無数のもの、ひとつのもの、限りのある……

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「どういえばいいか……」いいよどんだ私のことばの末尾には、帰る、ということばが飲み込まれていた。離れてきたばかりの都市へ、いつのまにか戻ることになっている。何かから逃れるために離れてきたのに、再び戻ることを選択している。自分が自分に返るということに。どのようなことのためにそのような寂寥感に陥っているのだろう。出てきたばかりの都市へ戻ろうとするのは、たしかに私の中にある欠落感に違いない。

あらゆる居場所も、すべての境界も閉ざされ、夜行列車のボックス席はただの移動する四角い闇だった。移動だけしていて、そのほかの事象は何もない。空間と時間は移動によって定められる要素だが、その地点は否定されたもの、抹殺された無そのもの。そして「場」といわれるもの。煤けた照明はこのとき、何をあからさまにしていたのだろう。輪郭だけの男たちのかさなりの中に私がいたのかどうか。彼らはすべて私自身だったのだろうか。

移動はつまるところ回転だった。それはぐるぐる回るというイメージではなく、カチカチ、カチカチという回転ダイヤルの方向が切り替わるというようなものであり、「場」にとっては移動がないので、空間と時間の尺度はありえようがない。そのカチカチ、カチカチがそれぞれの存在であり、すべての世界なのだ。

しかし、時間がなくとも収束、発散という意味では速度は増大している。その加速のため、二人はもちろん、私たちの「場」は物体としても環界としても存続していなかった。ただ、私たちそれぞれの思いだけが、新たな出発という事象だけがひとつのかたまりとして移動していた。

夜行列車は夢の中を錐揉み状態になって回転していく。そして、その回転速度が増大していくと、二人は物質として存続していくことはできない。あらゆる感覚が一体となっていく。「ここには構造がない。これは原初の場、一回性の原理の場。総体に対する原初」「いいえ。総体としての原初なのよ」繰り返されることがらを整理し、構造として複製し、共有する連続性として組み込まれた歴史。しかし、それらは意図的で限定的な世界観にすぎない。世界は、繰り返される事象で構築されるとは限らないのだ。それぞれの事象から見ると、それは単なる一回性であるからだ。時間と空間からの超越とは、そのような偶然の「場」に違いない。

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