デリュージョン・ストリート 06 祝祭という詩篇――加藤郁乎頌

1 2 3

  果実は熟れ過ぎないやうに手で考へながら
  はじめに傾きがある/手足を食べる/手足のななめ十字架
 鋭く踏み込み、くたくたにならざるをえずには、王たちのこれら珠玉のオマージュは不可能だ。『眺望論』『遊牧空間』と併せて、それらはこの冒険者の血みどろの孤独と傷だらけの戦いを物語る逆証明である。『荒れるや』とは、この祝祭シンクレティズムへの讃歌であるとともに、これら荒らぶる神々と諸王への鎮魂である。そしてその頂点で、かの人が生き死にをかけて突っ立つことを身を以て示した祝詞こそ、『牧歌メロン』なのであった。この言語混濁の極致ともいうべき句集は、青臭い言語遊戯とか言語実験などとは一線を画し、純粋の深みを導き、ものを生み出す力に溢れる、いわば江戸前の汽水のごとき生命力の坩堝である。
 かの人と遭遇したのはずいぶん以前のことだが、そのときついに『後方見聞録』で涙したとは言い出せなかった。この愛すべき詩人は再び、「白鳥」の詩人と『旅人かへらず』の詩人との原初的な三一致の地点から新たな楕円を描こうとしている。この悪い時代に敢然と背を向けるがごとく、また時間が前に進んでいるなどという迷信を嘲笑うかのごとく、純粋な孤高に達している稀有の詩人、イクヤとは誰だろう?

(初出 詩誌『詩学』第40巻第5号、1985.5刊)

1 2 3