現代詩論 悪魔の受感 慶應大学『文連新聞』, 1974

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 現代詩における現在とは、作家と作品との関わりの構造として、既に死と腐臭にあふれた、あの破裂寸前の卵である。その内部には作品が交換価値であるとする、伝統の基本的パターンが引き継がれている。そうでなくても頓馬の多い詩人のうちでは、「表現の絶対性」をその根拠に、併せもってエセ「状況」論を謳歌しては、己れの無能さを公のものにしている。だいたいにして、これらの発想の中に通貫しているものこそ、一種物神的にまで狂信する、作品を中に措いた作家と読者の三位一体という絶対性である。そのため、「状況」論として「自立」すべき作品は、作家と読者の関係性という二元論を可能にするための媒介機能でしかあり得ず、それを根拠づけるのが「表現の絶対性」という即物的解釈であるというわけだ。だが、これらの支配的な発想は、そもそも、作品言語を通用語に混入させるところに最初の錯誤がある(この事に関しては、明治大学新聞一三一〇?一三一一号拙著「徴候としての現在」にて述べているので略す)。ここでは「表現」とは結果としての現実であり、現実によって切り取られることにより、あらわれる作品の切片に過ぎない、という仮定から述べることにする。作品は「語」によって己れの全体性へ向かう。だが、この「語」、作品言語とは規範的言語とも、あるいはそれと幻想的な関わりを結ぶ観念の表出とも異なるものである。この作品言語は、およそそれらとは水準の異なる、現実と観念との手の届かないところに自ら突き進むものである。観念と現実との相対的な関わりのうちに、作品言語をおしとどめるところにあるのは、作品言語を機能として作家に隷属させていくところのものである。故にこのようなものに対置させるための仮定を付加するならば、作品言語は「表現」としての「語」を仮りているに過ぎない、ということである。「表現」としての「語」とは何を示すのか。それは観念と現実との関わりの水準にある、いわば交換価値としての「語」の形態である。また、ここからいえることは、作品言語はまるで観念と現実との関わりであるような貌を仮りて、あらわれるということでもあろうか。

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