speed

 pain speed
 私にとって最も遠いところから、その痛みは伝わってきたのかもしれない。それとも、その距離は、痛み自体がもたらしているのかもしれない。支えるものが稀薄になれば、それだけ速さはいやましてくる。支えるものとその意識が私自身から離れていくときに、痛みの速度は直接的な物質性を私に示してくる。それは、まるで痛みがつねに隣接しているように、私そのものに侵襲してくる。べったりと貼りつき、その接触面から貫通してくるのである。

――わたしはわたしの中の生きものたちのことをつねに意識していて、ともすると、いくつかの別々のかたまりの形でわたしの方に寄り添ってくるのを感じることがあるの。それはまぎれもなく複数の、別々の意識の重なりとでもいえるし、もっと具体的な、透明な膜の向こうに蠢く生命活動の原初の連なりとでもいう実感がするのよ。

 女性の意識の中にある、母性を感じる特有のインスピレーションと関連しているのではなく、ひたすら愛おしくなつかしい匂いを伴いながら、自らを衝き動かさざるをえない、ある種、連動する他人たちの気配、ふるまい。

 でも、あなたの方に向かうときは、あなたのたったひとつの側面を頼りにただつながっているにすぎないのかもしれない。そして、そのようなわたしが、あなたにとってはわたしたちが、無数にその側面を埋めているに違いないのよ。わたしのこの疼きが一定の充足感を伴い、そのようにしてわたしの存在を示すことにつながっているのだわ。
 そうよ、わたしのこの欠落する意識が、あるいは充実する意識が、ときには痛みとなり、ときには痙攣となり、ときには甘い麻薬となって、あなたに浸透していく……。
 神経細胞のつらなりを流れる電気信号と痙攣。その痛みが細胞体の不安なのかもしれない。秒速百メートルに達する速度を持つ、その予期しない叛乱。再生できるのかできないのか。変性による死への予兆が神経線維の端から端まで伝播する。

 私を覚醒させた痙攣が示すものは、こうした肉体の叛乱とでもいいうるものなのかもしれない。それは、まず前駆的にふくらはぎの外側にある筋に硬質の痛みを現し、たとえそのとき眠りにあるとしても、波打つ痙攣の予感を持続させていく。(痛みの速度)

連載【第007回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: breath melts 1

 breath melts 1
――わたしが囚われているのではないことを、あなたは示すことができるのだろうか、それともわたし自身が……。

 わたしを一方的に支配する意図はなくても、支配していることには変わりはないし、もちろんわたしを愛さねばならないという気持ちも、さらにわたしによってあなたが救済されるかもしれないという期待も感じられるわ。でも、それこそあなたの瞞着、傲慢さ、掴みどころのない循環。
 あなたの表層はときとして硬くわたしの内側に訪れる。また、いつのまにかやわらかく弛緩する。この硬直は支配を認めさせること、この溶融は憐れみと後悔――。けれども、わたしの満たされぬ時間の中では、どれがわたしとあなたとのつながりの本当の姿なのかを、わたしもあなたも見出すことはできない。
 わたしはわたしの内側から内側へという二重の外側へくるみだされ、その猥雑に絡んだ襞をたどり、さらにその底にある深い磁場へともぐり込んでいく。二重螺旋への下降、永遠の。そして、ここでまた問題にぶつかってしまう。けれども、それは何かを生み出すための二重性ということなのか、あるいは生み出されるわたし自身への下降ということなのか。いずれにしてもわたしから発している問題に遭遇しているということではなく、あなたが提示した答えに囚われているということになるのだわ。
 わたしはそのようなわたしをどのように抑圧すべきか、そうすることでこれから生み出すすべてを許すことができるかどうか、憎むことができるかどうか、またそのようなわたしがそれにもましてあなたを要請していることも、またあなたがわたしに期待するすべての事柄をわたしも期待していることにゆき当たってしまっている。あなたはわたしの内側をいっそう慈しみ、わたしはあなたへの期待を慈しむ。(つづく)

連載【第008回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: breath melts 2

 breath melts 2
 私は私の軟らかい部位に温かな吐息を感ずることで、ある種の熱狂を思い起こしていた。それは小波のように跡切れることのない繰り返しの感覚である。これまでにどのくらいの回数の訪れの感覚があったか、またこれからどのくらいの数の訪れを知るのだろうか。今、どのくらいの数の訪れを得ているのだろう。
 私はあなたの内側から私のこの感覚によって受け容れられているに違いないが、はたして私が受け容れているということをあなたは知っているのだろうか。
 横たわるあなたを愛撫したとしても、私があなたに重なったとしても、私の表層が壊れてしまうわけではない。私は逃げられないし、そのことを知っているからここにとどまっている。ただ迷っているということなのかもしれない。それでも私はあなたの内部に囚われている。私が望んだもの、欲望したもの、命じられたもの。あなたは崩れようとしている。切なげな表情と喘ぎとで。
 私はあなたに人間的な親愛を覚えているわけではないし、またあなたがそれを望んでいるはずのないことも充分理解しているはずだ。私はあなたをたしかに包摂しているのだから。

――わたしはあなたの表層と接点を持っているだけで、「あなたとつながっているわけではないのよ」わたしは、その理由について、わたしから言いだすことはありえないのだけれど、たしかに強い理由があるのを知っている。わたしもあなたを愛しているはずがないし、これからも愛するはずのないことも、またあなたを憎むこともありえないはずだもの。わたしはわたしを、あなたと区別する必要があるのよ。わたしはあなたに侵略され、屈服させられ、あなたを埋め込まれているからだわ。これは屈辱であるけれど、おそらくあなたにとってもあなたの汚点、あなたの盲信――。あなたが愛しているのはそのことなのかもしれないのよ。(吐息が溶ける)

連載【第009回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: darkness 1

 darkness 1
 それは、ある青みを帯びた灰色の夕刻。その灰色の濃霧の向こうに薄黄色の光芒が垣間見えるが、こちらの側は絶望の濃紺の帳に蔽われているだけだ。さらに時間はくつがえり、かすかな光も忘れ去られていくに違いない。
 私の底部の秘められた闇、稲光がたえず閃くように、抑えきれない衝動的な葛藤がつらぬく暗黒(ダークネス)。そのような憤りの生成が何によるのかを知るものが、いったいどこにいるというのだろう。

 最初から存在する物質を想像することは不可能だ。そんなものはありえようがないからだ〔検証不能性〕。けれども、生命の底部、その発生の向こうにあるものを知ることがないといえるのか。数億年の皮質の蓄積を経て、皮膜の底に沈澱したものは甦ることはないのだろうか。傷ついた中枢神経はすでに恢復は不可能だというのだろうか。あらゆる歴史は殺戮の連鎖に違いないとはいえ、いまだ拭い去ることのできない衝動が忘却という形で記憶されている。思い出すこともなく、忘れ去られることもなく、古い皮質は傷つけられたまま。(つづく)

連載【第010回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: darkness 2

darkness 2
知りえぬということの罪障、根深い疑い、想起するにいたらぬための焦燥。つまり、古いもの、気の遠くなるような底部に、そもそもから用意されているはずの空虚というイメージに起因しているもの。だが、たしかに私自身がその意味するところの真実とその正体を知ることは不可能なのだ。
私が傷つけるはずのもの、私を傷つけるはずのもの、それらは私に対して何をもたらすものなのか、またそれゆえに私をどのように扱おうというのだろう。私はそれらの鋭い侵襲によってほんとうに傷つけられているのか、ほんとうに何ものかを傷つけているのか。
それははたして、私の部位を、それぞれの精神を、無数にある意識自体を、さらにもっと古くからある傷を重ねて、それらは醜い瘢痕となり、それぞれの表層に複雑な皺となって残される。もう、元には戻らない、戻ることはありえないのだ、と。

そのとき私はめくるめく暗い情熱に衝き動かされ、私の外部に牙を、矛先を向けざるをえなくなるのだ。それは、決して内部に振り下ろされる斧ではなく、外に向けられるべき一撃。振り下ろされる打撃。だが、暗く熱を帯びた暴力が突出するのは、その一瞬だけである。その後は冷酷な暴力の残渣が機構として無際限に繰り返されていく。深傷を負うのは私の表層であるが、すでに亀裂、破砕は全体へ及びはじめてしまっている。

――そもそもの原因がおれにあるということはありえないが、かといってその原因がもたらす次の原因からも無関係であることにはならない。そのことはおれ自身もよく分かっているつもりだ。完全な抑圧の環境に置かれることを願っている部分がおまえにはあるに違いないが、なぜそのような願望をおまえが所有する必要があるのかを、おれは許しがたいものとして、自らの深まりの底に沈潜させている。
だが、それにもましておれにとって真に許しがたいのは、そのようなおまえではなく、おまえを通したおまえの向こう、おれを通したおれの向こうそのものの、連綿たるつらなりであるに違いないのだ。
おれはただ単に血を見るのが好きなわけでもなく、肉が裂け、骨が砕け散ることに快楽をおぼえているわけでもない。なぜなら、破壊されるものはおれ自身を含んだ、おれの不幸でもあるのだから。
おれはただたんにおれ自身を壊滅的に追いつめることに自分自身の理由を見出そうとしているだけなのかもしれない。(ダークネス)

連載【第011回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: internal trees 1

 internal trees 1
 灰色の夕暮れの第二景。ふるえる心臓。このとき、つきぬけるような戦慄を、私はたしかに感じていた。
 だが、それは実現不能な範疇にある行為なのである。自らを放棄することで生起する衝動、自らを拒否することによってのみ可能な敵意、自らを犠牲的につらぬくつらなり全体の無化への企み、それはあまりにも無意味な行為の突出であるからだ。それゆえ、すでに行為ではなく、切り離された行為の断片なのである。
 しかし、その衝動の素片こそ、突出する暴力、暴力の突出とでも名づけうるものである。私は彼が、彼の皮膜を破裂させることで、私と私を通した連鎖の階梯すべてを自らの内部に閉じ込め、閉じ込めた内部の樹木として、自らとともに無化させようとするその無意味な意志を感じていたのである。

 宇宙にも皮膜はあるのだろうか。宇宙は何もないところから、つまり何もないところの高エネルギー状態から生成されたに違いない。なぜなら、そこから百三十八億年分の膨張エネルギーを奪ったのだから、それに引き合う分のエネルギーが何もないところの内部に凝縮していたということになる。そして、宇宙誕生のとき、何もないところにはエネルギー状態における境界があったのかどうか。もし皮膜があるとすれば、それはその境界の状態ということになる。そして、膨張しても、その境界が広がるだけで、やはり宇宙は境界の内部にとどまっているのでないか。つまり、永遠に宇宙は皮膜の中にある。皮膜の中にある宇宙モデル。外から見れば、やはり何もないところなのだ。(つづく)

連載【第012回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: internal trees 2

 internal trees 2
 世界は外についても、内についても、何も知ることはできない。世界は時間と空間の幾何学だから、時間の階層にしても同じことである。過去の時間も未来の時間についてもほんとうのことは知ることはできないし、現在についても知っていることなどなにもないのかもしれない。生きているというのに、存在しているというのに、何も知ることのできないこの不条理。物理的宇宙は知性において、私を抑圧するものなのだ。

 そう考えたとき、暴力的な衝動が高まってくるのを私は感じていた。

 だが、世界が円環を結び、宇宙が閉じているかぎり、反世界も反宇宙も、ただ世界と宇宙に包囲されている人形にすぎない。はたしてそうなのか?
 私自身、世界によって抑圧されていることは間違いないし、同時に彼を抑圧していることもまぎれもない事実である。だが、だからといって抑圧を正当化することが可能なのか。あるいは可能だとして、何をもって可能であるといいうるのか。
 おそらくここに過誤の種子がひそんでいるのだろう。また、そのことがあがきを現前させている。二つに引き裂かれる意識、引き裂かれることによって増殖する意識、あがきがいたるところにあふれ返る。〈われわれ〉に自由はあるのか。(つづく)

連載【第013回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: internal trees 3

 internal trees 3
 私は救われることはない。彼もまた救われることはありえない。だが、何から救われるというのか、何が救うというのか。
 あるいは、私は彼を救うことが可能かもしれない――私を救うということを犠牲にして。いいかえれば、彼を犠牲にすることで私が救われるということになるのだろうか。また、彼が自らを救うことが可能だとして、それはそのようなことと同一のことなのかどうか。
 けれども、自己救済は自らの内部によってすべてを包囲することで可能となるはずなので、この場合、そのようなことはまた別の問題であるのかもしれない。
 だが、この救いがたさはどこからやってくるのか。そのことも大きな問題であるといえる。私と彼は、すでに分ちがたく、その問題とも結びついているからだ。

 すでに記されている、すでに記されているのに。

――おれがおまえとの関係の形を変えること、また関係そのものをも消滅させることができないと断定するべきではない。おれが囚われているというのは、おまえの側からの見方で、おれはおまえとは完全に無関係であるともいいうる。また、視点を変えれば、おまえがおれに属しているのだともいえるということは〈すでに記されている〉のだから。
 許せないもの、許さないもの、また許すということ、許さざるをえないこと、したがって許しを乞うことにあるのではなく、おれに許しを乞わせるものの存在とその強制が、あらゆる暴力的形態を剥奪していく。威嚇の形をとらない恫喝。
 おれのこの暴力の突出とは何か。あるいは暴力への期待とは何か。それは理性的であるか、非理性的であるかにかかわらず、普遍的な暴力、裸の暴力とでもいいうるものだ。もちろん抑圧する側の暴力もそこには含まれるし、抵抗する側の暴力もそこには含まれる。磁力が臨界に達したときも、また磁場を失うときも――暴力の突出は期待される。

 彼は、私がすでに失いかけている暴力の意志を呼びさまし、私の抱いている暴力への期待を費消させようと企んでいるに違いない。私もまた彼と同じ場所で踏み迷っているのであるから。(内部の樹木)

連載【第014回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: flat living 1

 flat living 1
 地表すれすれで棲息しているのは私ばかりではない。蛇のように低い吐息を這わせているおまえたち、闇の匂いを蓄積させた路地の、地べたの種族――。

 おまえたちは蹲っているような沈潜の仕方で、地面に沿って平たくのびきってしまっている。実際、おまえたちはすべての存在と同様に個々の曲率に支配されて、それゆえに永遠の平面にまでのびきっているはずなのだ。
 むっくりと体を起こしているのは、やはり影の部分。その影の奥のつらなりの影の内部というものにその根はあるのだろう。根があるというよりも、その存在は裏返された形のままの空虚であるに違いない。影の中の影の部分も体をもたげ始めた。影のつらなりのすべてが、永遠の鏡像のすべてのつらなりが、同じ傾きをもったまま、ゆらゆらと体をもたげ始めている。

 私はおまえたちにとらえどころのない類縁性を感じている。それは、おまえたちのいずれかの特質に、かつて私の何かが関わっていたことがあるということなのだ。私は、すでに私ではない別の私の系譜を思い描いているのかもしれない。それとも、いまだその呪縛と密接に関わっているとでもいうのか。
 私は自分の生まれた場所を知らない。そのことと関係があるのかもしれない。地面への思い入れ、裸足で土に触れることのやすらぎ。根を下ろし、体を支える根拠がほしいのだ。そして、地べたにはたしかに母の匂いと父の匂いが相まって情緒的な風がそよいでいる。ただ、それだけだ。しかし、私は連鎖だということを思い知らされる。連鎖への懐かしさが甦るとはいったいどういうことだ。それはゲノムに対する降伏の白旗なのか。懐かしさは弱さなのか、それとも諦めなのか。ひとりでいることの寂しさ、地面に抱かれることの救いがたさ。なんという裏切り。(つづく)

連載【第015回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: flat living 2


 flat living 2
 おまえたちは私を呪縛する。しかし、私はその呪縛が私に属しているのか、私を属しているものに関係しているのかを知る術がない。懐かしい匂い、体の奥が引きずられるようないとおしさ、脂にまみれた感触、体をくるむ体毛の記憶、何も考えることのない安逸さ、身をゆだねることの持続――。
 おまえたちは答えない。答えることを退けているのではなく、答える必要のない持続があるばかりだ。私はただおまえたちを通して、呼びさまされる何かを感じている。それが何であるかは別にして。それはそれぞれの内部に根強くあるものではなく、表層のありように起源するものなのかもしれない。なぜなら、つらなる無限の鎖はそれぞれの磁場を形成し、それらの磁力によって影響しあっているはずだからだ。

――腐りかけた足をこうして引きずりながら地を浚い、あるいは地べたを爬虫類のように滑り回るおれたちの姿を、おまえは自分自身の影であるかのように思い違いしているのかもしれない。それはおまえ自身がおまえを見失っているか、忘却しているか、あるいは実はおれたちのことを遠い昔から知りえていたという錯誤に起因しているに違いない。おれたちは起き上がるもののすべての起源に関与している、無窮の平面に沿うものの来るべき未来に関与している。それは汚れた暗い血と得体の知れないものどもの婚礼と交合と裏切りに充ちているからだ。
 権力が婚礼を支配する――、このことを肝に銘じておくべきだ。誕生も、血の相続も、おまえを支配するものへの従属の聖痕を与えられているのだから。呪うべきはこの連綿たる影、影をつなぐ連環、永遠の過去、永遠の未来、永遠の現在を貫くもの。(つづく)

連載【第016回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: flat living 3

 flat living 3
 支配するものを受け入れることは許されない。屈服することは許されない。私はそのことを忘れているわけではない。権力は何にもまして狡猾なのだ。私を招き入れて抱き寄せる。そして骨抜きにして暗い夜に放り出す。重い鎖を首に巻きつけ、足枷さえも括りつけて。さらには、血のつながりをつくることであまたの奴隷を生み出すのだ。
 しかし、おまえたちは闇にありながら立ち上がるものだ。そして、おまえたちの住む地べたは土と岩だけでできているのだから。

 私は、おまえたちがなぜ、知ること、つまりすでにあることの認知とは無縁なのかを考えざるをえない。おまえたちは二次元を颯爽と滑降し、その視線の先には地べたに記されたありうべくもない系統樹がある。おまえたちこそ、すでにあったものではなく、ありえぬものの具体化に関与しているのかもしれない。所与の知の発見ではなく、〈与件による発見としての知〉のそもそもの出自を疑い、それらを自らの創出によって覆すための。

 だが、それでも、私は繰り返さざるをえない。生命の連鎖、DNAの継承の前に。――滋養とさせられる存在、啖われるもの、ただの肥やしだ、亡霊になってさえも!(平面生活)

連載【第017回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: blood wedding 1

 blood wedding 1
 地面を引きずって徘徊するその意識は、決して地面に引きずられてはいないのだと叫ぶ。だが、天井からは継母の祝福されざる黒い血が滴り、屋根裏部屋の床一面には重力の破産を示す熔解した天体の落下の痕跡が見られる。痕跡は鉱物の形をとるのか、植物の姿となるのか、あるいは生々しい肉そのもの……。すでにこの世を後にした意識は、物質と物質との関係は、意識と物質、意識と意識の関係でもあるのだと言い残していた。その意識が向かったのは、向こうから押し寄せてくるものがとうてい看過することのできない反撥と激突とでもいうべき鋭い亀裂。

 意識Bは逃れること、逸脱することはできない。だが、本当にそうなのか? もちろん、BはB自身をつなぎとめておく。そうすると、BはB自身にとって誰なのか? BはB自身を押し潰そうとしている範囲に囚われているだけで、その一部、あるいは付属しているものではない。たしかにBは奴隷のような存在であることを強いられてはいるが、敵意を失っているわけではない。Bは堪えているに過ぎないのである。――何に?
 私はここで素朴な疑問に直面する。いったい誰が、その薄い皮膜がどちらに属しているのかを知っているのかと――。(つづく)

連載【第018回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: blood wedding 2

 blood wedding 2
――まさに〈私〉が息を終えようとしているその刹那に、〈私〉を唆して飛び立たせようとするものがいるのだ。〈私〉は羽撃くものではないし、翼、鰭、跳躍に適う強い脚をもつものでもない。天使のように無残な光輪も、醜く硬直した幼児的な微笑も持たない。ただ、たしかに深い憎悪と鋭い敵意を抱きながら囚われつづけている、まさにその接触面にいるのである。〈私〉を解放しようするものが現れたとしても、〈私〉はその欺瞞と悪意を見破り、何ものに対しても完全な侮蔑と敵意を失うことはないだろう。〈私〉はあなたに対してさえも、またこうした自分自身の重複せざるをえない意識の連鎖に対してさえも、〈私〉を囚えているものに対する反抗と同質の〈反抗への意志〉を欠かすことはないだろう。

 意識Bは遠い宇宙の起源、物質の起源の記憶を持っているのだろうか。完全なる反撥とは対称性と関連している。粒子と反粒子は、どちらがどちらを生成させたのか、あるいはどちらが起源なのか。そこには電磁力というよりも重力の秘密があるようだ。空の状態から物質と反物質が生まれるということは、空の場からさらに二つの対称性を持つ場が生まれたということにならないか。空は消滅するが、重力はそれをこの二つの対称性に分かつと同時にその根元であるから、そもそも二つは重力によって惹きつけあうのだ。そして、いずれ、遠い距離と時間を経て元に回帰することが予測される。
 意識Bは孤立した反抗者だが、生成したのか分裂したのか、内包なのか外延なのか、いずれにしてもそこには徹底した反抗する分身が存在するようだ。

 意識Bの分身であるB´は、Bと同時に、異なった磁場でモノローグをつづける。つまり、Bのことばの底にB´のことばは含まれ、B´もまた匿されていたのである。そのB´はすでに失われた者たちの列の向こう側にあり、暗い眼窩の奥にある空虚は蒼く銹び落ちようとすることばの(ほむら)に閉ざされている。B´にまつわる記憶といえば、ことばの持つ磁力と重力の激突を想起させるハレーションというべきかもしれない。ただ、ときおり、血腥いものが曲面と曲面のつなぎ目、曲率の移動するあたりに沁み出していた。それはB´が重力を認識しはじめてから、B´の内部へと沁み込む重力の形象。B´の内部はBの失われた領域、非在という部分。(血の婚礼)

連載【第019回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: all gravity 1

 all gravity 1
 皮膜などはたしてあるのか。BはB´に対して方向性を持っていると仮定すべきだ。なぜならBとB´には互いに異なった磁力が存在しているからだ。BとB´の引力と斥力の混沌は極大に達しているかもしれない。そうだとすると、それは何に起因しているのか。
 異なった磁場を持つということは、皮膜の内部がキュリー点に達し、そのことによって、それぞれの磁力が崩壊してしまうということなのかもしれない。いずれにしても、方向性などまるであてにならない。

――意識Bよ、〈私〉の内部にはおまえなどいたためしはないのだ。〈私〉はおまえとは無関係な領域におまえという非在を内包しているのだ。しかし、それは二つの意味で、おまえは〈私〉を絶対的なものとして捉えてしまっているということになる。つまり、〈私〉がおまえと無関係だという点においておまえは〈私〉に関係を強制しているということ、また非在を内包していると〈私〉にいわしめることで〈私〉の非在を明かしてしまっているということ。そのような混乱が増大すれば、元には戻らない。〈私〉はもはやおまえを認識さえしていないのかもしれない。相手のいない譫妄に陥っている〈私〉は、磁力に従っているというよりも、意識Bそのものに遷移しているといえるのだろう。意識B´を喪失したおまえそのもの、意識Bとして。(つづく)

連載【第020回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: all gravity 2

 all gravity 2
 皮膜は確かにあるのだ。BにおいてB´は隔てられたものだ。重力と磁力が溶融しているような状態ではすべてが見えなくなってしまうように、皮膜のあちらとこちらの磁場がそれぞれに高温にさらされているのかもしれない。その安定しない状態にあることで、あらゆる事象との結合が容易になっているのだ――あるいは散乱現象。Bにとっては皮膜が熱によって混濁すればするほど、内部に押し込められることからいっそう離れた場所にいることになるのだから。
 斥力は引きつけあう力をその出自にしているはずだが、その根元であるすべてが平坦(フラット)な場所、つまり力のすべてが内側に押し込められている状態を原因にして弾けてしまっているということになるのだが、それはじつは跳ね返る重力というものを、そして重力はどこに行きつくのかということを暗示させざるをえない。
 だが、問題はBやB´も純粋分離しているのではなく、意識(、、)意識(、、)であるということだ。いや、そうではなく、「その(、、)意識」であるということなのだ。
 意識はそれ自身で存在できないのだから、そのことからどのように脱け出ることができるというのだろうか。そのようなしだいであるから、意識Bと意識B´は連続的に抑圧されているに違いない。――何に?

 けれども、熱を帯びて全方向を失い飛び散っていく意識Bと意識B´は互いの空間的距離、あるいは同様にすべての記号と記号´との間の距離を広げていく。
()()()()()()()。そのことは、()()()()()()()時間的距離も広がっていくということだ。時間も空間も個別だから、力というつながりを残したまま新たな皮膜に囚われているということになるのかもしれない。もちろん、低温状態のそれぞれは独自性を獲得し、つながりを見ることはできない。なぜなら、ものとものとの間はすっかり晴れ上がっているからだ!
 そして、限界まで離れてしまうと、新たな問題が発生する。すべての力が重力にすりかわっているのだ。それは、ふたたび死と強制の道を意味するのだろうか。引きつけあうこと、結合していくこと、宇宙の全重力がすべて重なっていくこと!

 私は私の意識が多重性をもち、複数の重なりであることを否定するつもりはない。私自身を含めて私の意識たちが囚われているに違いないことはうすうす感づいている。本当のところ、私たち意識の問題は、私をとらえている私たちの直接的な皮膜にすべて起因しているのだと。私の意識がいくら重力についての議論をしていても、意識におけるすべての問題はこの直接的な身体機構にあることを。(全重力)

連載【第021回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: missing acts 1

 missing acts 1
 必要なのは破裂することばなのだ。地核での眠りから地表に上り、地面を伝って中足骨からいくつもの関節を跳び越え、脊椎から頚椎、頭骨へ、さらに骨格にまとわりつくあまたの血管を辿り、太い大動脈を引き裂いて、脳漿を膨れ上がらせ、ついにすべてを粉々にして、破裂すること。寝静まって、だれにも見つけられない真夜中のいたるところで、一瞬の、激しいひきつりが発現する。それらを起点にしていくつもの痙攣が波動となって打ち続き、その長い長い苦痛こそがことばのprimary tumor。粉砕された輝く無数の細胞の切片を巻き込み、熱く滾る血液、脳みそ、肉片の飛び散る渦、気化する状態のタイフーン。なによりも切実な痛みの群体!

 こう書くこと自体、破裂するのだ。そうだ、もう私を好きにさせてくれ。筆順も字画も忘却し、書字という行為自体を喪失するために。それは省略とか錯誤のためではなく、ことばを獲得するための欠落行為となって。私自身が欠落しながら、それを取り戻せないで、取り戻す必要もなく、ひたすら失い、失われてしまいたい。だから、私を好きなようにさせてくれ。すでに文字として記述されていたとしても、それらは不連続の欠落なのだから! 欠落したそれぞれの関節の部位は回転しようとするのではなく、軟骨との接触を断ち切ろうとして、痙攣を始める。

――わたしにも、思いあたることがあるわ。
 わたしの義父にあたる老人が植物状態に陥る寸前。頭部の皮膚の表面と血管と神経は部位ごとに独自の塊をなそうと、白く、赤く、青く、土色に、まだらに、ぶつぶつと、それぞれの部位を幾度となく不規則に膨らませては縮める。一晩中、顔面を痙攣させ、こめかみの静脈が通常の十倍には膨らんでは縮み、顔面の神経が異物のように激しくひきつりつづけ、唇や顎がとめどもなく意味のない運動をし、眼球はあてどなくぐるぐる旋回する。一晩中、まさしく一晩中、脳内で異物がひっきりなしに暴れ回るように、人間の顔のあらゆる奇怪な動きの可能性をすべて現してから、彼はただ一度だけ、意識を取り戻したわ。そしてその直後、まる一年間の最期の眠りについたのよ。それは、あまりに静かな、起伏のない、それでいてまさしく肉体そのものである意識の形骸。いいえ、意識そのものの。直接的な感情のない身体構造! 最期の覚醒の一瞬にふたつの眼球がうつろな球体の奥を透かして、ぎろりとわたしに視線を凝らして。
 いいえ、それは違うのかもしれない。たんに無知の、切り離された意識なのかもしれない。どことも結びつかない、切り離された、分離された部分。でも、それは部分というべきではなく、分離され、別個のものとして、独立した全体というべきかもしれない。別の全体ともいえるそれは、何かを知ることができたのかしら。つまるところ全体でしかありえないそれは、そのことによって、たんなる空っぽなのかもしれないのに。(つづく)

連載【第022回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: missing acts 2

 missing acts 2
 その部分は遊離しているのではなく、無知であるために包括的に独立しているのかもしれない。それは知的な認識という回路を必要とせずに、たんに気づかないでいるというだけ。気づかないふりをしているということとは違うのだが。あるいは純然として気づかないということ。だから、君が誰で、そのときどこにいたのかと問うたところで、その質問ははぐらかされ、ただ吸引されて、反問されることはない。無視されているのではなく、空っぽの向こうに吸収されつづけていくのである。
 だが、気づいていないことと知らないこととは根本的に違うのと同じように、気づくことと知ることは永遠に結びつかない。自分が自分の内部にある空っぽ、あるいは内部にないはずの空っぽに気づくことは不可能だが、自分が空っぽの部分を持つことは知りうるし、まさしく空っぽ以外の何ものでもないことを知りうることも可能なのである。

 この関節の、いたるところにあるリウマチ性の結節は悪性腫瘍ではない。それでも、まるで甲羅をまとって身を守るように、いたるところで発現している。それは無知という空洞を守る意識と同じだ。だから、その部位は叫ぶことが可能なのである。あるいは叫ぼうとすることが可能なのである。けれども、もちろん、その方法もことばも知ることはない。神経反応という苦痛、苦痛という意識の非在、その悲鳴だけが!(欠落行為)

連載【第023回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: narrative of revenant 1

 narrative of revenant 1
 その形象が訪れたのはそのときだった。音もなく開く扉。爛々と光る眼球の気配。薄汚れた長い布を肩からすっぽりまとった何ものかが暗い空間に漂っている。

 おれの末裔、おれの分身、一族の者よ、幽霊は語った。いや、語ったわけではない。そのようなことばの渦を闇の中に注ぎ込んだのだ。

――生を享けて以来、おれは悪逆の念としてこの世界を呪い続けていた。おれは特別な悪人だ。だが、どうしようもなく純粋な血を持った者だともいえる。おまえたちの母親はみな自ら進んで、このおれに抱かれたのだから。

 そのことばを呑み込むことは困難だが、なにかしらぼんやりと寛いでいて、なつかしい匂いを嗅いでいるような気がする。しかし、幽霊は物質として存在していた。夢魔や妄想の類とは思われなかった。手を伸ばせば確かに触れることのできる、ものそのものの性質にあふれていた。長い髪の毛や顎を蔽った髭、全身を包んでいる布が、窓から侵入する夜風に煽られ揺れている。けれども、その質感、その波打つ動きは金属的な硬直性を持ち、機械的な顫動を思わせた。だからなおのこと、幽霊の表情や仕種はこの世のものとは思われぬ脆弱な印象を与えていた。自働人形のぜんまいが跡切れようとして、最後の瘧にうちふるえる瞬間のごとく――。
 その繊細さは、いつでも存在を何か別のものに転換できる性質の現われでもあった。肉体そのものよりも、それ以外の部分に濃厚に感じられる存在感――。表情や仕種の妖異さ、独特の雰囲気は、おそらくそのような部分から発しているのだろう。見つめつづけると、あまりに酷薄な冷気が伝わってくる。それはまさしく空間の虚無だった。身も心も凍結させる空虚であった。

――おれが何ものなのか、おれの本体が何であるか、おまえは見なければならない。おれはありきたりの蒙昧な亡霊どもとは異なるのだ。いいか、よく見ろ。おれの衣の下を見ろ。

 闇に鎖されている部屋の中で、幽霊を中心に、夜より暗い、真っ黒な渦が巻いている。いたるところで微細なまでに振動する空気の、そのすべての粒子が、全身の肉襞に鋭利な歯牙となって喰い込み、噛みついてくる。幽霊は振り払うような素早さで薄汚れた布を放ち、その大きな布は嵐の海面を漂うように宙を舞った。布の向こうに捉ええたのは、凄絶な青味さえ帯びた、どこまでも貫いて透き通る空間だった。何ものもない荒涼とした空虚、無そのものの上に、首だけが浮かんでいた。そして、空洞に固着した首が奇怪な表情のまま硬ばって、こちらを睨めつけている。(つづく)

連載【第024回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: narrative of revenant 2

 narrative of revenant 2
 どれほどの長い時間が経過していたのだろう。ほんとうはわずか寸秒のことだったのかもしれない。浮游する顔は初めから色彩を失っていたが、首だけになると、褪色した薄い皮膚はみるみる涸び、ついにはかさかさになって剥落していくのである。鼻梁や耳朶もその形を崩し、軟骨がこぼれ落ちる砂のようにさらさら音をたてて空中に四散していく。ただひとつその姿をとどめているのは、剥き出しになった裸の眼球である。網目状の毛細血管に絡みつかれ、燠火や鬼火を思わせる血の塊となって膨んでは萎む眼球が、闇の中で妖しく炯っていた。

 なんというおぞましい事態。死そのものの無機性である頭蓋骨の中央で、不吉な生を暗示する怪異な二つの眼球の蠢き。それは、睡眠時の瞼の下で活溌に跳ね廻る眼球運動の、見ることへの異様な執着!
 髑髏は空中の一箇所にとどまることをせず、後方に退いてはまた目前にまで迫り、まるで球面を無軌道に滑りつづけるようにしてこちらを威圧し、執拗に、見ろ、よく見るのだ、と繰り返している。そのうちに、骨の廻転体に象嵌されている眼球の、青灰色の中心近傍も、どんより濁った暗灰色に変じ、血脈によって隈取られていた暗褐色の外縁部も、涸いた黒い色へと色調を落としていった。それからしだいに眼窩の闇へと沈んでゆき、そのあたりは落ち窪んだ翳りだけがつづく深い洞窟を思わせた。

 形骸と化した髑髏はなおも飛び廻り、幾度となく目の前に迫ってきては、純白に光る歯ばかり並ぶ口蓋を噛み合わせ、まるで喉笛に喰らいつこうとでもしているように見える。闇に浮かぶ白い髑髏、それは己れの躯を捜し求めているかのようだった。(つづく)

連載【第025回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: narrative of revenant 3

 narrative of revenant 3
――おれは頭蓋骨だけで生き永らえているのだ。おれの輪廻転生はこの頭蓋骨に凝結し、おれの呪いも、おれの残虐無比も、ここにきわまっているのだ。

 髑髏は宙宇の一点に静止して、闇の根源である暗黒点のように、そこだけ無限の深い暗がりをつくり、暗箱の中にしかありえない絶対黒色の描線で、頭蓋骨の全ての稜線を描き出していた。

――わが裔よ。数億年を古りたわが血の(うから)よ。おれたちは頭蓋骨だけで生きている。おれたちの永劫の魂はこの骨の中に封じられて、決してどこにも去ることはないのだ。おれたちの肉が滅びようと、おれたちは地を充たす地の塩となって、死ぬことはない。時がおれたちの味方だ。世界の滅びも、おれたちには無縁だ。
 おれたちは純粋に本来的であって、冒されるべきものではない。なぜなら、わが眷属は人類の唯一の始源だからだ。おれたちにはすべてが許される。わが眷属は神なるものさえ凌駕する(うから)だからだ。

 数億年を経た黴臭い澱んだ空気が体内を侵してくる。なつかしい死者たちの塩が、脊索動物ゲノムの歴史が、部屋に、体内に充ちている。名づけうべくもない戦慄、その兆し。
 闇の本体と化した髑髏は、全ての暗黒を呼び寄せる動きを終熄させたように見えた。そして、その暗黒自体がまるで光の性質をもつもののように、漆黒の闇を黒々と燦かせた。
 次の瞬間、髑髏は周りの何もかをも根底から破壊するような凄じい速度で部屋の中を疾った。その行手には光を遮るカーテンと窓がある。遮断するあらゆるものが吹き飛び、大きな爆発音とともに粉々になるさまが予感された。そして、粉砕時の轟音が耳に達したかのような錯覚に囚われる。

 しかし、髑髏は窓に衝突すると同時に、まるで吸い取られるような具合に、音をたてることもなく、忽然と姿を消したのだった。(幽鬼についてのナラティブ)

連載【第026回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: fluctuating fabric 1

 fluctuating fabric 1
 それは、空虚という実体を内包したものなのかしら? 意識が物質過程に関与するということは、そのような見方が必要なのではないか、そしてそれはすでにそれ自体がエネルギーでなければならないとも考えられるわ。

「だとすると、ぼくが必要なのかもしれない」
「ぼくって? どこにぼくっていうきみがいるの?」
「ぼくはいないのだから、だれにも見ることはできないし、ぼくの居場所をいい当てることもできない」
「そんなことはないわ。声のするところにいるに決まっている」
「声は音波だけど、形ではないんだよ。だいたい、ぼくは生まれてもいないんだ」

 たしかに、声のするところに何ものもありえないし、声のない方向にすべてが囚われているとも思える。だってわたしは囚われているのよ! 何もない周りから。

 そのとき、何かが届くか届かないかの、判定さえつかない境界のあたりで、妙な光の塊が形を変化させながら発光していた。

「ぼくだよ、ぼくがやっているんだ。声だけだと定まるものも定まらないからね」(つづく)

連載【第027回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: fluctuating fabric 2

 fluctuating fabric 2
 嬰児というのが妥当かどうかはわからないけれど、声の主が操っていた塊は形の定まらない筆記具とでもいったもので、始まりは回転体であるけれど、振り子のように円錐状に振り続けると、中心部からさまざまの色光が長い線分となって発するというものだった。そして、その糸状の光つまり網の目は時間と空間と重力のそれぞれの発生点らしく、それらの交点からさらにけばだったゼンマイのようなヒモ空間をゆらゆらとのばしていくように見えた。
 声の主が言っているのは、それらが帯のように結びつくことによって何かの定まりを作り、何らかの疎通をなすということなのかもしれない。

「ぼくが色の原因であるということはありえない。光に色がつくのは物質を通過するからで、全光が阻害されているからなんだよ。ぼくは光の始まりであるから、色も物質も含んでいる、すべてを含んでいるから何もない」
 たしかに全包含は空虚そのものであり、それは全実体なのである。

 その発生源が筆記具であるというのは、その中心から流れ出している色線が時間の凹凸によってさらに色の違いをもたらし、奥行きのグラデーションに見せているからかもしれない。
 しかし、筆記というのは記録と表現に関わる手段だ。つまり、発生の過程を示すものであり、発生の行為自体なのだ。筆記具は記録と表現行為に結びつき、その立体的な操作は発生と創造の座標を定義するものであり、位相転移の秘密を示す祭祀に結びついているのかもしれない。(ゆらぐ織物)

連載【第028回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: grillo 1

 grillo 1
 嬰児はすでに幼児となって、ひとつの形を表しているのかもしれない。そのグリロという名の器具は光の線分をまとめて冠状波紋を撥ね上げ、その尖端を結びつける糊のように粘着的な接合を不規則に続けていく。それらの接合箇所はとげとげしい光を帯び、ギザギザの閃輝暗点のカーブをつくり、幼児をその奥に囲い込んでいる。光はグリロの筆先になっているのだ。幼児は井戸の中の意識の鏡体とでもいいえよう。閃輝暗点を生み出した脳内中枢の血管の瞬間的な収縮が、血流を一時的に変化させる。そのときに意識の鏡体となり、絶対反射の球面となるのだ。

――そのとき、わたしは球体の表面に吸い込まれ、そのことによって鏡体自体と同化するのかもしれない。わたしの性は時間とともに失われていくのだわ。わたしは溶けゆく過程で、グリロとは少年の名であるのか、鏡体に違いない少年の形をいうものなのかと、自問を繰り返している。

 ところで、意識は実体を持つことは不可能なのか。意識が幻想に過ぎないものなら、物質には作用しないはずだ。物質それ自体に絶望という概念が生ずることはありえないが、意識が絶望したときそれによって自殺するのは意識ではなく、その吐息に触れたあまりにはかない物質なのである。物質の死があって、それから意識の死が訪れる。
 物質と意識にはそもそも相互作用などあるのだろうか。それともそれは相互作用というようなものではなく、ただ互いに語り合うことが不可能なものにすぎないものなのだろうか。(つづく)

連載【第029回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: grillo 2

 grillo 2
 ここでは意識は物質であるのか、そうでないのかを考えているのだが、物質であることと物質でないことにどのような境界をもたせられるのだろう。境界がないか、あまりに詳細化されて境界というには困難な状態であるならば、それは物質とはいえない力学、つまり量子的な光子間におけるある種の重力場といえるのかもしれない。境界自体が空間状態であるとか、境界自体が重力状態であるというような問題である。
 このような物理は混乱と多義性に満ちた概念が自己完結する範囲を示すのかもしれないが、範囲そのものが発火するという、実に気味の悪い事象を示す鏡像として、脳内に立ち上がってくる。サイズを持たない物理現象として、意識は存在の単一現象ではなく、群体として存在するのだ。
 行為が先行するのはこの群体としての意識においてであり、意識と意志は乖離しているに違いない。
 群体は身体機構全体と関与し、身体のクオリア化を構成する。このとき、量子効果を生み出す微小器官が、ナノレベルでも可能となるのかもしれない。

 機能的には、クオリアはナノレベルの収束器官でも可能なのかもしれない。しかしそれは収束器官の持つ限界サイズと確率自体の持つ収束の微小化傾向との相反性の限界によって、擬似的な収束器官、擬似的なクオリア質感にとどまるだろう。
 器官自体は確率判定の確定性と単純化によって、その方向は階層化をたどり上位方向に向かうだろうし、反対に確率の微小化は単数存在の内部につらなるさらなる単独存在に分裂することは必至だ。そして、さらに単数存在の内部構造となる単数存在が群体として肥大化する場合も、いっそう階層上位へと向かうだろう。
 この分裂は上位構造を消失させ、上位概念を外部概念へと転換し、階層下位はいっそう内部へ向かっていく。つまり、擬似微小器官は自己矛盾し、崩壊する。クオリアとは内部が極小を求めていく世界把握のことなのだ。
 しかし、これらは意識の問題でありながら、力というエネルギーの問題である。たしかに物質そのものなのであるが、その物質が相反性という斥力の海に漂い、力の偏移がその特別な力学から脱しえない確率をとった場合、物質として収束することが不可能な事態がなにを意味するのかを想定してみるがいい。つまり、量子論と次元の宇宙論の並行結合とでもいえそうなイメージのことである。

 意識は空虚というイメージに囚われている、あるいは空虚というエネルギーの実体を包含したものとでもいいうるのかもしれない。いずれにしても、意識はそれ自体ではあまりに抽象的で、実在といわれるサイズの範囲から逸脱しているように見えるのだが。(グリロ)

連載【第030回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: light cage

 light cage
 それにしても、クオリアは身体の全体的な認識領域なのだろうか。それも、単一の。それこそ、質の異なった、サイズの違った、別の領域を複数個持つと考えられないだろうか。そして、それぞれの世界の関係は矛盾に充ちたものであると。
 そもそも意識が単体と群体で構成されているなら、クオリアはそれぞれの認識の範囲で世界を形成している。つまり、境界構造を持っていて、これがクオリア間、あるいはクオリアの内部と外部の枠組みとなり、細胞膜のようにクオリア自体の矛盾を変成するのかもしれない。

「ぼくが囚われている光の檻は、ぼ、ぼくのつくり出した触手のようなもの、のだ。」
「わたしは、しは、この関係を成長させるために、わたしの、の性を溶かしているのよ。」
「お、れ、が、ぼ、く、たちが多重化すれば分岐する性が発生するのだが、それ、れらを封じて性をどろどろ、どろに溶かして、発生というものをトランスしてしまう、うのだ、しまいたい、たいの。」
「わた、した、ち、変形や変質はそれぞれのクオリアを、さら、さらに多重化する、る。」
「 、 、 、グリロは無の中に、なかに、その道筋を開示するのさ、のよ。」
 そうなのだ。彼らのことばは宇宙卵についての示唆なのだわ。
 何かが混濁しているにしても、宇宙卵は分裂する意識、増殖するクオリアを拝胎している。少年たちはいまだ殻の中にある形のないもの。殻の中にいない形のあるものなのよ。
 そうだとすると、わたしは殻にへばりつく平面意識、同化などすることのない、影さえも失われた孤立した性!
 この平面は鏡体の表面なのだ。それとも、意識とクオリアの境界構造なのか。

 意識は他の意識と激突することで、イメージの牢獄から逃れることができるのではないか。つまり、エネルギーが生成されるということ、発火することによって光を発するということ。

 たしかに、感覚と情緒に深入りすればそれはつねに危殆の淵を辿ることになるだろう。そして、そのことでいっそう裏切られつづける。しかし、私はそのことばを、従属する意識あるいは抵抗する意識として使っているのかもしれないし、あるいは反意識という意味で使っているのかもしれない。ただ、だからといってはたして意識ということばを定義して用いているのかいないのか。
 物質であることと物質でないことにどのような境界があるというのか。(光の檻)

自由とは何か, 2004.8, oil, canvas, F100(1303×1620mm)

連載【第031回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: fascism without the summit

 fascism without the summit
 つまり、システムレベルではこの内部にある限り自己なのである。所有を知らない単純集団は細胞の組織構成と同一の結合関係を持つといえる。所有は共有であって、私有の概念はない。いや、所有の概念がないともいいうる。集団的。あるいは階層的。または幻想的統合システム。

 生物がたった一個の独立存在だとすると、あらゆる生物はこの統合的一個の全体性の生命活動だとして、だれも見たことのない、だれも見ることのできない、不可能性だということになる。
 絶対的な唯一生命体でしかないならば、世界はミイラのように固定化して、死滅しているだろう。いや、そのような超古代の生命はすでに生命の全機能を失ってしまっているだろう。

 人間的システムが発生論的であるから、発生原因が多元的であっても、結局、一元化され[反宇宙的存在]に過ぎず、増殖、成長、発展しても、その根源性から逃れえない。
 人間的システムであるかぎり[生物的存在=細胞存在]、つまり生物的自然から逸脱できない。

 物質的な存在の内部のような実体。まるで概念的、抽象的、幻影的なあいまいさ。その先にあるのは不可能性と、稀薄な未来、ものとものとの結びつきからさらに離れていって、涸れてしまう種子。(頂上のないファシズム)

連載【第032回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: bourbon cask

 bourbon cask
――わたしは何について考えたらいいのかしら。何かを愛しているという錯覚、それとも憎しみについての物語?  つまり、肉体の猥雑さをいとおしむべきなのか、身体機構のヒエラルキーに反抗すべきなのかしら。それとも、わたしはわたしから見ることのできないからだの外側の世界、からだがいくつも重なっている世界を愛しているのかしら、許せないでいるのかしら。無限に重なりつづける宇宙のからだ、わたしの性器が受け入れられないもの。

 強いアルコールを口にするときの癖で、彼女は断定的な調子でいくつもの結論を並び立てる。そして、私をばかにしたように(なじ)るのである。このときは、乱暴ではあるが pousse du bambou(筍)のアヒージョ(オイル煮)をウイスキー片手に食していた。

――では、意識下の無意識は幻想の身体機構の影の世界ということになるわね。幻想の裏側ということは実体といえるかもしれない。身体機構は統制管理構造だから、それとは異質の「場」であると考えると、それは肉体の最小単位である全細胞からそれぞれ発生する意識のゆらめきということにならないかしら。いえ、無意識のゆらめきと。問題は統制システムのファシズムを明らかにすることにあるのではなく、このゆらめきを愛することにあるのよ。あなたはそれをどう考えているの? 存在の問題は何を愛するかに尽きるのよ。でなければ、ただのひとりよがりというものよ。

 酔いつぶれた彼女には申し訳ないが、私はひとりよがりでけっこうなのだ。出口のない蛸壺に入っているにすぎない。それでもけっこうなのだ。恐ろしいことに、私は宇宙的現実は無いという悟りを手に入れようとしているのかもしれない。あらゆるものは、ただの見方でしかないというのはそのことなのだ。それも、それぞれ(・・・・)という、仮定の(・・・)質点からの。(バーボン樽)

連載【第033回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: spinning sea 1

 spinning sea 1
 わたしがその兆候に気づいたのは、東南アジアの古い都市の旅から帰り着いてすぐのことだった。眠りから目覚めると、後頭部に何かしらの違和感を感じたのだ。簡単な打撲だと思ったのだけれど、嫌な気がしたのも確かだった。内部に向かった棘、触るとぐにゃりとしていて。
――わたしが肉体のゆらめきなのか、意識のゆらめきなのか。そのどちらでもいいし、そのどちらでもないのかもしれないわ。
 棘ということばから、わたしはとある大腸ガンの顕微鏡映像を思い描くのだが、頭部の細胞はなおもわたしを深く攻撃する。

 あなたからの国際電話の数日後にクリニックに行き、何軒かの病院を回り、大学病院の脳外科で腫瘍があることが判明した。
――たしかに細胞は、細胞膜という皮膜とその内側の物質で作られた肉体の基本単位なのかもしれない。けれどもその内部は物質ではなく幻想という内容物なのかもしれないのよ。
 わたしのこの女性的な感覚とは異なって、あなたは肉体を単に生命装置の発現だと考えているのね。生命の実現つまり細胞レベルでの分裂・増殖の正のベクトル、そして生命活動の抑制という負のベクトルを持つ調整装置だと。

 半信半疑だったのだけれど、硬膜への浸潤があったので言われるままに開頭手術を受けた結果、悪性のものだとの診断が出た。硬膜から脳内に浸潤が進むととても危険だともいわれて。
――わたしにはわかるの。この悪性腫瘍はすべての細胞と同じ出自と履歴を持っているけれど、定かではない原因でその幻想の根幹部分、遺伝子配列に損傷を負った形跡があるのよ。
 あなたは繰り返す。生命活動とはこの正‐負の機能を同時に支えることに他ならないと。

 頭部の皮膚縫合部はチタンプレートで閉鎖し、浸潤部分は人工硬膜(ゴアテックス)で転移をブロックし、目が覚めると痛みはすでになくなっているといわれていた。(つづく)

連載【第034回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: spinning sea 2

KL20150519, Akira Kamita, Acrylic, A3

 spinning sea 2
――うわーっ、なんだ、痛いじゃないのぉ。だれか助けて! 嘘ね、医者はうそつき、目が回るくらい痛いのよ。萎んだ体が力なく緩んで、頼りなく覚醒を訴えてつづけているのに。
 しかし、それが手術による損傷のためなのか、病巣につきまとう本来的なものであるのかは、たんに肉体機能の評価の問題なのではないかと。あなたの考えていることなんか、お見通しよ。生命の正‐負に振れ続く機能は、生命遺伝子とでもいう物質に装置されているのだとしたら、この装置がどのような運命に導かれているのかを知ることができるとでも。

 手術後の検査では頭骨の転移は進んでいて、さらにPET(陽電子放射断層撮影)で肺の原発巣が確認され、頭部の癌は縦隔のリンパ節から転移したものという所見が示された。
――だから、その後の頭蓋骨の転移癌に対するガンマナイフ照射は対症療法でしかなかったのよ。
 たしかに癌細胞の棘が正常細胞を露骨に侵していく映像は生々しい。

 けれども、さらに遠隔転移はこの種子を全身の全細胞に植え付けていく。それに対する標準治療の数々、新薬による新治療の数々。その長い長い闘い。
――そのあげく、治療の可否はどうなるというの?
 どのような症状を基準にし、どのような腫瘍マーカーをあてにしても、明確に見えるものなどどこにもない。わずかに確かめられるのは画像診断による病勢の進行。化学治療は治癒と延命との間でどのような物質機能を示すのかしら。

 それからは、画期的といわれる免疫チェック阻害薬をはじめとして、化学療法の世界で踏み迷っている。遺伝子標的薬は硬膜を越えることが難しいから、脳内で効力を発揮できないかもしれない。わたしの体と運命的な寿命と、妄想的な医学の熱情との長距離走。
――遺伝子が、生命が狂いだしている! それでも、私は戦わざるをえないのよ。目の前の新薬に心奪われるとしても。
 それは治療の古い歴史に沿うことでもなく、治癒という概念に囚われることでもない。そもそも、わたしが質的に異なる生物なのかしら。あるいは分類学的に別種なのか、それともたんに異物なのか、侵入者なのか。生物学のどの立場から評価されて、生命修復の対象になっているのだろうか。(棘の海)

連載【第035回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: sleepless forest 1

 sleepless forest 1
 その森に迷い込んだときに、ある種の体系に毒された執拗な夢が送られてきた。それは、攻撃といってもいいかもしれない。その夢は、たしかに脳髄と神経システムの根幹を支配するDNA生命体がつくりだしたものである。

 飛膜のある翼を広げた男は、すでに死んでいるという噂はあった。それが数千匹の中の一匹なのか、森に住む数千匹の動物が一匹なのかは定かではない。
 数カ月前には、蝙蝠は死んでいるという予感もしていたが、確証を得る方法がなかったので、あてにならない郵便物や電話などを繰り返し送っていたのだが、やはりさまざまの不通の証拠が示されたに過ぎなかった。
 ダリあるいはサディと呼ばれるそのオオコウモリは、突然夜中にやってきて、どのような事情なのか、死亡日時も明かさずに、画家の名にちなんだ非日常的な音のない声を鳴らしていたのだ。もちろん、ばらまいていたのはそればかりでない。夢を作り出す夢の細胞とか、夢の核心である夢のDNAといったものなどである。死と死にまつわる闘いの秘密にも触れながら。
 そこらをごろごろ動き回る独立したサディの頭部、あらゆる細胞に均一に重なるDNA。際限のない「サディ現象」の繰り返し。生命とは、生命の現実とはそのような執拗さがなければならないとでもいうように。そして夜の暗箱がますます濃密になる。
 そう、そろそろ、触れなければならないところにきたのだ。

 生殖細胞、癌細胞の増殖の驚異的な速度、勢い。私だけではなく、身辺の人間にも狙いをすまして、凄まじい弾丸の嵐を浴びせてくる。樹状突起を激しく活動させて、組織の中を、血管の中を移動して、定着していく細胞たち、変異する遺伝子たちよ。(つづく)

連載【第036回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: sleepless forest 2

 sleepless forest 2
 取りつかれた細胞の戦闘は、無尽蔵の死体を作っていくのではなく、相手の細胞膜から攻撃物質を侵入させ、核にある標的物質を変化させて、それを基点に相手を解体し、さらに細胞膜の外に漏出させ、血流やリンパ管の中に昇華させるのである。

 別のケースでは、触手を差し込み、内容物質を摂取するという原始的行動の場合もある。また、分泌物質を滲出させて、表面を取り込んだり、突起に化学反応を生じさせたり、電解的な信号により攪乱させたりもする。
 そして、ここでも肉体のゆらめきが叫ぶ。
――おれはすでに宿主に叛乱している。棘そのものである肉体の力で細胞に入り込み、あらゆる野望を奪おうと。
 それは、癌細胞――生体に含まれながら、独自の生命活動、攻撃をするもの。

 眠れぬ者たち――。
 サディ現象「自分が肉体のゆらめきなのか、意識のゆらめきなのか、そのどちらでもいいし、そのどちらでもないともいえる。たしかに細胞は細胞膜という皮膜とその内側の物質であるから肉体の基本単位だといえよう。けれどもその内部にあるものは物質ではなく幻想の内容物であるのかもしれない」
 細密画家「癌細胞の皮膜の棘の変化にも興味があるし、いとも簡単に正常細胞の皮膜が破れて消滅していくのもじつに哀れなものだ」
 癌細胞「自分はすべての細胞と同じ出自と履歴を持っているが、定かでない原因でその幻想の根幹部分、遺伝子配列に損傷を負った形跡がある。しかし、それが損傷なのか、本来的なものであるのかは、たんに機能の評価に過ぎないのかもしれない」
 サディ現象「遺伝子とは増殖機能なのか自己殺戮機能なのか。それをどのように断定することができるのか。また、それは何を基準にし、何を根拠にし、いったいどのような物質機能といえるのか」(つづく)

連載【第037回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: sleepless forest 3

 sleepless forest 3
 癌細胞「そもそも自分が質的に異なる生物なのか、あるいは分類学的に別種なのか、それともたんに異物なのか、侵入者なのか、どの立場から評価されて修復の対象になっているのだろうか」
 細密画家「そのとき私は作為的なことを考えずに、指のままに、筆先のなせるままに、オートマチックな行為に埋没し、増殖したり消滅したりする小さなものたちの思いをひっきりなしに追いかけていたような気がする。刺したり刺されたり、侵したり侵されたりするさまはまるで生殖と同じ行為だ」
 癌細胞「まずそのことを指摘しておく。生殖こそファシズムなのだと。画家であるおまえは正常細胞と異常細胞のどちらの出自もその未来も同じものだということを述べているに違いない」
 サディ現象「異常細胞は、植物の造形や、あるサイズを持つ生命のかたまりが、運命づけられた成長計画と切り離され、恣意的な自己成長のかつてなかった組み合わせを創造し、増殖していく」

 細密画家「たしかに癌細胞の遺伝子変異はより高度な技術を持っているのかもしれない。その姿態をグロテスクと見るのは、グロテスクな生命進化の世界で最も美しいものに出会っていることを忘れているからだ」
 癌細胞「それはこれまでの治療の古い歴史に沿うことでもなく、治癒という概念に囚われることでもない。目の前の劇的な新薬に心奪われ、運命とも寿命ともつかぬものに支配されているのだから」
 サディ現象「画家の主張する純粋美術とはイメージの世界のことで、物質的存在ではない。しかし、それはやはり物質的環境、とりわけ経済的価値の問題なのだ。つまり、美術的価値とはどこまでいっても価格評価の問題にすぎない」
 細密画家「しかし、私の用いるイメージの素材はそれぞれの存在の目的・理由とは無関係に、ミクロの世界では肉眼では見ることはできないし、機械的な方法を使っても到達はできない。数学的な手法、物理学的な思考を使う以外には」(つづく)

連載【第038回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: sleepless forest 4

 sleepless forest 4
 サディ現象「サイズの大きくなったマクロ的世界では空間認識、時間認識の巨大な組み合わせを抽象化することで、風変わりな作品行為として実在するのだろうか。しかし、素材それぞれの場所からはその大きさの世界の把握は不可能で、作品といわれるものの存在も無意味であり、実在してはいない。実在は経済だからだ」
 細密画家「たしかに、色は光だから、光の色に境界線はないという見方もあるが、皮膜の変種である棘はそれ自体境界なのかどうか。しかし、本当に境界はないのかもしれない。溶けている状態としてあるために」
 サディ現象「それにしても、たしかに自動的に筆記具が律動していると、おまえのいうように、棘のある異物として生命の輪郭を犯している、あるいは光と色の秘密に近づき、見るという概念を撹拌しているという感覚が昂じてくる。その中で、たったひとりで世界と拮抗しているという芸術的高まりを覚えるのも事実なのだ」
 癌細胞「なるほど。しかし、それはおまえの自己陶酔だ。おまえは物質としての世界と拮抗してなぞいない。物理的な対立構造を持ってはいないんだ。自分は具体的に肉体を攻撃し、テロリストとして自分を抑圧する体系と闘っているのだ」
 癌細胞はたしかに憤慨していた。芸術家のたわごと!
 サディ現象「癌細胞の野望よ。DNAシステムからも見放され、世界のどこにもおまえの居場所はない。しかも、生命はミクロの世界では存在していない。宇宙的規模ではなおさらのことだ。それでもDNAシステムは細胞それぞれに遺伝子をばらまくという非効率的な生命系だ。それはサバイバルと増殖をかけた有機体のもっとも有効な生存戦略なのか。おまえの野望はいったいそのどこにあるのか? 最期は誰が知っているのか」
 細密画家「では、君たちに同じことばを返そう。具体的な肉体、具体的なシステムなど、見方の問題にすぎない。芸術だろうが、哲学だろうが、ミクロの世界だろうが、あるいはどこにもないものへの思いだろうが、世界の始まりと終わりにおいては何も確かではないんだ。そうだ、私のこの偏頗な世界観こそ、具体性なのだ」(不眠の森)

連載【第039回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: life genes 1

 life genes 1
神の秘密、Der Alte würfelt nicht(神は賽を振らない)
それとも、彼らは一擲乾坤、乾坤一擲に賭けたのだろうか。
私をこの深い闇に閉じ込める。あてどなくさまようヒッグスの暗闇に。だれが?

 私の肉体が引きずられる、それとも精神が引きずられているのか。
 私は偶然を必然のごとくに歩き続けている。重い、重い、意識。重い、重い、始まりと終わり。
 それにしても、癌細胞自体の生命活動とは何なのだろうか。生命系システムにとってそれは何なのだろうか。彼らは私の中にある異物、それとも愛すべき生命体? 癌遺伝子オンコジンは発がん因子と発がん促進因子のペアを恒常的に用意し、癌細胞の生命活動をコントロールしているふしがある。たしかに、〈がんという疾病〉は生体に異物を対峙させるという生命活動の負のベクトルをもっているように見える。
 われわれは互いに生命を貪食するだけで足りるとするものではない。啖われること、生贄とされること、消化され、余すことなく糞尿となり、宇宙の藻屑となるのだから。しかし、癌細胞自体は純粋に異細胞の〈生命活動〉なのだろうか、宿主細胞は異細胞の側から見る限り、エネルギー源として癌細胞の生体維持に不可欠なのかどうか。しかし。

――自分は癌細胞の世界を構築しようとしているのではない。自分という負のベクトルに対する生体の抑圧からの解放を目指しているにすぎない。これは存在のための闘いだ。しかも、過渡的にはエネルギー源としての宿主細胞の維持は必要だという矛盾を抱えて。自分は自分たちを涵養しなければならない。癌細胞群の活性化を夢見て。しかし、癌細胞が数十万個に達し、疾病として活性化するまでは、宿主細胞との相互維持が必要なのだ。とりあえずは。共存と活性化。相反するもの。この過渡性。生命遺伝子の正‐負のバランスこそ自然年齢というものなのだろうか。それは、がんの疾病化の始まりを示す境界年齢――人間五十年が死の適齢期とでもいうのか。じつのところ、癌細胞こそ共に生死を頒ちあう友人なのかもしれない。免疫システムの混乱と劣化が新たな疾病を産出している時代なのだから。そして、遺伝子工学がそれに拍車をかけているふしはないか。私は感じる。法外に老化しているこの時代こそ呪われているのだと。(つづく)

連載【第040回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: life genes 2

 life genes 2
 癌細胞はさらに続ける。

――自分は負のベクトルとされているが、それはあくまで生体の側からの見方なのではないか。〈がんという生体〉の側からは、生命活動というDNAシステムの構築性を否定し、宿主を無に帰するばかりか、自らをもって死の淵へダイビングする〈反生命活動〉という〈正方向性〉を有している。それならば。

 生命遺伝子が、冷徹で機械的で、あくまで一神的な〈世界の調和と統制〉というバランス機構であるのに対して、癌細胞自体のもつ死生観には、生命装置を媒介にして支配された世界性を超越するという構造があるのかもしれない。死を自己目的とした反世界という。とはいえ、がん化は用意されたものであって、それ自体、反世界的ではない。個体としての生命とは相容れることはないが、生命思想としては以毒制毒の効として、世界の奴隷であることに変わりはない。つまり、老化を抑制し、生命遺伝子の衰弱と劣化を避けるための細胞殺害マシン。DNAシステムの利己的大量殺人計画の下で。

――それならば、いっそ正常細胞を乗っ取り、自分たちが生体に成り代わるべきではないか。自分たちは、いわば生体における強制収容所の役割を与えられ、細胞人民をガス室送りにする影の部分だったのだから。そう、生体を駆逐する影の力。闇のうちに秘匿され、免疫機能のなれのはて、はてはキラー細胞の変質者として、利用するだけ利用されてきた自分たち。自分たちは異物などではない、DNAシステムから必要とされてきた生命細胞そのものであるはずだ。自分たちは、母親を奪取する。父親を奪取する。生命遺伝子を奪取する。そのようにして、死ぬなら死ぬで、自分たちの生ともいえる死がまっとうできるに違いない。死なばもろとも。死なばもろとも。生体ごと地獄の淵に引きずりこんで、この悪魔のシステムを地上から抹殺してしまう。それが自分たちを仕込んだファシズムへの復讐なのだ。(つづく)

連載【第041回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: life genes 3

 life genes 3
 昂揚し、陶酔しきった癌細胞。それにしても、いっさいの生命が装置として存在するとは……。身体という機構の内部にあるものを見よ。たしかに、肉体の細胞はその独自性と身体システム機構とに軋轢がある。細胞の個々の意識も身体システムと対峙している。しかし、ある塊となり部位を形成したとき、身体システムに圧倒的に支配されるに違いないのだ。だが、本当にそれだけか。
 そう、癌細胞だろうが宿主細胞だろうが、細胞レベルのDNAと意識は全DNAシステムに完全に支配されていることから解放されることはないだろう。個々の身体さえも全DNA生命システムのファシズムの渦中にあるのだから。だが、それは本当に永遠のファシズムということなのだろうか。植物と動物を統べる全体性。ここまでの歴史の成功と失敗。食物連鎖に始まり、膨大な殺戮を繰り返して築き上げたシステム。そしてさらに永遠の時間と生命を得ようとする欲望。おそらく、地上さえをも飛び出して宇宙にDNAをばら撒こうという野望。DNAシステムは、はたして宇宙の苛酷さと一瞬でも同化できるのかどうか。私にはとてもありうることとは考えられない。やわ(・・)な蛋白質に。
 物理学的なさまざまの事象。物質の相転移、苛酷なケルビン温度の嵐、時空間の相対化、最大と最小、真空、無と有などのあまりに恒常的な現実。DNAの幻とは異なった真実(・・)の、現実(・・)にどう生き残っていくことができるというのか。まして、増殖して宇宙を席捲するなどとは。ここには、ファシズムを支える根拠としての全能などありはしないのに。
 では、この地上のDNAが生み出した細胞の意識は、あるいは反意識は、最小の物質が存在と宇宙を選択することに関与できるのか。そもそも見えるのか。そもそもそのサイコロが見えるのか。(生命遺伝子)

連載【第042回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: struggles 1

 struggles 1
 魂というものがあるとはどうしても思えないのだが、その形態ということなら思い描くにやぶさかではない。なぜなら、それは受胎空間のように見えるからだ。

 そのイメージは勾玉、渦、光の渦。そしてナメクジウオのような頭部と長い尻尾、長い長いゲノムの歴史。首から下の肉体は尾部の発達したもの、つまりそれ自身末端のようなものだ。そして、光の渦は無を中心にしたエネルギーの形にも見える。それは、なによりもブラックホールのありようを連想させる。またこの渦の動的な雄々しさはまさしく精子の躍動するさまであり、卵子はこれらを受け入れる静的な器とも思われる。さらに、子宮の蠕動運動はこの卵子の静けさを補完しているようだ。そして、精子というエネルギーが卵子という器の中で充実し、皮膜を押し広げて成長する。いや、受胎空間での神秘的な分裂、増殖、あるいは転写。しかし、それははたして神秘的な事象であるのか。たんに工学的な問題なのではないだろうか。
 これはまた、宇宙という卵殻の中に散在している光の渦が、受胎空間から受胎空間へと移動しているのに対応しているようにも見える。一箇の光の渦が閉じられた宇宙卵であるならば、この移動は宇宙卵を〈横切る〉という飛躍にも見えるからだ。光のあらゆる進行方向を直角に横切る。瞬間的に宇宙を横切るのだ。
 けれども、そのような魂の聖化は肉体を支配する脳と頭蓋骨のものだ。それは観念的な支配システムのようでもあるが、確実に回路の繋がった物理システムなのである。なぜならば、細胞ひとつひとつにその支配構造が完璧に移植されているからだ。化学反応と電気信号とによる神経回路、命令系統、それらの再生産。システマチックな遺伝子交換によって、細胞ひとつひとつに完璧に移植されている。それも、類を超越して、全生物に。(つづく)

連載【第043回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: struggles 2

 struggles 2
 しかし、なぜ、彼らはこの惑星を超えることができないのだろう。あるいは超える能力に欠けているのだろうか。それが生物というものの限界構造なのかもしれない。外宇宙に飛び出せば、超高温と超低温のケルビンの熱温度の世界にさらされるだろうし、平坦かつ永遠に存在する時間と空間の、普遍的であることによって何もないというような場所に生物が棲息なぞできるはずがないからだ。DNA生命システムは自らを産生しては自らを食し、蛸の足を食らうように共食いしながら蛸壺に落ち込んでいく生命体だ。自分の内部に落ち込んでエネルギーを費消し、自分を失ってしまう生命系に、いったいどのようなエネルギーをどのように補給できるというのだろうか。ましてや、時間と空間は、物質が移動することによってその存在を表すことのできる測定値なのだから、絶対零度に向けて冷却している宇宙で、あるゆる物質の移動が停止すれば、時間と空間は存在なぞできない。
 それでも、そのDNAシステムの及ぼす範囲は地上のあらゆる生命を蔽っている。いや、次のようにもいえる。彼らに蔽われている地上の生命の相が貧弱なのではないか。大と小(宇宙論と量子論)を離れて、あまりにも中間的で日常的過ぎるからだ。物質のサイズにしても、組み合わせのサイズにしても、現象サイズにしても。まるで、触れることのできない幽鬼のような無間地獄。私は、DNA生命系と膨張する宇宙との関係を推察しているつもりなのだ。生命系という皮膜の層とその上位に広がる宇宙の層について。

 たしかに一方からは、生命ということばに騙されるな、という囁きが聞こえる。また他方からは、肉体から魂がいなくなれば肉体は安らぐ、という声も上がってくる。魂は不浄なのだ、生命ということばの補完物、抑圧を隠蔽する救済言語。生命は連鎖だが、だからといって個々の生命にとってそれでいいわけではない。そこにはとぎれた哀しみがある。個々の生命もまた孤立して存在しているのだから。存在は哀しみ。哀しみが存在の本質なのではないか。囚われて、餌食にされる運命においてをや。(つづく)

連載【第044回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: struggles 3

 struggles 3
 しかし、細胞の内部にあるDNAは私に何も語りかけてはこない。彼ら自身は独立した個体ではないからだ。彼らは個々の生命ではないからだ。彼ら自身は意識を持たされてはいない。また、彼らは無意識でもない。つまり、彼らは蛋白質に発現される前の塩基にすぎない。それだから、私は推測するしかない。彼らは彼らではない。彼らはもの(・・)なのだ!
 DNAは存在の記憶庫である。生命系の存在を永遠たらしめるという妄想によって作られた記憶庫とでもいえよう。当然ながら、コンピューターのCPU(中央演算装置)と圧縮プログラムと記録媒体との関係をイメージするのが適当だろう。CPU本体は一瞬の判断をするが、記憶と記憶の集積はできない。個別の判断を一思考とすると、この思考は持続できない。持続するエネルギーがないと動作もしないし、機構の機能もおぼつかない。したがって、瞬間を超えた個体としての維持も不可能なのだ。それゆえ、生命体の持続と永遠を妄想して、記憶と記憶の集積のために細胞内にDNAを創出し、そのための生命作用、つまり複製による増殖システムを作り出したのかもしれない。そのときすでに、全生命体系としての構築は始められていたのかもしれない。つまり、全生物はたった一匹の強欲な生命体となったのではないか……。

 だが、あらゆる存在は宇宙的規模では一瞬であることに変わりはない。どのように努力してもそれは一瞬のあがきにすぎない。それは一瞬のあがきにすぎない。(あがき)

連載【第045回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: far away

 far away 1
 たしかに生命は自己複製、自己増殖が可能な有機的生物を対象にしたもののように見える。そして、有機的な生物は脳神経系統を基軸に、化学反応による電磁気の信号によって情報交換がなされている。また、細胞間、遺伝子間で未知の通信がなされているかもしれない。それらの情報は、生理、感情、感覚、知覚などに分類され、脳内レベルで意識として統合されているのだろうか。さらに、その過程で切り捨てられる、意識になる前の意識の素材と断片、脳内の使用前の意識領域、リセットされていない意識領域――。
 私はコンピューターの物理的なイメージに近づきすぎているのか。

 私が問題にしているのは、意識が身体構造に支配されたものなのか、細胞それぞれに起因するものなのか、それとも意識は意識として自立しうるのか、ということである。つまり、生命とはどこまでの範囲を指すのかという問題。生命は時間と空間に関与しているのか、宇宙と直接的にも間接的にも関係があるのかという物理問題。
 さらに、次のような疑問にも突き当たる。

――意識は生命体にしか存在しないのか。
 情報システムとして考えると、自立的ではないにせよ、コンピューターのような無機的な物体も存在している。もちろん、生理、感情、感覚、知覚、意識などは備わっていないから、これをもって生命系と比肩するわけにはいかない。
 しかし、ほんとうにそうだろうか。有機的生物の生理、感情、感覚、知覚、意識などは機械に替えがたいから、これをもって自立型生命を証明できるといえるのかどうか。なぜなら、生理、感情、感覚、知覚は化学反応であるから、電気的信号で処理できると考えることはさほど困難ではないからだ。(つづく)

連載【第046回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: far away 2

 far away 2
――問題は意識であるのかもしれない。
 私は、肉体と身体に対して、意識が自立的な存在かどうかに疑問を抱いている。なぜなら、意識も肉体がなければ存在できないからだ。意識も脳神経機構がなければ現れることは不可能だ。だとすれば、結局は肉体と身体に属しているものなのではないか。身体機構が滅びれば、消滅してしまうもの。少なくとも細胞がなければ存在しない。意識は永遠ではないのだ。少なくとも生命体とともに滅びる生物学的物質らしきもの。
 しかし、だからといって、無機物に意識のようなもの、つまり判断したり、あるいは意思があるのかないのかなどと、決めつけられるものではない。ここにきて、私は何を示唆したいのか。

 意識は存在の本源には関与していない。私は、意識は生命体の機能であって、この意識を作り上げる生命とは無関係な核のようなもののことを考えているのだ。脳細胞は、生命体は、そのような物質を利用して意識を発生させているのではないか、と。
 私はさらに考えを進める。生命体は意思を持ってはいない。意思は生命とは別のもので、個々の存在は生命とは別の次元のものに根拠を持っているのではないかと。そこではじめて、私たちは物理的自然、物理的宇宙と結びつくことができるのではないだろうか。

 ところで、意識は身体機構に隷属させられているものかどうか。それとも肉体に密接なものなのか。あるいは私の考えているものは無意識ということなのか。これは精神と言い換えても同じなのだろう。
 問題は、それらが解放されるべきものなのか、独自の存在なのかということにある。
 自立した肉体。自立した意識。強制によらずに自決できる存在として。(遠いところ)

連載【第047回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: continuation of dreams 1

 continuation of dreams 1
 もうひとつの夢から逃れようというのか、だれのしわざか、肩先から吐息がふっとこぼれ落ちてくる。直観が破片のように舞い降りて、あるいは霜柱のように湧いてくる。
 それからしばらくすると、細胞間通信ということばが浮かぶ。生命システムが私を唆しているのだろうか。少なくとも生命システムが支配する範囲では、神経線維(ニューロン)がその回路を通じて、生命機能としての意識を生成、組織化しているに違いない。私はそのときまで、意識は機能の抽象化ではなく、生命体の断片のつらなりであると考えていた。しかも、それは物理断片ではないものを。
 たしかにニューロンはどこまでいっても細胞組織だから、それは連続する細胞間通信の生命体組織だ。個別の細胞間通信自体は単一情報の断片だが、ニューロンは〈流れ〉を構築する流体構造物なのだ。

 意識がその断片、あるいはそれらの流体構造そのものであるとはいいえないが、意識が身体に依存していないとも断定できない。身体という概念が生物構造体を示すならば、神経システムがその支持構造のひとつであり、神経細胞が基底の単位組織であり、意識の流れ(連続性、非連続性)がそれらと密接に関係していることは疑いようがない。しかしそれでも、意識の生成自体がこのシステムに起因しているのかどうかは疑わしい。
 そして意識の基底単位についても、それがシステムの下位構造であるのかどうかをさらに問うべきではないのか。少なくとも何か属性的な機能、あるいは神経細胞の活動の結果という抽象的な代謝物ではないのか。それは細胞サイズの器官における事象ではあるが、ナノレベル以下の物質過程に関係しているのかもしれない。細胞間通信機能の中で醸成される抽象的反応のかたまりは、たしかに細胞活動の付属成分だが、この属性の代謝を主導的に牽引するのは、物質の物理現象が普遍的に発生し、絡み合い、確率的な世界が濃密に現れるからではないのか。
 つまり細胞内部で、ナノレベル以下の電子が持つ物理的な量子効果、波動の性質が生まれる〈場〉のことをいっているのだ。そこでは波動関数の収束による物質的な決定要素がさらに集積され、細胞レベルで捕捉可能な信号群として統合され、抽象化された生物反応を形成するのである。この量子の確率収束それぞれを〈物質の思考〉と定義し、これらの物理的な事象を集合させた生物的な反応過程を〈意識〉と定義することで、細胞内の基底意識を身体と分離し、改めて思考と意識を区別できるのではないかと。(つづく)

連載【第048回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: continuation of dreams 2

 continuation of dreams 2
 無間の底なしの暗闇からその濃淡の樹脈は重なり続けているとはいえ、それと比較するかのように、意識の表層などという明晰かつ捏造された精神の歴史など、本当にあるのだろうか。仮に、生命体がこの宇宙でただひとつの巨大な生命樹であるならば、そこから派生するあらゆる枝脈は分断と有限の袋小路に突き当たり、すべてはすでに枯渇しているはずだ。生命樹の脈管はそれぞれの意識のかたまりとともにあり、生命それぞれの進むべき現象は細胞意識の重なりとともにあるからだ。細胞意識が生命の枠組みの内部にあるならば、生命自体も意識の限界に阻まれている。
 無数の生命体が無尽蔵の生命組織の複合体であるとしても何も変わりはしない。ものみな、意識の生存限界に阻まれるのだから。

 ところで、意識は身体構造から自立できるのか、あるいは自立にいたらずとも自立的抽象性と見ることは可能なのだろうか。
 意識が原意識とでもいうべき基底構造を持つならば、それは単一意識というべきだろう。あるいは原意識を〈発振〉する枠組みのようなもの。中身がなくとも、意識の形が形成されているのだ。しかしそれは突然発現するわけではない。原意識という空間で蓄積、混合された物質的な確率の集合体として関係を結ぶのではないか。つまり、一個の細胞内に点在する原意識という、電子と電磁気で構成される仮想の発振器官における確率収束を信号として生成し、複合体意識、肉体意識の形で「発信」するのである。
 これらは統合化され、仮想意識、表層意識として、まるで意識そのものが自立器官のように組織化されていく。しかしそれは、あくまで生命体の仮想器官であるので、生命単独の範囲でしか存在しえない。個体生命の消滅と同時に消失するのだ。そのようにして、意識自らの空間でのみ、生きかつ死滅する。(つづく)

連載【第049回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: continuation of dreams 3

 continuation of dreams 3
 はたして意識は、その生成の原因とは別に、生命体にしか存在しないのだろうか。あるいは、意識を生命体と区別することは可能なのか? つまり、生命体が消滅すると意識は存在しえないのか、あるいはそもそも生命体の外部に存在することが可能な物質なのか?
 有機生命体樹のどの分岐レベルの個体かは問うまでもなく、個体自体の遺伝、代謝などの変換機能によって、自己保存、複製、増殖する個体(細胞)とその組織、さらにその死滅まで、つまり個体発生から死(消失する)までのプロセスをもつ、生命樹の全物質の外部に、個体としての意識は存続できるのだろうか。
 しかし、意識自体が抽象的な概念で、肉体そのものの器官ではなく、かといって物質的器官であるわけでもない。明確に身体の外部にあるものでもなく、それゆえ身体内部にあり、それと関連する機能、属性、代謝物であるとすることは可能なのではないか。

 それには、まず神経細胞の抽象的な信号反応を原意識とみるのである。
 基底意識自体は単一細胞で発生する比較的単純な原意識によるコアと考えてもいい。そしてそれは原意識の駆動的な初期信号反応による肉体的反応から始まる単純な複合体意識として構築されるのだろう。肉体そのものの直接的な駆動意識は、単純な抽象性ではあるが、反応の感受性には神経細胞に直接接続していることによる生命強度をもつ、ある力が想定できる。発火活動の直接性というインパクトである。
 肉体に付随する基底意識に対して、抽象化されることで身体機能として重なりつづける仮想・表層意識は、統合体意識として身体、人格、精神の深部を形成するのかもしれない。
 この統合体は(なま)の原始的な肉体とは別に、成長する身体過程の記録とその集積というプロセス・ライブラリのような抽象的上位構造を形成する。これは概念構造であるが、身体システムの一部であるから身体の消失とともに死滅する。それこそ死の果実であり、失われるべき過去の一切の記録である。
 生命体が一個の生命樹として成立する根拠が、この生物的操作としての細胞記録である。つまり、細胞記録こそが一本の生命樹の存在理由であり、目的だといえよう。(つづく)

連載【第050回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: continuation of dreams 4

 continuation of dreams 4
 基底意識は表層に対して基底層を構成していると考えるとすると、深層意識とか深層というものはただ暗部につきまとう幻想性なのかもしれない。つまり、暗部という重積される解釈学があって、これらが意識の核だという古典的な心理学を構築しているのではないか。この心理学においては情動とか欲動は生理的場面での選択を実行するのかもしれないが、もし意識がその選択決定をする根拠、エネルギーを持つならば、このエネルギーは物理的エネルギーとは異なる衒学的エネルギーということになる。
 また、この生理的エネルギーが物質的な過程を持たない幻想的な代謝物であるとすると、エネルギーの発現とか発火などという物理現象を実現できようがない。

 原意識、基底意識という肉体意識、身体、人格、精神という統合体意識の二重構造は統合された多元的な回路を持つ情報システムということなのだろうか。それとも、異種異質の細胞間通信の二重存在なのだろうか。まるで別の体系が、波形の位相が交互に現れるように互いを打ち消し合いながら、幽霊通信のように実体の在り処をおし隠している。
 それは単にどちらともつかぬシステムの機能であり、それぞれの組織の属性である。そして意識は自立的に見えるが、細胞間通信の実体のない代謝物である。
 意識における肉体意識と身体意識の二重性は、〈からだ〉における肉体と身体構造の二重性にも通じている。肉体は個々の細胞の独自性から積み重ねられていくが、身体は枠組みとして、統制的な論理構造として外圧的なものだ。いわば、アジア・アフリカ的混沌と、欧米的国家・権力的合理性との差異とでもいえようか。
 表層意識が構造を持つとすれば、基底構造に対して仮想・表層意識という意識の抽象性が統合体意識を構築するプロセスにある。これが、意識が肉体と区別され、非物質的な仮想性を生み出すのだ。基底意識自体が複雑化して身体意識、人格、精神など抽象化の幻想過程という観念体系を妄想するのである。
 この原因には、思考という物質過程の欠落がある。思考と意識が混同されるのだ。思考が生物過程とは別個の物質過程にあり、量子的なレベルによる波動関数の収束プロセスにその発生原因があることと、細胞レベルの信号反応プロセスに代謝物としての意識の発火があることが混同されているのだ。
 思考とは、意識の細胞反応自体の選択判定の根拠を、量子レベルのサイズにまで降りて、それらを集合化して積み上げていく処理過程である。(夢のつづき)

連載【第051回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: tubulin 1

 tubulin 1
 素粒子が磁気嵐の中で散乱していく。存在はスライスされていく。反粒子と反存在が散乱しながら充満する。エントロピーとはこれら双方向性についてのそれぞれの見方ともいえる。見方自体が宇宙の内容物を満たしているのだ。
 ところで、私たちは何を見ているのか? 対象物を確定するというよりも、〈見方〉を見るのである。そして、見方自体は増殖する発見であり、私たちはどこにいても幼児の眼球なのだ。つねに終末の際で断崖に身を投げ出そうとしている瞬間そのもの。あわい。あるかないかが混合している過程自体。氷の膜に、あるいは炎の緞帳に閉ざされ、その向こうへ通り抜けることなどできぬもの。
 私たちという眼球の意識が個別の生命体の範疇にしかない単なる代謝物にすぎぬものなら、その発火物というべき思考もまた、やはり時−空、宇宙の外部へと通り抜けることは不可能なのだろうか。
 しかし、思考が波動関数の及ぶ領域にある物質過程だとすると、トンネル効果によって宇宙ではない向こうに現れることはできないか。つまり、量子的ふるまいによって。

 全生命がじつは一個の単一生命体であるとする場合も、生命体の意志というものは、意識の統合的な抽象幻想といえるのではないか。ここでは死というものも、生命が一個でしかないのだから、生命体の消滅ということでしかない。
 生命に、生存と生殖、遺伝などという概念は無効なのである。生命樹のすべての歴史も一個の生命体のひと息にすぎない。
 だが、思考は選択意志を持つ、量子的、物理的存在。自立的だが、何かの構成物となりえても。(つづく)

連載【第052回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: tubulin 2

 tubulin 2
――ある思考実験。
 チューブリン(微小管細胞)の次元イメージ。(次元f(x))、回路の切断面。
 マイクロチューブルの次元イメージf(x)をそれぞれの回路の切断面とする。チューブルは管であるから、穴という内部の範囲がある。
 ニューロンのチューブリンから次元同士の接地面イメージ。

 マイクロチューブルをプランク・サイズの管ほどに微小化すると、粒子‐反粒子の増殖との関係も窺えるのではないか。チューブルは管であるから、その切断面には穴という内部の範囲がある。チューブルを次元f(x)と見るとき、f(x)の切断面とf(x’)の切断面には、この穴の範囲という限界条件を持つ次元の接地面が皮膜のかさなりとなるのではないか。
 この皮膜を、ピッタリと貼り付いた薄紙を手のひら同士で重ねてひねり合わせるようにするときにできる、捩れ、縒り、折り目、破れ目などが現れるとする。これらは皺、状態の不均衡、泡の発生寸前の姿と見ることはできないか。

 これは重力の発生、粒子‐反粒子の生成などにつながるイメージでもあるが、この皮膜は次元の数だけの接地面に生ずるチューブルの泡回路と見ることはできないか。また、その回路は回路の内部から見るとき、量子的なチューブルとなるのではないか。つまり、波動関数が収束する場、確率が生成する通路、そしてそれらの持つさまざまの形態の管に見えるのだ。次元と次元をかけ合わせた数だけのチューブルの管がすべての次元間に浮かび上がってくる。
 この収束が、次元の皮膜に無数の泡をつくり、この泡のかたまりの形態が通路の性質に影響し、接地面と管の形態ごとの、物質の生み出す意志(思考)の泡を増殖させていく。

 ロジャー・ペンローズの想定した脳神経のチューブルは、せいぜい原子サイズの物質の波動関数の収束管であったのだが、しかしそれは量子レベルの物理サイズ、プランクサイズの収束装置での意識、あるいは意志の収束が示唆されるのだ。意識と意志を区別するのは、意識は身体機能であり、身体に属しているのであり、身体の外部にはないからである。意識の基底は、肉体が消滅すれば存在できない。それは肉体の代謝物なのかもしれない。しかし、意志(思考)という判定行為は意識の外側にあり、物質の普遍的な場である。つまり、波動関数の収束する物質場なのだ。これは、思考という〈物質場〉と考えるべきである。思考は人間的身体に関与するばかりではなく、物質の意志の収束を示すのだ。

 私はすでに脳組織で考えているのではなく、物質の場、量子としての思考の収束、すなわち宇宙という器そのもので考えているのかもしれない。(チューブリン)

連載【第053回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: conflicting similarities

 conflicting similarities

――層状宇宙。
 宇宙面を球体の表面になぞらえたとき、この球面が重層しているとすれば、重なるような形で膜状宇宙が複数、波のようにゆらめいて存在しているというイメージが浮かぶ。物質の発生が、真空のゆらぎから物質・反物質の量子過程を経るとするなら、この高エネルギー状態の真空がその前提にあると考えることは無理なことではない。
 この真空が無から量子論的に発生していると見なせるなら、重力の総体は無と真空との間にわたるのではないか。これは、真空を球体にイメージすると、この球体の芯から物質・反物質の球面が生成され、重力は分裂して球面エネルギーと関与するに違いないからだ。
 これらの物質が、確率的なゆらぎによるインフレーションで現在の宇宙面を形成していく過程であるとすると、この宇宙の因となる真空の内部にある全重力に対称的な反重力エネルギーが生み出されて、新たな原因物質が生成され、これがさらに副次的な宇宙面を現在の宇宙面の球内に生みだしていく。これらが重層的な宇宙面となり、膜宇宙をなしていく。
 インフレーションの規模は不確定であり、空間速度はこの宇宙面をしのぐ可能性がある。もしくは超えることはないのかもしれないが。

 翻って、真空というエネルギー体は無から量子論的過程を受けるのであるから、これもまたある統計的な確率で登場するはずである。
 パラレル宇宙は、物質‐反物質過程、宇宙の対称性、真空を根源にした層状発生、無から断続的に生成するパルス真空体などの形でつくり出されるというアイディアを誘き出す。
 重力は、エネルギーの総体をつくるものであるから、これらの段階のそれぞれに関与し、宇宙の質量問題はこの可能性を計量しなければならない。四つの力のうち三つは一個の宇宙面で統一できるとしても、重力はこれらの膜面すべてにわたるとすると、一宇宙面では統一できないエネルギーなのではないか。

――一点に重なる。
 重なるということは包含されるということとは異なっている。
 包含は全体性の概念だが、重なるということは独立[自立]存在でありながら、全体性とは反位している。
 あらゆるそれぞれの存在は一点に重なり、同化していない。包摂されていない。押しつぶされているが、外延的なすべての一点が別々でありながら全体性を超克しているのである。
 時空も宇宙論的次元も極小の始元も、ただ一点に収束している。
 これが存在のほんとうのありようなのかもしれない。(相反する類似)

連載【第054回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: nightmare I: 〈reminiscence〉

 nightmare I

 〈reminiscence〉
 私はいつの間にここに佇んでいるのだろう。それにしても、この場所とはどこか?  特定できない場所、特定できない状態。私はひとつの仕事を終えて、一挙に老衰に襲われているのだろうか。

 小高い丘に挟まれた旧都市が靄の中に浮かんでいた。地方と結ばれた街道につながるロータリーとその傍にある古い劇場のあたりに、寂れた盛り場が現れる。広場から少し外れた湿地は高い鉄柵に囲まれ、小さな橋を降りると、錆びついた装飾のある扉が半ば開かれ、その奥には広い墓地が広がり、中世からの墓石や墓碑、納骨碑がつづいている。谷底の周囲には人骨が絡み合ったかのような、不吉な灌木の叢林がある。その低地を抜けた外れには、古代の洞窟を入口にした地下墓地が、この都市全体に張りめぐらされている。
 地上の墓地を登ると、壊れかけた路傍の石積みや石垣の残る舗道がつづき、丘に向かう坂の途中には緩やかな小さな石畳もあり、そこから段差のある小径や曲がりくねった石段を伝って急峻な傾斜を辿ると、城壁と通路の入り組んだ区画に到達する。尖塔のある大きな教会や、石塀に囲まれた新旧の石造の館の奥には、レンガや石畳の敷きつめられた円形の中央広場が広がり、街灯のオレンジ色の光がゆらめき、敷石の表面が反射し始めている。坂道の谷側の、鎖で繋がれた柵から俯瞰する街の輪郭には、すでに重い夕陽が光のトーンを落としながら、急ぎ足で帰途につく人の群にどんよりとした影を添えている。
 私は、古い追憶から、この現実の街に異国の都会の姿を重ねているのだ。旅は夢、過ぎし時間さえ、この場所にあっては平坦な地層だ。それにしても、ああ、夕暮れの雑踏、冬の立ち枯れ、濡れた街路。どこまでも続いている時間の帯。幻は亡霊とともに蘇る。繁栄と没落の、なだらかな歴史の陥穽に。
 高名な詩人や哲学者の眠る荒涼とした窪地の反対側にある丘には、画商の営む画廊やアトリエ、小さなレストラン、ダンスホール、ホテルの混在している地区がある。その入り組んだ路地に林立する建物の窓には鉢植えの花が賑やかに並び、その奥からワルツに混じって原色の夜の灯がこぼれている。通りの街灯はまだ点っていないが、すでに空は薄暗く、霧が降りるにつれて夜の気配が濃密になる。人台(マネキン)の長い首や格好のいい脚が突き出しているブティックの飾り窓からは、界隈に構える店の繁忙ぶりもうかがわれる。若い詩人や画家や踊り子たちの生活していた通りなのだろうか。もちろん、アルコールや薬物漬けの廃人や、売春をなりわいにした者も屯ろしていたはずだ。少年の手首を貫く銃弾さえも。(悪夢I〈回想の都市〉)

連載【第055回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: nightmare I: 〈inflexibility〉

 nightmare I

 〈inflexibility〉
 ここはすでに現実と思われるところではない。しかし、それは非現実ということでもない。視点の定まらないところに、あるべきではない空白が広がっているのかもしれない。
 革命と芸術と戦争、さもなくばそれらの底で大きく口を開けている経済という魔物。新しいメディアでさえも、権力と経済に支配されているのだ。富と欲望によって金縛りにされ、人々は蝋燭のように固められて、心が縫い閉じられている。寂びれた蝋人形館の、パラフィンを舐めている化け猫ども。魍魎が跋扈して猫撫で声で生き血を啜る。生命のある若者の青い血管は、ことさら細い糸になり、緊張する。世紀末の次にさまざまの終末兵器が開発され、世界中で売り出される。砂漠で、山岳地帯で、油井地帯、大航路を大規模兵器が取り巻いている。群から離れた蟻のように、戦禍の中で人々は孤立を深めて。
 監視され、管理され、神経が張りつめていた時代に、精神病棟に収容されたアントナン・アルトーの不撓の精神のように、狂気といわざるをえないから狂気にさらされていただけで、本当は存在を裏返す戦いが敢行されていたのかもしれない。ただ、何かに侵襲されている感覚。細胞がはりつめ、こわばるのだ。今でさえ、何も終わっていないし、やはり何も始まっていない。
 それでも私はひどい疲労感に打ちのめされている。いつから始まっていたのか。あるいは、いつまで?

 異国の幻がこの場所に現れるはずもない。しかし、ここから世界のどのような場所、どのような時代をも一望して、それらの秘匿された夜と添い寝することは不可能ではないのだ。自分のいるところが地球のマグマの中心にあると確信できれば、そこからは世界の表面にあるいかなる時間、いかなる地図の座標といえども、常に等距離なのである。
 それでも、その場所と自分との間に、徘徊できる距離と時間はあるのだろうか。わずかの間でさえ、通りにとどまることも、視点を定めることもかなわないというのに。
 私は思い描くことができる。何も見ているわけではない。何も考えているわけでもなく、ただ押し寄せるこれらの波動、波頭……。
 生気のある人形たち、生気の失せた人形たち。透明な操り糸を括りつけられた身体たちが空中の蜘蛛の巣を渡り、地下のモグラの穴の回廊を通り抜け、無味乾燥な牢獄の中をひっきりなしに出入りしている。知能回路を支配されたこのゴブリンたちにとって、地下を這うケーブルや通信衛星の張り巡らされた監視回路の信号だけが彼らの行動を促している。(悪夢I〈不撓の精神〉)

連載【第056回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: nightmare I: 〈advertising〉

 nightmare I

 〈advertising〉
 空に突き出たスカイスクレイパーをつなぐ槍型モノレール、大気圏外までカプセル席のまま昇降するエレベーター。色とりどりの透明フードを反射させながら、人々は各階のテラスに張り出された乗降口から高層ビルの中に吸い込まれる。
 楕円形や球体のビルディング、数多くのディンプルを持ついびつな曲面や、蜂の巣型の形状をした中層建造物が不規則な雲のように広がる。巨大ビジョンとなっている建物のそれぞれの壁面には、プロジェクターやさまざまの種類のディスプレイが放つ原色の光の渦が混淆している。激突しては粉々に砕け散り、砕け散っては凄まじい速度で合体し、まるで異物を産む怪物の生殖行動のように、入れ替わる巨大な映像。過激な欲望に憑依された広告モデルたちの隈取りされた鋭角的な顔、露出する肌、濃密なタトゥー。新合金のリングや鎖で長い首と鎖骨を際立たせ、胸元には薄い乳房を覆う左右不均衡な幾何学模様の細い人工シルク。縦に筋肉の割れた細長い腰の中心に、異教徒の宝冠のように宝石を寄せた臍飾り。下半身は斑らに水玉の穴が開いた唐草模様のシフォンスカートに包まれ、妖しく回転する臀部から褐色に伸びた脚の先には、真紅のクリスタルガラスの艶めかしい小ぶりのヒール。濃い化粧の女たちのマスクはいずれも生気がなく、そのかわり、何かに取り憑かれたような貪欲な表情が現れる。粘液に溢れた口の中を覆い隠そうと、厚い唇にけばけばしい赤い口紅を塗って。

 何らかの罪業が隠されていても、それが何だというのか。それらはほんとうに罪であるのか。それらは恥辱であるのか。そんなものはとうにどこかに埋もれたものだ。忘却されたものだ。それでも何かを隠そうとするいじらしさ。そして、周囲のすべてから離れていく。うつろで、ぼんやりした眸は見えるものが何もないことのあらわれ、失ってしまったもの。つまらなそうなあくびの、唇のあたりには嘲笑的な表情がみえる。

 にせものの日常、いつわりの生活。プロジェクターがマッピングする何本もの男根の巨大な映像がモデルの映像を貫き、広告を穴だらけにする。入れ替わり立ち替わり現れる巨大な裸女たちの、渦を巻くディンプルの光を埋めて。人物と背景が混淆する、重なり、同化する。厖大な群衆はそれ自体人形なのか。それともあまたの生身の個人なのか。外部の欲望に突き動かされているのか、感情を刺激されているだけなのか。物体とも生物ともつかぬおびただしい群れは、隣り合うものとの接触面から振動を広げ、さらに波を起こし、弾き合っては響き合う空間を広げ、空間が平坦な充溢に至るまでその活動が鎮まることはない。そして、それにつれて、欲望の代替物であるおびただしい商品のうねりが始まる。
 ありうべき商品の数々は、物質増殖の機能を持つ次元間転送装置の端末で生産され、五次元に張りめぐらされた浮遊型瞬間ベルトコンベアで搬送される。視野の範囲に収まるべくもない欲望の物質情報は、蜘蛛の巣のように張りめぐらされた大気圏チューブによって宇宙ステーションに転送される。しかし、届け先がなければ太陽系外の未知の時空に届けることなどできないのだ。(悪夢I〈広告〉)

連載【第057回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: nightmare I: 〈skeleton〉

 nightmare I

 〈skeleton〉
 富裕な階層、特権的な人種、マジョリティの中の数少ない上位者、悪を悪とも恐れぬセレブリティ。発現する万物を吸い取る暗い眼窩、その奥で光る瞳の数だけの欲望。出現するものすべてに価値と等級を与える者たち。汝らの人生とは経済だけだ。その魔手が川底を浚いつづけて。
 あまたの詐欺、詐欺師に、騙されつづける暮らし、すり替えられる人生。古典的な、電話による勧誘から増幅され、ぶよぶよしたネットワークとなってたるみつづけ、地球の皮がべろりと裏返る。仕掛けが多いほど袋小路に追い込まれるのだ。新しい手口にはついていけないが、肉感的な通路は欲望をそそる。隣で肌寄せて、若い男女に手でも握られ囁かれれば、騙されても後悔などはしまい。暗がりの、鍵のかかった密室で柩に寝かされても、静かに死ねるというもの。死神の誘いとはそのように訪れる。ああ、下腹部をさぐる骸骨の指。

 犯罪、凶器、薬物。中毒者たちの深い闇。犯罪を犯罪ならしめるのは、いうまでもなく〈法〉への抵抗としてである。社会的規範とは倫理的規範などではなく、あくまで〈法〉による拘束に起因している。つまり、〈法〉の存在があらゆる罪の原因なのだ。罪は〈法〉によって生産され、人間の本性的な倫理性と関わっていることなどありえない。善も悪もない。自然法などは反自然だ。まして作為的に罪状を列挙し、犯罪者を捏造する〈法〉は、おのずから抑圧と服従による支配を強要し、これを受容する奴隷社会を制度化するものだ。つまり、社会、国家の支配を構築するために、権力の根拠を捏造しているにすぎない。〈法〉の整合性とは、弁明と詐術の連鎖によって永遠の虚偽の井戸を掘り続けることだ。もちろん、倫理的規範などもこの井戸の穴のひとつでしかない。

 刃物、拳銃、爆弾は、攻撃手段であるばかりではなく、自死をも臆することなく、自らの奴隷性をも否定する、個的行為による対抗手段である。そこには世界か自分かを二者択一せざるをえない終末観がある。これを禁制とするのは、いわれなき国家制度が、権力機構が、反乱と抵抗を恐れて未然にその行使を防止せんとするからで、自国民の自由・権利を守るためなどというのは空念仏にすぎない。反乱のための実行行為は、肉体を武器にしてさえも現前させる合理性がある。あらゆる犯罪、凶器は合理的であるといわざるをえない。あらゆる精神疾患でさえ、存在と「制度という非合理性」との矛盾の衝突である。いずれにしても、あらゆる犯罪の母胎は法と国家にある。(悪夢I〈骸骨の指〉)

連載【第058回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: nightmare I: 〈immersion〉

 nightmare I

〈immersion〉
 ドーパミン系とセロトニン系の機能調節が不順なのだろうか。順調にいっていれば、統合能力が低下するはずはない。だが、私の世界観はますます傾斜していく。薬物からの離脱など、許されるはずもない。私はますます依存を深めるのだろう。私ははとどまる者。狭い部屋でうずくまり、動くことを自らに禁じた精神。分裂することを禁じた人格。私は環境に捕縛されている、人間の皮に押し込められている。細胞膜に閉じ込められている。人間というもの、その外側の世界という妄想を構築してしまった、静止した精神なのだ。

 あの夜、病院に閉じ込められたと電話してきた男は、ここから助け出してくれと哀願した。何者かに襲撃されて刃物で渡り合っていると、警官隊に囲まれて逮捕された。あげくに精神病院に放り込まれたというのだ。数日後、向精神薬を服用させられた男は、警察が「一人で暴れていたので拘束して、措置入院させた」と言うが、自分は確かに襲われたのだと電話口で繰り返した。その男は、その後数年間、入退院を繰り返したが、そのときの事件を事実だと信じたまま、薬物に没入するように死んでいった。
 私がその男の死を感知し、ネットワークを使って調査していると、彼の死について情報を持っているという人物に行き当たった。だが、その人物は、本人が病からは回復したと言っていたとし、死の状況については詳細が分かりしだい知らせるということだったが、何も音沙汰はない。その人物のことまで、私の妄想構築だったのかもしれないが。人形の中に人形が入る、重なりつづけて入り込むひとがた。精神のひとがた。(悪夢I〈没入〉)

連載【第059回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: nightmare II: 〈arabian night〉1

 nightmare II

 〈arabian night〉1
 あたしは長い睡眠障害から薬物への傾斜を深めていく。いつのころからか、体がだるく感じはじめ、次第に関節のいくつかが軋み、そのうちに頭の内側と外が乖離していく感覚が訪れていた。体の表面からは鬱状態が蒸気のように発散し、頭の内部では分断された夢に従って脳組織の部分部分に妄想状態の塊がどろりと湧き出していた。いつもベッドに忍び寄る恋人からは、ブルーな女だと言われていたような気がする。
 あたしはなんとなく青いイメージが気になってしようがなく、指先を気取った形にして、大麻を巻いた細いシガレットを口元に持っていくようになった。淡く烟る青いオーラ、その皮膚感覚。でも、じきに半覚半睡の状態で四六時中うろうろするようになった。昼間はそれでもなんとかしのげたけれど、夜の静けさの中では、心臓が凍りつくような恐怖に苛まれた。そして、取り憑かれたようにさまざまの薬物に蝕まれていく。
 ある日の夜中、あたしのからだに小さな黒い虫が這い回っていた。虫はいつのまにか仲間を集め、ベッドを覆っていく。あたしのからだの穴という穴に次々と入り込んでくる。いつもいる恋人が三人に増えている。あたしが声をあげても、体をくねらせても、黒い虫はますます増殖し、寝室のあらゆる空間を埋め尽くしていく。部屋の壁は異常なまでに膨らみ、破裂して、黒い虫たちとあたしのからだの分子構造をバラバラに解体し、撹拌し、エントロピーに従い、インフレーション爆発を起こそうとしている。

 あたしは薬物中毒から、いつしか統合失調症に陥っていた。薬物はドーパミンとセロトニン系に変わっていた。けれども、自覚的には統合失調というより、人格障害のような気分がする。多重人格傾向とでもいうような。現実と現実ではないものとの境界がよく分からなくなってきていた。仰向けになったあたしの背丈が倍の長さに伸びて、ベッドは水平に部屋の隅まで広がり、室内の床が厚いベッドマットに覆われていた。
 あたしの膨れ上がった裸の巨大な足から、足指がぽろりともげて、ベッド上に転がる。つづけて、足首から肥った足が離れていく。からだの部位が独立していくのだ。壊れた人形のように、あたしは脳の内部の世界に深く落ち込んでいた。それはDNAシステムの専制への抵抗、身体機構の抑圧に対する反乱の烽火なのかもしれない。あたしの夢は、連続して分化していく。その部分が、あたしを取り巻く世界を通り越して、いつしか世界を包み込んでしまう。あたしは息を吹きかける。あたしの夢を飲み込もうと。
 黒い虫たちの持つ鋭い牙、毒液を充填しているその尖端。恋人たちのナイフがあたしのからだに同時に食い込む。黒い唾液からは麻薬が滲み出ている。ダークネスそのものの蠢きが重なり、布のように覆い、からだの表面から内部に沁み込み、あたしは暗黒の塊、マッスに凝縮する。頭の芯が見えない。(つづく)

連載【第060回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: nightmare II: 〈arabian night〉2

 nightmare II

 〈arabian night〉2
 その日は昼前から朦朧としたまま、半日が過ぎた。migraine aura(閃輝暗点)のギラギラした太陽は視野から薄れ、片頭痛と脳血管のバイブレーションが続く。気がつくと、巣穴から弾き出され、都心部の雑踏へと吸い込まれていた。
 次第に人混みが増殖していく街角。ショーウィンドウに映るあたしは、ニカーブで全身を覆ったムスリムの一人の女だった。全身に、レースの刺繍に透かしの入った暗黒色の薄いシルクを重ねて巻きつけ、ニカブは人工光に映えて絖りさえを帯びていた。頭巾の隙間から覗くあたしのメーキャップは、上瞼を燃えるような赤いアイシャドウで念入りに下塗りされ、濃く長い眉毛を際立たせるため銀粉のシャドウにグラデーションが入っている。どんな男でも引きずり込まずにはおかない双眸の深奥が妖しく光る。眉の周り、目尻、顳顬(こめかみ)のあたりに、金属の光沢のある微細な模様が描かれ、獲物を狙う肉食動物の危険な眼差しが潜んでいる。夜が深まるにつれて、ウインドウを鏡にして乱反射するニカブの頭部の、左右の瞳がひとつに繋がったドーナツ形の美しい隻眼がこちらを凝視していた。
 ニカブに包まれたあたしのからだは、黒い虫の群れに蚕食されて、表も裏もない平面に押しつぶされているのかもしれない。あたしが都会の中をふわりふわりとあてどなく歩き回っているのは、自己交差したクラインの壺のように、四次元の世界面が三次元物体に見えているだけなのだ。あたしは黒い虫たちに侵されつづけ、永遠に裏側へと逃げようとしているのかもしれない。
 それは強欲な表側の世界が許せないから? あいつらは、裏側には逃げ場があるぞとけしかけて、回し車のリスのようにあたしを追いつめていく。自由があると信じ込ませて、自由を奪っていく。(悪夢II〈アラビアンナイト〉)

連載【第061回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: nightmare II: 〈stigma〉

 nightmare II

 〈stigma〉
 私は、不定形なビル群の個々の壁面ディスプレイに表示される巨大な顔たちが、ただひとりの、無彩色の暗黒の布を巻きつけた女を監視しているのに気づいていた。しかし、単つ眼の海鼠のような女は、痛めつけられた腔腸類が、黒い皮の内部でシェークされて分解されるように、ぐにゃぐにゃと形を変え、さらに外皮さえ溶け出して、ついには細胞それぞれに存在する核が無数の眼となって、巨大広告の幻影たちの全体と細部を監視する。
 私も、以前、近所の悪漢たちを監視していたことがあった。古い一本道の真ん中のあたりに、そのころ住んでいた仕舞屋(しもたや)がある。長いこと独りで静かに暮らしていたのだが、このとき妙なことが続けて起こっていた。
 その貸家の入口に毒殺された猫が放擲されていたのだ。そして翌日には、玄関の引き戸から刃物で裂かれた猫の手足が放り込まれていた。問題なのは、それから三日後の真夜中に、数台のバイクが家の前で急停車し、複数の人物のドタドタという足音がしたかと思うと、乱暴にガタガタと玄関をこじ開け、すぐに爆音を発してバイクが一本道を奥へと通り抜けていったことだ。
 私は襲撃されると思ったので、物陰から玄関の様子を窺っていた。悪漢たちが去った後には、鴨居にぶら下がってゆらゆら揺れるものが残されていた。灯油で濡れた頭が縦に割られ、裂けた脳味噌から光る液体を垂らして、ぶら下げられた猫が揺れているのだ。土間にこぼれた油には弱々しい火がつけられ、その炎が揺らめいていた。
 道外れのバイク店の兄弟が、当時、他所者の私に目をつけていた。家の前を通りざまに、卑猥なことを口走ったり、ブツブツと悪口を言い捨てていた。私は、あの兄弟がいよいよ攻撃を始めたのだと思った。

 私は護身用にナイフを用意した。それを察知したのか、すぐに毒薬が部屋の中に撒かれた。彼らが侵入して、白い粉を部屋の隅々に撒いたに違いない。私はナイフや包丁を数本、腰に括りつけ、バイク店に出向き、抗議をした。相手は獰猛な兄弟だ、私は刃物を振り回した。
 その兄弟は二人してこの地方の暴走族に属していた。私がふらふら暮らしていて、わけの分からないことをあちこちで吹聴していたためなのだろうか。兄の方は、あいつは国賊だといい、弟の方は、いかれた汚いメス犬だといっていたようだ。私を女だと思い違いしていたのかもしれない。彼らは油にまみれた泥だらけの手で、女の私を蹂躙し、床下の穴に埋めてしまうことを計画していたに違いない。二人の男たちがひそひそ相談する声が固まりとなって、私の耳元に届いていたのだ。
 半狂乱になっていた私は警官隊に包囲され、何人もの男たちに乱暴に取り押さえられた。そして、明け方近くには精神病院に送致されていた。統合失調症で保護したのだと医師から言われ、妄想構築があると強圧的に断定され、渋々肯定したのだが、そのことは心の底に氷のようにしまっておくことにした。いつか復讐するのだという怒りとともに。(悪夢II〈スティグマ〉)

連載【第062回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: nightmare II: 〈hallucination〉

 nightmare II

 〈hallucination〉
 病棟にいたときに、あたしは、未来とも過去とも、あるいは別の次元、別のあたしの人生を見ていたことがある。
 急に目の前がぼんやりして視点が定まらなくなったときのことだ。椅子から立ち上がり、気分を落ち着かせるためにラム酒(のつもりで黒い酢)を啜った。空間が歪むように、脳作用の内部に何か空洞でもできたのだろうか。指先の神経まで緩やかに麻痺が達した。精神と肉体が不思議なほどばらばらに離れていた。泥酔していたのかもしれない。自分自身がどこか別の次元を移動しているかのように。しかし、骨格は鈍い軋り音をあげるばかりで、声を出すことも、身ぶりで何かを示すこともできない。その空間では、あたしが見ていたあたしは、確かに男だった。
 あたしであるはずの男はキャンバスを100号の木枠に張り付け、油絵を描く準備をしていた。そして、あたしの方を振り返り、だれかが覗いている、と呟いた。それであたしは彼の頭の中が見えたのだ。またあの女(あたしのこと)が切れ端でものを考えている。時間だって切れ端だってことを知りもしないで。さらに頭の中では脳味噌がいくつかの塊に分かれ、それぞれ別のことを考えている。つまり、あたしは別々の人格が見えていたことになる。それらの人格はその頭脳を通して、さまざまの人間に見えるあたし自身を見ていた。
 あたしはふっと、それら見ることのできるすべてのあちらの人々に乗り移るような気がして、こちらの場所から動くことができないでいた。あたしは粉々に分かれていく。分解されていく。嫌な感じだ、やはりとても嫌な気がする。あたしは、いったい何を見ていたのだろう。何を体験しているのだろう。どのあたしがあたしなのだろう。どの人生も、あたしは忘れてはいない。いつだって、思い出しているのよ。いつだって生きているのよ。(悪夢II〈幻覚〉)

連載【第063回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: nightmare II: 〈dismantle〉

 nightmare II

 〈dismantle〉
「あたしが病院送りになった原因を作ったあの兄弟は右翼に違いないから、あたしが国家を愛していないばかりか、国家を害していると決めつけていたのよ」
「放射状になった病棟の中央管理所は古くさい時代の残滓だ。それでも秘密の暗号(エニグマ)は残されている。弱者を育て上げる方法のことだ。男だとか女だとかということではない。調教師か獣かということだ」
「弟の方は、国賊でも国土は愛しているはずだともっともそうに述べ立てている」
「はるか彼方の海峡では赤潮が渦を巻いているが、ここを渡り切らなければ、食用の魚類は生き残れない。漁師として片足を突っ込んでしまったからね」
「しかし、あたしはこの国で生まれたわけではないわ」
「何をごちゃごちゃと。今さら寝たふりをしても、あいつらはやってくるんだぜ。早く目を覚まさなければ」
「なぜ、国家に従い、国土を愛する必要があるの?」
「生まれたばかりの赤ん坊が百万人、飢え死にしそうな年寄りが一千万人。妣が国とはどこのことだ」
「制度的に、あたしはこの土地に寄生している民族の一人なんだけれども」
「たしかにバクテリアは寄生生物だが、アメーバや粘菌類は自立しているとでもいうのか」
「土地に寄生していない人間など、だれひとりとしていないはずよ」
「私は悲しくなってしまう。腹ぺこなんだ。食餌制限ばかりしているからな」
「世界中、寄生虫ばかりだわ」
「ふふふ。地震の後の原発事故の終わりのない連鎖は、もうどうしようもない。悪人だって、往生できないさ」
「あれは犯罪、あいつらの財産を残らず吐き出させて、監獄にぶち込むべきよ。あたしは寄生虫の集団に、一方的に制度を押しつけられ、税金を強奪されているのよ」
「いったい、君は何をしていたのだ。何を隠して、何から逃げて」
「地球の土地を、山川を、海を、勝手に収奪し、分割支配した権力者はただの泥棒集団なのに」
「ほほう。なんてことだ!」

 いきなり予防検束という理解できない理由で、あたしは拘禁された。犬のように両手を使って駆け回っていたから、なにか悪巧みをしているのだと決めつけて、留置所に繋ぎとめたのだ。いつの間にか法律が変わって、検察官の思いつきで罪状が捏造され、白昼堂々と市民社会から抹殺されてしまうのだ。反抗したり、拒絶すると、後ろ手に縛られ、天井からロープで吊り下げられる。それから、共犯者として、友人や同僚たちの名を告白せよと迫るのだ。拘束が不当であっても、周りの人間ごと隠匿してしまえば、誰にも知られることはない。あたしは椅子の上で両足を抱えてうずくまる。何という犬だ、断じて猫ではない。(悪夢II〈解体する〉)

連載【第064回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: nightmare II: 〈negative symptom〉1

 nightmare II

 〈negative symptom〉1
 何日も何日も寝てばかりいる。私はまるで植物だ。ここからはどこにも出られない。頬がこけ、青白い顔にどんよりした眼球が落ち込んでしまって。それでも、ただ動かないでいるのが、穏やかな暮らしなのかもしれない。多少の感情の起伏は生ずる。バイタルサインは平板化していき、思考の力が衰退しても気にならないほどには。
 しかし、植物でさえ、虫類や風の流れに花粉や種子を運ばせ、根を伸ばして地中から栄養素を摂取する。自発的に活動しているのだ。植物に神経線維の代替機構があり、自己と他者を区別し、他者へ働きかける能力があるとすれば、私は半死体だ。気力も意欲も失せた亡霊にすぎない。
 私は死人の嗅覚で窓枠の位置を探った。糸月(繊月)の青い匂いがこの部屋に侵入してくる。匂いの糸が撚られて首吊りの輪を作る。さすがに、ここにいては本物の死体になりかねない。裸の肩がガクガクと震え、全身が瘧のように高熱に包まれていく。ここから脱出しなければ、床石に貼り付いた死んだ影だけになってしまうのだ。私は条虫のように平たい体をくねらせて、壁を這い回った。パイプを探していたのだ。石室に隠された空気抜きの穴を見つけようと。線虫の細い体になってここから出ていくのだ。魂を捨てようとも。

 巨大空間ディスプレイは、窃視カメラを通じて、都市の裏側を映し出していた。
 いかにふしだらで、能無しの女であるか、空洞だけであるとか、裸になる順番を間違っていたり、歪んだ体であったりを。その中を他人の考えが忍び込んでくる。どう振る舞うべきか分からなくなる。
 抑圧と反抗、テロルという世界の裏表。危険な路地の爆発物。威嚇する銃声、ミサイルの飛翔音。戦争が始まっている。殺戮者のための歴史教科書が書き継がれていく。
 兵器は増加する、増大する、高度化する。化学兵器から核兵器の数々、機動戦闘車、戦車、ミサイル、戦闘機部隊、空母を中心にした艦隊と重爆撃機。敵と味方の入り乱れた軍需産業、武器商人の経済活動が死体を量産する。
 抑圧された人々の民族大移動。死者も、難民も、孤児も、川で溺れ、海で溺れ、爆撃と処刑。自由も、生命も、愛すらも汚される。悪魔の価値だけが暴騰する。暴騰するのだ、人民はただの貨幣価値として。土地を強奪され、打ちのめされ、増殖する裸足の人々、放浪する人類。(つづく)

連載【第065回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: nightmare II: 〈negative symptom〉2

 nightmare II

 〈negative symptom〉2
 暴力と悪徳にまみれた略奪者と閨閥と豪族がシードとなり、原始宗教というペテンと祭事と搾取が支配の礎となる。富や貴賤や貨幣が生まれたときから詐欺師が横行し、法や国がでっちあげられる。国家とは幸福な家だとされるが、それはでたらめだ。国家はあらゆるものを奪うためにあるのだ。

 国家公安委員会は公正さを必要としていない。盗聴、盗撮、密告、恐喝、詐欺、謀略、買収、饗応、不義密通、監視、スパイ活動などの悪辣な手口を駆使して強引に罪人を拵える。警察権力を用いて不当逮捕、拘束、投獄、拷問、殺人はもとより、懲罰、報復、制裁など、陰惨な暴力を駆使する。罪と罰を定める神などいないし、奴隷の主人を詐称する権力者がそんな権能を持つことは許されないはずなのに。権力の下僕は国家に媚びるあまりに、悪徳と暴力を背景に支配の拡大に邁進する。それが司直の貪欲な勤勉さなのだ。

 民主主義という自縄自縛の政治体制は、どこまでいっても一部支配層のガバナンスでしかない。所詮、代議制であれ、多数決であれ、ただの支配の方策にすぎない。支配されるマイノリティは必ず存在するのだ。制限された自由などという詐欺的なすり替えとともに。
 法律とても、理想を守るものにあらず。正義という詭弁に守られてもいない。法は裁判官という官吏の所管なので、権力の均衡あるいは三権分立どころか、権力の合従連衡、三権の鼎というべき国家権力を支える柱なのだ。横暴な権力と横暴な裁判。法の正義という妄想。連綿とつづく国体の足跡が示すもの。そこには無辜の人民の磔柱だけが際限なく立ち並ぶ。
 裁判所は処刑の地獄門だ。無罪であろうが、有罪であろうが、お構いなしだ。司法の都合で刑罰を与え、闇に閉じ込め、共同墓地に放り込む。皮剥ぎの刑、鋸引き、斬首、絞首刑、銃殺。薬殺。電気椅子。撲殺、殺人、人体実験。大量殺人、ガス室送致。裁判所は国家犯罪に加担している。

 さらに操作と監視はつづく。奴隷化はつづく。自由などない。ラッシイ青年はマレー語で、大航海時代から白人は全知全能の悪魔への道を突き進んだ、と断罪する。少年コサールは、イギリス人は仮面をかぶった悪魔、フランス人は偽物の法衣を纏った猿、アメリカ人は性病にやられた白豚だ、と吐き捨てる。キリスト教の全歴史がそれを物語る。アラビアンナイトの闇は深いのだ。(つづく)

連載【第066回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: nightmare II: 〈negative symptom〉3

 nightmare II

 〈negative symptom〉3
 幼児化とエセ芸術はグローバルな経済現象だ。金を増やすことにしか頭の回らない連中は、脳味噌の使い途を忘れてしまったのだ。だから、単純な刺激とあまりに単純な欲望に取り込まれる。同時代に生きているほとんどの人類のことが見えずに、忘却を決め込んでいる。模造品や玩具、美術館や銀行ごっこ、オリンピックやSMごっこ。
 奴隷の国の次は人形の国だ。幼児にされた大人たちの、赤ん坊の脳味噌で造られた国。威張った白い豚どもがよだれを垂らし、舌なめずりしている。人形たちのあふれた館の惨劇。頭と手足と胴体と内臓が散乱する。幼児化現象は急速に周辺国に広まり、地球は幼児の脳味噌であふれ返る。人類の成長はもう限界だ。金髪と刺青の日本人形と鞭がトレンドなのだ。そして、さらにさらに幼児化していく。幼児化が高度化していく。赤ん坊の脳味噌に先祖返りして、脳味噌が無数の虫になって這い回る。

 広い公園を包み込むように周囲の高層ビル群が尖塔を燦かせ、その外側を高速道路や立体交差が入り乱れる。どこの国の首都にも川や海を跨ぐ大規模な橋が架かっている。しかし、中心にはツインズの塔が(くずお)れた永遠の空き地がある。乗客を弾込めした旅客機が突き抜けたバベルのある街。それでも、コンピューターとメディアの幻影が漂い、いまだ残骸を覆っている虚飾の都市。五大湖ばかりか、原子力発電所から流入する夥しい電気現象のトルネードが高い塔の電飾となって巻きつき、巨壁に貼りついた多次元映像はループを繰り返す。欲望をそそる孤独な看板たちのマスターベーション。

 ファシズムの亡霊が何度も立ち現れる。白髪を振り乱し、狂乱的に瞠目したままの、半死体のゾンビーだ。侵略と奴隷商人、王族を名乗る吸血鬼。暗黒の未来が待ちうける駅頭では、空疎な演説が反芻され、恫喝と血の涙で間抜けな群衆をころりと瞞着し、大量の人形を運ぶ死の電車に送り込む。集団自殺の勧誘、集団処刑、ガス室への嚮導だ。鉄格子の車窓には、死者たちの名さえ判読できない無数の骨壷が列なり、催眠術に誑かされた人形たちの薄い影がゆらゆらと重なって揺れる。

 動物も植物も生命維持と繁殖だけにいそしんでいる。どのような仕組みの命令なのか。どのような従属なのか。どのような奸計。幸福と不幸の禍い、呪い。自由などどこにもない。だれも、ひとりのために生きてはいない。そんなことを考える遺伝子など組み込まれていないのだ。(悪夢II〈陰性症状〉)

連載【第067回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: nightmare III: 〈magnetic material〉1

 nightmare III

 〈magnetic material〉1
 空中を高速度の地下鉄が走っている。高層ビルをつないで銀色に光る電車が建物内のプラットホームで停まると、乗客はあわただしく吐き出される。監視カメラのアングルがかすかに変わり、レンズが光った。私は顔の角度を変える。
 駅ビルはアール・デコ風の建築で、薄緑の壁面と乾いた控えめのピンクの飾り枠が全体の基調となっており、ゆったりとした階段の敷石には乳白色の強化プラスチックが張り込まれている。大理石を模した重厚な趣きの階段の両側には昇降別のエスカレーターが備えられ、プラチナ色でコーティングされた手すりがステップより早く巻き上がる。建物は巨大な中央ホールが天井まで吹き抜けになっていて、モスク様式の天井にある明かり採りの円窓からは、時刻に応じた自然光が注ぐ。天井全体は十二角錐で、壁との間に配列された切石で支えられ、区分けされた十二面には、ミュシャの図像から想を得た黄道十二宮の金箔のレリーフが展開されていた。
 中央の大空間を囲む各階のフロアの、グラウンドの次の階から数えて十二階に高速地下鉄の駅がある。階段を上った各フロアの正面入口には、重苦しい鉄錆色の金属の台座上に、透明で不規則な形状をしたクリスタルの氷塊状の彫刻がある。氷の底部は台座の固まる寸前の鉄鋼が作品と融合しているかのようで、抽象表現の立体自体はまさに凍りついた水晶の内部世界だ。この緻密で澄明な標本ケースには、稀少な深海生物のような、気味の悪い異形の生物が封入されていた。まるで地球外生物、あるいは宇宙人の生体標本がそのまま埋め込まれた未来の棺桶、まさしく骨董的美術品なのだ。
 階段を下りながら、このとき、影のように得体の知れない亡霊の気配を感じていた。私は誰かに監視されているのか、それとも私自身が剝かれて、異質の生き物に変成させられようとしているのか。
 このグロテスクな高層美術館のエントランスから抜け出ると、舗道はなだらかな上り坂へと通じている。広い車道を挟んで、商業地区にはシアターやショッピング・センター、レストランや大小のギャンブル・サイト、大音響のロックとジャズ、宣伝カー、客引きの怒鳴り声、サンドイッチマン、ピエロと路上音楽、どぎついファッションとメーキャップの少女たち、換気口から吐き出される屋台や食堂の煙、刺激的な匂いが混在し、街路に充満している。そして、その喧噪を目指して、周辺の街区から身動きも取れぬほどの人々が押し寄せる。通行人や建物の後ろに隠れて、得体の知れない何かがくっつこうとしているのだろうか。人々の背中一面には、平たく延びた磁石が貼り付いていて、怪しい視線を呼び込んでいるのかもしれない。いつしか、私自身がその磁性体となってくるくる回転し、人々の背中を移動しているのだ。(つづく)

連載【第068回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: nightmare III: 〈magnetic material〉2

 nightmare III

 〈magnetic material〉2
 あやうい吹き溜まりのような商圏を抜けて周りを見ると、その辺りは丘の中腹で、古い小型店舗や建物が密集し、さらに進むと昔ながらの下町を抜けて、塀のある高級住宅街が現れる。そこに至るまでに、細い路地や方向の定まらない曲がり角を何遍も通ってきていた。次第に、私は電柱やブロック塀に貼り付けてある住所表示が、よくわからなくなっている。
 少し離れた後ろから、なにやら複数の黒い人影がついてきていた。嫌な気がしたので、電柱の影に隠れ、やり過ごすことにした。そのため、私は犬から猫の仮の姿になったようだ。自分が何であるかの認識が混乱し始めている。
 記憶していた道順が曖昧になっていたせいもあるが、当てにしていた曲がり角になかなか到達しない。高い塀が延々と続く広い邸宅が道路を挟んで隣り合っている豪邸街なのだ。塀の上に跳び上がると、塀づたいに歩くことにした。そのせいで、いつのまにか距離感覚に混乱が生じていた。静かな佇まいの屋敷の門前には鬱蒼と茂る古木があったり、外国の公館や庭園のある美術館や能楽堂などを見かけることもあった。しかし、何度か見かけたことのある建築物なのに、古い記憶にあるどこか別の建物と重なって、どうしても思い出すことができない。別の時間と言い換えてもいい。そうしているうちに、自分のいる場所、歩いている道が、見たことのないところに思えてくるのだ。記憶障害とか脳梗塞、アルツハイマーに突然襲われたかのような違和感と、そこにぽっかり空いた景色のような。

 私はさまよう。そして、迷い込む。掉尾を飾ることのないドラマツルギー。迷うことに結論はない。迷うという自分は受け入れられないということだ。私はさまよっているから、ここに足を踏み入れたのだ。無数の細胞のように仕切られた奥津城に。
 偽名を交え転々として痕跡を隠し、秘密警察の追尾を警戒しながら、その小さな家の小さな入口を見つけた。辺りは、中心部から少し離れた丘の頂上にある住宅街だ。その中に、古民家を改造した美術館がひっそりと建てられている。そこに異端の名品が蒐められていることなど、気づく者など誰もいない。
 殺風景に見える庭には、すぐ二階に通じる階段があり、鉄柵をガイドに上ると、覗き窓のある小さな扉が隠れている。そして、取り付けてあるカウベルを使うと、白い顔をした女が出てくる。
 そのような手順で、私は蟻の巣のような屋敷に入ったのである。なぜ蟻の巣か、なぜ屋敷なのか。それは、そこが地下世界への入口だったからでもある。自分が蟻でもあるから。(悪夢 III〈磁性体〉)

連載【第069回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: nightmare III: 〈toenail claw〉

 nightmare III

 〈toenail claw〉
 おまえを逮捕する。よけいなことを考えているから、おれたちが出張る羽目になったのだ。公安とは別に、非公然の秘密組織があるなどとは知らないだろう。おれたちは秘密保護法と共謀罪法によって、国家保安本部4局に属する、国家の敵を対象にした防諜、摘発組織なのだ。
 夜と霧にまぎれて、映画に出てくる暗殺隊のように、黒いコートを着、黒い手袋をはめ、濃いサングラスをしている。透明になって、市民の中に同化してしまうこともある。捜査や逮捕における権限の行使については、一切の制限はない。事前通告もなく、突然の襲撃と逮捕から逃れることはできない。
 拳銃を口の中に押し込むと、これをしゃぶっていろ、と命じる。覚醒剤の常習を窺わせる注射痕のためか、秘密警察官の腕には青痣が何箇所にも残されている。とろんとした表情に血走った目、耳まで裂けた赤い唇が異様な精神状態を示している。火薬の匂いのする銃口、たしかに鉄は血の味がする。
 おまえにはもう自由はない。永遠に。黙秘権もない。どうせ裁判も不要だ。もともと法なんて嘘っぱちだ。民主主義なんてものは、ギリシア時代からおまえたちの側にはないのだ。ところで、病院の鉄格子と刑務所の鉄格子と、どっちがいい。それとも、身元不明の死体になるか。

 私は尻を丸裸にされ、四つん這いになった後ろから肛門の検査をされる。性病と痔の検査。しかし、鑑別されるのは恥辱による服従心。ゴム手袋をつけた指が肛門の中を探る。薬物とか凶器の所持を疑っているのかもしれない。人間の体なんて、何かを隠す道具でしかない。
 恐らく私は体中を紅潮させていたに違いない。権力は人間を逆さまに吊るし、虫けらのように支配するのだ。組織の男たちはロープを使って、私を縛り上げ、天井からぶら下げる。裸に剝いた私をゴム棒や乗馬用の鞭で打ちすえる。コンクリートがむき出しにされた天井には裸電球が灯り、壁面では蝋燭が揺らめいている。ここは叛逆者を弾圧するための拷問部屋なのか、あるいは隠微な欲情が渦巻いているだけなのか、虫けらの私には知る由もない。石の床には剥がされた(あしゆび)の爪が残されていた。(悪夢 III〈(あしゆび)の爪〉)

連載【第070回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: nightmare III: 〈multiverse〉

 nightmare III

 〈multiverse〉
 世界が個人的に分割されていくとはどういうことなのか。現実、宇宙、あるいは次元とは、〈見ること〉が経験することであるなら、その事象を〈見ること〉自体が判断したり、選択することで多宇宙が生み出されていく。粒子が自己という鏡を見ることで反粒子として分割させるように、多宇宙をすべからく経験していくのだ。そして、複数宇宙(マルチバース)から見ると、分割宇宙は同時に並列して存在し、粒子そのものから見たときには()宇宙は分割されずに単一宇宙である。つまり、単一宇宙の経験を終えることで、別の()の宇宙に切り替わり、次々に別の世界体験を経ていくのである。見る主体は全宇宙の存在の全可能性を知るのだ。
 その意味では、現実は体験上単一であり、複数現実ではない。だが、見る主体は、単一世界を終えることで次の世界からさらに歩を進めて、全宇宙を自分のものとすることができるのだ。人生の成功も失敗も、幸福も不幸も、すべての分岐世界を体験するために。

 どんなに抑圧されても、悲惨な目にあっても恐れることはない。この世がすべてだからと、自分を諦めることもない。現実がすべてではないのだから、抑圧に対する抵抗者となって、思うことを存分に果たすことが可能なのだ。
 抵抗する者はつながりとなり、系譜となって()の世界の分割を進めていくこともできるし、多宇宙に飛び出していくこともできるのである。
 成功者とか抑圧する者、支配者の世界は単一現実における短命の貧しい体験者であり、これに対して苦しみ闘う者は豊富で質の高い体験を、全宇宙を通じて果たせるのだ。
 彼は奴隷にはならない、家畜のように使役されたり、食肉に供されることもない。国民であったり、市民だったり、下僕だったりしない。全体に支配される部分などではない。誇り高き抵抗者の思いを継ぐ者は、権力の亡者にへつらうことはありえない。たった独りといえども、その思いは断乎たるものだ。主義、主張、あるいは帝国軍だろうが共産軍だろうが、また権力と抑圧、ファシズムの下僕に幾度となく囚えられても反抗をやめることはない。

 パラレルな世界を生きることに、利益や損得はないのだ。人が生きていく世界は、たった一つではない。そして、個の断念と希望の継承ともいえる戦意は、全宇宙のあらゆる複数世界でもつながり、重なっている。経済法則、もっともらしい処世技術、捏造された支配原理、法律や罪と罰は、たった一個の強欲な権力構造が強制したものだ。普遍的な正統性など、そのどこにもない。自然原則といえども、多世界であれば同じはずがない。
 どのような権利で土地を奪うのだ。どのような正義で税を収奪するのだ。誰のものでもない、この世界から。(悪夢III〈複数宇宙〉)

連載【第071回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: nightmare III: 〈ant’s nest〉

 nightmare III

 〈ant’s nest〉
 蟻の巣の屋敷から、私は目隠しと猿轡をされて、どこかの病院に連れて来られた。箱詰めにされて、黒塗りの霊柩車のような車に乗せられ、そこは古い運河べりの公立の総合病院であるようだった。病院自体は新しく建て替えられた近代的な建物だが、空気全体が古く厳めしく、どんよりと濁っていた。
 病室のベッド上の寝具は片付けられ、硬いマットだけが広げられていた。その上に、丸っこい物体がごろっと転がっていた。つやつやした肌色のそれは、ほんものの肉の足指が足からごろっと離れたものだった。そして、隣のベッドに寝ているのは私の母親で、そのリウマチの足先には指が外れて抉れた痕があった。母親は、二十数年前に死んでいるというのに、人形とも思われない生きている肉体。だが、手前のベッドには痩せた赤ん坊の死体がある。黄色い体液を吐いて、数十年前に病死した妹の赤ん坊の姿だ。年老いた母のばらばらになった足指の傍に、いつのまにか裸の赤ん坊の丸々とした死体が横たわっている。私はまだ母親に抱かれて、悪夢を見続けたいと願っているのか。
 私はその部屋の隅にあるバスタブに押し込まれる。隣室の広い会議室では、病院を経営していたカルトの秘密集会が開かれている。病室と繋がっている扉を開くと大講堂になっており、演台を中心に放射状に広がる階段と机、多数の職員たちの様子が窺える。なにやら人体実験とか儀式についての講義がなされているようだった。
 私は収容所から逃亡するために、病院の高層にあるガラス張りのホールから、運河に向けて飛び降りることを考え続けていた。(悪夢 III〈蟻の巣〉)

連載【第072回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: nightmare III: 〈transformation〉

 nightmare III

 〈transformation〉
 たしかに微熱を帯びていて、心理状態がすこぶる悪化している。そしてその状態が全身の関節から神経を伝って、ネットワークを作っていくのだろう。神経システムに攻撃を受けているのだ。そのことに、もはや抗えないことが腹立たしいのかもしれない。呼吸を繰り返せば腫れた扁桃腺が引き攣るように重く反応するし、何よりも末端の神経が軋むと瞬時に伝播する疼痛が思考を裁断するのである。
 精神病棟の奥から、細い声がする。
 あたしよ、あたしがいるわ。
 そのような声を実際の声音とともに聴いているのはなぜか。その女性的なことばと弱々しい音。自分が女性化した意識を、対象として望んでいるということなのか。自分の中に女が住み始めている。性器が同居し始めている。自分は理性的で、それほど破綻のない思考と感受性でここにいるという自負はある。それにもかかわらず、ここにいるというだけで、苛々するような痛みがその日常を制してくる。珊瑚礁に棲息するクマノミが変態するとき、海水の圧力は関係しているのだろうか。その変態には何かしらの悲哀が込められているのかもしれない。そして、その圧力に押しつぶされている、もうひとつの感覚を認めている自分の中の日常の、あの女の声。あの女の何を触ったのか。あの女は何も反応しなかったのではないか。しかし、しばらくすると、そのことについて生じたいささか強い感情と思考の持続の中で、自分の中の女の声が失われていったのである。

 室内に冷気が立ち罩め、高揚感が鎮静し始めていたため、それは明確とはいえない肉体現象なのかもしれない。だが、この現象は痛みとともに、ある事態を蔽い隠すような稀薄化なのではないか。いずれにしても、あたしの味方、あたしの思考の側にあるものではないような気がする。(悪夢III〈変態〉)

連載【第073回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: nightmare III: 〈peninsula〉

 nightmare III

 〈peninsula〉
 そのときの私は、敗戦直後の関東軍にいて、通化事件に遭遇していた。この虐殺事件は、関東軍、国民党軍、中国共産党軍、朝鮮人民義勇軍の引き起こした謀略戦であった。それぞれが裏工作でつながり、武器を持たない日本の哀れな居留民や無力な兵卒たちを欺き、利用して、四つの勢力の利益分配を画策したものである。
 私たちはそのとき、財産を抱えていち早く逃亡する将官や下士官に置き去りにされ、居留民を守るための抵抗戦に徒手空拳で駆り出され、その挙句に一網打尽で鎮圧され、囚われの身となり、筆舌に尽くし難い厄災に襲われたのだ。
 その厳冬の夜、私は留置場にされた馬小屋で、丸裸のまま後ろ手を針金で縛られていた。天井の梁から吊られて、小銃で殴られ、激しい拷問のあげく、銃殺を宣告された。そして、すでに銃殺され、戸外に山積みされた死体の中に、生きたまま放り込まれた。処刑の銃撃は盲撃ちだったに違いない。裸のまま気絶していた私は、死体の山の中で凍えずに済んだのだが、翌朝、生きているのが発見され、獄房に移された。その後、いくつかの苦難を経て、医師であった私は中国軍の軍医に留用されて生き永らえた。軍で再教育され、結婚し、子をもうけ、長征の後、帰国して秘密裡に工作隊に所属した。母国の秘密警察にも所属していた。魂などどこにもない。
 黒い外套、手袋、黒眼鏡の出で立ちで二重スパイもどきだ。旧帝国軍だろうが共産軍だろうが、戦勝国だろうが敗戦国だろうが、軍隊組織のやることに変わりない。軍に正義などない。軍隊とは人殺しの組織だ。権力の庇護の下に、抑圧と殺人の悪鬼じみた所業をなす狂人集団なのだ。DNAの連鎖が、次の世界に、次の世代の私を送りつづけて。
(悪夢 III〈半島〉)

連載【第074回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: nightmare III: 〈chrysanthèmes〉

 nightmare III

 〈chrysanthèmes〉
 それはDNA生命系の夢、その破片。光る砂のようにさらさらと舞い落ちて、その侵襲がやむことはない。永遠に生きられないのだから、生きているものを貪り尽くそうとする。か弱いのだ。そのか弱い意識は、細胞と魂を飽食し、魔物のような国家を通じてファシズムの夢を見ているのだ。孤立した一匹だけが支配する世界のために。その生命系は配下に、どんなに膨大な数の自己複製の個体があっても、ただ収斂され続ける一個の生命体でしかない。まさしく、この壊れつづける夢の破片は癌細胞である。深い穴底に落下し、いっそうばらばらに飛散し、黒い墨のような液体を吐いて、生命体を不穏な夢で蝕んでいく。一個の世界意識しか持たないから、これを逸脱するあらゆる叛逆は、徹底的にして破滅的な弾圧の対象となるのだ。
 とはいえ、反国家という慄えるように魅惑的な戦意は起ち上がる。そして、だれが、どの細胞が、どの意識がその尖兵となるのだろうか。

 私は広い土地に連れて来られた。見渡すかぎり、座標を示すものは何もない。何もない平面と立体が大きく広がっているだけなのだ。その接点に区別はない。直立物体は平面に埋没している。しかしそれでも、平原の向こうには山と海と川がすべて備わっているはずだ。
 完璧で単純な平面。思考の中の平面。曲率など存在していない。反自然であることが明らかな、まるでつくりものの陶器のプレート。見上げても、ここには宇宙はない。
 本当に二次元なのだ。私は地面に押しつけられたぺらぺらの絵だ。これまでの歴史もぺらぺら。身体もぺらぺら。国家もぺらぺら。魔物の力はすべての厚みを強奪する。(悪夢 III〈菊の花〉)

連載【第075回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: nightmare III: 〈ritual〉

 nightmare III

 〈ritual〉
 そのような土地で菊の花の祭りが始まっている。fascisme de chrysanthèmes dans fleur pleine(満開の菊のファシズム)が押し寄せる。満開の花。黄色い花びら。山や丘の彼方から海が押し寄せるように、大量の菊の花びらがやって来る。花の祭り、死の祭り。大地震の後の大津波。すべてを根こそぎにして菊の花びらが呑み込んでしまう。
 それは、満開の菊の花のファシズムが押し寄せる夢だ。黄色の花びらが野を山を国土すべてを蔽っている。少しの隙間もなく、植物だけではなくあらゆる動物も人工物も菊の花びらに変えてしまう。すべてが黄色。すべてが黄色、真っ黄色のむせ返る世界。私の呼気も花びらの形、黄色の菊の匂い。そして、天空も菊の花一面になって蔽いかぶさる。この断乎たるファシズム。世界を押し潰して、ただの平面にする力。みはるかす限りの平面は、濃縮され固まった黄色のつるつるした巨大な陶磁器タイルのようだ。

 濃縮された花祭りがこの土地を支配する。紺碧の海にまで迫るその花びらの群れ。黄緑色に縁取られる海岸線。夕陽の赤い色がこれらの花びらたちに燦々とふりそそぎ、オレンジ色の光の絨毯が表面に重なっていく。しだいにオレンジを帯びた黄色が赤みを帯びて、さらにいっそう赤いオレンジとなって黒ずんでいく。一筋の光を海際に残して、水平線に血の色をした太陽が落ちると、神代から伝わる祈祷の声が忍び寄る。古代豪族たちの祈りが夜を迎えているのだ。抑圧されたものたちの呪いを排して。皇族の祈りの夜よ。まほろばを統べる天皇の(つるぎ)。まほろばは、ま滅び。悪い胤がこぼれている。飽食するファシストどもの胃液の匂い。胆汁の流れのつづく夜。
 海から吹く夜風に、死蝋と結びついたあの花独特の香りが混じる。棺に充たされ死者を蔽う黄色い花々。弔いの白い花々。菊の花の匂いは死の匂い。菊の花の匂いは死の匂い。百合の匂いを伴って。(悪夢 III〈祭祀〉)

連載【第076回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: nightmare IV: 〈sea crime〉

 nightmare IV

 〈sea crime〉
――わたしは助かることのできないところに来てしまった。いろいろな新薬を使ってみたけれど、どれも効果は出なかった。辛うじて通院しながら治療は続けているけれど、医師たちの表情は冷めていった。匙を投げるように、医師はわたしを次の病院に送り込んだ。わたしはベルトコンベアに載せられたお荷物。わたしの肺の癌細胞は着実に縦隔を侵していくのに、誰も何もできないのよ。次の治療法を探してみるから、それまで様子を見てみよう。わたしは見つかると信じて、不安を押し殺しじっと我慢を続ける。それなのに。
 咳が続くだけではなく、食道が狭窄し、何も喉を通らない。薬も飲めなくなって、痛み止めの麻薬が管から流し込まれる。気管支の周囲も痛みが激しくなる。わたしは明るい顔をして、まだまだ生きるつもりよと、あなたに微笑みかける。それでも、それでも。あなたは、流動食を薬だと思ってと知ったようなことをいうけれど、そうね、とわたしは優しく応じていた。苦しみはすでに体全体をふるわしていた。がくがく、がくがくと。

 地殻を揺るがす大地震は、何度かの前触れの後、巨大な規模で出現した。都市ではビルを揺るがし、近郊では森を薙ぎ倒し、山々はぐらぐらとゆらぎ、崖は崩落を始めた。遠くの山岳地帯の尾根尾根の山際には、帯のように鋭く赤い光が走った。それは地磁気の影響なのかもしれない。
 近海は、沖合いから順繰りに海面が盛り上がり、水平線全体に泡沫線が湧き、一斉に切れ切れとなった水面が、広い面積で区切られながら、海岸に向けて速く、強靭な打撃を見舞った。雪崩打つわだつみ、橋梁や巨大建造物は押し拉がれ、線路や道路も分断された。
 地方都市の病院、学校、各公共施設にも大きな被害をもたらし、住宅や商店街はもとより、生活圏では人的被害も多発し、コンビナートでは火災が発生し、終日、暗い火焔と油煙が途切れることはなかった。
 津波は時間を経てから一層強大になる。逆巻く海岸線の荒れ狂う波濤は大洋から次々と津波の蓄積されたエネルギーに圧縮され、押し流される。出口を河口に求め、河川を遡上しているのだ。至るところの河川は泡立ち、爆発的な力を目の前の障碍物にぶつけていく。漁船や観光船を引き裂いて、引きずり込んでいく。たとえそれが、親子であろうが、兄妹であろうが、老若男女、生きているさなかの人々を。
 人間がどれほどの罪で罰せられているのか。自然の力はそれほど無慈悲なものなのか。何も考えずに、ただ強欲な摂理であるというのか。まほろばという、か弱いすめらみことの帝国は誰をも守ることはできない。山を、川を、平野を、海を、何一つ守ることなどできないのだ。
 大地震はわだつみを襲い、海の罪を問う。海神はふるえて巨大な津波で地上を覆うのだ。バベルを呑み込み、地球は完全な水の球体となって、命の破片が詰まった方舟だけが浮かんでいる。荒涼たる水平線だけの球体。ものみな溺れ果てて。(nightmare IV〈海の罪〉)

連載【第077回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: nightmare IV: 〈fusillade〉

 nightmare IV

〈fusillade〉
 肺の縦隔腫瘍の増大に対して、呼吸器科では放射線科の医師たちに、照射治療を委託した。あなたは白い胸にマジックインキで何箇所も目印を書き込まれていた。美しい乳房が無惨にも汚されていく。それらの乱雑な十字架はいかなる神の告示なのか、死体となるまで清められることはなかった。あの爆発、あの週末の大雨の夜、あの真っ黒な放射能の一斉射撃をすでに浴びていたのだから。それなのに、またしても度重なる放射能の嵐。あなたは強欲な文明の礎、腹黒い国家の生贄なのだ。
 あなたの病巣は数年前の、あのときにきれいな肺に種付けされ、まず頭部腫瘍