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連載【第001回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: Invisible 1

 Invisible 1
 私は私の属しているものを知ることはできない。また、私が属しているとされるものも、私を知ることはない。さらに、私が私を属しているとするものを推測することはできるが、ほんとうは知ることはできない。私がこれらを知ることができるとすれば、それはファシズムとは何かということに尽きるのであり、私自身の自由からも、あらゆる存在の自由という問題からも遠く隔てられてしまったものについてなのである。

 私はまずあなたに問いかける。あなたは私自身であるのかもしれず、また私の隣のあなたであるのかもしれない。また、私とはまるで無関係なあなたであるのかもしれない。しかし、いずれにしても、私は問いかけるためにあなたを必要としている。
 それにしても、私が問いかける事柄はどこからやって来るものなのか。あるいは、いつやって来るのだろうか。そして、ほんとうに問いかける事柄があるのだろうか。けれども、来たるべきものはやはり来るのだという予感はある。しかし。
 そもそも、私は何を問いかけて、その問いかけがどのような意味を持つのかをいまだに知ることができない。何を考えようとしているのか、何を始めようというのか、私にはまだ何も見えていないのである。
 おそらく、私は何かの一部に問いかけているに違いない。その一部がどのようなものの一部なのかを永久に知ることはないだろうが、たしかに何かの一部分であるということに誤りはないだろう。私の考えはこうだ。私はあらゆる「部分」に侵襲されている。(つづく)

連載【第002回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: Invisible 2

 Invisible: 2
 来たるべきものはたしかに「部分」のうちにあるのだろうし、あなたはその来たるべきものに違いない。しかし、来たるべきものは来ることはないし、いつも私の外側にあるものだ。
 また、それは無垢というものと関係があるのだろうか。私が無垢でなければあなたが無垢であろうし、あなたが無垢でなければ私が無垢であるということなのか。そもそも無垢であるということは許されざるものなのか。そして、そのことが侵襲される理由であるのか。それはこちらとあちら、私とあなたがひとつになることを拒むもの。

 私が考えているのは、あなたがこの議論の内部にあるのではなく、表層を部分に持つ、見えないもののその表層の部分なのではないかということだ。だから、私が問いかけるあなたとは、私の影であるというべきではなく、独立した表層の部分というべきである。

 あなたはどのような場合でも、あなた自身である。そうだ。私が問いかけようとしたのは、そのことなのだ。「私はあなたであるか?」「あなたは私であるか?」あなたはすべての場合において、あなた自身の何ものでもないのだから、私はあなたではないし、あなたは私ではない。(つづく)

連載【第003回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: Invisible 3

 Invisible 3
 このことは次のような問いかけでも同じである。「私にはあなたが見えるのか?」「あなたには私が見えるのか?」私はあらゆる場合においてあなたを見ることはできないし、あなたは私を見ることはできない。
 では、私はあなたに問いかけることは可能なのだろうか。また、私はあなたに問いかけずに私としてありつづけることが可能なのだろうか。もっとはっきり述べるなら、私が私に問いかけるということはありえないし、それは不能な事象なのだから、あなたに問いかけることが不可能なら私は絶対の沈黙を余儀なくされる、私のあらゆる問いかけが存在しなくなる。

 あなたは私にこう答える。「そのように考えることが、すでにあなたが『あなた』と呼ぶ私の一方の考えであり、その私の一方の考えが、あなたの考える一部でもあるはずだ」
「けれども」と、あなたは付け加える。「あなたの私への問いかけは、私になされたものなのか、あるいはあなたが発しえたものなのかは定かでなくなってしまっている。そもそも、そのような問いかけが行われたのかどうかさえ明確ではなくなってしまっている」

 たしかに、もうすでに私の中では、そのような問いかけは跡形もなく消失していた。そして、「あなた」という言葉の証拠すら残されず、私は私の表層を見つめていた。(見えざるもの)

連載【第004回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: microtubule 1

 microtubule 1
 あなたは私に属しているのか? 私がそのような疑問を抱いてから数日たった夜のことである。
 それは、私に属する意識のひとつ、(肉体の部位としては)大動脈の腹部にある解離性の瘤と繋がっているもの、その大動脈瘤の持つ意識についてのことである。
 意識Aは次のような来歴を私に語り始めた。

 Aが自らを知りえたのは、大動脈に突発的に生じたときではなく、私がAの病理的な存在を自ら認めざるをえなくなった時点であった。Aは最初、私の願望から、自分が一時的な存在で数カ月もすれば瘤としての形は失われるかもしれぬと考えていた。しかし、結局、瘤は閉鎖することはなく存続しつづけた。
「私は、物理的に大動脈に生じたときに誕生したのか、あるいはあなたが私の存在を信じたときに誕生したのか、私自身よく分からないところがある」
 またAは、A自身が血管内に生じた空洞としての物理性であるのか、空洞を造る血管が持つ特殊意識であるのか、あるいはその両者の統合体であるのか、はたまた医学の捏造なのか、私の信仰あるいは妄想であるのか、自分でも確かなことは分からないと繰り返した。

「それでも、あなたは肉体を持っているのか?」私はAへの問いかけをこのような言葉で始めることにした。「あなたはAであるはずだから、Aの意識を持つ身体という統合的機能、あるいはある一つの機構としてたしかにあるということはいえるのだろうが、血管にできた瘤という、つまり空洞である以上、肉体を欠落させられているといえないだろうか」私はもうひとつの疑問、空洞という肉体はありえるのか、いや肉体はそもそも空洞を包み込んだもの、肉体の本質は空洞にあるのではないかという疑問は、ここでは差し控えることにした。(つづく)

連載【第005回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: microtubule 2

 microtubule 2
 Aは「私自身にとっては、肉体の欠落感というものは意識することはできないのだが、私という空洞の反対側、つまり二種類の血管膜のそれぞれの向こう側にあるものは、不可視であるとはいえ、隣接感は直観できる」と応じた。そして、ある重要な問題を提起した。

「その直観は、存在を予感することはできても、何ものをも見ることも、本質に到達することもできず、隣接する感覚はあっても、生起している現象に遭遇することはありえないといえるのではないか。血管の層をなす外膜と内膜の向こうにしか、私にとっては推測できる世界はありえないし、あなたにしたところで、またあなたの一切の問いかけにしても、私の推理でしかないということが、私の本質を決定づけているに違いない」
 大動脈の偽腔であるAの意識は私に以上のような問題を突きつけたのである。

 偽腔Aは向こうにあるものだが、つねに向こうであることを余儀なくされる。外膜、中膜、内膜と、私は外側から推測する。偽腔Aは三段階の膜層そのものであるが、その本質は充たされたものではない。彼はすでに自分がたんなる肉体の概念であるということを認めざるをえない。そして、そればかりではない。偽腔Aはみずから提起する問題について何もないところから始めなければならないのだ。それだからこそ。

 肉体の部位は実質で充たされるということは不可能なのだ。部位のいたるところは空洞で、部位を構成する細胞も嚢状の構成物である。肉体の思想は空虚から始められている。それだからこそ。

 肉体は肉体に語らせよ。このときの肉体とは部位としての肉体である。身体は機構であるが、肉体はぶつ切りの個体であり、想像力を根拠にする個体。そして、生命活動を続ける以上、それぞれの空洞に生か死を選択する意志があるはずなのだ。いや、意識といったほうが明確になるかもしれない。肉体の部位が独立して何かを感じ、思惟し、肉体が肉体の意識をゆらぎ立たせて蠢きはじめる。脚や腕の関節はもとより、内臓や性器、体毛、爪、さらに細胞の一つ一つが自らの意志を、それと気づくこともなく、意志を立ちのぼらせる。
 私は何のことについて述べているのだろうか。おそらくそれは、神秘主義や機械主義的な外圧やガバナンスに支配されないで、すっくと立ち上がる部位の、いわゆる肉体のゆらめく舞踏ということをイメージしているに違いない。
 肉体にまかせよ、ということは可能である。しかし、身体にその本性を任せよということは不可能なのだ。肉体は肉体の意識を律動させるが、身体は肉体を統御しているにすぎないからだ。(微小管)

連載【第006回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: pain speed

 pain speed
 私にとって最も遠いところから、その痛みは伝わってきたのかもしれない。それとも、その距離は、痛み自体がもたらしているのかもしれない。支えるものが稀薄になれば、それだけ速さはいやましてくる。支えるものとその意識が私自身から離れていくときに、痛みの速度は直接的な物質性を私に示してくる。それは、まるで痛みがつねに隣接しているように、私そのものに侵襲してくる。べったりと貼りつき、その接触面から貫通してくるのである。

――わたしはわたしの中の生きものたちのことをつねに意識していて、ともすると、いくつかの別々のかたまりの形でわたしの方に寄り添ってくるのを感じることがあるの。それはまぎれもなく複数の、別々の意識の重なりとでもいえるし、もっと具体的な、透明な膜の向こうに蠢く生命活動の原初の連なりとでもいう実感がするのよ。

 女性の意識の中にある、母性を感じる特有のインスピレーションと関連しているのではなく、ひたすら愛おしくなつかしい匂いを伴いながら、自らを衝き動かさざるをえない、ある種、連動する他人たちの気配、ふるまい。

 でも、あなたの方に向かうときは、あなたのたったひとつの側面を頼りにただつながっているにすぎないのかもしれない。そして、そのようなわたしが、あなたにとってはわたしたちが、無数にその側面を埋めているに違いないのよ。わたしのこの疼きが一定の充足感を伴い、そのようにしてわたしの存在を示すことにつながっているのだわ。
 そうよ、わたしのこの欠落する意識が、あるいは充実する意識が、ときには痛みとなり、ときには痙攣となり、ときには甘い麻薬となって、あなたに浸透していく……。
 神経細胞のつらなりを流れる電気信号と痙攣。その痛みが細胞体の不安なのかもしれない。秒速百メートルに達する速度を持つ、その予期しない叛乱。再生できるのかできないのか。変性による死への予兆が神経線維の端から端まで伝播する。

 私を覚醒させた痙攣が示すものは、こうした肉体の叛乱とでもいいうるものなのかもしれない。それは、まず前駆的にふくらはぎの外側にある筋に硬質の痛みを現し、たとえそのとき眠りにあるとしても、波打つ痙攣の予感を持続させていく。(痛みの速度)

連載【第007回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: breath melts 1

 breath melts 1
――わたしが囚われているのではないことを、あなたは示すことができるのだろうか、それともわたし自身が……。

 わたしを一方的に支配する意図はなくても、支配していることには変わりはないし、もちろんわたしを愛さねばならないという気持ちも、さらにわたしによってあなたが救済されるかもしれないという期待も感じられるわ。でも、それこそあなたの瞞着、傲慢さ、掴みどころのない循環。
 あなたの表層はときとして硬くわたしの内側に訪れる。また、いつのまにかやわらかく弛緩する。この硬直は支配を認めさせること、この溶融は憐れみと後悔――。けれども、わたしの満たされぬ時間の中では、どれがわたしとあなたとのつながりの本当の姿なのかを、わたしもあなたも見出すことはできない。
 わたしはわたしの内側から内側へという二重の外側へくるみだされ、その猥雑に絡んだ襞をたどり、さらにその底にある深い磁場へともぐり込んでいく。二重螺旋への下降、永遠の。そして、ここでまた問題にぶつかってしまう。けれども、それは何かを生み出すための二重性ということなのか、あるいは生み出されるわたし自身への下降ということなのか。いずれにしてもわたしから発している問題に遭遇しているということではなく、あなたが提示した答えに囚われているということになるのだわ。
 わたしはそのようなわたしをどのように抑圧すべきか、そうすることでこれから生み出すすべてを許すことができるかどうか、憎むことができるかどうか、またそのようなわたしがそれにもましてあなたを要請していることも、またあなたがわたしに期待するすべての事柄をわたしも期待していることにゆき当たってしまっている。あなたはわたしの内側をいっそう慈しみ、わたしはあなたへの期待を慈しむ。(つづく)

連載【第008回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: breath melts 2

 breath melts 2
 私は私の軟らかい部位に温かな吐息を感ずることで、ある種の熱狂を思い起こしていた。それは小波のように跡切れることのない繰り返しの感覚である。これまでにどのくらいの回数の訪れの感覚があったか、またこれからどのくらいの数の訪れを知るのだろうか。今、どのくらいの数の訪れを得ているのだろう。
 私はあなたの内側から私のこの感覚によって受け容れられているに違いないが、はたして私が受け容れているということをあなたは知っているのだろうか。
 横たわるあなたを愛撫したとしても、私があなたに重なったとしても、私の表層が壊れてしまうわけではない。私は逃げられないし、そのことを知っているからここにとどまっている。ただ迷っているということなのかもしれない。それでも私はあなたの内部に囚われている。私が望んだもの、欲望したもの、命じられたもの。あなたは崩れようとしている。切なげな表情と喘ぎとで。
 私はあなたに人間的な親愛を覚えているわけではないし、またあなたがそれを望んでいるはずのないことも充分理解しているはずだ。私はあなたをたしかに包摂しているのだから。

――わたしはあなたの表層と接点を持っているだけで、「あなたとつながっているわけではないのよ」わたしは、その理由について、わたしから言いだすことはありえないのだけれど、たしかに強い理由があるのを知っている。わたしもあなたを愛しているはずがないし、これからも愛するはずのないことも、またあなたを憎むこともありえないはずだもの。わたしはわたしを、あなたと区別する必要があるのよ。わたしはあなたに侵略され、屈服させられ、あなたを埋め込まれているからだわ。これは屈辱であるけれど、おそらくあなたにとってもあなたの汚点、あなたの盲信――。あなたが愛しているのはそのことなのかもしれないのよ。(吐息が溶ける)

連載【第009回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: darkness 1

 darkness 1
 それは、ある青みを帯びた灰色の夕刻。その灰色の濃霧の向こうに薄黄色の光芒が垣間見えるが、こちらの側は絶望の濃紺の帳に蔽われているだけだ。さらに時間はくつがえり、かすかな光も忘れ去られていくに違いない。
 私の底部の秘められた闇、稲光がたえず閃くように、抑えきれない衝動的な葛藤がつらぬく暗黒(ダークネス)。そのような憤りの生成が何によるのかを知るものが、いったいどこにいるというのだろう。

 最初から存在する物質を想像することは不可能だ。そんなものはありえようがないからだ〔検証不能性〕。けれども、生命の底部、その発生の向こうにあるものを知ることがないといえるのか。数億年の皮質の蓄積を経て、皮膜の底に沈澱したものは甦ることはないのだろうか。傷ついた中枢神経はすでに恢復は不可能だというのだろうか。あらゆる歴史は殺戮の連鎖に違いないとはいえ、いまだ拭い去ることのできない衝動が忘却という形で記憶されている。思い出すこともなく、忘れ去られることもなく、古い皮質は傷つけられたまま。(つづく)

連載【第010回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: darkness 2

darkness 2
知りえぬということの罪障、根深い疑い、想起するにいたらぬための焦燥。つまり、古いもの、気の遠くなるような底部に、そもそもから用意されているはずの空虚というイメージに起因しているもの。だが、たしかに私自身がその意味するところの真実とその正体を知ることは不可能なのだ。
私が傷つけるはずのもの、私を傷つけるはずのもの、それらは私に対して何をもたらすものなのか、またそれゆえに私をどのように扱おうというのだろう。私はそれらの鋭い侵襲によってほんとうに傷つけられているのか、ほんとうに何ものかを傷つけているのか。
それははたして、私の部位を、それぞれの精神を、無数にある意識自体を、さらにもっと古くからある傷を重ねて、それらは醜い瘢痕となり、それぞれの表層に複雑な皺となって残される。もう、元には戻らない、戻ることはありえないのだ、と。

そのとき私はめくるめく暗い情熱に衝き動かされ、私の外部に牙を、矛先を向けざるをえなくなるのだ。それは、決して内部に振り下ろされる斧ではなく、外に向けられるべき一撃。振り下ろされる打撃。だが、暗く熱を帯びた暴力が突出するのは、その一瞬だけである。その後は冷酷な暴力の残渣が機構として無際限に繰り返されていく。深傷を負うのは私の表層であるが、すでに亀裂、破砕は全体へ及びはじめてしまっている。

――そもそもの原因がおれにあるということはありえないが、かといってその原因がもたらす次の原因からも無関係であることにはならない。そのことはおれ自身もよく分かっているつもりだ。完全な抑圧の環境に置かれることを願っている部分がおまえにはあるに違いないが、なぜそのような願望をおまえが所有する必要があるのかを、おれは許しがたいものとして、自らの深まりの底に沈潜させている。
だが、それにもましておれにとって真に許しがたいのは、そのようなおまえではなく、おまえを通したおまえの向こう、おれを通したおれの向こうそのものの、連綿たるつらなりであるに違いないのだ。
おれはただ単に血を見るのが好きなわけでもなく、肉が裂け、骨が砕け散ることに快楽をおぼえているわけでもない。なぜなら、破壊されるものはおれ自身を含んだ、おれの不幸でもあるのだから。
おれはただたんにおれ自身を壊滅的に追いつめることに自分自身の理由を見出そうとしているだけなのかもしれない。(ダークネス)

連載【第011回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: internal trees 1

 internal trees 1
 灰色の夕暮れの第二景。ふるえる心臓。このとき、つきぬけるような戦慄を、私はたしかに感じていた。
 だが、それは実現不能な範疇にある行為なのである。自らを放棄することで生起する衝動、自らを拒否することによってのみ可能な敵意、自らを犠牲的につらぬくつらなり全体の無化への企み、それはあまりにも無意味な行為の突出であるからだ。それゆえ、すでに行為ではなく、切り離された行為の断片なのである。
 しかし、その衝動の素片こそ、突出する暴力、暴力の突出とでも名づけうるものである。私は彼が、彼の皮膜を破裂させることで、私と私を通した連鎖の階梯すべてを自らの内部に閉じ込め、閉じ込めた内部の樹木として、自らとともに無化させようとするその無意味な意志を感じていたのである。

 宇宙にも皮膜はあるのだろうか。宇宙は何もないところから、つまり何もないところの高エネルギー状態から生成されたに違いない。なぜなら、そこから百三十八億年分の膨張エネルギーを奪ったのだから、それに引き合う分のエネルギーが何もないところの内部に凝縮していたということになる。そして、宇宙誕生のとき、何もないところにはエネルギー状態における境界があったのかどうか。もし皮膜があるとすれば、それはその境界の状態ということになる。そして、膨張しても、その境界が広がるだけで、やはり宇宙は境界の内部にとどまっているのでないか。つまり、永遠に宇宙は皮膜の中にある。皮膜の中にある宇宙モデル。外から見れば、やはり何もないところなのだ。(つづく)

連載【第012回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: internal trees 2

 internal trees 2
 世界は外についても、内についても、何も知ることはできない。世界は時間と空間の幾何学だから、時間の階層にしても同じことである。過去の時間も未来の時間についてもほんとうのことは知ることはできないし、現在についても知っていることなどなにもないのかもしれない。生きているというのに、存在しているというのに、何も知ることのできないこの不条理。物理的宇宙は知性において、私を抑圧するものなのだ。

 そう考えたとき、暴力的な衝動が高まってくるのを私は感じていた。

 だが、世界が円環を結び、宇宙が閉じているかぎり、反世界も反宇宙も、ただ世界と宇宙に包囲されている人形にすぎない。はたしてそうなのか?
 私自身、世界によって抑圧されていることは間違いないし、同時に彼を抑圧していることもまぎれもない事実である。だが、だからといって抑圧を正当化することが可能なのか。あるいは可能だとして、何をもって可能であるといいうるのか。
 おそらくここに過誤の種子がひそんでいるのだろう。また、そのことがあがきを現前させている。二つに引き裂かれる意識、引き裂かれることによって増殖する意識、あがきがいたるところにあふれ返る。〈われわれ〉に自由はあるのか。(つづく)

連載【第013回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: internal trees 3

 internal trees 3
 私は救われることはない。彼もまた救われることはありえない。だが、何から救われるというのか、何が救うというのか。
 あるいは、私は彼を救うことが可能かもしれない――私を救うということを犠牲にして。いいかえれば、彼を犠牲にすることで私が救われるということになるのだろうか。また、彼が自らを救うことが可能だとして、それはそのようなことと同一のことなのかどうか。
 けれども、自己救済は自らの内部によってすべてを包囲することで可能となるはずなので、この場合、そのようなことはまた別の問題であるのかもしれない。
 だが、この救いがたさはどこからやってくるのか。そのことも大きな問題であるといえる。私と彼は、すでに分ちがたく、その問題とも結びついているからだ。

 すでに記されている、すでに記されているのに。

――おれがおまえとの関係の形を変えること、また関係そのものをも消滅させることができないと断定するべきではない。おれが囚われているというのは、おまえの側からの見方で、おれはおまえとは完全に無関係であるともいいうる。また、視点を変えれば、おまえがおれに属しているのだともいえるということは〈すでに記されている〉のだから。
 許せないもの、許さないもの、また許すということ、許さざるをえないこと、したがって許しを乞うことにあるのではなく、おれに許しを乞わせるものの存在とその強制が、あらゆる暴力的形態を剥奪していく。威嚇の形をとらない恫喝。
 おれのこの暴力の突出とは何か。あるいは暴力への期待とは何か。それは理性的であるか、非理性的であるかにかかわらず、普遍的な暴力、裸の暴力とでもいいうるものだ。もちろん抑圧する側の暴力もそこには含まれるし、抵抗する側の暴力もそこには含まれる。磁力が臨界に達したときも、また磁場を失うときも――暴力の突出は期待される。

 彼は、私がすでに失いかけている暴力の意志を呼びさまし、私の抱いている暴力への期待を費消させようと企んでいるに違いない。私もまた彼と同じ場所で踏み迷っているのであるから。(内部の樹木)

連載【第014回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: flat living 1

 flat living 1
 地表すれすれで棲息しているのは私ばかりではない。蛇のように低い吐息を這わせているおまえたち、闇の匂いを蓄積させた路地の、地べたの種族――。

 おまえたちは蹲っているような沈潜の仕方で、地面に沿って平たくのびきってしまっている。実際、おまえたちはすべての存在と同様に個々の曲率に支配されて、それゆえに永遠の平面にまでのびきっているはずなのだ。
 むっくりと体を起こしているのは、やはり影の部分。その影の奥のつらなりの影の内部というものにその根はあるのだろう。根があるというよりも、その存在は裏返された形のままの空虚であるに違いない。影の中の影の部分も体をもたげ始めた。影のつらなりのすべてが、永遠の鏡像のすべてのつらなりが、同じ傾きをもったまま、ゆらゆらと体をもたげ始めている。

 私はおまえたちにとらえどころのない類縁性を感じている。それは、おまえたちのいずれかの特質に、かつて私の何かが関わっていたことがあるということなのだ。私は、すでに私ではない別の私の系譜を思い描いているのかもしれない。それとも、いまだその呪縛と密接に関わっているとでもいうのか。
 私は自分の生まれた場所を知らない。そのことと関係があるのかもしれない。地面への思い入れ、裸足で土に触れることのやすらぎ。根を下ろし、体を支える根拠がほしいのだ。そして、地べたにはたしかに母の匂いと父の匂いが相まって情緒的な風がそよいでいる。ただ、それだけだ。しかし、私は連鎖だということを思い知らされる。連鎖への懐かしさが甦るとはいったいどういうことだ。それはゲノムに対する降伏の白旗なのか。懐かしさは弱さなのか、それとも諦めなのか。ひとりでいることの寂しさ、地面に抱かれることの救いがたさ。なんという裏切り。(つづく)

連載【第015回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: flat living 2


 flat living 2
 おまえたちは私を呪縛する。しかし、私はその呪縛が私に属しているのか、私を属しているものに関係しているのかを知る術がない。懐かしい匂い、体の奥が引きずられるようないとおしさ、脂にまみれた感触、体をくるむ体毛の記憶、何も考えることのない安逸さ、身をゆだねることの持続――。
 おまえたちは答えない。答えることを退けているのではなく、答える必要のない持続があるばかりだ。私はただおまえたちを通して、呼びさまされる何かを感じている。それが何であるかは別にして。それはそれぞれの内部に根強くあるものではなく、表層のありように起源するものなのかもしれない。なぜなら、つらなる無限の鎖はそれぞれの磁場を形成し、それらの磁力によって影響しあっているはずだからだ。

――腐りかけた足をこうして引きずりながら地を浚い、あるいは地べたを爬虫類のように滑り回るおれたちの姿を、おまえは自分自身の影であるかのように思い違いしているのかもしれない。それはおまえ自身がおまえを見失っているか、忘却しているか、あるいは実はおれたちのことを遠い昔から知りえていたという錯誤に起因しているに違いない。おれたちは起き上がるもののすべての起源に関与している、無窮の平面に沿うものの来るべき未来に関与している。それは汚れた暗い血と得体の知れないものどもの婚礼と交合と裏切りに充ちているからだ。
 権力が婚礼を支配する――、このことを肝に銘じておくべきだ。誕生も、血の相続も、おまえを支配するものへの従属の聖痕を与えられているのだから。呪うべきはこの連綿たる影、影をつなぐ連環、永遠の過去、永遠の未来、永遠の現在を貫くもの。(つづく)

連載【第016回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: flat living 3

 flat living 3
 支配するものを受け入れることは許されない。屈服することは許されない。私はそのことを忘れているわけではない。権力は何にもまして狡猾なのだ。私を招き入れて抱き寄せる。そして骨抜きにして暗い夜に放り出す。重い鎖を首に巻きつけ、足枷さえも括りつけて。さらには、血のつながりをつくることであまたの奴隷を生み出すのだ。
 しかし、おまえたちは闇にありながら立ち上がるものだ。そして、おまえたちの住む地べたは土と岩だけでできているのだから。

 私は、おまえたちがなぜ、知ること、つまりすでにあることの認知とは無縁なのかを考えざるをえない。おまえたちは二次元を颯爽と滑降し、その視線の先には地べたに記されたありうべくもない系統樹がある。おまえたちこそ、すでにあったものではなく、ありえぬものの具体化に関与しているのかもしれない。所与の知の発見ではなく、〈与件による発見としての知〉のそもそもの出自を疑い、それらを自らの創出によって覆すための。

 だが、それでも、私は繰り返さざるをえない。生命の連鎖、DNAの継承の前に。――滋養とさせられる存在、啖われるもの、ただの肥やしだ、亡霊になってさえも!(平面生活)

連載【第017回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: blood wedding 1

 blood wedding 1
 地面を引きずって徘徊するその意識は、決して地面に引きずられてはいないのだと叫ぶ。だが、天井からは継母の祝福されざる黒い血が滴り、屋根裏部屋の床一面には重力の破産を示す熔解した天体の落下の痕跡が見られる。痕跡は鉱物の形をとるのか、植物の姿となるのか、あるいは生々しい肉そのもの……。すでにこの世を後にした意識は、物質と物質との関係は、意識と物質、意識と意識の関係でもあるのだと言い残していた。その意識が向かったのは、向こうから押し寄せてくるものがとうてい看過することのできない反撥と激突とでもいうべき鋭い亀裂。

 意識Bは逃れること、逸脱することはできない。だが、本当にそうなのか? もちろん、BはB自身をつなぎとめておく。そうすると、BはB自身にとって誰なのか? BはB自身を押し潰そうとしている範囲に囚われているだけで、その一部、あるいは付属しているものではない。たしかにBは奴隷のような存在であることを強いられてはいるが、敵意を失っているわけではない。Bは堪えているに過ぎないのである。――何に?
 私はここで素朴な疑問に直面する。いったい誰が、その薄い皮膜がどちらに属しているのかを知っているのかと――。(つづく)

連載【第018回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: blood wedding 2

 blood wedding 2
――まさに〈私〉が息を終えようとしているその刹那に、〈私〉を唆して飛び立たせようとするものがいるのだ。〈私〉は羽撃くものではないし、翼、鰭、跳躍に適う強い脚をもつものでもない。天使のように無残な光輪も、醜く硬直した幼児的な微笑も持たない。ただ、たしかに深い憎悪と鋭い敵意を抱きながら囚われつづけている、まさにその接触面にいるのである。〈私〉を解放しようするものが現れたとしても、〈私〉はその欺瞞と悪意を見破り、何ものに対しても完全な侮蔑と敵意を失うことはないだろう。〈私〉はあなたに対してさえも、またこうした自分自身の重複せざるをえない意識の連鎖に対してさえも、〈私〉を囚えているものに対する反抗と同質の〈反抗への意志〉を欠かすことはないだろう。

 意識Bは遠い宇宙の起源、物質の起源の記憶を持っているのだろうか。完全なる反撥とは対称性と関連している。粒子と反粒子は、どちらがどちらを生成させたのか、あるいはどちらが起源なのか。そこには電磁力というよりも重力の秘密があるようだ。空の状態から物質と反物質が生まれるということは、空の場からさらに二つの対称性を持つ場が生まれたということにならないか。空は消滅するが、重力はそれをこの二つの対称性に分かつと同時にその根元であるから、そもそも二つは重力によって惹きつけあうのだ。そして、いずれ、遠い距離と時間を経て元に回帰することが予測される。
 意識Bは孤立した反抗者だが、生成したのか分裂したのか、内包なのか外延なのか、いずれにしてもそこには徹底した反抗する分身が存在するようだ。

 意識Bの分身であるB´は、Bと同時に、異なった磁場でモノローグをつづける。つまり、Bのことばの底にB´のことばは含まれ、B´もまた匿されていたのである。そのB´はすでに失われた者たちの列の向こう側にあり、暗い眼窩の奥にある空虚は蒼く銹び落ちようとすることばの(ほむら)に閉ざされている。B´にまつわる記憶といえば、ことばの持つ磁力と重力の激突を想起させるハレーションというべきかもしれない。ただ、ときおり、血腥いものが曲面と曲面のつなぎ目、曲率の移動するあたりに沁み出していた。それはB´が重力を認識しはじめてから、B´の内部へと沁み込む重力の形象。B´の内部はBの失われた領域、非在という部分。(血の婚礼)

連載【第019回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: all gravity 1

 all gravity 1
 皮膜などはたしてあるのか。BはB´に対して方向性を持っていると仮定すべきだ。なぜならBとB´には互いに異なった磁力が存在しているからだ。BとB´の引力と斥力の混沌は極大に達しているかもしれない。そうだとすると、それは何に起因しているのか。
 異なった磁場を持つということは、皮膜の内部がキュリー点に達し、そのことによって、それぞれの磁力が崩壊してしまうということなのかもしれない。いずれにしても、方向性などまるであてにならない。

――意識Bよ、〈私〉の内部にはおまえなどいたためしはないのだ。〈私〉はおまえとは無関係な領域におまえという非在を内包しているのだ。しかし、それは二つの意味で、おまえは〈私〉を絶対的なものとして捉えてしまっているということになる。つまり、〈私〉がおまえと無関係だという点においておまえは〈私〉に関係を強制しているということ、また非在を内包していると〈私〉にいわしめることで〈私〉の非在を明かしてしまっているということ。そのような混乱が増大すれば、元には戻らない。〈私〉はもはやおまえを認識さえしていないのかもしれない。相手のいない譫妄に陥っている〈私〉は、磁力に従っているというよりも、意識Bそのものに遷移しているといえるのだろう。意識B´を喪失したおまえそのもの、意識Bとして。(つづく)

連載【第020回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: all gravity 2

 all gravity 2
 皮膜は確かにあるのだ。BにおいてB´は隔てられたものだ。重力と磁力が溶融しているような状態ではすべてが見えなくなってしまうように、皮膜のあちらとこちらの磁場がそれぞれに高温にさらされているのかもしれない。その安定しない状態にあることで、あらゆる事象との結合が容易になっているのだ――あるいは散乱現象。Bにとっては皮膜が熱によって混濁すればするほど、内部に押し込められることからいっそう離れた場所にいることになるのだから。
 斥力は引きつけあう力をその出自にしているはずだが、その根元であるすべてが平坦(フラット)な場所、つまり力のすべてが内側に押し込められている状態を原因にして弾けてしまっているということになるのだが、それはじつは跳ね返る重力というものを、そして重力はどこに行きつくのかということを暗示させざるをえない。
 だが、問題はBやB´も純粋分離しているのではなく、意識(、、)意識(、、)であるということだ。いや、そうではなく、「その(、、)意識」であるということなのだ。
 意識はそれ自身で存在できないのだから、そのことからどのように脱け出ることができるというのだろうか。そのようなしだいであるから、意識Bと意識B´は連続的に抑圧されているに違いない。――何に?

 けれども、熱を帯びて全方向を失い飛び散っていく意識Bと意識B´は互いの空間的距離、あるいは同様にすべての記号と記号´との間の距離を広げていく。
()()()()()()()。そのことは、()()()()()()()時間的距離も広がっていくということだ。時間も空間も個別だから、力というつながりを残したまま新たな皮膜に囚われているということになるのかもしれない。もちろん、低温状態のそれぞれは独自性を獲得し、つながりを見ることはできない。なぜなら、ものとものとの間はすっかり晴れ上がっているからだ!
 そして、限界まで離れてしまうと、新たな問題が発生する。すべての力が重力にすりかわっているのだ。それは、ふたたび死と強制の道を意味するのだろうか。引きつけあうこと、結合していくこと、宇宙の全重力がすべて重なっていくこと!

 私は私の意識が多重性をもち、複数の重なりであることを否定するつもりはない。私自身を含めて私の意識たちが囚われているに違いないことはうすうす感づいている。本当のところ、私たち意識の問題は、私をとらえている私たちの直接的な皮膜にすべて起因しているのだと。私の意識がいくら重力についての議論をしていても、意識におけるすべての問題はこの直接的な身体機構にあることを。(全重力)

連載【第021回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: missing acts 1

 missing acts 1
 必要なのは破裂することばなのだ。地核での眠りから地表に上り、地面を伝って中足骨からいくつもの関節を跳び越え、脊椎から頚椎、頭骨へ、さらに骨格にまとわりつくあまたの血管を辿り、太い大動脈を引き裂いて、脳漿を膨れ上がらせ、ついにすべてを粉々にして、破裂すること。寝静まって、だれにも見つけられない真夜中のいたるところで、一瞬の、激しいひきつりが発現する。それらを起点にしていくつもの痙攣が波動となって打ち続き、その長い長い苦痛こそがことばのprimary tumor。粉砕された輝く無数の細胞の切片を巻き込み、熱く滾る血液、脳みそ、肉片の飛び散る渦、気化する状態のタイフーン。なによりも切実な痛みの群体!

 こう書くこと自体、破裂するのだ。そうだ、もう私を好きにさせてくれ。筆順も字画も忘却し、書字という行為自体を喪失するために。それは省略とか錯誤のためではなく、ことばを獲得するための欠落行為となって。私自身が欠落しながら、それを取り戻せないで、取り戻す必要もなく、ひたすら失い、失われてしまいたい。だから、私を好きなようにさせてくれ。すでに文字として記述されていたとしても、それらは不連続の欠落なのだから! 欠落したそれぞれの関節の部位は回転しようとするのではなく、軟骨との接触を断ち切ろうとして、痙攣を始める。

――わたしにも、思いあたることがあるわ。
 わたしの義父にあたる老人が植物状態に陥る寸前。頭部の皮膚の表面と血管と神経は部位ごとに独自の塊をなそうと、白く、赤く、青く、土色に、まだらに、ぶつぶつと、それぞれの部位を幾度となく不規則に膨らませては縮める。一晩中、顔面を痙攣させ、こめかみの静脈が通常の十倍には膨らんでは縮み、顔面の神経が異物のように激しくひきつりつづけ、唇や顎がとめどもなく意味のない運動をし、眼球はあてどなくぐるぐる旋回する。一晩中、まさしく一晩中、脳内で異物がひっきりなしに暴れ回るように、人間の顔のあらゆる奇怪な動きの可能性をすべて現してから、彼はただ一度だけ、意識を取り戻したわ。そしてその直後、まる一年間の最期の眠りについたのよ。それは、あまりに静かな、起伏のない、それでいてまさしく肉体そのものである意識の形骸。いいえ、意識そのものの。直接的な感情のない身体構造! 最期の覚醒の一瞬にふたつの眼球がうつろな球体の奥を透かして、ぎろりとわたしに視線を凝らして。
 いいえ、それは違うのかもしれない。たんに無知の、切り離された意識なのかもしれない。どことも結びつかない、切り離された、分離された部分。でも、それは部分というべきではなく、分離され、別個のものとして、独立した全体というべきかもしれない。別の全体ともいえるそれは、何かを知ることができたのかしら。つまるところ全体でしかありえないそれは、そのことによって、たんなる空っぽなのかもしれないのに。(つづく)

連載【第022回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: missing acts 2

 missing acts 2
 その部分は遊離しているのではなく、無知であるために包括的に独立しているのかもしれない。それは知的な認識という回路を必要とせずに、たんに気づかないでいるというだけ。気づかないふりをしているということとは違うのだが。あるいは純然として気づかないということ。だから、君が誰で、そのときどこにいたのかと問うたところで、その質問ははぐらかされ、ただ吸引されて、反問されることはない。無視されているのではなく、空っぽの向こうに吸収されつづけていくのである。
 だが、気づいていないことと知らないこととは根本的に違うのと同じように、気づくことと知ることは永遠に結びつかない。自分が自分の内部にある空っぽ、あるいは内部にないはずの空っぽに気づくことは不可能だが、自分が空っぽの部分を持つことは知りうるし、まさしく空っぽ以外の何ものでもないことを知りうることも可能なのである。

 この関節の、いたるところにあるリウマチ性の結節は悪性腫瘍ではない。それでも、まるで甲羅をまとって身を守るように、いたるところで発現している。それは無知という空洞を守る意識と同じだ。だから、その部位は叫ぶことが可能なのである。あるいは叫ぼうとすることが可能なのである。けれども、もちろん、その方法もことばも知ることはない。神経反応という苦痛、苦痛という意識の非在、その悲鳴だけが!(欠落行為)

連載【第023回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: narrative of revenant 1

 narrative of revenant 1
 その形象が訪れたのはそのときだった。音もなく開く扉。爛々と光る眼球の気配。薄汚れた長い布を肩からすっぽりまとった何ものかが暗い空間に漂っている。

 おれの末裔、おれの分身、一族の者よ、幽霊は語った。いや、語ったわけではない。そのようなことばの渦を闇の中に注ぎ込んだのだ。

――生を享けて以来、おれは悪逆の念としてこの世界を呪い続けていた。おれは特別な悪人だ。だが、どうしようもなく純粋な血を持った者だともいえる。おまえたちの母親はみな自ら進んで、このおれに抱かれたのだから。

 そのことばを呑み込むことは困難だが、なにかしらぼんやりと寛いでいて、なつかしい匂いを嗅いでいるような気がする。しかし、幽霊は物質として存在していた。夢魔や妄想の類とは思われなかった。手を伸ばせば確かに触れることのできる、ものそのものの性質にあふれていた。長い髪の毛や顎を蔽った髭、全身を包んでいる布が、窓から侵入する夜風に煽られ揺れている。けれども、その質感、その波打つ動きは金属的な硬直性を持ち、機械的な顫動を思わせた。だからなおのこと、幽霊の表情や仕種はこの世のものとは思われぬ脆弱な印象を与えていた。自働人形のぜんまいが跡切れようとして、最後の瘧にうちふるえる瞬間のごとく――。
 その繊細さは、いつでも存在を何か別のものに転換できる性質の現われでもあった。肉体そのものよりも、それ以外の部分に濃厚に感じられる存在感――。表情や仕種の妖異さ、独特の雰囲気は、おそらくそのような部分から発しているのだろう。見つめつづけると、あまりに酷薄な冷気が伝わってくる。それはまさしく空間の虚無だった。身も心も凍結させる空虚であった。

――おれが何ものなのか、おれの本体が何であるか、おまえは見なければならない。おれはありきたりの蒙昧な亡霊どもとは異なるのだ。いいか、よく見ろ。おれの衣の下を見ろ。

 闇に鎖されている部屋の中で、幽霊を中心に、夜より暗い、真っ黒な渦が巻いている。いたるところで微細なまでに振動する空気の、そのすべての粒子が、全身の肉襞に鋭利な歯牙となって喰い込み、噛みついてくる。幽霊は振り払うような素早さで薄汚れた布を放ち、その大きな布は嵐の海面を漂うように宙を舞った。布の向こうに捉ええたのは、凄絶な青味さえ帯びた、どこまでも貫いて透き通る空間だった。何ものもない荒涼とした空虚、無そのものの上に、首だけが浮かんでいた。そして、空洞に固着した首が奇怪な表情のまま硬ばって、こちらを睨めつけている。(つづく)

連載【第024回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: narrative of revenant 2

 narrative of revenant 2
 どれほどの長い時間が経過していたのだろう。ほんとうはわずか寸秒のことだったのかもしれない。浮游する顔は初めから色彩を失っていたが、首だけになると、褪色した薄い皮膚はみるみる涸び、ついにはかさかさになって剥落していくのである。鼻梁や耳朶もその形を崩し、軟骨がこぼれ落ちる砂のようにさらさら音をたてて空中に四散していく。ただひとつその姿をとどめているのは、剥き出しになった裸の眼球である。網目状の毛細血管に絡みつかれ、燠火や鬼火を思わせる血の塊となって膨んでは萎む眼球が、闇の中で妖しく炯っていた。

 なんというおぞましい事態。死そのものの無機性である頭蓋骨の中央で、不吉な生を暗示する怪異な二つの眼球の蠢き。それは、睡眠時の瞼の下で活溌に跳ね廻る眼球運動の、見ることへの異様な執着!
 髑髏は空中の一箇所にとどまることをせず、後方に退いてはまた目前にまで迫り、まるで球面を無軌道に滑りつづけるようにしてこちらを威圧し、執拗に、見ろ、よく見るのだ、と繰り返している。そのうちに、骨の廻転体に象嵌されている眼球の、青灰色の中心近傍も、どんより濁った暗灰色に変じ、血脈によって隈取られていた暗褐色の外縁部も、涸いた黒い色へと色調を落としていった。それからしだいに眼窩の闇へと沈んでゆき、そのあたりは落ち窪んだ翳りだけがつづく深い洞窟を思わせた。

 形骸と化した髑髏はなおも飛び廻り、幾度となく目の前に迫ってきては、純白に光る歯ばかり並ぶ口蓋を噛み合わせ、まるで喉笛に喰らいつこうとでもしているように見える。闇に浮かぶ白い髑髏、それは己れの躯を捜し求めているかのようだった。(つづく)

連載【第025回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: narrative of revenant 3

 narrative of revenant 3
――おれは頭蓋骨だけで生き永らえているのだ。おれの輪廻転生はこの頭蓋骨に凝結し、おれの呪いも、おれの残虐無比も、ここにきわまっているのだ。

 髑髏は宙宇の一点に静止して、闇の根源である暗黒点のように、そこだけ無限の深い暗がりをつくり、暗箱の中にしかありえない絶対黒色の描線で、頭蓋骨の全ての稜線を描き出していた。

――わが裔よ。数億年を古りたわが血の(うから)よ。おれたちは頭蓋骨だけで生きている。おれたちの永劫の魂はこの骨の中に封じられて、決してどこにも去ることはないのだ。おれたちの肉が滅びようと、おれたちは地を充たす地の塩となって、死ぬことはない。時がおれたちの味方だ。世界の滅びも、おれたちには無縁だ。
 おれたちは純粋に本来的であって、冒されるべきものではない。なぜなら、わが眷属は人類の唯一の始源だからだ。おれたちにはすべてが許される。わが眷属は神なるものさえ凌駕する(うから)だからだ。

 数億年を経た黴臭い澱んだ空気が体内を侵してくる。なつかしい死者たちの塩が、脊索動物ゲノムの歴史が、部屋に、体内に充ちている。名づけうべくもない戦慄、その兆し。
 闇の本体と化した髑髏は、全ての暗黒を呼び寄せる動きを終熄させたように見えた。そして、その暗黒自体がまるで光の性質をもつもののように、漆黒の闇を黒々と燦かせた。
 次の瞬間、髑髏は周りの何もかをも根底から破壊するような凄じい速度で部屋の中を疾った。その行手には光を遮るカーテンと窓がある。遮断するあらゆるものが吹き飛び、大きな爆発音とともに粉々になるさまが予感された。そして、粉砕時の轟音が耳に達したかのような錯覚に囚われる。

 しかし、髑髏は窓に衝突すると同時に、まるで吸い取られるような具合に、音をたてることもなく、忽然と姿を消したのだった。(幽鬼についてのナラティブ)

連載【第026回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: fluctuating fabric 1

 fluctuating fabric 1
 それは、空虚という実体を内包したものなのかしら? 意識が物質過程に関与するということは、そのような見方が必要なのではないか、そしてそれはすでにそれ自体がエネルギーでなければならないとも考えられるわ。

「だとすると、ぼくが必要なのかもしれない」
「ぼくって? どこにぼくっていうきみがいるの?」
「ぼくはいないのだから、だれにも見ることはできないし、ぼくの居場所をいい当てることもできない」
「そんなことはないわ。声のするところにいるに決まっている」
「声は音波だけど、形ではないんだよ。だいたい、ぼくは生まれてもいないんだ」

 たしかに、声のするところに何ものもありえないし、声のない方向にすべてが囚われているとも思える。だってわたしは囚われているのよ! 何もない周りから。

 そのとき、何かが届くか届かないかの、判定さえつかない境界のあたりで、妙な光の塊が形を変化させながら発光していた。

「ぼくだよ、ぼくがやっているんだ。声だけだと定まるものも定まらないからね」(つづく)

連載【第027回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: fluctuating fabric 2

 fluctuating fabric 2
 嬰児というのが妥当かどうかはわからないけれど、声の主が操っていた塊は形の定まらない筆記具とでもいったもので、始まりは回転体であるけれど、振り子のように円錐状に振り続けると、中心部からさまざまの色光が長い線分となって発するというものだった。そして、その糸状の光つまり網の目は時間と空間と重力のそれぞれの発生点らしく、それらの交点からさらにけばだったゼンマイのようなヒモ空間をゆらゆらとのばしていくように見えた。
 声の主が言っているのは、それらが帯のように結びつくことによって何かの定まりを作り、何らかの疎通をなすということなのかもしれない。

「ぼくが色の原因であるということはありえない。光に色がつくのは物質を通過するからで、全光が阻害されているからなんだよ。ぼくは光の始まりであるから、色も物質も含んでいる、すべてを含んでいるから何もない」
 たしかに全包含は空虚そのものであり、それは全実体なのである。

 その発生源が筆記具であるというのは、その中心から流れ出している色線が時間の凹凸によってさらに色の違いをもたらし、奥行きのグラデーションに見せているからかもしれない。
 しかし、筆記というのは記録と表現に関わる手段だ。つまり、発生の過程を示すものであり、発生の行為自体なのだ。筆記具は記録と表現行為に結びつき、その立体的な操作は発生と創造の座標を定義するものであり、位相転移の秘密を示す祭祀に結びついているのかもしれない。(ゆらぐ織物)

連載【第028回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: grillo 1

 grillo 1
 嬰児はすでに幼児となって、ひとつの形を表しているのかもしれない。そのグリロという名の器具は光の線分をまとめて冠状波紋を撥ね上げ、その尖端を結びつける糊のように粘着的な接合を不規則に続けていく。それらの接合箇所はとげとげしい光を帯び、ギザギザの閃輝暗点のカーブをつくり、幼児をその奥に囲い込んでいる。光はグリロの筆先になっているのだ。幼児は井戸の中の意識の鏡体とでもいいえよう。閃輝暗点を生み出した脳内中枢の血管の瞬間的な収縮が、血流を一時的に変化させる。そのときに意識の鏡体となり、絶対反射の球面となるのだ。

――そのとき、わたしは球体の表面に吸い込まれ、そのことによって鏡体自体と同化するのかもしれない。わたしの性は時間とともに失われていくのだわ。わたしは溶けゆく過程で、グリロとは少年の名であるのか、鏡体に違いない少年の形をいうものなのかと、自問を繰り返している。

 ところで、意識は実体を持つことは不可能なのか。意識が幻想に過ぎないものなら、物質には作用しないはずだ。物質それ自体に絶望という概念が生ずることはありえないが、意識が絶望したときそれによって自殺するのは意識ではなく、その吐息に触れたあまりにはかない物質なのである。物質の死があって、それから意識の死が訪れる。
 物質と意識にはそもそも相互作用などあるのだろうか。それともそれは相互作用というようなものではなく、ただ互いに語り合うことが不可能なものにすぎないものなのだろうか。(つづく)

連載【第029回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: grillo 2

 grillo 2
 ここでは意識は物質であるのか、そうでないのかを考えているのだが、物質であることと物質でないことにどのような境界をもたせられるのだろう。境界がないか、あまりに詳細化されて境界というには困難な状態であるならば、それは物質とはいえない力学、つまり量子的な光子間におけるある種の重力場といえるのかもしれない。境界自体が空間状態であるとか、境界自体が重力状態であるというような問題である。
 このような物理は混乱と多義性に満ちた概念が自己完結する範囲を示すのかもしれないが、範囲そのものが発火するという、実に気味の悪い事象を示す鏡像として、脳内に立ち上がってくる。サイズを持たない物理現象として、意識は存在の単一現象ではなく、群体として存在するのだ。
 行為が先行するのはこの群体としての意識においてであり、意識と意志は乖離しているに違いない。
 群体は身体機構全体と関与し、身体のクオリア化を構成する。このとき、量子効果を生み出す微小器官が、ナノレベルでも可能となるのかもしれない。

 機能的には、クオリアはナノレベルの収束器官でも可能なのかもしれない。しかしそれは収束器官の持つ限界サイズと確率自体の持つ収束の微小化傾向との相反性の限界によって、擬似的な収束器官、擬似的なクオリア質感にとどまるだろう。
 器官自体は確率判定の確定性と単純化によって、その方向は階層化をたどり上位方向に向かうだろうし、反対に確率の微小化は単数存在の内部につらなるさらなる単独存在に分裂することは必至だ。そして、さらに単数存在の内部構造となる単数存在が群体として肥大化する場合も、いっそう階層上位へと向かうだろう。
 この分裂は上位構造を消失させ、上位概念を外部概念へと転換し、階層下位はいっそう内部へ向かっていく。つまり、擬似微小器官は自己矛盾し、崩壊する。クオリアとは内部が極小を求めていく世界把握のことなのだ。
 しかし、これらは意識の問題でありながら、力というエネルギーの問題である。たしかに物質そのものなのであるが、その物質が相反性という斥力の海に漂い、力の偏移がその特別な力学から脱しえない確率をとった場合、物質として収束することが不可能な事態がなにを意味するのかを想定してみるがいい。つまり、量子論と次元の宇宙論の並行結合とでもいえそうなイメージのことである。

 意識は空虚というイメージに囚われている、あるいは空虚というエネルギーの実体を包含したものとでもいいうるのかもしれない。いずれにしても、意識はそれ自体ではあまりに抽象的で、実在といわれるサイズの範囲から逸脱しているように見えるのだが。(グリロ)

連載【第030回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: light cage

 light cage
 それにしても、クオリアは身体の全体的な認識領域なのだろうか。それも、単一の。それこそ、質の異なった、サイズの違った、別の領域を複数個持つと考えられないだろうか。そして、それぞれの世界の関係は矛盾に充ちたものであると。
 そもそも意識が単体と群体で構成されているなら、クオリアはそれぞれの認識の範囲で世界を形成している。つまり、境界構造を持っていて、これがクオリア間、あるいはクオリアの内部と外部の枠組みとなり、細胞膜のようにクオリア自体の矛盾を変成するのかもしれない。

「ぼくが囚われている光の檻は、ぼ、ぼくのつくり出した触手のようなもの、のだ。」
「わたしは、しは、この関係を成長させるために、わたしの、の性を溶かしているのよ。」
「お、れ、が、ぼ、く、たちが多重化すれば分岐する性が発生するのだが、それ、れらを封じて性をどろどろ、どろに溶かして、発生というものをトランスしてしまう、うのだ、しまいたい、たいの。」
「わた、した、ち、変形や変質はそれぞれのクオリアを、さら、さらに多重化する、る。」
「 、 、 、グリロは無の中に、なかに、その道筋を開示するのさ、のよ。」
 そうなのだ。彼らのことばは宇宙卵についての示唆なのだわ。
 何かが混濁しているにしても、宇宙卵は分裂する意識、増殖するクオリアを拝胎している。少年たちはいまだ殻の中にある形のないもの。殻の中にいない形のあるものなのよ。
 そうだとすると、わたしは殻にへばりつく平面意識、同化などすることのない、影さえも失われた孤立した性!
 この平面は鏡体の表面なのだ。それとも、意識とクオリアの境界構造なのか。

 意識は他の意識と激突することで、イメージの牢獄から逃れることができるのではないか。つまり、エネルギーが生成されるということ、発火することによって光を発するということ。

 たしかに、感覚と情緒に深入りすればそれはつねに危殆の淵を辿ることになるだろう。そして、そのことでいっそう裏切られつづける。しかし、私はそのことばを、従属する意識あるいは抵抗する意識として使っているのかもしれないし、あるいは反意識という意味で使っているのかもしれない。ただ、だからといってはたして意識ということばを定義して用いているのかいないのか。
 物質であることと物質でないことにどのような境界があるというのか。(光の檻)

自由とは何か, 2004.8, oil, canvas, F100(1303×1620mm)

連載【第031回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: fascism without the summit

 fascism without the summit
 つまり、システムレベルではこの内部にある限り自己なのである。所有を知らない単純集団は細胞の組織構成と同一の結合関係を持つといえる。所有は共有であって、私有の概念はない。いや、所有の概念がないともいいうる。集団的。あるいは階層的。または幻想的統合システム。

 生物がたった一個の独立存在だとすると、あらゆる生物はこの統合的一個の全体性の生命活動だとして、だれも見たことのない、だれも見ることのできない、不可能性だということになる。
 絶対的な唯一生命体でしかないならば、世界はミイラのように固定化して、死滅しているだろう。いや、そのような超古代の生命はすでに生命の全機能を失ってしまっているだろう。

 人間的システムが発生論的であるから、発生原因が多元的であっても、結局、一元化され[反宇宙的存在]に過ぎず、増殖、成長、発展しても、その根源性から逃れえない。
 人間的システムであるかぎり[生物的存在=細胞存在]、つまり生物的自然から逸脱できない。

 物質的な存在の内部のような実体。まるで概念的、抽象的、幻影的なあいまいさ。その先にあるのは不可能性と、稀薄な未来、ものとものとの結びつきからさらに離れていって、涸れてしまう種子。(頂上のないファシズム)

連載【第032回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: bourbon cask

 bourbon cask
――わたしは何について考えたらいいのかしら。何かを愛しているという錯覚、それとも憎しみについての物語?  つまり、肉体の猥雑さをいとおしむべきなのか、身体機構のヒエラルキーに反抗すべきなのかしら。それとも、わたしはわたしから見ることのできないからだの外側の世界、からだがいくつも重なっている世界を愛しているのかしら、許せないでいるのかしら。無限に重なりつづける宇宙のからだ、わたしの性器が受け入れられないもの。

 強いアルコールを口にするときの癖で、彼女は断定的な調子でいくつもの結論を並び立てる。そして、私をばかにしたように(なじ)るのである。このときは、乱暴ではあるが pousse du bambou(筍)のアヒージョ(オイル煮)をウイスキー片手に食していた。

――では、意識下の無意識は幻想の身体機構の影の世界ということになるわね。幻想の裏側ということは実体といえるかもしれない。身体機構は統制管理構造だから、それとは異質の「場」であると考えると、それは肉体の最小単位である全細胞からそれぞれ発生する意識のゆらめきということにならないかしら。いえ、無意識のゆらめきと。問題は統制システムのファシズムを明らかにすることにあるのではなく、このゆらめきを愛することにあるのよ。あなたはそれをどう考えているの? 存在の問題は何を愛するかに尽きるのよ。でなければ、ただのひとりよがりというものよ。

 酔いつぶれた彼女には申し訳ないが、私はひとりよがりでけっこうなのだ。出口のない蛸壺に入っているにすぎない。それでもけっこうなのだ。恐ろしいことに、私は宇宙的現実は無いという悟りを手に入れようとしているのかもしれない。あらゆるものは、ただの見方でしかないというのはそのことなのだ。それも、それぞれ(・・・・)という、仮定の(・・・)質点からの。(バーボン樽)

連載【第033回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: spinning sea 1

 spinning sea 1
 わたしがその兆候に気づいたのは、東南アジアの古い都市の旅から帰り着いてすぐのことだった。眠りから目覚めると、後頭部に何かしらの違和感を感じたのだ。簡単な打撲だと思ったのだけれど、嫌な気がしたのも確かだった。内部に向かった棘、触るとぐにゃりとしていて。
――わたしが肉体のゆらめきなのか、意識のゆらめきなのか。そのどちらでもいいし、そのどちらでもないのかもしれないわ。
 棘ということばから、わたしはとある大腸ガンの顕微鏡映像を思い描くのだが、頭部の細胞はなおもわたしを深く攻撃する。

 あなたからの国際電話の数日後にクリニックに行き、何軒かの病院を回り、大学病院の脳外科で腫瘍があることが判明した。
――たしかに細胞は、細胞膜という皮膜とその内側の物質で作られた肉体の基本単位なのかもしれない。けれどもその内部は物質ではなく幻想という内容物なのかもしれないのよ。
 わたしのこの女性的な感覚とは異なって、あなたは肉体を単に生命装置の発現だと考えているのね。生命の実現つまり細胞レベルでの分裂・増殖の正のベクトル、そして生命活動の抑制という負のベクトルを持つ調整装置だと。

 半信半疑だったのだけれど、硬膜への浸潤があったので言われるままに開頭手術を受けた結果、悪性のものだとの診断が出た。硬膜から脳内に浸潤が進むととても危険だともいわれて。
――わたしにはわかるの。この悪性腫瘍はすべての細胞と同じ出自と履歴を持っているけれど、定かではない原因でその幻想の根幹部分、遺伝子配列に損傷を負った形跡があるのよ。
 あなたは繰り返す。生命活動とはこの正‐負の機能を同時に支えることに他ならないと。

 頭部の皮膚縫合部はチタンプレートで閉鎖し、浸潤部分は人工硬膜(ゴアテックス)で転移をブロックし、目が覚めると痛みはすでになくなっているといわれていた。(つづく)

連載【第034回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: spinning sea 2

KL20150519, Akira Kamita, Acrylic, A3

 spinning sea 2
――うわーっ、なんだ、痛いじゃないのぉ。だれか助けて! 嘘ね、医者はうそつき、目が回るくらい痛いのよ。萎んだ体が力なく緩んで、頼りなく覚醒を訴えてつづけているのに。
 しかし、それが手術による損傷のためなのか、病巣につきまとう本来的なものであるのかは、たんに肉体機能の評価の問題なのではないかと。あなたの考えていることなんか、お見通しよ。生命の正‐負に振れ続く機能は、生命遺伝子とでもいう物質に装置されているのだとしたら、この装置がどのような運命に導かれているのかを知ることができるとでも。

 手術後の検査では頭骨の転移は進んでいて、さらにPET(陽電子放射断層撮影)で肺の原発巣が確認され、頭部の癌は縦隔のリンパ節から転移したものという所見が示された。
――だから、その後の頭蓋骨の転移癌に対するガンマナイフ照射は対症療法でしかなかったのよ。
 たしかに癌細胞の棘が正常細胞を露骨に侵していく映像は生々しい。

 けれども、さらに遠隔転移はこの種子を全身の全細胞に植え付けていく。それに対する標準治療の数々、新薬による新治療の数々。その長い長い闘い。
――そのあげく、治療の可否はどうなるというの?
 どのような症状を基準にし、どのような腫瘍マーカーをあてにしても、明確に見えるものなどどこにもない。わずかに確かめられるのは画像診断による病勢の進行。化学治療は治癒と延命との間でどのような物質機能を示すのかしら。

 それからは、画期的といわれる免疫チェック阻害薬をはじめとして、化学療法の世界で踏み迷っている。遺伝子標的薬は硬膜を越えることが難しいから、脳内で効力を発揮できないかもしれない。わたしの体と運命的な寿命と、妄想的な医学の熱情との長距離走。
――遺伝子が、生命が狂いだしている! それでも、私は戦わざるをえないのよ。目の前の新薬に心奪われるとしても。
 それは治療の古い歴史に沿うことでもなく、治癒という概念に囚われることでもない。そもそも、わたしが質的に異なる生物なのかしら。あるいは分類学的に別種なのか、それともたんに異物なのか、侵入者なのか。生物学のどの立場から評価されて、生命修復の対象になっているのだろうか。(棘の海)

連載【第035回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: sleepless forest 1

 sleepless forest 1
 その森に迷い込んだときに、ある種の体系に毒された執拗な夢が送られてきた。それは、攻撃といってもいいかもしれない。その夢は、たしかに脳髄と神経システムの根幹を支配するDNA生命体がつくりだしたものである。

 飛膜のある翼を広げた男は、すでに死んでいるという噂はあった。それが数千匹の中の一匹なのか、森に住む数千匹の動物が一匹なのかは定かではない。
 数カ月前には、蝙蝠は死んでいるという予感もしていたが、確証を得る方法がなかったので、あてにならない郵便物や電話などを繰り返し送っていたのだが、やはりさまざまの不通の証拠が示されたに過ぎなかった。
 ダリあるいはサディと呼ばれるそのオオコウモリは、突然夜中にやってきて、どのような事情なのか、死亡日時も明かさずに、画家の名にちなんだ非日常的な音のない声を鳴らしていたのだ。もちろん、ばらまいていたのはそればかりでない。夢を作り出す夢の細胞とか、夢の核心である夢のDNAといったものなどである。死と死にまつわる闘いの秘密にも触れながら。
 そこらをごろごろ動き回る独立したサディの頭部、あらゆる細胞に均一に重なるDNA。際限のない「サディ現象」の繰り返し。生命とは、生命の現実とはそのような執拗さがなければならないとでもいうように。そして夜の暗箱がますます濃密になる。
 そう、そろそろ、触れなければならないところにきたのだ。

 生殖細胞、癌細胞の増殖の驚異的な速度、勢い。私だけではなく、身辺の人間にも狙いをすまして、凄まじい弾丸の嵐を浴びせてくる。樹状突起を激しく活動させて、組織の中を、血管の中を移動して、定着していく細胞たち、変異する遺伝子たちよ。(つづく)

連載【第036回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: sleepless forest 2

 sleepless forest 2
 取りつかれた細胞の戦闘は、無尽蔵の死体を作っていくのではなく、相手の細胞膜から攻撃物質を侵入させ、核にある標的物質を変化させて、それを基点に相手を解体し、さらに細胞膜の外に漏出させ、血流やリンパ管の中に昇華させるのである。

 別のケースでは、触手を差し込み、内容物質を摂取するという原始的行動の場合もある。また、分泌物質を滲出させて、表面を取り込んだり、突起に化学反応を生じさせたり、電解的な信号により攪乱させたりもする。
 そして、ここでも肉体のゆらめきが叫ぶ。
――おれはすでに宿主に叛乱している。棘そのものである肉体の力で細胞に入り込み、あらゆる野望を奪おうと。
 それは、癌細胞――生体に含まれながら、独自の生命活動、攻撃をするもの。

 眠れぬ者たち――。
 サディ現象「自分が肉体のゆらめきなのか、意識のゆらめきなのか、そのどちらでもいいし、そのどちらでもないともいえる。たしかに細胞は細胞膜という皮膜とその内側の物質であるから肉体の基本単位だといえよう。けれどもその内部にあるものは物質ではなく幻想の内容物であるのかもしれない」
 細密画家「癌細胞の皮膜の棘の変化にも興味があるし、いとも簡単に正常細胞の皮膜が破れて消滅していくのもじつに哀れなものだ」
 癌細胞「自分はすべての細胞と同じ出自と履歴を持っているが、定かでない原因でその幻想の根幹部分、遺伝子配列に損傷を負った形跡がある。しかし、それが損傷なのか、本来的なものであるのかは、たんに機能の評価に過ぎないのかもしれない」
 サディ現象「遺伝子とは増殖機能なのか自己殺戮機能なのか。それをどのように断定することができるのか。また、それは何を基準にし、何を根拠にし、いったいどのような物質機能といえるのか」(つづく)

連載【第037回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: sleepless forest 3

 sleepless forest 3
 癌細胞「そもそも自分が質的に異なる生物なのか、あるいは分類学的に別種なのか、それともたんに異物なのか、侵入者なのか、どの立場から評価されて修復の対象になっているのだろうか」
 細密画家「そのとき私は作為的なことを考えずに、指のままに、筆先のなせるままに、オートマチックな行為に埋没し、増殖したり消滅したりする小さなものたちの思いをひっきりなしに追いかけていたような気がする。刺したり刺されたり、侵したり侵されたりするさまはまるで生殖と同じ行為だ」
 癌細胞「まずそのことを指摘しておく。生殖こそファシズムなのだと。画家であるおまえは正常細胞と異常細胞のどちらの出自もその未来も同じものだということを述べているに違いない」
 サディ現象「異常細胞は、植物の造形や、あるサイズを持つ生命のかたまりが、運命づけられた成長計画と切り離され、恣意的な自己成長のかつてなかった組み合わせを創造し、増殖していく」

 細密画家「たしかに癌細胞の遺伝子変異はより高度な技術を持っているのかもしれない。その姿態をグロテスクと見るのは、グロテスクな生命進化の世界で最も美しいものに出会っていることを忘れているからだ」
 癌細胞「それはこれまでの治療の古い歴史に沿うことでもなく、治癒という概念に囚われることでもない。目の前の劇的な新薬に心奪われ、運命とも寿命ともつかぬものに支配されているのだから」
 サディ現象「画家の主張する純粋美術とはイメージの世界のことで、物質的存在ではない。しかし、それはやはり物質的環境、とりわけ経済的価値の問題なのだ。つまり、美術的価値とはどこまでいっても価格評価の問題にすぎない」
 細密画家「しかし、私の用いるイメージの素材はそれぞれの存在の目的・理由とは無関係に、ミクロの世界では肉眼では見ることはできないし、機械的な方法を使っても到達はできない。数学的な手法、物理学的な思考を使う以外には」(つづく)

連載【第038回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: sleepless forest 4

 sleepless forest 4
 サディ現象「サイズの大きくなったマクロ的世界では空間認識、時間認識の巨大な組み合わせを抽象化することで、風変わりな作品行為として実在するのだろうか。しかし、素材それぞれの場所からはその大きさの世界の把握は不可能で、作品といわれるものの存在も無意味であり、実在してはいない。実在は経済だからだ」
 細密画家「たしかに、色は光だから、光の色に境界線はないという見方もあるが、皮膜の変種である棘はそれ自体境界なのかどうか。しかし、本当に境界はないのかもしれない。溶けている状態としてあるために」
 サディ現象「それにしても、たしかに自動的に筆記具が律動していると、おまえのいうように、棘のある異物として生命の輪郭を犯している、あるいは光と色の秘密に近づき、見るという概念を撹拌しているという感覚が昂じてくる。その中で、たったひとりで世界と拮抗しているという芸術的高まりを覚えるのも事実なのだ」
 癌細胞「なるほど。しかし、それはおまえの自己陶酔だ。おまえは物質としての世界と拮抗してなぞいない。物理的な対立構造を持ってはいないんだ。自分は具体的に肉体を攻撃し、テロリストとして自分を抑圧する体系と闘っているのだ」
 癌細胞はたしかに憤慨していた。芸術家のたわごと!
 サディ現象「癌細胞の野望よ。DNAシステムからも見放され、世界のどこにもおまえの居場所はない。しかも、生命はミクロの世界では存在していない。宇宙的規模ではなおさらのことだ。それでもDNAシステムは細胞それぞれに遺伝子をばらまくという非効率的な生命系だ。それはサバイバルと増殖をかけた有機体のもっとも有効な生存戦略なのか。おまえの野望はいったいそのどこにあるのか? 最期は誰が知っているのか」
 細密画家「では、君たちに同じことばを返そう。具体的な肉体、具体的なシステムなど、見方の問題にすぎない。芸術だろうが、哲学だろうが、ミクロの世界だろうが、あるいはどこにもないものへの思いだろうが、世界の始まりと終わりにおいては何も確かではないんだ。そうだ、私のこの偏頗な世界観こそ、具体性なのだ」(不眠の森)

連載【第039回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: life genes 1

 life genes 1
神の秘密、Der Alte würfelt nicht(神は賽を振らない)
それとも、彼らは一擲乾坤、乾坤一擲に賭けたのだろうか。
私をこの深い闇に閉じ込める。あてどなくさまようヒッグスの暗闇に。だれが?

 私の肉体が引きずられる、それとも精神が引きずられているのか。
 私は偶然を必然のごとくに歩き続けている。重い、重い、意識。重い、重い、始まりと終わり。
 それにしても、癌細胞自体の生命活動とは何なのだろうか。生命系システムにとってそれは何なのだろうか。彼らは私の中にある異物、それとも愛すべき生命体? 癌遺伝子オンコジンは発がん因子と発がん促進因子のペアを恒常的に用意し、癌細胞の生命活動をコントロールしているふしがある。たしかに、〈がんという疾病〉は生体に異物を対峙させるという生命活動の負のベクトルをもっているように見える。
 われわれは互いに生命を貪食するだけで足りるとするものではない。啖われること、生贄とされること、消化され、余すことなく糞尿となり、宇宙の藻屑となるのだから。しかし、癌細胞自体は純粋に異細胞の〈生命活動〉なのだろうか、宿主細胞は異細胞の側から見る限り、エネルギー源として癌細胞の生体維持に不可欠なのかどうか。しかし。

――自分は癌細胞の世界を構築しようとしているのではない。自分という負のベクトルに対する生体の抑圧からの解放を目指しているにすぎない。これは存在のための闘いだ。しかも、過渡的にはエネルギー源としての宿主細胞の維持は必要だという矛盾を抱えて。自分は自分たちを涵養しなければならない。癌細胞群の活性化を夢見て。しかし、癌細胞が数十万個に達し、疾病として活性化するまでは、宿主細胞との相互維持が必要なのだ。とりあえずは。共存と活性化。相反するもの。この過渡性。生命遺伝子の正‐負のバランスこそ自然年齢というものなのだろうか。それは、がんの疾病化の始まりを示す境界年齢――人間五十年が死の適齢期とでもいうのか。じつのところ、癌細胞こそ共に生死を頒ちあう友人なのかもしれない。免疫システムの混乱と劣化が新たな疾病を産出している時代なのだから。そして、遺伝子工学がそれに拍車をかけているふしはないか。私は感じる。法外に老化しているこの時代こそ呪われているのだと。(つづく)

連載【第040回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: life genes 2

 life genes 2
 癌細胞はさらに続ける。

――自分は負のベクトルとされているが、それはあくまで生体の側からの見方なのではないか。〈がんという生体〉の側からは、生命活動というDNAシステムの構築性を否定し、宿主を無に帰するばかりか、自らをもって死の淵へダイビングする〈反生命活動〉という〈正方向性〉を有している。それならば。

 生命遺伝子が、冷徹で機械的で、あくまで一神的な〈世界の調和と統制〉というバランス機構であるのに対して、癌細胞自体のもつ死生観には、生命装置を媒介にして支配された世界性を超越するという構造があるのかもしれない。死を自己目的とした反世界という。とはいえ、がん化は用意されたものであって、それ自体、反世界的ではない。個体としての生命とは相容れることはないが、生命思想としては以毒制毒の効として、世界の奴隷であることに変わりはない。つまり、老化を抑制し、生命遺伝子の衰弱と劣化を避けるための細胞殺害マシン。DNAシステムの利己的大量殺人計画の下で。

――それならば、いっそ正常細胞を乗っ取り、自分たちが生体に成り代わるべきではないか。自分たちは、いわば生体における強制収容所の役割を与えられ、細胞人民をガス室送りにする影の部分だったのだから。そう、生体を駆逐する影の力。闇のうちに秘匿され、免疫機能のなれのはて、はてはキラー細胞の変質者として、利用するだけ利用されてきた自分たち。自分たちは異物などではない、DNAシステムから必要とされてきた生命細胞そのものであるはずだ。自分たちは、母親を奪取する。父親を奪取する。生命遺伝子を奪取する。そのようにして、死ぬなら死ぬで、自分たちの生ともいえる死がまっとうできるに違いない。死なばもろとも。死なばもろとも。生体ごと地獄の淵に引きずりこんで、この悪魔のシステムを地上から抹殺してしまう。それが自分たちを仕込んだファシズムへの復讐なのだ。(つづく)

連載【第041回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: life genes 3

 life genes 3
 昂揚し、陶酔しきった癌細胞。それにしても、いっさいの生命が装置として存在するとは……。身体という機構の内部にあるものを見よ。たしかに、肉体の細胞はその独自性と身体システム機構とに軋轢がある。細胞の個々の意識も身体システムと対峙している。しかし、ある塊となり部位を形成したとき、身体システムに圧倒的に支配されるに違いないのだ。だが、本当にそれだけか。
 そう、癌細胞だろうが宿主細胞だろうが、細胞レベルのDNAと意識は全DNAシステムに完全に支配されていることから解放されることはないだろう。個々の身体さえも全DNA生命システムのファシズムの渦中にあるのだから。だが、それは本当に永遠のファシズムということなのだろうか。植物と動物を統べる全体性。ここまでの歴史の成功と失敗。食物連鎖に始まり、膨大な殺戮を繰り返して築き上げたシステム。そしてさらに永遠の時間と生命を得ようとする欲望。おそらく、地上さえをも飛び出して宇宙にDNAをばら撒こうという野望。DNAシステムは、はたして宇宙の苛酷さと一瞬でも同化できるのかどうか。私にはとてもありうることとは考えられない。やわ(・・)な蛋白質に。
 物理学的なさまざまの事象。物質の相転移、苛酷なケルビン温度の嵐、時空間の相対化、最大と最小、真空、無と有などのあまりに恒常的な現実。DNAの幻とは異なった真実(・・)の、現実(・・)にどう生き残っていくことができるというのか。まして、増殖して宇宙を席捲するなどとは。ここには、ファシズムを支える根拠としての全能などありはしないのに。
 では、この地上のDNAが生み出した細胞の意識は、あるいは反意識は、最小の物質が存在と宇宙を選択することに関与できるのか。そもそも見えるのか。そもそもそのサイコロが見えるのか。(生命遺伝子)