現代詩論 悪魔の受感 慶應大学『文連新聞』, 1974

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 では、次に作品言語を仮定するとは如何いうことかを考えてみよう。まず、ある認識が必要である。それは、ひとつに現実と観念的な共同性の関わりのうちで最高の、整序された「語」は法文であり、ひとつにこの規範としての言語体系によく対峙し得るのは、思想としての個的な「表現」であり、この二点は、生活とか体験とかビジョンとかいった、まさしく思想のレベルの問題なのである。だが、これらは戦後の情況が辿りついた現在ではあるが、この現在をこそ、作品言語は己れの出発の儀に爪をかける、あの卵の殻程度のものとして扱うのである。何故ならば、この「表現」の「語」とは思想的言語のことをいっているのであり、それは逆に通用語の構造そのもののうちに機能としての己れを措くことにより、己れの最高のレベルに至り、それを発するもののうちに回帰していくという、媒介の定めにそうことしか能わないからである。そこではより根源的なものは「語」自体ではなく、「語」の裏に貼りついているとされる思想の営為なのである。さて、ここで次の二点についてアプローチしてみる必要がある。思想が観念と現実の関わりの全体へ向かうものであるとするならば、作品言語はどこへ向かうのか。作品言語は、この思想の表現のひとつの形態であり得るのか。この二つのことに関して、逆方向からさぐりを入れてみよう。それは、仮に思想を個と世界の実存の関わりのトータルであるとするとき、「表現」が要請・必然された場合、思想論文、生活・自己実存、その他で提出されずに「語」として提出されるということの矛盾は何故なのか。あるいは、にもかかわらず、何故「詩」として独立可能なのか。資質とか、好みの問題に帰着させるのは誤りである。というのは、思想的営為が己れの側から「表現」を必然化させ要請する根源的な場では、思想的言語、肉体、行為そのものによらない「表現」は逆に、必然・要請する、される、根源的な場を自ら欠落させていることの証しであり、すべてお茶を濁す程度の自堕落なのであるからだ。それでも、何故に「詩」なのか。では、「表現の絶対性」という地点に戻ってみよう。「絶対性」ということの裏には、実は眼前にインクのしみとして、物的にあらわれることへの敗北と、単純に限定へと向かう思考法がある。またこのことから、人間の、書いて、他の人間に関わりを持つということへのロマンチシスムとしての作家の絶対性が浮かびあがる。故に、「表現」のこちら側では作家の観念を対象化する手段として、「表現」の向こう側では作家の観念が流通する手段として、「語」が存在しているのである。このあたりで明白にさせねばならないのは、この程度の作家の心的世界ほどに愚鈍で低水準のものはないのであり、比すならば、日常的な生活者とか大衆とかの現実性の方が、豊かで緻密な内容をもって優れているのである。もっとも思想的言語で己れをも表現でき得ないエセ思想家の被っている詩人仮面など、とるに足りぬことなど放っておけ。

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