カテゴリー別アーカイブ: 空中の書

未刊行詩集『空中の書』02: 満月

満月

夜は来た 妖しい吐息が裾野に広がってゆく 頭上に爛々とかがやく紅蓮の月 おお不吉な満月よ 腔腸動物のように毒液を撒きながら人民を失神させる

未刊行詩集『空中の書』04: 贖罪

贖罪

古来、夜の使者と馴染み、悪逆非道の律法を糧とし、巻貝の好餌として封印された王国の名 ああ恋という魔の温床

おれは幼友達が夢に現れ出、細長い蛇に転身してまとわりつくのを知っている そのとき体が浮游し、最愛の妻の乳房に手を伸して許しを乞うのだ

祝祭の日が来た
礼砲が鳴る

未刊行詩集『空中の書』05: 声の届かぬ部屋 I

声の届かぬ部屋 I

魂と肉体を分つ術を用い
あなぐらの中で修練する
静止しているものに
命を吹き込み
禁断の音楽に耳をすます
数億の眼と失笑
涸いた岩肌をたどり
亀裂の中に這入り込む
見えざるものが見え
暗い危険へと下降する
知りうべきはいま
風に揺られて
死の床のぬくもりを

未刊行詩集『空中の書』06: 声の届かぬ部屋 II

声の届かぬ部屋 II

頭蓋骨にしまった
罌粟けしのうすい花びら
インクのかすれた紙幣
怪しげな深夜の誘惑
約束の地への招待状
ひとたびまばたきすると
黄金の都市
ふたたびまばたきすると
悪相の神々
手を触れたときには
光の箭が
夢をつらぬいている

未刊行詩集『空中の書』07: 声の届かぬ部屋 III

声の届かぬ部屋 III

青鹿毛の馬の背に
咒文の書かれた服を着て
闇に溶ける者がいる
しだいに数が増すかと思うと
一箇の鏡であったりする
肘に疼痛を覚え
こうして肖像を描いているが
いまだ精神の愛撫
めまぐるしい確率論
黒革の手帖に
新たなる神の名が加えられ
不浄の匂いが広がっている

数字という名の首

未刊行詩集『空中の書』08: 声の届かぬ部屋で

声の届かぬ部屋で

包みを開封すると
押花の罌粟と
頭蓋骨の破片とが
雪のように
部屋を蔽った

宇宙モデルとして
愛していたおまえのかけら
不思議な匂いを醸す
透明な和紙

いまや 便りを告ぐるべき夜
夜を忘るべき睡りの中で
壁をへだてて
硯をする音が
鼓膜につたう

未刊行詩集『空中の書』09: 透明な卵

透明な卵

球体の中に世界が視える
老いた書誌学者の説によれば
つがいの巨人族の
幾何級数的な交接
青みがかった眼の彼方
降る星も消えずに

壁の中に埋る耳
通廊に貼られた跫音
樹齢一千年の黒檀製テーブル
タップダンスを踊る
女の細いかかとが
かんなに削られたように
ガラスの部屋に喰い入る

戦争の夢を語る少女
やわらかな脣の奥
硬質の乳
なによりも尖った臀
体内における血の嵐
殺人者の盥

烟る海へと漕ぎ出してゆく
龍の刺青を誇る腕
数億の日々が
数億の波の棘を渡ってゆく

いま
階段きざはしの下に
ゆらめく卵が
夜の神秘を映す
白髪の友の声音ひくく
ひらたく伸びた掌に
滴となって
燃え落ちる

未刊行詩集『空中の書』10: 頭蓋骨モデルから伝わるもの

頭蓋骨モデルから伝わるもの

闇の傾斜を、張りつめた糸が重なるように、かさかさに涸びた雪片が滑ってゆくのを聞いた。カーテンの蔭の隙間から冷たい風が忍び込むせいでもあったのだろう。骨が噛みつかれるように深い冷たさが肉を包んでいる。それにつれて体が底なしの睡りに就いてはいたのだが、脳味噌は奇妙にうごめきはじめ溌溂としていた。肉が溶け出して床に吸われてでもいるのだろうか。
姿勢だけは謹直なものであった。背筋はきりりと伸ばし、直角に曲げて揃えた両脚の上、ちょうど臍のあたりで呪印さえ結んでいた。瞼を開けようとしたが、固く結ばれたままいかようにも開けることができない。だが何かしら周囲のもののありようが、そのままの状態でも感じられた。特に強く捉えられるのは、机上に埃にまみれたまま放置されている頭蓋骨のモデルの形である。温かなものと冷たいものから発せられる微妙な空気の運動などといったものではない。確かな触覚を伴った明瞭な形である。
数年前に知人から罌粟の一種を押花にしたものを贈られ、それをモデルの中に蔵っていたことを想い出していた。その薄い花びらの透き通ったピンク色が記憶の底から泛んでくる。モデルの中にはもう一つのがらくたが匿されていた。それはジルコンを象嵌した、銀製の、人面をかたどった大きな指環である。異国の骨董屋で買い求めたのだが、女主人の言によるとコメディアンのマスクとのことである。けれども脣を耳まで開いたその顔は俗悪で、いささか呪われたものででもあるかのような畏れを伴っていた。その相貌の面妖さが明瞭に頭の中に感じられる。見えるものは何ひとつないのにすべてが感じられる。奇怪なる至福とでもいえそうな一刻である。
骨格だけを残して、肉体と呼ばれうるあらかたが失われてゆく。まるで聖遺物器の重なりのように。……

未刊行詩集『空中の書』11: 古い砂

古い砂

砂上の皺に数十億の蜜蜂が群っている 独り涸いた丘陵を駈けたのは瞬時の眩惑であったのだろうか はじめのうちは黝い眼窩の底から徐々に湧き上がる妖気に怖気づいていたが、輪郭の透明な曲線が肉の色を帯びていくのを知ってからは、魂のこがれるような戦慄にいつしかうちふるえていた 鼻梁の欠落した首ははにかむような微笑を漏している 爪の間に入り込む砂粒の多くは硝子質の光沢をもっていたが、掘り進むうちに塩のように重い物質に変じてゆく 子供のころに海岸で犬の白骨をみつけた記憶が掠める たしかに爆竹を鳴らしながら走り廻った当時には、何もかもが神秘で優しかった 蜜蜂は管を伸して塩の谷間を埋めつくしている 匣の中にモザイクの縫い取りをした布がたたみ込まれていた 紫の地に黄と白の糸で縁取りし、中央にかすかな王家の紋章が刺繍されている その首は犬のものではなかった 前頭葉の巨大さを物語る額の広さが不吉な印象をもたらしている 砂に同化せずに過ごした、考えることのできぬ永遠の時よ 砂漠の齢を超えた空想の古代よ ある田園詩人はその奇跡を書きとどめる術はないと断言する、解明できない自然は言葉の矩を越えているからと いま机上に鎮座するその首は遠い謎を語っている、精神の奥深さというよりももっとも原始の底から慰安をもたらすもののごとくいまその首は流れるような声で語りかけてくる もはや寸秒の夢 夢に巣くう夜 そして彼方から押し寄せる危険 王家とは生成そのもの、破滅そのものの源をなす邪悪な波頭 蜜蜂の一匹を指でつぶしてみると黄金の砂よりも硬く冷たい液体がこぼれでる 骨の粉が崩れおちずに光っているのだ 睡りに就くことは禁じられている 死の床は星々の距離で測ることはできない、死の床は、死の床は…… 妹の寝台にあふれた胃液が妹の影のように貼りついていた 二十数年を経て話してみると、当時と変わりのない喋り方で、抱いてくれとせがまれる いま十数世紀を経ようとも、抱いて離さぬ夜は暮れない 重たい塩の地の果てよ 涙の中に原始の塩もあり儚い古代の氷もある 死の床につづく愛すべき首よ 罌粟の花びらに満たされてあれ、永劫の期待を蔵うために

未刊行詩集『空中の書』12:

夕暮どきともなると、樹々のざわめきの奥に見え隠れする獣の対になった姿をみとめることもある。
館まで小一時間ほどの細い道を、そんな獣たちの挙動を盗み見しながら登りつめてゆくと、さほど高くない丘の頂が手の届くような近さにあると思われて、つい手を伸ばして、届かぬ肉体の限界と飛びゆけぬ精神の力の足りなさに歯がゆい心持ちが生じ、軽やかな足どりの障碍とさえなる。人には住むべき処と見うべき性質の夢など、歴然として何もないのだということに立腹してみても、さしたる問題にもなろうとは思われぬが、かといって、翼が生えて蒼穹にはばたこうなどとは考えてみた試しすらない。
古代、青い、あまりにも深い碧の内海で水底に舞い落ちた慢心の少年がいたという話は有名だが、そのような慢心のありようもわからぬではない。
獣道のような、わが眷属が拓いたこの道を淡々とした思いで進んでいると、いつしかこの道の絶ゆる先は弓のように反り返って、ちょうどスキーの跳躍台のように、限りのない大空の彼方にしなってゆくのではないかという妄想に捉われるのだが、心の奥底では、あながちそれが幼児的な空想でもないのでは、という一種不吉な病が頭を擡げはじめる。

未刊行詩集『空中の書』13: 脣の赤い少女

脣の赤い少女

睡りの前に少女のかかとを見る ガラスのように尖った神秘が眼の中を疾る ほそい骨とアンスリウム、夢を充たす妖しい香り 階段は世界の貌 風とともに日々を駈ける えたいの知れない白い影が背中を蔽う 喉が渇く 手を伸ばして冷たい水を啜る ビールは明方のためにとっておこう 烟草が沁る 隣には裸の女が眠っているので音楽は流せない あなたのために父の通夜を準備するわ、死者の肉を刺身にすると魂は永劫不滅よ 扉を敲く音は精神に悪い 掌は手首のために造られ、指は心臓を掴むためにある 電車の中で黄色のブラウスを着た娘を眺め、返された視線に頭がかすむ 西瓜の種が絨緞に埋っている 鳩尾の疼き、力のない咳 ほそい露地で自殺した男の密葬が行われる 夏らしくもない長い雨、一人三合と書かれた貼紙を見ては独酌の手もふるえる あたたかな女児の膝に触れて見上げると、童女は死体を刺身にしている 澄んだ瞳と真赤な脣の童女の首はない 羽蟻が涌き出し建物は水蜜桃のように朽ちてゆく 夜明の晩、後ろの正面、童女の群が不吉な輪を作る 教室で食事をしている子供らの前で、禿頭の男がコッペパンを御幣にして神妙に坐っている 扇風機から洩れる古い風、呼吸をおびやかす風 絨緞に埋った骨は見つからない 戸棚から銅貨を盗み出した少年は翌日まで帰らない 化石を採りに山へ登ると強姦現場に達していた ハンカチーフには血のしみがつき、後ろに置かれた少女の指先には涙 睡魔とともに雨が降る 軒下の下着が盗まれる 少女の膝は成長にしたがい冷えてゆく 地下鉄のホームで会ったときには疲労の色が濃い 緋色の衣裳が翻る 顕微鏡を覗くと、尻尾のある無数の悪魔が蠢いている 教師は少女を集めて秘密の講義をする 数日後、辞令が出て僻村に逼塞する 色の黒い女生徒が後をつける ほそい脚には投げやりな愛、シャツを破ってからは二度と出会わない 漁港で身を持ち崩しているに違いない 肌色の鳥が四肢を広げて夢の空を翔けてゆく 醜くもあり美しくもあり、眼の中はいびつに

未刊行詩集『空中の書』14: 魂の滋養

魂の滋養

受話器から洩れる魂の誘惑 あくことない耽溺 室内の細い光が街路へ抜ける 電灯の軋みを合図に地図に記されていない町まで疾る 到着したのは約束の刻限を大幅に超過してからである 暦の下で困惑する少女よ 廻転扉から歴史は始まる 青いぬめ アルミニウムの鏡板パネル 古色蒼然とした円舞曲ワルツ 腕の交叉は下半身にて破られる 折れ曲った肢体から尿のように噴き出る夢 魔物の影が漂う 長い鎖を静かにインク壷に漬け夜啼きの烏を描く 闇はいっそう深まりついに凝固する 仕掛けのある空箱に棲む花嫁 鰐の恋人よ 純白の下着が義歯とともに外される 瞑想など不要だ 皓々とした珠玉が爪が言葉が黒々と伸張している 南の島では五色の慾望が 瞼の下では蝋燭が 天井から風がそよぐ 星々の移動が突発的な予定調和をしでかす いびつな乳房 二つに割れる乳暈 鋭い腰 沈み込むような尻 深く愛すると肉体は泥になる 頭脳も鬱血する 髪の毛に毒虫が貼りつき赤い舌を覗かせて冷笑 季節が外れると関節に痛みが疾る 押し寄せる齢とは一条の螺旋であろうか 背中から尾へと向う刃物 魚の臓物に南十字の吐息が匿され旋毛風が舞う 水道路の遺跡から登場する生物は両足を揃えて跳躍しながら磁気を食す 星間物質は倉庫で逼塞している おお鏡の中で燃えつきる踊り子ダンサーよ 挨拶を交わす さすがに疲労は隠せない 面影のうちに種属もなく調理人の熱いまなざしもなくただ往き来する書物の記名がなびいている たとえば硝子張りの字引きとか棲処を失った羽虫 溝の消えたレコード かすかな思い違いから鍵を紛失する ひからびたしがらみに映じる幼児の幻惑 祭の爆竹がはぜる 走馬灯に初寝の影が添えられる 地震の起ったときに寄宿舎の屋上から海の彼方の炎を見る 洗濯物は竿に吊られて濡れている 電信柱には骨盤 嫌な顔をするな 鉄拳が飛ぶぞ 裏通りには首のない変死体 壁の中には数奇の運命を終えた老婆 館には魍魎の出没の儀 夜は更ける いやまして絢爛の夜 数軒の呑屋を経ても薔薇の花束はしおれない 睡魔の中で次々に裸にされる少女 低温で茹られる黄身 女どもが真っ先に弑される 恋人を下水管に流した男が強力な下剤を服む 受皿に果実の種が落とされる 体を引き緊め酒をあおる 夜風が実に快適だ 遠心力の効用とは客船を見事に沈没させる点にある 緩慢な波を分けて蒸気機関車が青白い烟を吐く 海底に向って老衰する 古代語は白蟻によく馴染んでいる ともに魂の滋養だ 筋肉から弾き出て素敵に印象的な紅蓮の布となる めくるめく即興曲 幻妖なる画布 不思議の国の扉 不眠症の決り文句だ 柱時計が酸化する 火傷を何度も負う 夜が明けても空は暗い 羽を借用して雨の朝を渡ろうか 空白の数行とともに

未刊行詩集『空中の書』15: (林檎の研究を)

(林檎の研究を)

林檎の研究をしている友人に次のような話を聞いた

虫が涌くときに森の番人が注意しなければならぬのは 虫の口から漏らされる液体を中和することではなく 果実の中に棲む生命の素が暴れださぬように手を打つことである、と

未刊行詩集『空中の書』16: 酔眼の微笑

酔眼の微笑

眼の中に点々と注がれるものが純水であるとするならば、おまえたちの滂沱はいまや軽快なる天使の貌。

眼の泉に滾々と涌き出るものみな純水と呼びうるならば、おまえたちの滂沱はさながらに軽快な天使の貌。

てのひらの道は過去に通じ、未来の建物を影の細部まで映している。おまえの名こそ人知れず朽廃の光栄をもたらすものなれど、ここは酔眼の微笑が愛撫のとき。

未刊行詩集『空中の書』17: エリニュスの裔

エリニュスの裔

 眷属の声
幽霊を見ていた。
肉体と魂の分離の術を試みていたとき。
病人用の質素な寝台の白い敷布の上で、細い肉体を人形のように静かに伸ばし、心臓の上で指を組む。半覚半睡の状態をめざし、夢を見るようなつもりで、ただ意志だけを鞏固にしている。やがて肉体の感覚が失われてゆく。いまだ、少年は考える。
いま、体を脱け出ることができる、と。
幽霊が訪うたのはこのときだった。
実験室のドアが、鍵のかかっているにもかかわらず、音もなく開き、すでにドアの前に、白っぽい、やや薄汚れた長い布を纏った男が眼を爛々と光らせ、漂うごとくに佇んでいた。
俺の胤、俺の分身、一族の者よ、幽霊は語った。いや、語ったわけではない。そのような思念を、心と心を結ぶ対話の術で、少年に言葉を告げたのである。
俺は十年前に悪逆無道の罪人として、死を与えられた。爾来、悪逆の念としてこの世を呪い続けていた。俺は特別な悪人だ。だが、どうしようもない血を持った男だ。おまえの母親は自ら進んで、この俺に抱かれたのだ。
少年は忌わしい緊張感などというものに囚われぬ自分に驚愕していた。幽霊の語る言葉がよく呑み込めぬままに、ぼんやりと寛いでいた。なつかしい匂いを嗅ぐような気もした。

 覚悟の一服
海辺に着いたときには、すでに夕陽も翳り、雲気が水平線の向うから頭上の空にまで押し寄せてきていた。
灰色の砂浜がいっそう濃い翳りと海からの湿った風を受け、黒々とした影に変じてゆく。
少年の担いできた新品のテントは、夕闇の中に眩しいくらい明るい黄色だった。
老人は何も言わずに荷を解くと、砂の上にばらばらに投げ出したまま煙草に火を点けた。ひとくち、重そうな息をついて、その煙草を少年の目の前に差し出した。

 溺死に似せて
水の冷たさと殺意の衝動がぴったりと重なってくる。針のような鋭さだと少年は考える。華奢な腕のどこにそんな力が潜められているのかという常套句。老人の光を失った瞳の奥に、運命の受容とかに似た優しさのような表情が掠める。それだけだ。ものの数分間の暗闇。赤黒い月は沖合にかかったまま、その数分間を凝視している。観客はその月を通して光景を楽しんでいるのであろう。充血した眼と白蝋のような顔。水の色にも似た死の訪れ。

未刊行詩集『空中の書』18: 静謐のひととき

静謐のひととき

静かな睡り、ときとして凍るような夢 幼年期の薄墨色の景色から、渦巻の形をして浮かび上がる極彩色の洪水 耳鳴りを伴って訪れる体表の微妙な顫動、輪転機に附随する独特の匂い 蜜柑の涸いた皮、ソーセージの包装紙 夜が好きというのでもなく、嫌いというのでもなく 眼の芯にあたる空洞に棲む者たち、栓をした頭脳などと……
銃口がこちらを向いている、空間には紫の翳が流れる 声を出してはいけない、頭の禿げたフランス人が囁く 燈を点してもいけないのだろう 革表紙の書物の位置がずれている ときおり数本の蝋燭が濡れたように光っている
罰を、鞭を、割れたビール壜を 数秒ののちに静けさの極限を迎える、喉から弱い息が洩れるだけに……

未刊行詩集『空中の書』19: 人類の鉱脈

人類の鉱脈
  ――薄倖の叔母・大迫静子に

最初に出会ったのは優しい眼をした狂女であった。眷属の一人であるから雰囲気は思い浮かぶのだが、明瞭な顔の輪郭は記憶の底に沈んでいる。雪が降っていたのかも知れぬが、降っていなかったのかも知れない。まだ晩秋の頃であったかも知れない。田圃の傍の清らかなせせらぎで洗い物をしている後ろ姿も、和服であったようにも思えるが、判然としない。振り返った女と言葉を交しているのだが、何を喋ったのか、たぶん挨拶をしたのだろうが、その貌ともども思い出すことはできない。もしかすると、彼女に関する思い出とは、後年になって一族の不可思議な秘匿の匂いと証言によって組み立てられたに過ぎないものなのかも知れない。
だが、たしかに最初に会ったのは彼女のはずである。逆算すると、二十三、四歳、それ以降は知らない。

未刊行詩集『空中の書』20: 人類の鉱脈

人類の鉱脈

烟草のあるところにライターがあると決めてかかって、書物の蔭の烟草の箱に手を伸ばすとライターの影も形もない つまりこういうことだ たしかに烟草と一緒にライターを置いたのだが、それは新聞の蔭であってこちらではない 烟草は二つあったのである なにやら嫌な気がして頭を軽く左右に振っていると、耳の奥で澄明な鈴の音がした 耳朶はやわらかくて気持のいいものだが、あの洞窟はいくぶん気色が悪い ひとりで侵入してみたが、誰もいないので閉口した たしか帆柱をあげて素晴しい勢いで航海したのだが、いまや寸秒 そうこうするうち燦然とした都市に着いていた このときは鈴の音が高楼のてっぺんに突き出た尖塔に発していると知っている

未刊行詩集『空中の書』21: 砌の下に  ――澁澤龍彦氏に

砌の下に
  ――澁澤龍彦氏に

石仏の首が
際限なく転ってゆく

賽の目も数えずとも
露地裏には秘密の部屋があり
男の肩には匕首が刺さっている
硝子の汗を噴いて
心臓は鉄
だらだら坂は小糠雨に光り
銀の鰈を縫い込んだ鞄の中に
スウェーデンボルグの著作が一冊
ガス燈が闇を円形に照す

決死の闘いとは
気障な溜息
鎖骨二本が急所である
額に五寸釘が打たれると
夜々の濛気が氷解する
水晶の坏に
経血は釣り合ぬ
竜騎兵を奪うには
腕力が肝要だ

球形の棺に
百科事典が葬られると
不気味な鳥類は
アポロンの箭で串刺し
浮揚する机上に
頭脳のモデルと
博奕打の肝
精嚢に
針と文字盤が蔵われる

女の睫に血が滲む
愛撫されても孵らない
名を呼ぶと
みぎりの下に沁み込んでゆく
誰もいない公園の向うに
朽た卒塔婆を見る

境内でけたたましく喋る
絵馬の中の神々
石燈籠に残された
黒髪の一束
物怪が御辞儀する

 初出 書肆山田「誌」1977C

未刊行詩集『空中の書』22:

時計の針を
神話の錘りとする
いまや聖霊たちの夜宴
星は
都市の遺構にまで
悪意の粉片を積もらせる
寸秒の女神が
悖徳の詩人と交接する
左手には習慣性のある怒り
右手には焚書に供するノオト
筒先には禍いの脣
そのような人体は
いかなる存在とも同じか
いかなる未来とも交わらずに
永遠の滴として
尖った針に姦される

未刊行詩集『空中の書』23: 人形たち

人形たち

人形が数体
稽古用のバス・ドラムの腹に
沙の涸いた喉笛に
詩人の義眼の中に
玉葱の海に浮かんで
火傷のために
鋭い声をあげている

土の底に月ごとの滴を注ぐため
遥かな青空に噤まれた言葉を与えるため
時という虫に啖わせるために

折れ曲がった手足
むしられて逆立つ金髪
抉られた眸の奥のぜんまい
ぬりたくられた狂えるもの

彼女たちはよみがえる
きまって深更
一瞬の夜宴サバト
ありとある家々で
あふれる空気の中で
世界を腐敗させる
峻烈な意志

海に浮かぶ館の
とある部屋の片隅に
かくのごときを記す書物がある
つまり
海の歴史しか持たぬ
あらゆる家々の

未刊行詩集『空中の書』24: 岸辺

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岸辺

忘却のアシは
切岸から突き出ている
聖なる声音をまねて
亡霊の名を呼ぶ
十数億年の生涯を
一箇の砂粒に封じ
齢老いた光
遺されたルーン文字

フネが辷る
月光と影のささやき
青い裸身よ
風にふれる乳房
するどい腰
尻の蠱惑的な曲線カーヴ
ふかい溪間よ

母なる物質の彼方
ふたたび想い出せぬ
その名

処女の血のこわれる
ふるいふるい戦い
娘らの命で織り上げた布が
若者の蒼い髪を束ねていた
黄金の死の顔に
すでに名前はない

(……へその緒)
亡霊のかたちは
泡の自在な殻に呑まれ
十億の浜辺
百億の水底

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未刊行詩集『空中の書』25: 誘惑

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誘惑

(1)

そもそもベルの鳴り方からして妙だった。低い微かな音でありながら、目覚時計のように鋭く細い連続音なのである。
大きな油虫が素晴しい速度で、濃緑の絨緞の対角線上を疾ってゆく。六畳の居室は机の上のライトを点けたきりなので薄暗く、エナメルのような硬い光を燦かせた虫が闇の中に残像を見せたまま吸われてゆくと、もう見つけることはできない。
背筋に冷えた空気が貼りつくような気味悪さを覚えながら、幾度かの呼び出し音の後、受話器を取り上げてみた。
優雅なアルトが、夜更の電話の非礼を丁重に詫びながら、ある集まりに招待する旨即刻来場を乞うと告げた。
奇妙な性癖を持つ友人の名が二、三挙げられていたようだが、ぼんやりと油虫の消えた辺りに眼を凝らしながら不吉な予感に捉われていた。心配することはない、決して怪しい集まりではないと、電話の主が言っているかのような錯覚も覚えたが、不吉な想いは癒えなかった。というより、なおも昂進したのである。
女の声が魂を揺する性質のものであったことも一因なのだが、なによりも電話という器械を介したはずの声が器械の匂いをいささかも感じさせぬばかりか、頭脳を痳痺させてしまうような、地の底かなにやらの別世界から唐突に躍り込んできたかのような気配を漲らせていたからである。
その蠱惑的な声に酔いながら、集まりの場所が伝えられるまで、女の喋るにまかせていた。饒舌というよりも、軟質の声音で滑るようにゆっくりと語られていた。最後に目的地の住居表示が告げられる頃には、すっかりその女の声の魔力に犯されていた。行先の場所が所蔵の地図に載っていないのはすぐわかったが、なになんとか行けるだろうと考え、その招きに丁重に礼を返し、応ずることを附け加えると、体を羽毛で愛撫されるかのような妙に艶かしい笑い声を耳に残したまま電話は切れた。驚いたことに、最後の一言を除くと、電話の廻路を独占していたのは女の声ばかりであった。
魂に得体の知れないものが注がれたように、長い余韻が闇の中に滞っていた。

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未刊行詩集『空中の書』26: 鏡子

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鏡子

鏡子が白樺林から出てきたときには、山の端に黄昏陽がかかっていた 隈笹がびっしりおいしげる道を過ぎたあたりで、虹色にきらめくひかりものに気づいたので、足早に近づいていくと、笹のするどい葉でさっとふくらはぎを切った 白い脚に赤い血が涙のようにしたたるエロティーク ふっと叫んで指先でぬぐってみると銀粉がついていたので、きっと笹の花粉は銀色なのだわと考えながら、少女は北国の中で小人のようにうずくまった
 
 
翌日、同じ道を、こんどは笹の葉に気をつけながら歩いてゆくと、ひどくむずかしい数式が書かれた紫色の紙片をみつけた 鏡子は屈折率という単語とπという記号しかわからないのであるが、昨日切った傷口に残っていた銀色の粉は光のかけらなんだわと思った とたんに気が軽くなって、いつものように若草のもだえという唄を口ずさんで向こうに行ってしまった あとから聞くと、その唄はこんな文句だった
 ?萌ゆる萌ゆる 草の実さん
  いつからおまえはひとりもの
  お嫁にいってあげようか
  夜はあたしも恐いのだから
 
 
あるとき、肘掛椅子に坐っていると、窓の向こうにひかりものをみつけたので、サンダルをはいて外へ出てみた 霧のせいで、そのあたりには虹がふたつかかっていた なんだか寂しい気配がするので、鏡子のお友だち! と叫ぶと、向こうから、お友だちの鏡子! という声がかえってきたので、あわてて肘掛椅子にもどってふるえていた あとでよく考えてみると木霊のいたずらだと気づいた
 
 
裏側に水銀の塗布された、直径五センチメートルのガラスが空を映していた そのうちに地球の芯のあたりから黒雲がわきだして、雨が降りはじめた 鏡子はいそいで雨除けをとなえてのぞきこむと、鏡の中の空はすっかり晴れていたのだが、水銀が酸化してどろどろ流れだしていた そっとぬぐってみると、赤い血糊が指先についた けれども、その鏡には時間がつまっていたので、痛がって声を出す必要もなかった

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未刊行詩集『空中の書』27: 水の眠り

水の眠り

なでしこの散るホタル
器と器の重なり
骨のつながり
かすれた色の花びらが
さわさわと
砂となりてこぼれ落つ

数ヘクタールの皺、父祖の脈搏
雪を割って
光の帯となり
過去をいままた過去として
とどこおる川、小川よ

水を洗うべし
たたえられたものは味方ではない
むしろヒユ
それもテランセラ
はだらの中に血のにじむ

水を透くべし
こねて叩くべし
いさぎよく匂いを消し
そして静かに死なしめる
だが

だが
半肉体と半精神の
輪郭のなさは危険だ
室内は眼の袋
祈りの手が窓櫺そうれいを破る

息をころしたパイプオルガン
神の形を遺すしおれた布
白磁の中に眠る水
革命以前に建てられた教会は
いまは傾いで立入禁止

[作成時期] 1984/02
[初出] 『詩学』第39巻第2号、1984.2