見夢録: 2013年04月16日 加藤郁乎氏のこと

少し前、昔いささか交流のあった俳人・加藤郁乎氏が物故されていたことを知ることを得た。ずっと前に「詩学」に寄稿した氏へのオマージュを、あらためて「動的作品行為」ページの先頭に掲げ、かの人の偉業を偲ぶこととする。

文献等に収録されているかどうかは不明だが、次の数句が私宛のハガキなどに記されていた。何かに資することもあるかもしれないので、ここに記す。

○年立つや一二三四五六七 郁乎
○世にふるハ不益流行なゝへんげ
○ふところに江戸切絵図や柳散る(柳は異体字)
○葦原の中ツ国たり初気色 郁乎
○米こぼす日本および日本人 郁乎
○ひるがほの北鎌倉ハ北枕
○年酒につきゆきはなや老措大 郁山人
昭和59-64年 旧字旧かな
合掌

見夢録: 2013年03月 只石善士さんの遺骨のこと

○昨年晩秋に北見市、帯広市を旅し、若いときからの友人で永年演劇活動を続けていた故只石善士氏の遺骨を納めた真宗大谷派帯広別院に訪うたときの写真を、追悼文に掲げた。日本の前衛アートを共に闘ってきたこの同志への追悼文は「動的作品行為」ページに登録してあります。
このブログ内では飛翔する肉体(追悼)――演出家・只石善士にに再録。

見夢録: 2011年11月16日 展示会の紹介

私のホームページに以下の紹介をしたので、ここに記録しておく。

○11月16日: 今日はなかなか素晴らしい展示を体験できたので、ぜひ、ご紹介したい。
●その1 田鶴浜洋一郎展 2011.11.14-11.22(日曜休) みゆき画廊/銀座6-4-4 銀座第二東芝ビル2F 03-3571-1771
 田鶴浜さんは、私が土方巽さんと会っていたころに刊行した詩誌「緑字生ズ」5号の巻頭に特集した、土方さん第一の弟子である芦川羊子さんの舞踏の写真を撮影した人で、現代日本画のアーティストである。今回の展示はM100号20枚を一挙に画廊の四面に繞らし、水分を含んだ空間いわば地球の大気と海を混交させて呑み込んだ、モノクロームの、動的で静謐な大作品である。そして、私が感心したのは、それらが情緒的な(つまり意識・意識下の精神のような)レベルとは異なって、より根源的な「思考」と結びついているように思えたからである。このような質の展示はなかなか体験できないので、ぜひ諸氏にお勧めするしだい。
●その2 池田龍雄「遊びの空間」 2011.11.12-12.11(600円・月曜休) ギャラリーTOM/渋谷区松濤2-11-1 03-3467-8102 www.gallerytom.co.jp
 日本を代表する前衛アーティストの池田さんのオブジェを中心とした小品展。並みのシュールレアリストならば意識下の精神の解放を表現すれば済むのだが、この御仁、この肉体の抑圧のレベルにとどまらず、もっと別の次元への思考アンテナが躍動している。今回のオブジェ展は量子コンピューターを思わせる物質と感覚の不思議な出会いに満ちている。動きの根元にあるのはあるいは男女のペアであり、あるいは粒子反粒子のペアであり、つまるところは物理学的な対称性を思わせる思考なのである。

というアクシデンタルな具合で、一日にしてこの素晴らしい展示に遭遇できたことで、震災以来の描けない描けない病から抜け出られそうである。

また、池田氏に、次のような前書きを付けて手紙を送付した。
「ご案内いただいたギャラリーTOMでの作品展を体験しました。どうもありがとうございました。
今回はダイレクトに池田さんの宇宙論を垣間見ることができて、とても興味深いものでした。
早速帰宅して、展示についての紹介を私のWEBサイトに載せました。
銀座での田鶴浜洋一郎さんの展示の紹介もあります。」
これについて、池田さんから、折り返し葉書が来たので、その抜粋もここに転載しておく。

たしかに、あなたの慧眼によって見透されたとおり、ぼくの作品、描いたり、箱に入れたりしている作品――例えば、男と女、メスとオス、陰と陽などが対になっているような作品の下には、「相反するものは相補う」という、ニールス・ボーアのあの「相補論」が、しばしば踞っています。
世界が動いている、世界を動かしているエネルギーは、当然、そういう相互作用によって成り立っているはずだと考えられるからで、それは、ぼくの世界観でもあります。同じく、それはまた、ぼくの芸術観でもあるわけです。(池田龍雄)

見夢録: 2008年11月26日 ライフプラン

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 病院の待合ロビーで思いついて書きとめたことがあるので、まとめておく。
 それはいくつかのことであって、この見夢録をこのようなライフプランとしても利用できるのではないかという腹づもりもある。
 ひとつは、短篇集の構想である。これまでデジタルで公開しているいくつかの文章があるが、読み物としても受け取られているようなので、その観点からひとつところにまとめておくのも一興かもしれない。
 次に、ライフワークともいうべき長篇作品「自由とは何か」の今後の計画。現在中断している連載小説であるが、美術の作業、宇宙論などの思考作業を通じて、自分が何をしようとしているのかがようやく見えてきたためかもしれない。ライフワークと書いたが、どうもそれが本当になるかもしれぬ。また、ここでそのことを宣することも自らを叱咤することになるに違いない。
 第1部 人体。細胞から肉体部位、脳、多人格までのレベル。現在発表しているものに加筆する。
 第2部 社会、国家、人類。
 第3部 量子的レベル。
 第4部 DNAという権力構造。
 第5部 宇宙論的レベル。
 第6部 多次元、存在。
 第7部 思考と夢。始まりと終わり。
 こうして並べると、いかにも不可能な著作に思えて仕方がないが、これまでの絵を描くことをはじめ、多岐にわたっている自分の人生における事象をここに統べることができそうで、わくわくした気持ちでいることも事実である。もちろん、物語や読み物というよりも「説」としての思考作品、書くことによる行為としての思考の芸術化というようなものになるはずだ。また、こうした階層化されたテーマは自由と抑圧についての視点からのものであることは一目瞭然であろう。完遂の可否はともかく、多重化された構造、多軸の階層構造について展開していくつもりだ。
 さらに、この見夢録の下に時事めいた状況発言の個別テーマにも挑戦してみたい。日々、沸々としているテーマを思いつくままに列記する。
・デジタルテレビ化という強制に抗して、いっそテレビ文化を終焉させることまで展開できないか。
・権力に与しないという反国家の立場から裁判員制度の強制とどう闘うか。
・他のすべての税金を廃して、消費税のみによる完全社会保障システム。
・自給自足だけを実現した「貧困社会」こそ末期資本主義から自立する道となるかもしれない。
・団塊の世代を軸にした、老齢者、ワーキングプア、ホームレスによる新農本主義的運動。
・幼児化と右傾化、ファシズム。
・憲法、天皇制、権力に対するアナーキズム的発想と立場。
 以前からこれらについて論じたいと考えていたが、そろそろ手を出してみようかという次第である。もちろん、自分だけの作業であるので、他人からどうのこうのと言われようが臆することなどありえようもないし、あらゆる外圧なども屁とも思わぬ気概はある。なにせ、老残こそ言いたい放題が可能であり、死をも恐れざるべしの意気地は持つことができるはずである。
 以上、まさに見夢録なるべし。

見夢録: 2008年08月04日 見夢録について

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以前の作物に「見夢録」という散文詩があるが、発句が「マミ夢メモ」で始まるもので、一部に激越なる詩集と目されていたらしい拙著『魔の満月』に所収せられている。この作品は実際に幾晩かの夢をメモしたものが材料となっている。当時は、散文詩を一行の詩と見立て、詩句を一センテンスとなし、これにアクシデントを凝結させるという試みに熱中していた。つまり、事件そのものを一箇の物質として見ていたわけである。
夢は事件と記憶とを断片化し紡ぎだし、あらたな事件を生みだすようであるが、ある種、眩惑的な光芒を湛えている。現実の事件もつまるところ人間の思考の物質化であるならば、この夢との境界はあるかなきかのかすかな光暈を帯びているに違いない。ここに、夢と事件はともにアクシデンタルな物質の眩惑となるのである。
この境界不可分の事件は物質の眩惑として、そもそも詩句そのものであるとして、詩的実験の試材となしたわけである。とするならば、この事件のつらなりは物質の構造として存在するわけで、この構造のパッチワークこそ、擬物語としての散文詩と詩人との激突する夢の現場という当時の設定である。
もっとも、このような仕事を贅を凝らした言葉遊びと見る向きもあったようだが、生死をいとわぬ実験は遊び心を伴うのが常で、そのようなつまらぬことどもとはおのずから一線を画している。当時から、意味と交換価値の絶対視からするコミュニケーションをむやみに金科玉条にする現実功利主義者とは雲泥どころか月とスッポンの違いはあったものと断じてはばからない。
さて、このような話はきりがないのでここで措くとして、じつに三十年余の後をへてこの「見夢録」を改めて題に起こして筆をとることにしたのは、私事ではあるが、近年の宇宙論的思考実験とそのプロセスともいえる絵画衝動とが自分にとっていかなることなのかを見定めたいという、じつに年齢的な要請とでもいいうるものである。
日録風に書きつらねてみるのに適当らしきこの題名をすでに三十余年前に用意しておいたとは、我ながらにして、準備のよさに舌を巻くしだい。ただ、今回の「見夢録」が長続きもせず、夢のまた夢がまたしても烟と化さねばよいのだがと願うものだが、さて。(初日記す)