カテゴリー別アーカイブ: 擬宇宙論

擬宇宙論:5001: 母胎としての無

母胎としての無

次元は対象を措定して初めて存在する。対象(他者)がなければ次元は存在しない。
時間も空間も、客体があってこそ設定されるのであり、自己のみの存在においてはありえない。
自己を対他とする場合には、次元をもつ場合もある。それは自己のペアとしての反物質の分離から生まれるのかもしれない。

無は有を含んでいる、すべての情報を蔽って無なのだ。
この無から粒子-反粒子が生成されるので、粒子ペアにはすべての要素=情報が含まれ、このすべての要素が幾何級数的に連続して瞬時に分離することで、爆発的なビッグバンとなるのだろうか。

また無は複数存在なのか。
あるいは無は別の無を包含できるのか。
無は無の入れ子となりうるのか。

2008/03/14

擬宇宙論:4901: ものの誕生と復元力

ものの誕生と復元力

何もない状態からまず二つの状態に引き離されるためには、何もないことと宇宙的規模の何かあることとに釣り合う規模の大きなエネルギーがなければならない。そして、この巨大な釣り合う力は飛び出していくと同時に元に戻ろうとする。つまり重力は元に戻ろうとする力、復元力であり、そこから生じた物質のそれぞれはさらに引き離され、またそれぞれにネズミ算式に引力を分割、分裂、多出させる。これはまたエントロピーの正体ではないだろうか。
物質は分割、分断されることで、+?の重力エネルギーとそれぞれの元の記憶(情報)を保持し、宇宙膨張をもたらす。しかし、その+?の力の限界(力は無限ではなく、発生したときの総量のバランスであるに違いない)で復元する方向へ収縮するのだろうか。
問題は、ある物質がある力で分割されるときに、引き合う力、つまり元の物質の情報を保持する重力が生ずるということであり、その最大の力こそ、最初に真空から分割された物質間で発生するものだということである。
重力はひものように二つの物質を結びつけ、そこにある力とは「復元の情報」なのではないか。
この復元のひもが断ち切られたとき、その物質は元の重力、宇宙から逸脱して別の宇宙へ、あるいは新たな宇宙の始源となっていくのかもしれない。
ひもには、その宇宙の始源からもともとひとつであった、分割されたあらゆる物質の結合経路が刻まれているのではないか。

ちぎれた粒子のちぎれたひもは、新たな真空で、ちぎれたひもを修復しようとする。そのため新たな反粒子が生まれ、新たな粒子-反粒子のペアができる。ここに新しい物質の連鎖が始まる。

2007/09/06

〈存在と宇宙論〉20060428: 「宇宙音楽」の事象地平ビッグクランチ

「宇宙音楽」の事象地平ビッグクランチ

僕はmicaのように
剥がれ落ちるべきものが好きだ
か細い線、透明な薄片、かすかな光
ある種の記憶のような

僕はmicaのように
重なりつづけるものが好きだ
色彩がとどこおり 消えてゆく平面
忘れうべき記憶のように

近づいて裸眼で凝視すべきである
重層するプレパラートに
複雑な罅割れが生じ
僕は閉じ込められる

幾多の異相が 本当は一つであるように
こちらに光があるのか あちらに光があるのか
物質は存在するのか しないのか
僕はそのあわいの事象地平ビッグクランチで押しつぶされる

第12回個展にて
[作成時期] 2006/04/28

擬宇宙論:5201: 内部に向かって

内部に向かって

宇宙は増殖・拡大しているのではなく、つねに一点のまま、内部に向かって細分化、詳細化しているのではないか。空間と時間がないとすると、そのプランク・サイズの一点に、これもプランク・サイズの細分化した実在が重ね合わされている。つまり、宇宙にあるすべての物質がすべて中心にあり、全体であり、重ね合わされている。
プランク・サイズの妄想と変わることのない実体――。

重ね合わされている粒子は波動の性質を持つ。
量子サイズの物質は、重ね合って存在している(せざるをえない)ので量子の性質を持っているのではないか?
プランク・サイズは最小のサイズであるから、このサイズのものは重ね合って存在することしかできないのではないか。時間も空間も最小のサイズであるならば、分離しても、ここに重合するしかない。
つまり、ビッグバン以降の実在は、そのプランク・サイズの一点に重ね合わされている。宇宙は膨張しているのではなく、内部に向けて、それ自体の分離を繰り返し、重ね合っているにすぎないのである。

[作成時期] 2007/12/05

擬宇宙論:4851: 現実とは何か

現実とは何か

絶対的な現実があるのではなく、存在の周囲の日常レベルという距離があるばかりなのだ。
人間は日常レベルをどうとるかによって日常世界を構築する。だから、文字通り、手の届く範囲でしか肉体的行動はなしえないのである。
また、その日常レベルのかたまりの規模によって、手の届く範囲を拡げることはできるが、それらはその規模を包む制約によって限定されるしかない。
現実はあやうい、相対的な距離である。

[作成時期] 2007/03/27

擬宇宙論:4891: 現実について

現実について

「現実」ということばは、どうも卑近な絶対性の手垢にまみれているようで、あえてこのことばを遠ざける必要があるようだ。
アインシュタインが重力は時空の歪みから生まれるとしたのは百年前からのことであり、時空の歪みは宇宙的現実としてすでにポピュラーな「現実」の姿なのである。
このとき、ニュートン(世界)的現実はアインシュタイン的現実の出現で「日常」世界的現実へと変貌する。アインシュタイン的現実が本質的で包括的であるとすれば、それまでのニュートン的現実は世界像の一部の「日常世界」という位置づけとなる。
この「日常世界」とは「視座」のレベル(見方、イメージ)であり、マクロ宇宙の「日常レベル」を指している。
では、包括的で、本質的な現実とは何であるか。それは時空の歪みの世界、さらには不確定性理論を持つ量子論的世界をいうべきである。また、近年では多次元論を解き明かす超ひも理論についてもそういわれるべきである。
「現実」は百年前のニュートン的現実ではない。
それはすでに「現実」というにはあまりに物質からほど遠く、限定的で妄想的な、単なる思い入れのレベルに落とし込められており、それらを根拠にするあらゆる視点はなんら絶対性を持たないのである。
「現実」ということばを引き合いに出して事象を論ずるべきではない。それらは本質的な「現実」を見据えているのでない限り、DNA世界の「日常性」にすぎないからである。
日常は、人間の身体的レベルに応じた認識空間に過ぎない。ここは本質を論ずべき場所ではなく、狭隘な日常生活という擬-幻想空間なのである。
このことから、これまでの「現実」ということばを絶対的で無謬の旗印として用いることは遠ざけて、単なる「個的日常」「日常マクロ」ということばに置き換えて用いるのが適当だと思われる。

2007/02/23

擬宇宙論:5301: 情報宇宙とブラックホール

情報宇宙とブラックホール

宇宙はすでにブラックホールの中にある。
事象地平には全宇宙の情報があり、それによるホログラフとして宇宙は存在する。
ブラックホールの中で閉じ込められているので光速は制限され、時間と空間は静止している、存在していない。
宇宙は無の中で押しつぶされている。
ホログラフは意志によって選択された情報によって構築される。それらは数多の次元のスライスの選択である。

[作成時期] 2008/02/09

擬宇宙論:5295: 記憶とは時間、因果律

記憶とは時間、因果律

時間次元もついにはかたまりとなって、全宇宙の中の閉じられた一部になってしまうのだから、時間は永遠ではないし、永遠に円環を結ばないということはない。
記憶は時間次元が開かれているということを前提にしているので、記憶庫というようなものを措定して知を集積させなければ、あとにつながらないという妄想のうちにある。
しかし、時間次元がないか、もしくはついには縮小してかたまりになるとすると、記憶そのものも、記憶の蓄積庫という機能も不要になるはずだ。
時間はない。したがって記憶の必要はなく、すべての事象は同一に、ばらばらに、同時に存在する。
そこでは当然にも時間次元を前提とした因果律も必要はなく、すべてがあらゆる結びつきを可能としている。

[作成時期] 2008/03/04

擬宇宙論:5191: ただ一点に

ただ一点に

あらゆるものがただ一点に重なっている。

空間も時間も、さらにはすべての次元も、あるかないかを問わずに、ただ一点に重なっている。

[作成時期] 2007/12/10

擬宇宙論:5291: 現在ポジション

現在ポジション

一個の人間存在をミンコフスキー図の現在ポジションとすると、絶対未来は外部世界で、絶対過去が内部世界となるのかもしれない。
現在ポジションは極小のポジションなので、空間(世界)を持たない。また、過去は現在ポジションの内部にあり、現在ポジション抜きにはそれ自体で過去にはならないとすると、外部世界としての未来の空間が現在ポジションを通じて内部世界を構築するということが考えられる。
ミンコフスキーの時空図では、絶対未来が予定調和的に存在しているというのではなく、あくまでも時間軸の一点である現在は過去に移行しない場合は未来に移行するしかないことを示しているのであり、未来自体には何もないのである。
つまり、「未来があるから過去がある」ではなく、「未来自体は存在しないから過去がある」のではないか。未来へ移行する現在ポジションがあるから過去があり、未来はつねに現在ポジションであり、現在はつねに過去に含まれる。
そうであるならば、外部世界は空間を持つことはなく、過去は現在ポジションが未来へ移行して新たな現在ポジションになるたびにその領域を拡大していく。

内部世界は外部世界のコピーとしての、脳科学でいわれる「クオリア」的脳内現実であるとすると、この現在ポジションの移行による仮空間が内部世界に過渡的に仮-未来としての構造を与えるのではないか。この仮-時空が現在ポジションを通じて内部世界に現実を構築していく、まるで現在ポジションでのトンネル効果を連想させるように。
そうすると、外部世界に現実はなく、内部世界にのみ現実(日常レベルの世界)があることになる。現在ポジションは極小なので、ここにある空間は非因果律的世界である。そのため、つねに現在ポジションを頂点とした絶対過去にしか現実空間は存在しない。
ここではこのようにして、内部世界の成長に応じて、つまり現在ポジションの進行に応じて過去が累積される。
つまり、幼児期はより少ない過去を持ち、過去に対する関係性の領域が小さいのだが、成長にしたがってより多くの過去が増え、過去との関係の領域は大きくなり、そして遠い過去は手の届かないものとして(取り返しのつかない記憶として)散逸し、いわば閉じられていくのである。つまり、個体の老化はそのようにして手の届かない過去を「過去の闇」に葬り去るのであり、個体の死は過去をすべて閉じることによって、内的世界を閉じ、終焉させるのである。それは個体の死が、宇宙を閉じることに等しい。
個体にとっては外部世界は未来にあるので、死とともに未来は終了してしまうし、外部世界は存在しないに等しい。個体にとって未来と仮-未来は内部世界をつくる新しい情報のソースであるが、それは内部世界そのものではない。
また、全過去の情報が内部世界にあるということは、この情報を繰り返し再現することも組み立て直すことも、場合によってはタイムトラベルも脳内世界においては可能であることを示す。外部が絶対的になくとも、内部が複層化して外部の代替をすることも可能である。
このとき時間自体も内部情報となるのであれば、瞬間と極大の時間も情報構築の問題となるので、内部世界で組み立て、位置づけることも可能なので、外部世界とは無関係な時空を旅することもできる。
スライスされた宇宙情報を寄せ集めてホログラフを構築するのである。
このことを、実在論的な宇宙とは異なると断ずることもできないのではないか。
情報が実在するならば、この脳内複製情報が実在ではないともいえないようだ。

[作成時期] 2007/05/20

擬宇宙論:5293: 時間のスケール

時間のスケール

ミンコフスキー空間によると、空間は光の世界面の鏡映として存在するように見える。
つまり、虚の空間を実の空間に見せているのは光の世界面というミラーである。
宇宙論において対称性がいわれるのもこのようなことと関係しているのかもしれない。

エントロピーの増大が時間というベクトルを作っているといわれるが、この時間も継続しているのではなく、プランク時間によってスライスされたとびとびの層のように時間面があるのではないか。
とすると、時間面には空間情報がコピーされて、別箇の物質を実在させていると考えられないか。そうすると、実在は物質の情報そのものであるから、そのような時間面の重なりとしての世界のあらゆる未来層に移動可能であるかもしれない。

エントロピーの増大は宇宙の細部において偏っているので、ここでは時間が加速する。
複雑系の進化はエントロピーの増大部分なので、ビッグバン時の「時間の速度」と比較すると、積算的なスピードを持つと考えることができる。時間のカウンターで加速されると光速度も加重されるのではないか。
複雑系の存在領域は、マルチバース的にはこの「谷」なのかもしれない。時間が加速方向に渦を巻いて、あらゆるものが脱け出すことができない場所……。

時間のスケールが縮んでいる。おそらくプランク時間に向かって。
これは光速度一定によるものである。

[作成時期] 2007/04/02

擬宇宙論:5281: 質点

質点

質点はこの世の実在である(n > 0)。
つまり、実在を質点、基点とすることで因果律時空とすることができる。
このとき、0点は非因果律的存在(虚?)にあり、理想化された基点である。
0点は1=-1点に重ね合わされている。
これをミンコフスキー図に適用するとこのようになる。

minkowski_fig

0点のない図。
「1 = -1」: 極小の基点だけは物質=反物質と見ることができる。
つまり、ミクロでのみペアで、±が実在する。
見方によって+であったり、?だったりもできる。

「何もない状態はない」ということは?
「トンネル効果」との関係は?

[作成時期] 2007/05/20

擬宇宙論:4899: グラビトン=宇宙背景放射

グラビトン=宇宙背景放射
  三次元球面での表面張力のイメージ

ただ一個のグラビトン(重力子)はインフレーションによってあらゆる物質間の数だけのグラビトンに分離する。宇宙の最初期の横溢する光はこのグラビトンと深く関係しているに違いない。
また、そのグラビトンの増殖は三次元球面における表面張力としてイメージできるのではないか。

[作成時期] 2007/05/20

擬宇宙論:4895: 複雑系

複雑系

エントロピーの増大という観点において、複雑系が生命システムを、またさらに生命システムが意志を生み出すとするなら、宇宙はつねにエントロピーが最大に増大し続けている状態であるから、生命系をも含んだ存在のもっとも複雑な状態であることになる。
そうすると、この状態としての宇宙自体が高度な生命システム、いや生命システムを超えた実在する物質の「意志」の散乱した(あるいは統合された)全体であるのかもしれない。しかし、いずれにしてもこれは宇宙を「神」とすることになるのだが……。
混沌であろうが、絶対であろうが、神を認めるということはつまるところ外部統合であるから、無限の外部を許容するという外部構造の自己矛盾に陥るわけで、そのようなことからすると、複雑系が生命システム(=思考の生成システム)の発生の根本因であるとするのは危ういのかもしれない。
つまり、構造の連続性を前提にしたシステムのレベルあるいは位相レベルとは無関係に、非連続的に「思考生成」が行われると考えられないだろうか。
すべての実在はそれぞれの方法で思考を生成する。

[作成時期] 2007/03/22

擬宇宙論:4893: 身体というかたまり

身体というかたまり

かたまりというのはレベルがあるようだ。
量子というのはかたまりのことだが、極小のレベルでもやはり「量子論的泡の狂乱状態」(私は「物質の眩惑」という)で、質量のないエネルギー(光のこと)が集積しているわけだし、極大では宇宙が大小の物質を集積させているわけで、人間の身体レベルはその間にあって、特に「生命系」の集積する単位である(ここでは、個々の人間の単位における下層の「生命系」、つまり身体構造をいっている)。
身体とはそのような意味で、人間における身体レベルの統合環境といいうる。そして、この統合環境は、「生命系」を統御するわけであるから、「生命系」とそれぞれ独自の単位のかたまりに分岐される。
たとえば、肉体と意識(精神)などもこの統御機能によって支配されている(いいかえれば、統合環境とは統合機能である)。
意識は直接的には脳と関連しあって、脳の各部位と密接に関連しているといわれる。その脳の部位が相対的に独立していることに応じて、多意識、多人格が独立して存在しているようでもある。
肉体に目を転じると、手、足、内臓などの部位(かたまり)から細胞まで階層を下ることができる。細胞などはさらに異生命の合体物から生成されているともいわれ、タンパク質、DNAなどまで下ることができる。これらを細分化されない肉の単位(ユニット)として、それぞれ独自存在として見ることもできる。
このように、包含-被包含の構造のつらなりでもある肉は、この構造に宿命的に存在する「抑圧と自由」の「食物連鎖」とも無関係ではない。つまり、最下位のレベルから最上位に向けて打ちつづく自由への闘い(土方巽流にいえば「肉の叛乱」)が永遠に重なり、つづくのである(これを私は解放衝動と名づけている)。
このとき、最下位つまり極小のレベルの単位まで降りることが可能であるとすれば、それは量子的見方を抜きにすることはできない。ここでは、量子的選択(不確定性)の問題と自由(解放衝動)とが関係すると思われるのである(もしかすると、自由とは不確定性を指すのかもしれない。また抑圧とは「見方」を指すのかもしれない)。
身体とは生命系の過程(機能?)であるが(ここでの「生命系」は類的人間、生物全体を指す)、生命系はさらに宇宙過程のごく細部であり、この宇宙過程はビッグバンという量子レベルに包含されていく。

[人間モデル]

身体(身体機能):肉と意識の統合機能
  肉体
   肉:各部位?細胞
   意志?(低):原生的選択意志(化学的直接反応)
  意識:脳・神経などの複雑系による化学的抽象反応
   記憶:多層化されたメモリ素子集合
   意志(高):知的活動による複雑化された意志
   思考行為:意志の演算部

生命系:多様化、全体化、個別化
  DNA=複雑系のエンジン:動物/蛋白合成→細胞→神経→脳
   肉への展開
   脳への展開(上位の肉体)
    記憶部
    思考部
   (メモ):利己的なDNAが宇宙の中でビッグ・クランチまで生き永らえようとするならば、ついには肉体を捨て去るという戦略を取らざるをえなくなる。非-生命系の道を選択することになる。生命系は用済みだというわけである。未来のDNAにとっては、肉体はDNA過程に過ぎず、食物連鎖というファシズム過程でしかないのかもしれない。これに対して、肉の最下層、意識の最下層、あらゆるもののアナーキスティックな個別性は生贄になることを断じて許せないのである。われわれは未来のDNA神の囚われの一部なのか、それともここにしかない反抗するモナドであるのか?

[作成時期] 2007/03/12

擬宇宙論:48970: 池田龍雄氏への書簡1

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池田龍雄氏への書簡1

 前略

先日はわざわざお越しいただきありがとうございます。
また、片づけを手伝わせるなど失礼いたしました。

喫茶店での話はとても楽しかったです。多次元論やひも理論をまともに話せる美術家にはなかなかお目にかかれないので、いささかストレスも解消できたしだいです。
さて、お礼かたがた、「思考を物質として考える」ということについて補足してみます。

人間存在の単位(かたまり)としての身体は統制機構であり、これは肉体と意識を統制している。
この身体というレベルは、包含-被包含の関係でいうと、包含することでこの構造体を統御している。「抑圧」と言い換えることもできる。
身体の下層にある肉体と意識はそれぞれ複数の単位あるいは部位を階層的、並列的にもっており、それらはそれぞれ独自のありようをしており、身体の管理機構の内部で上位の階層から抑圧されているわけで、つねにその状態において重層的に自由を奪われている(私の原理的アナーキズム発想ですが、このことからも、「身体」ということばの持つ官僚的な臭いが好きになれません)。
このようにして、肉体は、細胞(異性物の合成物でもある)、さらにDNAなどの下層にひたすら下り続け、意識は多重化、下意識などへと深化し続ける(生命-生物系構造体)。
さて、ここで、肉体や意識はそれぞれの下位の単位ごとに独自存在としての「かたまり」でもあるのだが、人間という「かたまり」のレベルでは身体に帰属し、身体が消滅するとそれ自体も失われることになる。閉じ込められた生命系のかたまりは、人間レベルでは身体の機能という属性を与えられているわけだ。
「思考」の話に転じると、まず、脳という身体部位が消滅すると「意識」という身体機能は失われる、というところがミソである。「意識」はそもそも、特に脳味噌における化学反応の発展的機能として、生命系の知的機能の累積概念として考えられる。
ここで、「思考」は意識によって生成された結果と考えてみる。「思考する」という動詞は意識の動作と「思考」という名詞形との中間にあるような気もするが、ここではとりあえず触れない。

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擬宇宙論:48980: 池田龍雄氏への書簡2

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池田龍雄氏への書簡2

 前略

 (略)

さて、ピラミッドの話は例が悪かったようです。話をわかりやすくしようと思い、かえって混乱を招いてしまった。
ピラミッドには思考の形象化がなされ、思考の内容は一時的には反映されるでしょうが、すぐにピラミッド自体も消滅し、その破片もさらにくずおれていくばかりです。
私も、極小の断片になった構築物の物質量子においても、それを生み出した過程に発生した思考子においても、思考の構造的な内容は失われると考えています(ブラックホールに吸収された物質のすべての情報の復元という論議などからは、断片としての「知」というものは考えられるかもしれない?)。

思考子は単なるエネルギーである。
意味も価値もア・プリオリには存在しない宇宙においては(今のところは「人間原理」の方には傾かないようにしています)、思考の内容はエネルギー準位を上げる役目をしているのかもしれない。複雑であればあるほど「ゆらぎ」が大きくなる、あるいは単純でも強ければ波長は短くなる、などのように。
思考子は漂っている、光と同じように。いや、少なくとも光速に近しい速度で漂っている(相対性理論に反して、私は光速以上の可能性を考えているが)。
ひも理論によると、閉じ込められた物質(光)が量子的な空間の中で裂け目をつくり新しい位相変移によって物質(宇宙)を再構築(再生産?)する(裂け目から空間をがらりとひっくり返して!)フロップ転移ということが考えられているようだが、これと同様に、思考子というエネルギーのかたまり(量子)は、位相の変移によって宇宙をひっくり返し、新たな宇宙を作るということがあるのかもしれない。
思考は日常世界的な成果物(建造物、芸術……)を生み出すが、それは結果であって、本質的な問題は、思考する過程で生まれる「思考」そのものが、思考子というエネルギーのかたまりを発生していくということにある。

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擬宇宙論:5195: 線は境界または理想化された1次元(ひも)

線は境界または理想化された1次元(ひも)

境界としての線は位置の不確定なあいまいな差異であり、そのあいまいさでこちらとあちらを区別するように見える(!「見える」に意味があるような気がする)。
1次元の線では、実在としては0ではないから、実体のある次元と考えられるかもしれない。
しかし、線それ自体で、線の外にあるものとは絶対的に区別される。
つまり、本質的にはこちらの方が絶対的な境界をもつと考えられるのではないか(また、1次元は内部をもたないから、絶対的に境界をもたないともいえる)。

[作成時期] 2007/05/10

擬宇宙論:5401: 次元を折り畳む

次元を折り畳む

折り畳むということは、スライスしてクランチすることになるのだろうか。
つまり、1次元ではあるサイズで丸めて折り畳んでこれをめり込ませ、2次元では1次元ごとにスライスしたものを2次元座標上で押しつぶしていく。……
このとき、重なった次元の折り込まれた部分は圧縮されながらも実在している。
多次元でも同様に、次元の数だけ、あるサイズにスライスされた次元がそれぞれ押しつぶされ、次元空間にめり込みながら圧縮されていく。
さらに、この座標点がサイズの存在する方向に、次々に重なり、押しつぶされていく。
重ねるたびに押しつぶされるので、エネルギーは加重されていく。このエネルギーを閉じ込めるのが「ひも」という概念になるのかもしれない。
だから、ひもは極小を締めつけるエネルギーから極大を束ねるエネルギーまで持っていることになる。
カラビ-ヤウ図形とは、このスライス-クランチを数学的に表したものであるような気がする。
また、忘れてはならないのは、このとき座標点は始点からサイズ方向にプランク・サイズ分移動していくということである。
もしかすると、プランク・サイズの次元の重なりにあらゆるサイズが呑み込まれていくということを示しているのかもしれない。
フロップ転移の時点でも、転換のタイミング自体のサイズもゼロではなく、ゼロの近傍なのではないだろうか。
「無」というありえない地点のすぐ近くを極小という実在がぐるぐる回っているのをイメージすることができる。つまり、ドーナツのように、実在のひもでできた空洞の周りをひもが締めつけているのである。
このとき、ひもが締めつけてできた空洞は「無という実在」ではなく、ひもの「有サイズ」から生まれる隙間、「ずれ」であるのかもしれない。

[作成時期] 2007/02/22

擬宇宙論:48960: 意味と絶対的外部客観

意味と絶対的外部客観

あらゆる実在に意味を求めるということは、外部からの規定、つまり外部的客観からの定義を受けるということである。
包含-被包含の無限連鎖が構造として宇宙を貫いているとすると、この外部的客観は、外部のさらに外部に客観を措定せざるをえないという矛盾の無限連鎖に至るため、ついには絶対的な客観を措定せざるをえなくなる。つまり、神的絶対性の措定である。
しかし、この神的世界観は単に論理的破綻を呈したということに過ぎない。超越的な外部を、永遠の静的な外部を想定しているに他ならないからだ。
超越的で絶対的な外部は、ここでも、自らに外部を持ちえないという矛盾に晒されている。
つまり、実在の有限性に対して、絶対的な外部は無限であることによって非実在という範疇を作ってしまうからだ。ここでは、絶対的な客観は実在しないという矛盾をも呈することになる。
「意味」を付与するということは、このような神への帰依、信仰から生じているわけで、結局は実在を否定するということになる。
神霊的な世界観というものは、あらゆるものに意味づけするところから始まるようだ。

あらゆるものに意味がないと断ずれば、すべての呪縛から解き放たれる。

[作成時期] 2007/02/02

擬宇宙論:4905: 〈存在と宇宙論〉引き離されて

〈存在と宇宙論〉引き離されて
  ――対称性について

引き離されて
引き離されて 引き離されて
重力が生まれる
おまえがゆきつく先は永遠でも
おまえの辿ってきた道筋には
おまえの元の場所への記憶が刻まれている
そこは何もない場所だが
何もないことから生じた空孔がある
その空孔も おまえを探して旅している
のこされたかすかな想い
だが か弱いこれらの力こそ
無限の距離に残された
物質分割の 無限の力だ

[作成時期] 2007.09

擬宇宙論:5285: 〈美術衝動〉10-36

〈美術衝動〉「10-36秒」L, R

 Super-string 10-36秒 (L) , 2006.7, oil, canvas, F100(130.3×162.0cm)  Super-string 10-36秒 (R) , 2006.7, oil, canvas, F100(130.3×162.0cm)x2
Super-string 10-36秒 (L, R) , 2006.7, oil, canvas, F100(130.3×162.0cm)x2

ビッグバンから10-36秒後に高次の真空相転移が行われ、すでに析出されている重力以外の3つの力、電磁気力、強い力、弱い力が発生する。こうして、真空である原初の宇宙から4つの力が分離することで物質が生成されていくことになる。
相対性理論では力は時空間の歪みであるとされるが、超ひも理論では粒子の交換である。
この粒子はひもエネルギーの振動なのだが、それらはどのような物質情報を担っているのだろうか。
物質は対称性という複雑な分岐の過程であり、巨大な宇宙もそもそも一個の粒子、その粒子と反粒子に端を発している。何もないものが無理やり引き剥がされて、何もないからこそ復元しようという宇宙規模のエネルギーがさらに分離し、物質も分岐し、ぶつかり合い、集合し、またぶつかり合い、このようにしてデコヒーレントが働き、宇宙は膨張していく……。
そして、この力の分離という、存在というにはあまりに短い認知不能の瞬間抜きには、あらゆる事象と万物は実在しえないのである。
物質粒子と力の粒子が混淆し、劇しくゆらぎ、このプラズマの内と外との境界はそれ自体が位相転移なのだが、さらにこの宇宙面が布のように裏に折れ曲がり、別の多次元を包み込み、そこにひょっこり現れ、剥き出しにされるものが現実であるとすれば、堅固に見える現実とはいったい何なのだろう。

[作成時期] 2007.05.10

擬宇宙論:5390: 次元のかたまり 3

次元のかたまり 3

実在が有限であるならば、次元は曲率を持つために円環を結んでいる。
次元がそれぞれ他の次元すべてに対して直交し、無限であるとするのは仮想的な(人工的な)空間(ユークリッド幾何学)においてであり、実在論的には有限の宇宙における次元は曲率を持つために始点に戻ってくる。これは「時間」についても同様で、直線的な方向性を持つものは、実在論的には曲率を持つはずである。
すべての次元がそれぞれの始点に回帰する、そのことは巨視的には次元がかたまりとなることを示すものである。

[作成時期] 2007.03.13

擬宇宙論:5501: 思考と「見方の問題」

思考と「見方の問題」

意識は身体に属する機能であると思われるが、精神、魂などというものも、それらのありように近似しているようだ。
精神、魂は実在とは無縁のようだが、思考は身体、意識と切り離された独自存在であると考えることはできないだろうか。
つまり、思考は生命系の活動と切り離される実在であるかもしれない。
また、思考は「見方の問題」自体であるのではないかとも思えるが、この点も重要である。
なぜなら、量子論における量子の選択性つまり不確定性は、測定器(「見方の問題」)という非生命系存在によって決定されるということから、そもそも「見方の問題」は生命系に依拠する必要はないからである。
とすると、非生命系も思考を発生させることが可能であるということにならないだろうか。
また、このようなことから、思考は意識が消滅しても存在するという可能性はないだろうか。
この測定器は測定することによって「見方」を生成する。
この「見方」こそ思考そのものであるとすると、思考は意識とは独立して実在するといえる。
並行宇宙論によると、「見方」が並行世界の生成因であるならば、思考は物質としての世界の生成因であるとも考えられる。
身体という「機能の統合体」は生命活動の統制システムであり、脳レベルの機能と密接に関係する意識もこれに帰属しており、この統合体が消滅すると意識機能も消滅する。機能しなくなる。
しかし、思考は機能ではないから、生成物として実在したままである。
このことは、測定器という物質が「見方」を生成するということから、またその「見方」が「あるひとつの世界」を選択し、展開していくということから証されるのではないだろうか。

[作成時期] 2007/02/19

擬宇宙論:5380:重ね合わされた次元

重ね合わされた次元

包含-被包含の構造を、芯のない、外部のない、タマネギの皮のドーナツ状の連なりとするとき、極小と極大の、物質の構造とユニバースの構造の、つまり量子論的な宇宙と相対性理論的な宇宙との関係をイメージできるのではないか。
要するに、「次元の分解」は、このタマネギの皮の層の「見方の問題」であり、グラビトン(重力子)が重力に関係することと次元の歪みが重力に関係することが同一のことであり、包含-被包含の方向が逆転しているという見方も「見方の問題」であり、物質が一個のかたまりであるとしても、多次元の極大の宇宙であるとしても、これも同一のことであり、超ひもで緊めつけられたプランク・サイズの多次元宇宙が内部からは極大に広がっているということと同等であるということもいえるのではないだろうか。
[作成時期] 2007/02/02

擬宇宙論:5283: 〈美術衝動〉解放衝動の探求

〈美術衝動〉「解放衝動の探求」I,II
  制作: 2006.4, oil, canvas, 130.3.3×162.0cm 2点

解放衝動の探求I, 2006.4, oil, canvas, 130.3.3×162.0cm 解放衝動の探求II, 2006.4, oil, canvas, 130.3.3×162.0cm
解放衝動の探求I,II, 2006.4, oil, canvas, 130.3.3 × 162.0cm x 2

2006年の最初の大作2点。
燃え上がるようなオレンジ。沈潜しつづける暗いオレンジ。
オレンジの向こうには抜きがたく異質の空間が貼りついている。
だが、それは平面を剥ぎ取った裏側の世界でもある。
また、暗部には文明の廃墟、建造物の名残りのような混淆した物質の蝟集する影。
ひもは、このような多層的な世界を縦横につらぬき、ゆらめいている。
光の焦点となったある瞬間、量子と見まごうかたまりが異物のような色彩を放って浮かび上がる(I)。
別の作品(II)では、光の焦点さえ危うく消失し、そこには量子は存在しない確率の谷間であったのか――。
われわれの肉体にある根源はいずれの運命に存在するのだろうか?

[作成時期] 2007/05/10

擬宇宙論:528290: 〈美術衝動〉Super-string Theoryシリーズについて

1 2

〈美術衝動〉Super-string Theoryシリーズについて
  宇宙をイメージするのではなく、宇宙論という思考から触発されたイメージを展開する。

Super-string Super-string Theory, 2005.7, oil, canvas, F100×5(651.5×162cm)

Super-string Super-string Theory, 2005.7, oil, canvas, F100×5(651.5×162cm)

 わたしには、生きている間に次の問題をなんとか知ることはできないかという根強い思いがある。
 それは、人間とは何か、存在とは何か、宇宙はどうなっているのか、という三つのことである。
 そして、これらのことを主要なテーマにしてこのシリーズが生まれた。

1) 「人間とは何か」という問題
 人間存在においても包含?被包含、つまり詳細化される部分構造の重なりが複層的な入れ子となっている。
 その詳細化された部分は、単に全体の一部ではなく、独自性を持っている。
 そのような詳細化された部分が発する叫びの集合によって、人間は人間を人間たらしめているに違いないのだ。
 このように考えると、おのずから存在の基点という問題に向かわざるをえない。
 この基点、モナドの底から累積している叫びこそ、解放衝動と名づけうべきものである。
 この解放衝動は、あらゆる全体化に抗い、それぞれの存在の自由を求めている。細胞も、血や肉も、手や足、内臓、神経、脳みそから髪の毛一本さえも、それぞれの意志において。
 このような問題を原初的なテーマに据える場合、それは必然的にマチエールの造形と関連していく。キャンバスにおける肉体的行為とその体験として――。
 肉体の深奥から立ち上がってくる衝動が、ニードルやナイフやサンドペーパーを選択するのであり、モナドの戦慄が画面の多層化を要求するのであり、マチエールの実在感がそれぞれの存在の証となるのである。

1 2

擬宇宙論:528292: 〈美術衝動〉Super-stringもしくは立ち上がる解放衝動

〈美術衝動〉Super-stringもしくは立ち上がる解放衝動

それぞれの存在、あらゆる存在の解放衝動と超ひも理論の彼方につづく宇宙論的自由とは何かを求めて
Super-stringもしくは立ち上がる解放衝動, 2005.2, oil, canvas, F100(1303×1620mm)

Super-stringもしくは立ち上がる解放衝動, 2005.2, oil, canvas, F100(1303×1620mm)

 第7回展、第8回展で発表した「Super-stringもしくは立ち上がる解放衝動」「White Image」小シリーズで、スクラッチングとひもの埋設、研ぎ出しによる画面造形の方法に、ある方向性を見出すことができた。この手法による大作を企画したのはこの直後である。
 それまでの「解放衝動」という思考は、これまでの人間→肉体→細胞→モナドへと向かう存在の下層への探求から生まれたものだが、さらに極小の量子と極大のユニバースがひも理論によって結合するという刺激的な現代物理学に大きく触発されて、「Super-stringシリーズ」を大テーマにすることにした。これは、抑圧と自由の問題である解放衝動とも本質的に連続していると考えられるからだ。
 
 
Super-string Super-string Theory, 2005.7, oil, canvas, F100×5(651.5×162cm)

Super-string Super-string Theory, 2005.7, oil, canvas, F100×5(651.5×162cm)

 この5枚組の作品においては、極小とは光とひもの波打ちであり、振動であり、極大のユニバースとは空間と時間の大きな変化である。
 振動するひも、大きなうねりを持つ巨大なひもを麻、棕櫚縄、綿糸などを下地に埋め込み、大量の絵具を重ねていき、ニードルやナイフでスクラッチングし、サンドペーパーで何度も研ぎだしていく。
 ここには、モナド→細胞→肉体の律動という、いわば「解放衝動」の肉体的行為がある。そして、そのことがマチエールの造形に直接結合していくのである。
 string(ひも)の全振動は、この解放衝動とキャンバス上で出遭っているのだ。
 宇宙はこの存在の律動、肉体の律動とも深く結びついているのだ、という思いがするのである。

「からだを張った」作業において意味を持つものとして、次の点があげられる。
・純粋な肉体的行為の繰り返し。
・創造行為における原初性の発動。
・存在に包含される「それぞれの存在」の解放衝動。

(C) 紙田彰, Akira Kamita.
[2005.5.26?7.20にかけてF100号5枚、横6.5メートルの大作を制作。制作過程の写真記録をWEBで公開している。]

[作成時期] 2007/05/01

〈存在と宇宙論〉20060419: (選択的実在というはがれが)

(選択的実在というはがれが)

選択的実在というはがれが
幾層ものめくれからこぼれていく
ときには あまりに緩やかに
あるいは 過激なまでに劇烈に

点よりもわずかばかりに長さのある
そのことが発端であるのか終端であるのか
削除であるのか密封であるのか
隠蔽それとも新たな複合

断じて侵されてはいけない
この手が体が思考が
平面を色彩を刻印を
次々に実在させていく 解放していく

それは 宇宙を磨いているに違いないのだ
鏡のように磨いて
その中に体を入れていく
光の先が閉じるまで

2006.4.24-29 第12回個展に寄せて

[作成時期] 2006/04/19

擬宇宙論:48985: 〈美術衝動〉浮游するオブジェ

〈美術衝動〉浮游するオブジェ

clay_001a

clay001

巨大な絵(平面)の前で
かすかに廻転する
粘土製の球体の表面で
音楽の波が届いては
反射する

光もまた
波動の形式で
これを擦り抜ける

重力は
全宇宙からここに届くには
あまりに広汎で
かつ か弱い

球体の廻転を促すのは
確率のスピンであるに違いない

  2005.9.26-10.1 第10回個展にて

[作成時期] 2005/09/26

擬宇宙論:5297: 恐るべき瞬間の時間サイズ

恐るべき瞬間の時間サイズ
  第14回展「10-36秒」に寄せて

僕らはある日、ミクロの時間についてよく考えてみなければならないのかもしれない。
僕らは時間を、僕らが生きてしまった規模で捉えてしまいがちだが、時間そのものが生きてしまっている規模からすると、それすらも実在感のない小さなサイズである。
けれども、時間そのものの量と物質の出現という関係から見ると、僕らの感覚する時間はあまりに大雑把で、巨大すぎる。
僕らは時間について考えてみるとき、時間の方向と量のベクトルを離れて、無限点になりえない瞬間というミクロの時間サイズを取り出してみる必要があるのかもしれない。
宇宙のすべてを一点に結合させていたエネルギーが分岐するこの時点の時間量が、ここから始まる宇宙の全時間量を包含しているのだとすれば、この恐るべき瞬間の時間サイズこそ、思考という物質の素因のひとつとして、ついには匿されている時間次元の実体を示すことに……。

  「ある日、ミクロの時間を……」改題

[作成時期] 2006/07/14

擬宇宙論:5298: 〈存在と宇宙論〉タマネギ理論

〈存在と宇宙論〉タマネギ理論

包含-被包含の連鎖の構造を、タマネギの皮をドーナツ状に重ね、さらに中心がなく、またこの構造の外側がない状態としてイメージすると、極小と極大、量子と宇宙との連なりを思い浮かべることができる。
つまり、極大が極小を包含し、ついには極小が極大を包含する、また宇宙が量子を包含し、ついには量子が宇宙を包含するという、ある種循環論じみた考えである。
ここでわかることは、中心点がないので、論理的なゼロ点を設定する必要がなく、被包含の実体の実在がつねに示されるということであり、タマネギの外側がないので、実在は大小にかかわらずこのタマネギの適用範囲に限定できるということである。
また、極小が極大を包含するということは、超ひも理論のカラビ-ヤウ空間におけるフロップ転移をイメージできるかもしれない(引き裂かれたカラビ-ヤウ空間に新たなカラビ-ヤウ空間が作り出される。カラビ-ヤウ空間とは、ひも理論の示す新たな空間次元の幾何学図形)。
量子論が量子的サイズのビッグバンの問題を包含し、ビッグバンの問題がその後の137億年の宇宙の極大を包含する、ということである。
ここでは、空間のサイズ、時間のサイズはスケールの問題であり、スケールは「見方」の問題であるから、スケールはついには「実在するかしないか」という目盛りに集約され、サイズも「あるかないか」の「ある」に示される極小サイズに集約される。つまり、プランク長(1.616×10-35m)といわれるものである。

[作成時期] 2007/01/01

擬宇宙論:5480: 〈存在と宇宙論〉思考と意識

〈存在と宇宙論〉思考と意識

意識は身体に帰属している。身体は機構であると考えると、身体は肉体と意識というそれぞれのノードをもち、肉体と意識は身体の機能として帰属させられているとみることができる。
だが、思考は意識と関連してはいるが、その生成物としてみることで、意識あるいは身体から切り離すことはできないだろうか。
医学あるいは脳科学によって示されるところをみると、、身体の機能はいっそうロボット化し(代替可能)、さらには脳における生物的化学反応あるいは機能さえも肉体(生物-生命活動)と切り離され、ついには意識活動がロボット化された身体によって実現され、肉体のない意識が存在するという可能性がある。
このことは、意識が生物-生命活動に絶対的に依存しているのではなく、(生物-生命活動から切り離された)機構としての身体に依存していることを示している(それゆえ、意識が身体とは独立した存在だとするのは、結局、身体機構のない状態の意識を持ち出すことになり、心、精神、霊などから神秘主義的あるいは宗教的世界観にゆきつき、それは絶対的な外部客観を措定せざるをえない無限論の矛盾をもたらすため、実在論が適用できないことから、ここでは除外する)。
意識は肉体であろうが、ロボットであろうが、その機能が帰属する機構がなければ存在できない。
だが、たしかにその生成物である思考自体は、意識と運命を共にするのだろうか。思考は身体とも意識とも分離された独自の存在と考えることはできないのだろうか。

意識は身体を離れては存在できない。
思考は意識を離れて存在できる。だが、そのためには、思考は物質でなければならない。
身体とは身体レベルであって、包含-被包含の連鎖構造であるから、食物連鎖と同様の抑圧と自由の構造(システム)に収斂される。それゆえ、意識もそのような上位レベルに支配されている。
思考はそれぞれの結果なので、つねに独自の存在として、宇宙と等しい規模をもつかたまりとして考えられないか。そのためには、思考は物質としてのエネルギーを持たねばならない。

137億年前のビッグバンのことを考えることができるのだから。
137億光年の宇宙の果てのことを考えることができるのだから。
思考は、宇宙で最高速の光と同じか、それを凌駕して光のゆきつく先のことをも考えることができるのだから。

[作成時期] 2007/02/18

擬宇宙論:5388: 次元のかたまり 2

次元のかたまり 2

次元とは何であるか。1次元、2次元、3次元の空間次元という日常次元は存在しているのか、また4次元の時間次元は存在しているのか、さらに高次の多次元も存在しているのか、ということである。
そもそも次元とはスケールの持ち方であり、物質というかたまりを、視点のそれぞれのレベルにおける「見方」というスケールで分解しているのではないか。あるいは、ある位置レベルにおける物質に対する分解能といえるかもしれない。
つまり、「見方」が物質というかたまりを次元に分解しているということである。
また、次元の数はこの分解能に依拠しているのではないか。
この物質のかたまりに対する見方は(複数次元は)、日常世界におけるイメージでは、1次元座標、2次元座標、3次元座標に置き換えて考えることができる。
そのうち2次元座標系(x, y)においては、3次元空間では2次元までを「線」としてx軸に定義し(y軸は高さ)、4次元空間では3次元までを「平面」としてx軸に定義し(y軸は時間)、5次元空間では4次元までを「空間」としてx軸に定義し(y軸は5次元)、6次元空間では5次元までを「時空」としてx軸に定義し(y軸は6次元)、7次元空間では6次元までを「5次元空間」としてx軸に定義し(y軸は7次元)……というようにレベルダウンして置き換えて示すことができる。
これはx軸を「n – 1」次元までのかたまりとみなしているわけである。つまり、「[0..n – 1]次元, n次元」という2次元座標系である。
(同様に、3次元座標系(x, y, z)においては、4次元空間では2次元までを「平面」としてx軸に定義し(y軸は高さ、z軸は時間)、5次元空間では3次元までを「空間」としてx軸に定義し(y軸は時間、z軸は5次元)、6次元空間では4次元までを「時空」としてx軸に定義し(y軸は5次元、z軸は6次元)……というようにレベルダウンして置き換えて示すことができ、これはx軸を「n – 2」次元までのかたまりとみなしていることになる。)
また、2次元座標系で1次元世界を扱う場合、「[0..(1 – 1)]次元, 1次元」、つまり「0次元, 1次元」となり、x軸は0という点だが、この場合でもy軸はスケールとして大きさをもち、またそのサイズはy軸上で0に近似した大きさの有限の点と考えることができるのではないか。
(0次元世界は「[0..(0 – 1)]次元, 0次元」となり、「[0..-1]次元, 0次元」という実在しない次元をもつ座標軸が示されるが、これについてはx軸にマイナスサイズの大きさをもつということになるのかもしれない。)
このようなことを考えると、改めて、極小は0ではなく、有限のサイズであるという、プランク長さを想起させられるのである。
また、極大の次元は「[0..∞ – 1]次元, ∞次元」となり、x軸はここでも有限を示している。
極大、極小のサイズの大きさについても、そのスケールはやはり「見方」の問題であるから、概念上、同等のサイズと見なすことが可能である。
つまり、有限の極小と有限の極大は、実在のサイズとして同等であると考えられるのではないかということである。
存在は(宇宙は)、「見方の問題」として多次元に分解できるのではないかということ、また、そのそれぞれの次元のサイズはついには極小のサイズとして見なすことができるのできないかということ。
そして、このサイズこそがプランク・サイズ、つまり無ではない、実在としての存在=物質のサイズであるということなのかもしれない。

[作成時期] 2007/01/16

擬宇宙論:5385: 次元のかたまり 1

次元のかたまり 1

多次元は「n次元, [(n-1)次元..1次元]次元」という2次元でイメージできる。または、「n次元, (n-1)次元, [(n-2)次元..1次元]次元」という3次元イメージで考えられる。日常世界では3次元までのイメージしか具体性を喚起しないので、この2次元イメージと3次元イメージで高次元の座標を示すことになる。
「[(n-1)次元..1次元]次元」、「[(n-2)次元..1次元]次元」はそれぞれ多次元を1次元のかたまりとして表現したものである。
「n次元, [(n-1)次元..1次元]次元」は2次元座標であり、「n次元, (n-1)次元, [(n-2)次元..1次元]次元」は3次元座標ということになる。
つまり多次元は、方向性を持たないあるかたまりと、ある方向を持つ線的かたまりとに押し込めることができる。
総合的にみると、すべての次元は次元のかたまりとみることが可能である。
また、さらにつきつめて、1次元座標系というものを想定すると、すべての次元は1次元の線のかたまりになり、この方向のサイズをゼロに近づけるとゼロではないかたまりとなり、座標のスケールそのものをゼロに近いスケールに縮めると、あらゆる次元を示す範囲が単一のかたまりとして示され、次元という分解能(見方)と次元自体がそれぞれ、物質と同じようなかたまりの性質を持つのではないかと思わせられる。

[作成時期] 2007/01/02

擬宇宙論:5300: 〈存在と宇宙論〉実在というプランク・サイズ

〈存在と宇宙論〉実在というプランク・サイズ

光速度がゼロであって、次元の塊がマイナス方向に移動していると考えることはできないだろうか。
次元の塊は光の実在する範囲にしか実在できない「見方」ともいえる。また、光そのものが実在の範囲であるということ。この塊が物質であるのかもしれない。
さらに、物質とは実在、つまり光の存在(物質=エネルギーの存在)を示すのだから、実在の範囲の外は実在についての論及の対象外(ありえない範囲)ということになる。

このように、物質を「見方」によっては次元の塊であるとすれば、この塊(単位量)は、静止した光の容れ物という範疇で次元に分解された塊分のエネルギーを持つ。この塊のサイズは光の粒子より細分化できないから、光を擦り抜けることはできない。つまり、光粒子の壁にぶち当たる。

[作成時期] 2006/12/09

擬宇宙論:4904: あらわれ

あらわれ

次元があらわれるのは
重力が生まれてからに違いない
なぜなら
真空である宇宙には
方向性もものの形もないからだ
重力が分離して
ものの形があらわれ
ものが複数存在になり
そのあわいに
方向がつくられる

[作成時期] 2007/05/10

擬宇宙論:528293: 〈美術衝動〉作品「転移」1, 2

〈美術衝動〉作品「転移」1, 2

 相転移phase transitionとは、ある物質の相が別の姿の相に転ずるということで、超ひも理論の数学ではひもエネルギーで締めつけられた次元空間が別の形態の空間に移行するというものである。
 これは、いくつかの超ひもの幾何学や数学が主要なひとつの理論の別の現れであるとするM理論や、ブラックホールからビッグバンが生まれるなどのアイデアに通じるようでもある。
 また、見方を変えるということで対象が変化するということだけではなく、物質そのものがおのずから別の物質状態あるいは宇宙相に変化するということをも示唆している。

 次元はそもそも理想化されたスケールであるが、「転移1」は、曲率をもった次元が物質の中に突如として生まれた空間が裂けて相転移するときに飛び出したイメージである。4つの力、あるいは4つの次元。フロップ転移(ひも理論の幾何学であるカラビ-ヤウ空間で、空間の相が入れ替わることで空間の破滅を修復する転移)を暗示した、千切れそうなひもエネルギー。
 また、「転移2」では、同じ相転移でもまったく形の異なるねじれた管、環のイメージ。視点を同時に合わせることはできないが、同じ物質が同時に異なる位置に存在している。
 作品のそれぞれには、裂かれた形のひもが黄色の絵具の底に埋め込まれている。

[作成時期] 2007/05/02

擬宇宙論:4700: 〈存在と宇宙論〉単位と包含

〈存在と宇宙論〉単位と包含

閉じ込められている存在のあらゆる単位。単位はつねに包含されているわけであるから、つねにその上位のレベルに規定されている。
これは原生的な疎外とは異なる問題である。なぜなら原生的疎外とは自己の同一層、あるいは同一レベルにおける自己同一化についての問題にすぎないのであり、ここで述べる「単位と包含」は実現できない全体と実現できない細分化についての問題であるからだ。
「実現できない」とはどういうことだろう。それは確定しえない、固定しえない、そしてそれ自体を証だてすることが不可能なものということである。自己の証明の不可能性は逆に、両方向の「実現できない」自己か、同一のものの現れである、ということを示していると考えうることが可能かもしれない。この婉曲な言い方は、断定を単に避けただけのことで、断定に近い推定を言っているのである。
存在の解放、つまり自由の実現をいうことは、宇宙論と密接に関与していること、宇宙の構造を解き明かすことに拠っていると推定することも同様のことである。

2005年6月「第8回個展」会期中の断片

[作成時期] 2005/06/22

擬宇宙論:4690: 〈存在と宇宙論〉存在の単位

〈存在と宇宙論〉存在の単位

体の中にあるあらゆる単位、それらが自己を持つ。
自己を持つということは、自己と自己以外のものを分かつということであるから、その自己以外のものは自己に対して、アプリオリに一存在である。これはまた、自己と自己以外という全体においても同じことで、概念的には全存在という包含を意味する一存在ということになる。これらの関係は、包含と非包含で構成される構造となっている。
つまり自己は自己以外のものとは、包含される場合と、包含されていないように見えて本質的・実質的には包含されているという場合を、自己の規定として持つのである。
包含という概念は制約概念であるから、当然、反-包含、非-包含、超-包含という自己の論理的可能性を持つ。
そして、自己とは内-自己という構造も想定され、超-ミクロ的な包含関係も自己の規定のうちにすでに用意されている。
ここで、包含関係は、単位が細分化可能であるかぎり、無限の包含構造を想定でき、かつ分割不能な単位が概念規定上ありえても、その証明は不可能であるという論理も誤っていないわけであるから、分割不能な「原」単位はありえない。
つまり、オリジンという概念はありえないのである。
存在―無―有という論理はありえても、その基本単位を「原」単位として想定することは無意味なのかもしれない。
そうすると、ここで現れてくるのは循環論である。ミクロとマクロの宇宙論はこうした循環論的把握を否定することはできない。
ただし、一定の範囲をもつ循環論ではなく、無限の方向性をもつ循環、つまりアナロジー的な、スパイラルな、動的ねじれをイメージするほうがわかりやすいかもしれない。
渦なり螺旋を巻いて、存在はミクロとマクロに突き進んでいる。

2005年6月「第8回個展」会期中の断片

[作成時期] 2005/06/21

擬宇宙論:4750: 〈存在と宇宙論〉(存在は)

〈存在と宇宙論〉(存在は)

存在は包含という構造を余儀なくされているかに見える。これはそのようなことを肯定するとか受容するとかをいう立場にあるということではない。
しかしながら存在は包含という現象によって、己れを見出すことを許されずにいる。

解放衝動とは何か。
包含された存在、階層構造に閉じ込められた存在が、己れを全体に、全宇宙に向けて解き放つ衝動。

2005年6月「第8回個展」会期中の断片

[作成時期] 2005/06/20

擬宇宙論:52965: 〈存在と宇宙論〉無限点について

〈存在と宇宙論〉無限点について

物質(エネルギー)が無限点になりえないということは、思考すら実在していなければならないということだ。なぜなら、実在が存在論の起点だからだ。
また、思考の実在が物質の実在を保証しているということが考えられる。
次元は実在しているかどうかはわからない。これは見る側の視点であって、見方の問題であるからだ。
次元は外側、つまり包括的な視座があるとして、ここから見るときは超-単純化された次元(0次元、あるいは1次元)であろうし、構造の内側から見るときは構造の入れ子の数に比例して超-複雑化された次元になっていくであろう。これは、天動説と地動説の問題である。
時間も次元であるから、その大小は相対的である。否、超-相対的であるといえる。
ということは、方向性も「無限にあり無限にない」、つまり実在していない可能性もある。
だから、これらの問題はただに存在が実在しているか否かということにつきるのかもしれない。

[作成時期] 2006/09/06

擬宇宙論:52815: 〈存在と宇宙論〉世界面

〈存在と宇宙論〉世界面

世界面のスライス
世界面の不連続
物質情報のコピー

物質移動(テレポーテーション)の可能性

[作成時期] 2007/04/04

擬宇宙論:4892: 〈存在と宇宙論〉(実在とは)

〈存在と宇宙論〉(実在とは)

実在とはエネルギーのことである。
また、そのものから次の「新しい」ものを生じさせることができる場合にはエネルギーが存在する。
つまり、思考は次のあらざるものをあらしめることが可能であるから、エネルギーを持っており、実在している。
意識は肉体に属するに近い、精神機能であり、その所産として思考を発生させられるが、逆に思考が意識を機能させて、思考の活動を生ぜしむることもできる。

[作成時期] 2005/09

擬宇宙論:48915: 〈存在と宇宙論〉(死ぬまでに知りたいことは)

〈存在と宇宙論〉(死ぬまでに知りたいことは)

(死ぬまでに知りたいことは)
人間とは何であるか
存在とはどのようなことなのか
宇宙とはどのようになっているのか

現実は思考の中にある(測定・選択)

相対性原理という現実性
時空が歪んでいるという現実性
量子が重ね合わされて存在が選択されるという現実性

思考を実在させる

時代の現実? ふん、では、時空の歪みという現実、量子の不確定性という現実はどうなるのかね?

[作成時期] 2005/10/25

〈美術衝動: 文〉息を吹きかけたとき

〈美術衝動: 文〉息を吹きかけたとき

奥行きがあるように見えるが、向こうは平坦で、向こうの歴史の光が異なるだけで、つまりは時間の凹凸が色の違いをもたらし、奥行きと見せている。
だが、私の見る奥行きは、私の視覚の反応時間、すなわち脳の反応であるから、内部に距離の構造を作っている。
そこでは、向こうは平坦ではなく、空間を認知しているのである。
だとすれば、「私」から見た場合、奥行きは確かに存在している。つまり、私の内部に奥行きが存在しているということは、宇宙が鏡面であって、内部が実在であるという逆転も考えられる。
そうであれば、まさしくキャンバスという平面は宇宙そのもの、コズミック・ミラーという側面があるのではないか。
平面に平坦な平面を重ねていくという行為はまぎれもなく創成の業、光の創造であるのかもしれない。
すると、描き手の私は、キャンバスの向こうから見たときに、視ることのできない一点、始まりのstringの一振動となるのかもしれない。

息を吹きかけたとき、生命は漲る。

  2005.9.26-10.1 第10回個展にて

[作成時期] 2005/09/28

〈美術衝動: 文〉作品“Super-string Theory”についてのメモ

〈美術衝動: 文〉作品“Super-string Theory”についてのメモ

1次元対1次元に収斂されるということ。
すべての次元を1次元に折り畳むとすると、基点と全体との対峙となり、包含関係が消失する。その1次元は多次元を畳み込んでいる。
宇宙と内部存在を求めることは同じことで、これを同時に実現しているのは行為である。
ミクロの宇宙論とマクロの宇宙論という同一の問題を、人間存在は肉体的行為でつなぎとめている。

この肉体的行為という原初性。
ここから、細胞・DNAから量子論的な電磁気力まで下る存在の基点へと思考をめぐらすことができる。
それは、その地点から立ち上がる解放衝動が何を突き抜けていくのかという問題でもある。
11次元の宇宙論をそこから掴まえられるかということ、1次元 vs. 1次元。

生きかつ思考する。
美術とは作品をいうのではなく、この行為に意味がある。
作品が物質的に永遠ではないのだから、したがって作品に向かう技術も現実性も評価さえも意味はないのだし、まして美術作品とは行為の一方法であるから、問題はあらゆるアートの底にある行為と思考をつなぐもの、解放衝動自体にあるといえる。

  第9回”Super-string Theory”展にて

[作成時期] 2005/08/12

〈美術衝動〉「偶然の連鎖と消失」シリーズ [I](無から)

〈美術衝動〉「偶然の連鎖と消失」シリーズ [I](無から)

無から偶然にも力が生じる
そのとき無は一挙に消失する
力から偶然にも空が生じ、空から偶然にもヘリウムと水素が生じる。つまり物質が生じる
空は消失を始めるが、空の力が物質の力と均衡する

物質の始まりである水素とヘリウムは偶然にもビッグバンを生じ、このとき暗黒の中で光が偶然にも生じ、偶然にも宇宙が生じる

無-(消失)-→力
 →空(消失)……空の欠落した力
  →有
   →物質
    →暗黒
     ビッグバン
     宇宙膨張
     →凍結
      →溶融
       →次の無

[無]→[力[空→[物質[暗黒[宇宙]]]]]

概念的には
宇宙は閉じている

[作成時期] 2001

〈美術衝動: 文〉「偶然の連鎖と消失」シリーズ(始まりに)

〈美術衝動: 文〉「偶然の連鎖と消失」シリーズ(始まりに)

始まりに始まりの命名はない
ただ在るものは無

[作成時期] 2001

〈美術衝動〉「偶然の連鎖と消失」シリーズ [II] (まず、偶然にも)

〈美術衝動〉「偶然の連鎖と消失」シリーズ [II] (まず、偶然にも)

まず、偶然にも始まりが生じた。始まりはそれまでの無を消失させた。また、始まりは偶然にも暗黒であった。暗黒は光との対比であるから、実はこれは一瞬間だけ絶対暗黒である。つまり、偶然に生じたヘリウムと水素が出会う瞬間のことである。また、さらに偶然にもビッグバンが生じ、絶対暗黒を消失させ、光を包含した暗黒が生じた。ここに偶然にも宇宙が出現することになる。

たまたま、神が生じた。神が生ずるのに理由も必然性もなかった。だから偶なのである。またそれ以前には何もなかった。ただ単に、何もないというところから神が偶然に出現したのである。
この神は宇宙と言い換えても、その偶然が有を生み、無を消失させる構造に変りがない。
有が生まれるには無は必然であるが、無にとっては有は偶然である。また有にとっては、その誕生によって、無は消失するから、無についての論及は無意味である。であるから有にとって無が必然であるということも有の説明にはならない。有は既に無の概念なくして有である。

[作成時期] 2001

〈美術衝動: 文〉「偶然の連鎖と消失」シリーズ [偶然]

〈美術衝動: 文〉「偶然の連鎖と消失」シリーズ [偶然]

偶然は「全智全能」である
偶然はその出現によって存在のすべてを「消失」させ、存在のすべてを全き新たに出現させる
「消失」は「無」さえも消失させる(これは、「有」が出現することは「無」を「消失」させるということであることと〈関係〉しているか?)

[作成時期] 2001

〈美術衝動〉「偶然の連鎖と消失」シリーズ [III]偶然の連鎖と消失

〈美術衝動〉「偶然の連鎖と消失」シリーズ [III] 偶然の連鎖と消失

〈偶然の連鎖と消失〉シリーズ [III] 増殖する宇宙, 2002.1, oil on canvas, 20F(727×606mm)

〈偶然の連鎖と消失〉シリーズ [III] 増殖する宇宙, 2002.1, oil on canvas, 20F(727×606mm)

〈偶然〉
「これまで」の経緯は必然であるが、「これから」は偶然である。つまり、「偶然」の連鎖があるのみである。「必然」とは偶然の来歴を敍するもので、確かなのは偶然が偶然を生み出している、そのことである。

〈宇宙生成〉
無から、ビッグバンによって、宇宙が生まれる。すると、その瞬間に無が消失し、有が現れる。有が現れることによって無が意味をもたなくなり、無が消失するということになる。
ビッグバンは偶然であり、偶然の連鎖によって宇宙は拡大していく。このことは、宇宙成長においては、これを実現していくのは偶然のみであることをいう。偶然のビッグバンによって、無が消失するように、偶然はそれ以前のものを無意味にさせ、消失させる。つまり、偶然の連鎖は、偶然に生じた現在性のみが、事実であることを示す。
宇宙は、しかし、単に成長を無限につづけるわけではない。爆発・拡散・収縮というダイナミズムによる成長は永遠ではない。宇宙もまた、偶然によって、その反対イメージへと、突然、一挙に消失させられる。それは「凍結」というイメージである。これからは〈イメージ〉という言葉でしか、論理的には表せないだろう。
この「凍結」は瞬間を凍結するのであるから、動的な一切はイメージにとじこめられ、動的な要因は一挙に消失する。凍結したイメージのまま、宇宙は消失するのである。
この凍結は永遠につづく。
存在はつねに永遠にあるということは正しい。けれども、偶然がこの永遠を終了させるのである。永遠は偶然によって、事故的に終了させられる。
永遠の凍結は、まず永遠であることによって、永遠という尺度、永続するという現認を持つことが不可能であり、それ故、永遠ではない。つまり、一気にその全生涯を果たす。次に、偶然によって永遠が跡絶える。
偶然が生ずることで、凍結の反対イメージ、溶融が生ずる。
溶融はまた爆発、収縮、拡散でもある。しかし、これは「成長」ではなく、否定あるいは消失の連鎖としての爆発、収縮、拡散である。この生涯もまた偶然によって跡絶える。
次に来るのは無である。
この無は初めの無と同一であるか、別の無であるかは分らない。
ただ、次の偶然のビッグバンを待つ、永遠の無である。

[作成時期] 2001

〈美術衝動〉「偶然の連鎖と消失」シリーズ [IV] 無の消失

〈美術衝動〉「偶然の連鎖と消失」シリーズ [IV] 無の消失

〈偶然の連鎖と消失〉シリーズ [IV] 一瞬の凍結と永遠の消失, 2002.1, oil on canvas, 20F(727×606mm)

〈偶然の連鎖と消失〉シリーズ [IV] 一瞬の凍結と永遠の消失, 2002.1, oil on canvas, 20F(727×606mm)

○無の概念、抽象化の方法としての記号。
○力の誕生が無を消失させる。
○この力は空の力である(空の力をへこませる関係で有の力が膨張していく。これが物質の誕生であり、空の消失であるが、この有の力が増大することで、消失した空の力が力の概念性のまま「結晶化」していく。空の力の晶化というイメージ)。
○光以前のイメージであるから、色はない。しかし、色をイメージの物質として、材料として利用する。
 ここでは色は色ではない。色は無の消失にとって、力のイメージ。また線は空の誕生を示す。
○さらに象徴的イメージ断片は空の晶化を示すことになる。

永遠なんて
偶然にとっては
ほんの一瞬ひとまたぎ

[作成時期] 2001/99/99

〈測定ノート〉200201: (私にとってみれば)

(私にとってみれば)

私にとってみれば
私の死は
生の終わり
宇宙の終焉
永遠の一瞬の消失
つまり
宇宙は有限であり
無限はありえないことを証明する一事だ

[作成時期] 2002/01

〈測定ノート〉200201: (過去を)

(過去を)

過去をふり返ることが恐ろしいことのひとつ
未来はあるかないか分からぬから屁でもない
過去は戻ることができぬから
取り返しのつかぬ絶望に充ちている

死ぬときのことを考えると
息ができなくなって
失われたものをも
あわてて 掻き抱くような
いや ただ物理的に苦しいことの恐れを
イメージする
しかし、死そのものは未来と同じに
ただの楽観だ
動物的な苦しみも
冷静に考えるならば
一瞬の失神に通ずるだけだ

死はすべての過去を失うから
そのことの怖さが物理的なものと結びつくから
ただ 切ないのであって
死そのものはすべての一瞬の消失
一瞬の永遠の消失
ただ楽観的な無

[作成時期] 2002/01

〈存在と宇宙論〉primitivity: 原初性

primitivity: 原初性
  ――ないものを創造することの充足

存在と宇宙を見極めること、見極めねばならぬことに、自己の目的がある。
意味とか価値ではない、死ぬまでに求めてやまぬこと、死んでも死にきれないということを指す。
絵を描くということは、ミクロ的には自己の単位への下降と上昇であり、解放衝動の立ち上がりであり、マクロ的には自己から外へ向かう、属する構造との自由への闘いでもある。
絵を描くということに、この二つの方向を循環させることで、じつは宇宙創造と同等の意味がある。
もちろん、絵具をことばに置き換えてポエジーとしても同じである。
つまり、ポエジーの直観こそ、この創造行為の源泉なのである。
プリミティビティが必要とせられるのは、この純粋行為を取り出す、取り戻すためなのである。

[作成時期] 2005/07/01

擬宇宙論:5485: 〈存在と宇宙論〉思考的直観

擬宇宙論:5485: 〈存在と宇宙論〉思考的直観

存在は何ものかに収斂されていくことに異を唱える
しかしながら自らも収斂していく存在であるという矛盾に陥る
このことが知である
しかし、この収斂する/されるものは「生命」という集合要素であり、反集合としての、本質的な存在ではない
では、あらゆるものに対峙し、拮抗しうる独自存在とは何か
個別的であるべき存在の独自性とは、収斂する/される生命システムには組み込まれずにあるものである
肉体的な存在は生命システムそのものであるから除外されるが(DNA的存在も)、存在は己れを己れであると思考することから始まっており、この思考そのものが存在の本質的な要素である
この思考のうち、生命システムに関与しない部分が、存在における思考の本質と考えられる
論理性は記憶という肉体的機能を要し、連続性(承継)は生命システムの収斂機能に大きく関与しているので、ここには含められない
つまり、存在の思考とは、機能性に拠らない思考、瞬間的かつ永遠の思考(生命システム、宇宙総体と対峙しうるのは、反時間的かつ反全体的でなければならないと仮定されるので)、つまり「直観」であると考えられる
これが思考の本質であり、存在の本質である

[作成時期] 2002/11/16

擬宇宙論:4900: 〈存在と宇宙論〉もの(存在)が

〈存在と宇宙論〉もの(存在)が

もの(存在)が光の多様性を開示している
光は何もない幼児である
存在が光の成長を促している
接触点から、光の粒子の結びつきを生み出して

[作成時期] 2003/05/21

擬宇宙論:528296:〈美術衝動〉 Occurrence of liberating impulse: 解放衝動の発生

〈美術衝動〉作品「Occurrence of liberating impulse: 解放衝動の発生」1,2,3
  制作: 2005.12, oil, canvas, 130.3 x 162.0cm 3点

これは「Super-string Theory」5枚組の宇宙論的風景に対して、量子論的イメージを中心にしている。あるいは、ライプニッツのいう「モナド」という存在の基本単位をイメージしている。そのため、タイトルを「解放衝動の発生」とした。
そもそも3枚組であったが、それを分割してそれぞれ単独の3枚の作品としたのだが、それも「個」に分岐することと関連しているのかもしれない。
この作品で初めて、下地段階でマスキングした部分を露わにし、異なった位相を暗示させるという方法を試すことになる。
モノトーンの安定した色調の細部で、激しいひもとスクラッチングのゆらぎがある。もちろん、量子的なゆらぎを表しているのだが、物質粒子として実存する量子が現在の自分の数をカウントするように出現する。
偶発性の中に、実在は己れの叫びを宇宙に轟かす。

[作成時期] 2007/05/10

擬宇宙論:528291: 〈美術衝動〉作品「10-44sec.―重力の発生」

〈美術衝動〉作品「10-44sec.―重力の発生」

Super-string 10-44sec. ―重力の発生, 2006.11, oil, canvas, F120 x 4(521.2×194.0cm), 2006.10-11の2カ月間、横浜市BankArt studio NYKでの公開制作作品

Super-string 10-44sec. ―重力の発生, 2006.11, oil, canvas, F120 x 4(521.2×194.0cm), 2006.10-11の2カ月間、横浜市BankArt studio NYKでの公開制作作品

 この作品は、横浜市・BankART Studio NYK で2カ月間(2006.10.1-11.30)にわたって公開制作したものである。
 タイトルの「10-44sec.」とは時間の最小サイズ(プランク時間)で、ビッグバンから10-44秒後に宇宙にある4つの力(強い力、弱い力、電磁気力、重力)のうち、まず重力が発生したというものである。重力はミクロではもっとも弱い力であるが、マクロではあらゆるものについて無限の距離に力を及ぼすとされる。
 F120号4枚組の大作は、じつに10-44秒という、瞬間というにはあまりにも小さな、恐るべきサイズをイメージしている。
 作品の全体を横に貫いて敷設されたケーブルの痕跡、その盛り上がった絵具のマチエールはひもエネルギーを表し、締めつけられた宇宙の原初がその最初期に重力を発生させ、宇宙の基本的な力を誕生させるという思考イメージで作られている。
 力はそれぞれ量子的な存在であり、重力はグラビトン(重力子)という粒子的なイメージを持つ。ビッグバンの周囲には宇宙の時間の範囲を示す楕円のユニバースサークルがあり、マスキングによってできたキャンバスの下地の不定形のいくつかのかたまりは多次元のかたまりのイメージでもある。
 またそれらは、絵具の層の重なりを剥き出しにし、平面の多層化を強調している。
 キャンバスという布、木枠の露出、包囲するものされるもののあいまいな関係、裏側と表側、回り込むもの、折り込まれるもの、これらは現実との対峙をも含め、曲率を持った時空面が多重化しているという含意でもある。
 この作品の中で、作家は作品を創造する行為のうちに実在している。それは、作品との物理的な距離のある関係でいうのではなく、ニードルで刻まれた無数の線のひとつひとつ、切り刻まれることで変質したごつごつした無数の粒状の絵具のかたまりに内在しているのである。
 つまり、これらのマチエールは存在の基点のそれぞれから大量に発せられた戦慄する狂乱的な泡でもある。
 そして、これらの行為のすべてが10-44秒という恐るべき極小の時間に、静かに呑み込まれていくのである。

[作成時期] 2007/05/02

擬宇宙論:52825: 〈美術衝動〉作品「Uncertainty Principle」1?4

〈美術衝動〉作品「Uncertainty Principle」1?4

 M6号サイズの4点の作品では、珍しくひもは使っていない。
 タイトルは量子論における「不確定性原理」である。
 カーボンブラックの粉を樹脂で練り込んで、キャンバスに何度か重ね塗りし、研ぎ出し、絖のような艶を出す。下地にはアクリル系の絵具の色点を散らしてある。
 S字形に見える図形は相転移をイメージした物質であり、これ自体ひもでもある。銀色をベースに、図形の増加とともに金色で侵蝕の変化をつけてバリエーションとした。重ね合わせと不確定性――。
 また、マスキングをはずした下地はぼんやりとしたスリット(切れ目)が光の二重スリット実験を想起させ、量子の世界を印象づける。

[作成時期] 2007/05/02

擬宇宙論:52821: 〈美術衝動〉作品「CMB(Cosmic Microwave Background)」 1?5

〈美術衝動〉作品「CMB(Cosmic Microwave Background)」 1?5

 宇宙マイクロ波背景放射をテーマにした5点。
 ビッグバンから40万年後に宇宙はプラズマ状態を脱し、「宇宙の晴れ上がり」という時期を迎える。この透明で冷えた空間に放射されたマイクロ波(光子)は宇宙全域に及び、この検出がビッグバンと膨張説の証拠とされる。
 ひもの曲線のパターンと研ぎ出しによる下層の絵具の斑模様が、宇宙膨張によって赤方偏移を受けた光子のイメージでもある。
 マスキングで切り抜かれた部分は、匿された次元、露出したこちら側、あちら側。

[作成時期] 2007/05/02

擬宇宙論:52826: 〈美術衝動〉作品「反-次元のかたまり」1?5

〈美術衝動〉作品「反-次元のかたまり」1?5

 ひもエネルギーが単純化された配置で、物質と空間を締めつけている。その傍らで次元のかたまりらしきものが物質の部分を垣間見させている。
 また、真空の中に匿されている白いのっぺりとした反-次元のイメージは次元のペアである。

[作成時期] 2007/05/02

擬宇宙論:5510: 層状宇宙

層状宇宙

宇宙面を球体の表面になぞらえたとき、この球面が重層しているとすれば、このような形に膜状宇宙が複数、波のようにゆらめいて存在しているというイメージはありうるのではないか。
物質の発生が、真空のゆらぎから物質・反物質の量子過程を経るとするなら、この高エネルギー状態の真空がその前提にあると考えうる。
この真空は無から量子論的に発生していると見なせるなら、重力の総体は無と真空との間にわたるのではないか。これは、真空を球体にイメージすると、この球体の芯から物質・反物質の球面が生成され、重力は分裂して球面エネルギーと関与するに違いない。
これらの物質が、確率的なゆらぎによるインフレーションで現在の宇宙面を形成していく過程であるとすると、この宇宙の因となる真空の内部にある全重力に対称的な反重力エネルギーが生み出されて、新たな原因物質が生成され、これがさらに副次的な宇宙面を現在の宇宙面の球内に生みだしていく。これが重層的な宇宙面となり、膜宇宙をなしていく。
インフレーションの規模は不確定であり、空間速度は現宇宙面をしのぐ可能性はあるが、現在のところ、超えてはいないようである。
翻って、真空というエネルギー体は無から量子論的過程を受けるのであるから、これもまたある統計的な確率で登場するはずである。
パラレル宇宙は、物質‐反物質過程、宇宙の対称性、真空を根源にした層状発生、無から断続的に生成する真空体、などの形でつくり出されるというアイディアである。
重力は、エネルギーの総体をつくるものであるから、これらの段階のそれぞれに関与し、宇宙の質量問題はこの可能性を計量しなければならない。
四つの力のうち三つは一個の宇宙面で統一できるが、重力はこれらの膜面すべてにわたるとすると、一宇宙面では統一できないエネルギーなのではないだろうか。

[作成時期] 2010/01/20

擬宇宙論:5520: 重力のリバウンド

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重力のリバウンド

重力とは引き合う力ではなく、引き離す力ではないか。外へ向かう力、分割する力である。
無の中から確率論的に物質(力)が発生するとは、無の状態から引き離す途方もない力、無を否定する力が必要となるに違いない。
あるいは、無である状態からすべてを奪い取って、無でない状態を無理やり創り出すための、無の全エネルギーが物質化するということではないか。これは、無という全エネルギーの虚状態が発火するということになるのだが。
このときの、引き離す力、あるいは無でない状態を作り出す力は、遷移したこの新生の存在にかたまりとして凝縮する。つまり、このかたまりは全宇宙のエネルギーそのものとなる。
それは、その外部に何も持たない、無さえ持たない全存在である。ただ内部に全エネルギーを胚胎させ、そのサイズさえ持たないもの。いや、サイズは比較すべきものを必要としているが、そのような対象もなく、それ自体が全体の一点として。
そのような形式で、それは量子状態をもつ。つまり、量子状態をつくるエネルギー、確率の全エネルギーを自らに抱え込んでいるわけだ。
そして確率論的に反物質が生成されるとき、自らの高エネルギー状態の力によってその発生の原因となるのだ。対称性として反物質を生成することで、初めて外部に物質を持つ原発的な宇宙像が誕生するのだ。

物質が反物質を生成するとき、あるいは物質が分裂するとき、それぞれのエネルギーは分割される。物質間の重力も分割される。
量子状態において、ある確率でインフレーションとして増殖的に分割・拡散する。そのインフレーションは重力をも同時に拡散するのだ。
1の重力は10-nに詳細化、分散化する。だから、重力は外に向かって細分化し、弱化し、物質の間隔は離れていく。
このとき重力は外延的な力である。しかし、その総体は原発的宇宙像の1という値だ。つまり、この1の力が全体であり、宇宙そのものの重力であり、そのサイズは原発状態である空というプランクサイズなのである。

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雑体:020160416 : 「擬宇宙論」から(1)

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「擬宇宙論」から(1)

破片(フラグメント)を露はにし異なつた位相を暗示せよ

量子(クァンタム)がおのれをカウントするやうに

○偶発性が実在の叫びを宇宙に轟かす

○緊縛された次元が別の形態空間に移行する

○物質がおのずから別の状態、宇宙相に変化する

○次元はそも理想化されたるスケールなり

○物質中に突如生まれた空間が裂け相転移する
 曲率をもつ次元が飛び出して

○ちぎれさうなひもエネルギーの強靭

○単一物質が同時に異なる位置に存在してをる

○極小は光とひもの波打ちて
 極大のユニバースはその状態の大変化なり

○全振動が解放衝動とキャンバス上で出遭つてしまつた

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未刊行詩集『コスモロジー・デッサン』(2007年4月)

⇒詩集『コスモロジー・デッサン』(紙田彰 2007年4月、全141頁、PDF 590KB)

I 直観的な
II 解放衝動――モナドを基点に
III 超ひも理論の方へ

  跋
 これまで上梓してきた詩集がどのような受け取り方をされたかは知らないが、この詩集を編むにあたって、それぞれの制作意図をここに明かしておくことにする。
・初期詩集『浣腸遊び―Enema Game』一九七四年十月二十一日私家版
 詩語、詩句による言語実験。
・詩集『魔の満月』一九七七年九月十三日書肆山田刊
 文、事件(事象)を詩句と見立てて織物を編む実験。
・詩集『緑字生ズ』一九八七年七月三十日書肆山田刊
 詩の生成過程を織物とする実験。

 そして、本作品集をあえて詩集と銘打つのは、「思考」自体をポエジーの図柄にしようとしているからで、いずれにしてもすべての詩集が冒険と実験を目指した宇宙織物であることに変わりはない。

  二〇〇七年四月著者識