連載【第057回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: nightmare I: 〈skeleton〉

 nightmare I

 〈skeleton〉
 富裕な階層、特権的な人種、マジョリティの中の数少ない上位者、悪を悪とも恐れぬセレブリティ。発現する万物を吸い取る暗い眼窩、その奥で光る瞳の数だけの欲望。出現するものすべてに価値と等級を与える者たち。汝らの人生とは経済だけだ。その魔手が川底を浚いつづけて。
 あまたの詐欺、詐欺師に、騙されつづける暮らし、すり替えられる人生。古典的な、電話による勧誘から増幅され、ぶよぶよしたネットワークとなってたるみつづけ、地球の皮がべろりと裏返る。仕掛けが多いほど袋小路に追い込まれるのだ。新しい手口にはついていけないが、肉感的な通路は欲望をそそる。隣で肌寄せて、若い男女に手でも握られ囁かれれば、騙されても後悔などはしまい。暗がりの、鍵のかかった密室で柩に寝かされても、静かに死ねるというもの。死神の誘いとはそのように訪れる。ああ、下腹部をさぐる骸骨の指。

 犯罪、凶器、薬物。中毒者たちの深い闇。犯罪を犯罪ならしめるのは、いうまでもなく〈法〉への抵抗としてである。社会的規範とは倫理的規範などではなく、あくまで〈法〉による拘束に起因している。つまり、〈法〉の存在があらゆる罪の原因なのだ。罪は〈法〉によって生産され、人間の本性的な倫理性と関わっていることなどありえない。善も悪もない。自然法などは反自然だ。まして作為的に罪状を列挙し、犯罪者を捏造する〈法〉は、おのずから抑圧と服従による支配を強要し、これを受容する奴隷社会を制度化するものだ。つまり、社会、国家の支配を構築するために、権力の根拠を捏造しているにすぎない。〈法〉の整合性とは、弁明と詐術の連鎖によって永遠の虚偽の井戸を掘り続けることだ。もちろん、倫理的規範などもこの井戸の穴のひとつでしかない。

 刃物、拳銃、爆弾は、攻撃手段であるばかりではなく、自死をも臆することなく、自らの奴隷性をも否定する、個的行為による対抗手段である。そこには世界か自分かを二者択一せざるをえない終末観がある。これを禁制とするのは、いわれなき国家制度が、権力機構が、反乱と抵抗を恐れて未然にその行使を防止せんとするからで、自国民の自由・権利を守るためなどというのは空念仏にすぎない。反乱のための実行行為は、肉体を武器にしてさえも現前させる合理性がある。あらゆる犯罪、凶器は合理的であるといわざるをえない。あらゆる精神疾患でさえ、存在と「制度という非合理性」との矛盾の衝突である。いずれにしても、あらゆる犯罪の母胎は法と国家にある。(悪夢I〈骸骨の指〉)

連載【第056回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: nightmare I: 〈advertising〉

 nightmare I

 〈advertising〉
 空に突き出たスカイスクレイパーをつなぐ槍型モノレール、大気圏外までカプセル席のまま昇降するエレベーター。色とりどりの透明フードを反射させながら、人々は各階のテラスに張り出された乗降口から高層ビルの中に吸い込まれる。
 楕円形や球体のビルディング、数多くのディンプルを持ついびつな曲面や、蜂の巣型の形状をした中層建造物が不規則な雲のように広がる。巨大ビジョンとなっている建物のそれぞれの壁面には、プロジェクターやさまざまの種類のディスプレイが放つ原色の光の渦が混淆している。激突しては粉々に砕け散り、砕け散っては凄まじい速度で合体し、まるで異物を産む怪物の生殖行動のように、入れ替わる巨大な映像。過激な欲望に憑依された広告モデルたちの隈取りされた鋭角的な顔、露出する肌、濃密なタトゥー。新合金のリングや鎖で長い首と鎖骨を際立たせ、胸元には薄い乳房を覆う左右不均衡な幾何学模様の細い人工シルク。縦に筋肉の割れた細長い腰の中心に、異教徒の宝冠のように宝石を寄せた臍飾り。下半身は斑らに水玉の穴が開いた唐草模様のシフォンスカートに包まれ、妖しく回転する臀部から褐色に伸びた脚の先には、真紅のクリスタルガラスの艶めかしい小ぶりのヒール。濃い化粧の女たちのマスクはいずれも生気がなく、そのかわり、何かに取り憑かれたような貪欲な表情が現れる。粘液に溢れた口の中を覆い隠そうと、厚い唇にけばけばしい赤い口紅を塗って。

 何らかの罪業が隠されていても、それが何だというのか。それらはほんとうに罪であるのか。それらは恥辱であるのか。そんなものはとうにどこかに埋もれたものだ。忘却されたものだ。それでも何かを隠そうとするいじらしさ。そして、周囲のすべてから離れていく。うつろで、ぼんやりした眸は見えるものが何もないことのあらわれ、失ってしまったもの。つまらなそうなあくびの、唇のあたりには嘲笑的な表情がみえる。

 にせものの日常、いつわりの生活。プロジェクターがマッピングする何本もの男根の巨大な映像がモデルの映像を貫き、広告を穴だらけにする。入れ替わり立ち替わり現れる巨大な裸女たちの、渦を巻くディンプルの光を埋めて。人物と背景が混淆する、重なり、同化する。厖大な群衆はそれ自体人形なのか。それともあまたの生身の個人なのか。外部の欲望に突き動かされているのか、感情を刺激されているだけなのか。物体とも生物ともつかぬおびただしい群れは、隣り合うものとの接触面から振動を広げ、さらに波を起こし、弾き合っては響き合う空間を広げ、空間が平坦な充溢に至るまでその活動が鎮まることはない。そして、それにつれて、欲望の代替物であるおびただしい商品のうねりが始まる。
 ありうべき商品の数々は、物質増殖の機能を持つ次元間転送装置の端末で生産され、五次元に張りめぐらされた浮遊型瞬間ベルトコンベアで搬送される。視野の範囲に収まるべくもない欲望の物質情報は、蜘蛛の巣のように張りめぐらされた大気圏チューブによって宇宙ステーションに転送される。しかし、届け先がなければ太陽系外の未知の時空に届けることなどできないのだ。(悪夢I〈広告〉)

連載【第055回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: nightmare I: 〈inflexibility〉

 nightmare I

 〈inflexibility〉
 ここはすでに現実と思われるところではない。しかし、それは非現実ということでもない。視点の定まらないところに、あるべきではない空白が広がっているのかもしれない。
 革命と芸術と戦争、さもなくばそれらの底で大きく口を開けている経済という魔物。新しいメディアでさえも、権力と経済に支配されているのだ。富と欲望によって金縛りにされ、人々は蝋燭のように固められて、心が縫い閉じられている。寂びれた蝋人形館の、パラフィンを舐めている化け猫ども。魍魎が跋扈して猫撫で声で生き血を啜る。生命のある若者の青い血管は、ことさら細い糸になり、緊張する。世紀末の次にさまざまの終末兵器が開発され、世界中で売り出される。砂漠で、山岳地帯で、油井地帯、大航路を大規模兵器が取り巻いている。群から離れた蟻のように、戦禍の中で人々は孤立を深めて。
 監視され、管理され、神経が張りつめていた時代に、精神病棟に収容されたアントナン・アルトーの不撓の精神のように、狂気といわざるをえないから狂気にさらされていただけで、本当は存在を裏返す戦いが敢行されていたのかもしれない。ただ、何かに侵襲されている感覚。細胞がはりつめ、こわばるのだ。今でさえ、何も終わっていないし、やはり何も始まっていない。
 それでも私はひどい疲労感に打ちのめされている。いつから始まっていたのか。あるいは、いつまで?

 異国の幻がこの場所に現れるはずもない。しかし、ここから世界のどのような場所、どのような時代をも一望して、それらの秘匿された夜と添い寝することは不可能ではないのだ。自分のいるところが地球のマグマの中心にあると確信できれば、そこからは世界の表面にあるいかなる時間、いかなる地図の座標といえども、常に等距離なのである。
 それでも、その場所と自分との間に、徘徊できる距離と時間はあるのだろうか。わずかの間でさえ、通りにとどまることも、視点を定めることもかなわないというのに。
 私は思い描くことができる。何も見ているわけではない。何も考えているわけでもなく、ただ押し寄せるこれらの波動、波頭……。
 生気のある人形たち、生気の失せた人形たち。透明な操り糸を括りつけられた身体たちが空中の蜘蛛の巣を渡り、地下のモグラの穴の回廊を通り抜け、無味乾燥な牢獄の中をひっきりなしに出入りしている。知能回路を支配されたこのゴブリンたちにとって、地下を這うケーブルや通信衛星の張り巡らされた監視回路の信号だけが彼らの行動を促している。(悪夢I〈不撓の精神〉)

連載【第054回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: nightmare I: 〈reminiscence〉

 nightmare I

 〈reminiscence〉
 私はいつの間にここに佇んでいるのだろう。それにしても、この場所とはどこか?  特定できない場所、特定できない状態。私はひとつの仕事を終えて、一挙に老衰に襲われているのだろうか。

 小高い丘に挟まれた旧都市が靄の中に浮かんでいた。地方と結ばれた街道につながるロータリーとその傍にある古い劇場のあたりに、寂れた盛り場が現れる。広場から少し外れた湿地は高い鉄柵に囲まれ、小さな橋を降りると、錆びついた装飾のある扉が半ば開かれ、その奥には広い墓地が広がり、中世からの墓石や墓碑、納骨碑がつづいている。谷底の周囲には人骨が絡み合ったかのような、不吉な灌木の叢林がある。その低地を抜けた外れには、古代の洞窟を入口にした地下墓地が、この都市全体に張りめぐらされている。
 地上の墓地を登ると、壊れかけた路傍の石積みや石垣の残る舗道がつづき、丘に向かう坂の途中には緩やかな小さな石畳もあり、そこから段差のある小径や曲がりくねった石段を伝って急峻な傾斜を辿ると、城壁と通路の入り組んだ区画に到達する。尖塔のある大きな教会や、石塀に囲まれた新旧の石造の館の奥には、レンガや石畳の敷きつめられた円形の中央広場が広がり、街灯のオレンジ色の光がゆらめき、敷石の表面が反射し始めている。坂道の谷側の、鎖で繋がれた柵から俯瞰する街の輪郭には、すでに重い夕陽が光のトーンを落としながら、急ぎ足で帰途につく人の群にどんよりとした影を添えている。
 私は、古い追憶から、この現実の街に異国の都会の姿を重ねているのだ。旅は夢、過ぎし時間さえ、この場所にあっては平坦な地層だ。それにしても、ああ、夕暮れの雑踏、冬の立ち枯れ、濡れた街路。どこまでも続いている時間の帯。幻は亡霊とともに蘇る。繁栄と没落の、なだらかな歴史の陥穽に。
 高名な詩人や哲学者の眠る荒涼とした窪地の反対側にある丘には、画商の営む画廊やアトリエ、小さなレストラン、ダンスホール、ホテルの混在している地区がある。その入り組んだ路地に林立する建物の窓には鉢植えの花が賑やかに並び、その奥からワルツに混じって原色の夜の灯がこぼれている。通りの街灯はまだ点っていないが、すでに空は薄暗く、霧が降りるにつれて夜の気配が濃密になる。人台(マネキン)の長い首や格好のいい脚が突き出しているブティックの飾り窓からは、界隈に構える店の繁忙ぶりもうかがわれる。若い詩人や画家や踊り子たちの生活していた通りなのだろうか。もちろん、アルコールや薬物漬けの廃人や、売春をなりわいにした者も屯ろしていたはずだ。少年の手首を貫く銃弾さえも。(悪夢I〈回想の都市〉)

連載【第053回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: conflicting similarities

 conflicting similarities

――層状宇宙。
 宇宙面を球体の表面になぞらえたとき、この球面が重層しているとすれば、重なるような形で膜状宇宙が複数、波のようにゆらめいて存在しているというイメージが浮かぶ。物質の発生が、真空のゆらぎから物質・反物質の量子過程を経るとするなら、この高エネルギー状態の真空がその前提にあると考えることは無理なことではない。
 この真空が無から量子論的に発生していると見なせるなら、重力の総体は無と真空との間にわたるのではないか。これは、真空を球体にイメージすると、この球体の芯から物質・反物質の球面が生成され、重力は分裂して球面エネルギーと関与するに違いないからだ。
 これらの物質が、確率的なゆらぎによるインフレーションで現在の宇宙面を形成していく過程であるとすると、この宇宙の因となる真空の内部にある全重力に対称的な反重力エネルギーが生み出されて、新たな原因物質が生成され、これがさらに副次的な宇宙面を現在の宇宙面の球内に生みだしていく。これらが重層的な宇宙面となり、膜宇宙をなしていく。
 インフレーションの規模は不確定であり、空間速度はこの宇宙面をしのぐ可能性がある。もしくは超えることはないのかもしれないが。

 翻って、真空というエネルギー体は無から量子論的過程を受けるのであるから、これもまたある統計的な確率で登場するはずである。
 パラレル宇宙は、物質‐反物質過程、宇宙の対称性、真空を根源にした層状発生、無から断続的に生成するパルス真空体などの形でつくり出されるというアイディアを誘き出す。
 重力は、エネルギーの総体をつくるものであるから、これらの段階のそれぞれに関与し、宇宙の質量問題はこの可能性を計量しなければならない。四つの力のうち三つは一個の宇宙面で統一できるとしても、重力はこれらの膜面すべてにわたるとすると、一宇宙面では統一できないエネルギーなのではないか。

――一点に重なる。
 重なるということは包含されるということとは異なっている。
 包含は全体性の概念だが、重なるということは独立[自立]存在でありながら、全体性とは反位している。
 あらゆるそれぞれの存在は一点に重なり、同化していない。包摂されていない。押しつぶされているが、外延的なすべての一点が別々でありながら全体性を超克しているのである。
 時空も宇宙論的次元も極小の始元も、ただ一点に収束している。
 これが存在のほんとうのありようなのかもしれない。(相反する類似)

連載【第052回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: tubulin 2

 tubulin 2
――ある思考実験。
 チューブリン(微小管細胞)の次元イメージ。(次元f(x))、回路の切断面。
 マイクロチューブルの次元イメージf(x)をそれぞれの回路の切断面とする。チューブルは管であるから、穴という内部の範囲がある。
 ニューロンのチューブリンから次元同士の接地面イメージ。

 マイクロチューブルをプランク・サイズの管ほどに微小化すると、粒子‐反粒子の増殖との関係も窺えるのではないか。チューブルは管であるから、その切断面には穴という内部の範囲がある。チューブルを次元f(x)と見るとき、f(x)の切断面とf(x’)の切断面には、この穴の範囲という限界条件を持つ次元の接地面が皮膜のかさなりとなるのではないか。
 この皮膜を、ピッタリと貼り付いた薄紙を手のひら同士で重ねてひねり合わせるようにするときにできる、捩れ、縒り、折り目、破れ目などが現れるとする。これらは皺、状態の不均衡、泡の発生寸前の姿と見ることはできないか。

 これは重力の発生、粒子‐反粒子の生成などにつながるイメージでもあるが、この皮膜は次元の数だけの接地面に生ずるチューブルの泡回路と見ることはできないか。また、その回路は回路の内部から見るとき、量子的なチューブルとなるのではないか。つまり、波動関数が収束する場、確率が生成する通路、そしてそれらの持つさまざまの形態の管に見えるのだ。次元と次元をかけ合わせた数だけのチューブルの管がすべての次元間に浮かび上がってくる。
 この収束が、次元の皮膜に無数の泡をつくり、この泡のかたまりの形態が通路の性質に影響し、接地面と管の形態ごとの、物質の生み出す意志(思考)の泡を増殖させていく。

 ロジャー・ペンローズの想定した脳神経のチューブルは、せいぜい原子サイズの物質の波動関数の収束管であったのだが、しかしそれは量子レベルの物理サイズ、プランクサイズの収束装置での意識、あるいは意志の収束が示唆されるのだ。意識と意志を区別するのは、意識は身体機能であり、身体に属しているのであり、身体の外部にはないからである。意識の基底は、肉体が消滅すれば存在できない。それは肉体の代謝物なのかもしれない。しかし、意志(思考)という判定行為は意識の外側にあり、物質の普遍的な場である。つまり、波動関数の収束する物質場なのだ。これは、思考という〈物質場〉と考えるべきである。思考は人間的身体に関与するばかりではなく、物質の意志の収束を示すのだ。

 私はすでに脳組織で考えているのではなく、物質の場、量子としての思考の収束、すなわち宇宙という器そのもので考えているのかもしれない。(チューブリン)

連載【第051回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: tubulin 1

 tubulin 1
 素粒子が磁気嵐の中で散乱していく。存在はスライスされていく。反粒子と反存在が散乱しながら充満する。エントロピーとはこれら双方向性についてのそれぞれの見方ともいえる。見方自体が宇宙の内容物を満たしているのだ。
 ところで、私たちは何を見ているのか? 対象物を確定するというよりも、〈見方〉を見るのである。そして、見方自体は増殖する発見であり、私たちはどこにいても幼児の眼球なのだ。つねに終末の際で断崖に身を投げ出そうとしている瞬間そのもの。あわい。あるかないかが混合している過程自体。氷の膜に、あるいは炎の緞帳に閉ざされ、その向こうへ通り抜けることなどできぬもの。
 私たちという眼球の意識が個別の生命体の範疇にしかない単なる代謝物にすぎぬものなら、その発火物というべき思考もまた、やはり時−空、宇宙の外部へと通り抜けることは不可能なのだろうか。
 しかし、思考が波動関数の及ぶ領域にある物質過程だとすると、トンネル効果によって宇宙ではない向こうに現れることはできないか。つまり、量子的ふるまいによって。

 全生命がじつは一個の単一生命体であるとする場合も、生命体の意志というものは、意識の統合的な抽象幻想といえるのではないか。ここでは死というものも、生命が一個でしかないのだから、生命体の消滅ということでしかない。
 生命に、生存と生殖、遺伝などという概念は無効なのである。生命樹のすべての歴史も一個の生命体のひと息にすぎない。
 だが、思考は選択意志を持つ、量子的、物理的存在。自立的だが、何かの構成物となりえても。(つづく)

連載【第050回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: continuation of dreams 4

 continuation of dreams 4
 基底意識は表層に対して基底層を構成していると考えるとすると、深層意識とか深層というものはただ暗部につきまとう幻想性なのかもしれない。つまり、暗部という重積される解釈学があって、これらが意識の核だという古典的な心理学を構築しているのではないか。この心理学においては情動とか欲動は生理的場面での選択を実行するのかもしれないが、もし意識がその選択決定をする根拠、エネルギーを持つならば、このエネルギーは物理的エネルギーとは異なる衒学的エネルギーということになる。
 また、この生理的エネルギーが物質的な過程を持たない幻想的な代謝物であるとすると、エネルギーの発現とか発火などという物理現象を実現できようがない。

 原意識、基底意識という肉体意識、身体、人格、精神という統合体意識の二重構造は統合された多元的な回路を持つ情報システムということなのだろうか。それとも、異種異質の細胞間通信の二重存在なのだろうか。まるで別の体系が、波形の位相が交互に現れるように互いを打ち消し合いながら、幽霊通信のように実体の在り処をおし隠している。
 それは単にどちらともつかぬシステムの機能であり、それぞれの組織の属性である。そして意識は自立的に見えるが、細胞間通信の実体のない代謝物である。
 意識における肉体意識と身体意識の二重性は、〈からだ〉における肉体と身体構造の二重性にも通じている。肉体は個々の細胞の独自性から積み重ねられていくが、身体は枠組みとして、統制的な論理構造として外圧的なものだ。いわば、アジア・アフリカ的混沌と、欧米的国家・権力的合理性との差異とでもいえようか。
 表層意識が構造を持つとすれば、基底構造に対して仮想・表層意識という意識の抽象性が統合体意識を構築するプロセスにある。これが、意識が肉体と区別され、非物質的な仮想性を生み出すのだ。基底意識自体が複雑化して身体意識、人格、精神など抽象化の幻想過程という観念体系を妄想するのである。
 この原因には、思考という物質過程の欠落がある。思考と意識が混同されるのだ。思考が生物過程とは別個の物質過程にあり、量子的なレベルによる波動関数の収束プロセスにその発生原因があることと、細胞レベルの信号反応プロセスに代謝物としての意識の発火があることが混同されているのだ。
 思考とは、意識の細胞反応自体の選択判定の根拠を、量子レベルのサイズにまで降りて、それらを集合化して積み上げていく処理過程である。(夢のつづき)

連載【第049回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: continuation of dreams 3

 continuation of dreams 3
 はたして意識は、その生成の原因とは別に、生命体にしか存在しないのだろうか。あるいは、意識を生命体と区別することは可能なのか? つまり、生命体が消滅すると意識は存在しえないのか、あるいはそもそも生命体の外部に存在することが可能な物質なのか?
 有機生命体樹のどの分岐レベルの個体かは問うまでもなく、個体自体の遺伝、代謝などの変換機能によって、自己保存、複製、増殖する個体(細胞)とその組織、さらにその死滅まで、つまり個体発生から死(消失する)までのプロセスをもつ、生命樹の全物質の外部に、個体としての意識は存続できるのだろうか。
 しかし、意識自体が抽象的な概念で、肉体そのものの器官ではなく、かといって物質的器官であるわけでもない。明確に身体の外部にあるものでもなく、それゆえ身体内部にあり、それと関連する機能、属性、代謝物であるとすることは可能なのではないか。

 それには、まず神経細胞の抽象的な信号反応を原意識とみるのである。
 基底意識自体は単一細胞で発生する比較的単純な原意識によるコアと考えてもいい。そしてそれは原意識の駆動的な初期信号反応による肉体的反応から始まる単純な複合体意識として構築されるのだろう。肉体そのものの直接的な駆動意識は、単純な抽象性ではあるが、反応の感受性には神経細胞に直接接続していることによる生命強度をもつ、ある力が想定できる。発火活動の直接性というインパクトである。
 肉体に付随する基底意識に対して、抽象化されることで身体機能として重なりつづける仮想・表層意識は、統合体意識として身体、人格、精神の深部を形成するのかもしれない。
 この統合体は(なま)の原始的な肉体とは別に、成長する身体過程の記録とその集積というプロセス・ライブラリのような抽象的上位構造を形成する。これは概念構造であるが、身体システムの一部であるから身体の消失とともに死滅する。それこそ死の果実であり、失われるべき過去の一切の記録である。
 生命体が一個の生命樹として成立する根拠が、この生物的操作としての細胞記録である。つまり、細胞記録こそが一本の生命樹の存在理由であり、目的だといえよう。(つづく)

連載【第048回】: 散文詩による小説: Dance Obscura: continuation of dreams 2

 continuation of dreams 2
 無間の底なしの暗闇からその濃淡の樹脈は重なり続けているとはいえ、それと比較するかのように、意識の表層などという明晰かつ捏造された精神の歴史など、本当にあるのだろうか。仮に、生命体がこの宇宙でただひとつの巨大な生命樹であるならば、そこから派生するあらゆる枝脈は分断と有限の袋小路に突き当たり、すべてはすでに枯渇しているはずだ。生命樹の脈管はそれぞれの意識のかたまりとともにあり、生命それぞれの進むべき現象は細胞意識の重なりとともにあるからだ。細胞意識が生命の枠組みの内部にあるならば、生命自体も意識の限界に阻まれている。
 無数の生命体が無尽蔵の生命組織の複合体であるとしても何も変わりはしない。ものみな、意識の生存限界に阻まれるのだから。

 ところで、意識は身体構造から自立できるのか、あるいは自立にいたらずとも自立的抽象性と見ることは可能なのだろうか。
 意識が原意識とでもいうべき基底構造を持つならば、それは単一意識というべきだろう。あるいは原意識を〈発振〉する枠組みのようなもの。中身がなくとも、意識の形が形成されているのだ。しかしそれは突然発現するわけではない。原意識という空間で蓄積、混合された物質的な確率の集合体として関係を結ぶのではないか。つまり、一個の細胞内に点在する原意識という、電子と電磁気で構成される仮想の発振器官における確率収束を信号として生成し、複合体意識、肉体意識の形で「発信」するのである。
 これらは統合化され、仮想意識、表層意識として、まるで意識そのものが自立器官のように組織化されていく。しかしそれは、あくまで生命体の仮想器官であるので、生命単独の範囲でしか存在しえない。個体生命の消滅と同時に消失するのだ。そのようにして、意識自らの空間でのみ、生きかつ死滅する。(つづく)