現代詩論 徴候としての現在〈下〉 『明治大学新聞』, 1973

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「さて一つの言語共同体がインスピレーションを、したがって作品を生み出すためには、その言語共同体のなかに言語に対する信頼の原則が確立されていなければならず、発語の主体がその原則を信頼していなければならない。言語共同体への信頼があって初めてそれが発語の根拠となりうるのであり、そこに発語の根拠があって初めて詩を書くことの無名性が保障されるのである。言語共同体への信頼は、しかしことばによってつくられるわけではない。それは何よりも生活の無名性に対応をもたなければならないだろう。」(同)

 
 ここで〈厳密な意味で〉指摘しておかねばならないのは、郷原の場合、「発語主体」というのは人間もどきの詩人であり、「言語共同体」の構成員は「感情」であり、そのため「生活」というのは「人間もどき」の生活を示し、「架空」の生活が「現実」の詩に対応するという、郷原自身が「詩的モラリテの崩壊」と嘆く意図と反対に、〈ことば〉が郷原のあいまいな体臭をぷんぷん放ちながらも彼を見事にひきずっているということである。これこそ、まさしく「モラリテを欠いた」批評が自己の顔を見失った好例といわねばならない。読者諸兄は、次の引用を読まれることによって、批評のユーモアを感得されるであろう。

「私の考えでは、詩は誰にもゆだねられることのない主体性にこそ成立の根拠を持っており、批評の文体とは、詩いがいの何ものにもゆだねることなく言語共同体に向かって開かれている発語主体の、文章におけるあらわれにほかならない。」(同)
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